エピローグ
日笠真空は二年ジェミニ組の教室の前に立っていた。ドアに触れる手が小刻みに震える。でもここで負けてはいけない。自分は日笠真空。他の誰でもない。そしてここが彼女の生きる場所。逃げていてはいけない。現実と向き合っていかなければならない。
ふと日笠真空の手に誰かの大きな手が重なった。その手の主、朝凪光輝は日笠真空に向かって不器用に微笑んだ。
大丈夫。日笠真空は独りではない。ダメなところは光輝が補ってくれる。
二人はゆっくりと教室のドアを開けた。
「み、みんな! おはよう!」
朝の挨拶にしては声が大きすぎたため、みんなの視線が日笠真空に集中した。怪訝そうに日笠真空を見つめるクラスメイト達。こそこそと陰口を叩くものもいる。
でも日笠真空はここで諦めたりはしない。限界までたくさん空気を吸い込んで、もう一度大きな声で挨拶をした。
「お、おはようって言ってるでしょ! あたしのあいさちゅに返事出来にゃいって言うにょ!?」
光輝は思い切り吹き出した。きっと彼女は月笠真空の真似をしているのだろう。でも声は震え、瞳には涙が浮かんでいて全然なりきれていない。
しかも噛んだ。思いっきり噛んだ。何とも日笠真空らしい挨拶だった。
「か、噛んだ! 噛んじゃった! 光輝! どうしよう!」
その瞬間だった。わたわたと慌て始めた日笠真空を見て、堪えることが出来なくなったクラスメイト達が続々と笑い始めたのだ。中には水奈達みたいに馬鹿にしたように笑っているやつもいる。
でもそんなクラスメイトばかりではなかった。
「日笠さんってこんな面白い子だったんだね! いっつもブスッとして黙ってたりするだけだったし、水奈ちゃん達にべったりだから全然知らなかったよ」
「実はめちゃめちゃ天然さん? いやービックリだわー」
みんな日笠真空に遠慮する様子もなく笑い続けている。いつも空気のような存在で水奈達の腰巾着でしかなかった彼女の、知らない一面に驚きを隠せないものもいる。
クラスメイトの一部が日笠真空に興味を持ちかけているこの状況を利用しない手はない。幼馴染兼執事の光輝はその立場を生かして彼女の暴露話を始めるのだった。
「天然っつーか馬鹿なんだよな、こいつ。思いっきりずっこけた時の言い訳が、けのびの練習してただぜ? 馬鹿だろ?」
「その発想はなかった!」
「というか、けのびみたいにこけるってどんな状況よ!」
「ちょ、光輝っ! 恥ずかしいからやめてー!」
日笠真空はそう抗議するのだが、光輝は全く聞く耳を持たない。今がチャンスなのだ。
「そう言えば光輝君って日笠さんの執事だったっけー? 他はどんなエピソードがあったりするのー?」
「こいつ家ででっかい人形いっぱい集めて人形ごっこしてるんだよ。それが怖くて怖くて……」
「もう光輝! やめてよ!」
「え? もしかしてドール? 実はあたしもめちゃめちゃ集めてるんだ! あたしの友達も結構集めてる子多いよ! 良くみんなで集まって撮影会とかしてるし!」
「え、えっ!? ホ、ホントにっ!? う、嘘っ!? 全然知らなかった! 風見さん、ドール好きだったの!?」
日笠真空は小学生の頃から今まで水奈達以外のクラスメイトとは会話をしたことがなかった。と言うよりもほとんど水奈としか会話をしたことがなかった。
勝手にみんなが自分のことを嫌っていると勘違いし、唯一嫌がらせという形で関わってきた水奈と仲良くなろうと必死に努力した。わざわざ自分のことを好くはずがない人物に好かれようとしたのだ。自分を好いてくれるかもしれない他のクラスメイトを蔑ろにして。
「うん、好きだよ! そっかー、日笠さんもドール仲間かー。じゃあさ、今度撮影会来ない? この学校のドール好きな子がいっぱい集まるよ! ね! きっと楽しいよ!」
「い、いいの……? あたしなんかが行っても良いの?」
「全然良いよ! むしろ大歓迎! っていうか日笠さんって普通に喋る子だったんだね。あたしずっと勘違いしてたかも。ごめんね」
「い、いえいえ! あ、あたしが引っ込み思案なのが原因だから謝らないで!」
日笠真空に友達が出来た。いや、まだ友達というには早いかもしれないが、きっとこの子とは仲良くしていける事だろう。
そしてそこから日笠真空の世界は広がっていく。どんどん新しい出会いがある。彼女を必要とする人間がもっと増えていく。
これからも日笠真空は日笠真空として生きていくのだから。
「ううん。それよりさ、これを機に聞いちゃっていい!? 前からずっと気になってたんだけど、二人は付き合ってたりするの? すっごい仲良いよね」
「ち、違うよ。あたし、他に……気になる人いるし……。光輝は弟みたいなものなの」
