そして、運命の日
日笠真空はテスト勉強をしていた。学園祭が終わった今、いつまでもお祭りムードには浸っていられない。明日から中間考査が始まるのだ。
だがそれが終われば楽しい修学旅行がある。自分の代わりに行ってくれと真空が言ってくれたのだ。
ひぃの学校の修学旅行は六月だった。イギリスに行ったのだが、全く楽しくなかった。
でも今度の修学旅行は楽しみだ。深海や闇夜、ドラや大地達と行く沖縄旅行。ひぃは沖縄旅行なんて行き尽くしていたが、それでも楽しみなものは楽しみだった。なんたって素敵な仲間たちがいるのだから。
「分かんない……」
考えても出てこない数学の答えに嫌気が差し、ひぃは少しだけ休むことにした。ゴロンときれいに掃除された床に寝転ぶ。部屋をきれいにしておかないと真愛に怒られるのだ。
今まで光輝や使用人達に何でもやってもらっていたひぃは最初何も出来なかった。でもこの家で二週間暮らしてきたことにより、少しずつだが色んなことが出来るようになっていた。ゲームも一緒に対戦出来るくらいには強くなったし、絵だって味があって良いと言われるくらいには上達したし、皿洗いだって割らずに出来るようになった。
あの家にいて、日笠真空として暮らしていたら一生出来なかったことかもしれない。
「明日早起きしなきゃ」
明日の朝、ひぃは電車に乗って戸縁学園に向かうことになっている。
大事なテストなのでお互い元の学校で受けることになったのだ。真空は別に戻らなくても良いと言ったのだが、ひぃはどうしても戻ると言い張った。運動神経が悪いひぃだが、実は頭もあまり良くはない。だから真空の足を引っ張りたくはなかったのだ。
しかし自分で言ったことなのだが、ひぃは憂鬱だった。水奈達に会わなければいけない。もう真空の友達ではない水奈達と。
ひぃは日笠真空には戻りたくなかった。出来る事