「まあ……俺も気になってるやつはいる。あと俺が兄な。お前は妹!」
「えー気になる人って誰!? この学校!?」
風見は興奮気味にそう言った。
しかし二人は何も言わずに顔を見合わせてにっこりと微笑むのだった。
月笠真空は親友の提灯闇夜に先程からずっと文字通りくっつかれていた。
いつも遅れてくる闇夜なのだが一か月ほど前のあの朝みたいに誰よりも早く登校して来ていたのだ。そしていつも通り登校してきた月笠真空を見るなりくっついて離れなくなってしまった。
「真空が無事で嬉しい。もう離さない」
「そんなにくっつかないでよ、くっつき虫闇夜! あたしそういう趣味ないから!」
「ほら、真空のためにいっぱい写真を撮ってきたんだ。今度は絶対真空と一緒に行きたいと思って……うっ」
「も、もう! 朝から泣かないでよね! 大丈夫だから! ほら死んでない! 闇夜よりも長生きしてやるんだから! それまでずっと一緒! はい、約束!」
月笠真空は強引に闇夜の手を引くと、無理やり指切りをさせた。泣き止むことはなかったが満足そうに闇夜は笑った。
波花深海はそんな二人を眺めながら、一番の恋のライバルはもしかして闇夜なのではと一人不安に駆られるのであった。
「ところで大地君とはどうなったのよ」
「ん? ……断った」
「さ、さいですか。ま、あたしは何も言わないけど。でも今日ひぃの家でする俺達生き残ったドッペルゲンガーなのさ♪パーティーは参加してよ。大地君来るって不参加はナシだからね」
本来なら昨日の夜にやるはずだったのだが、こんな遅くにみんなを呼び出すのはあまり良くないと言う結論に至り、今日に延期になったのである。
「何だ、そのネーミングは。もしかして妖怪人間か? 無理やりすぎるだろ」
「無理やりでも何でも良いの! 絶対参加すること! 分かったわね!」
へいへいと闇夜は適当に返事をした。
「闇夜。あんた今日日誌の当番じゃないの? 取ってきた?」
「あっ! すっかり忘れてた! 取ってくる! 私がいない間に死ぬんじゃないぞ!」
「誰がそんな短時間で死ぬかっ! ほら、行ってらっしゃい!」
名残惜しそうにしながらも、闇夜は教室から出ていった。徐々にいつもの関係に戻りつつあるが、闇夜の不安が完全に消え去るのはまだ時間がかかるのかもしれない。
「はー、めんどくさい子ね。ま、そういうとこも嫌いじゃないけどね」
「真空、俺のことは? 好き? 嫌い? 嫌いじゃないけど生理的に無理?」
「何? めんどくさいあんたはいつも以上にめんどくさくならなくて良いのよ」
月笠真空はそう言いつつ、淡々と一限目の用意を始める。しかしふと何かを思い出したかのように手を止め、深海の方に向き直って彼女は笑った。
「そう言えば昨日はご苦労であったな! 良い働きであったぞ! 感謝致す!」
「何だよ、それ! 殿様?」
「だーかーらー!」
深海はちょいちょいと手招きされ、月笠真空にグッと顔を寄せる。すると月笠真空は深海の耳元に唇を寄せ、深海が恋した甘い声でこう言った。
「惚れ直したと言っておるのじゃ」
耳に月笠真空の息がかかり、深海の体はゾクリと震えた。そしてそちらに気を取られ過ぎたせいか、月笠真空の言っていることがすぐには理解出来なかった。
「え? えっと? え?」
「さーて! オラちょっくら闇夜を追いかけてくっぞ!」
「ちょ、ま、真空? え、えっと、どういうこっちゃ?」
混乱気味の深海を置いて、月笠真空は立ち上がる。恥ずかしいのか、顔を真っ赤に染めながら。
「そ、そういうこっちゃ! ま、今さらこんなこと言ったって遅いじゃろうがな!」
「え!? お、遅くないっ! 遅くないよ、真空! 俺も! 俺も嘘ついてたけど真空のこと今でも好きだから! 大好き! 愛してる! 結婚! 結婚! さっさと結婚っ!」
「ちょ、こんなとこで何言ってんのあんたっ! つ、つーかあたしそこまで言ってないわよっ! 人いんのよ! 黙りなさいよ!」
「黙りません! 今日のパーティーは結婚披露宴な! 祝福してもらおう! てんとう虫のサンバを歌ってもらって……はっ!? 初めての共同作業用のケーキがいるな! つーかウェディングドレスがないよ! どうする、真空っ! この際制服とかでも俺は構わないけど。どんな真空でも俺は好きだし? あ、でも真空がウェディングドレス着たいって言うならどうにかして入手してくる所存でありま――」
「かかかかか勝手に進めんなっ! ああああああんたなんか、大大大っ嫌いっ!」
ほんの少しだけ素直になれた月笠真空だったが、やっぱり彼女は彼女だった。でもそんな彼女も少しずつ変わっていけるはずだ。
これからも月笠真空は月笠真空として生きていくのだから。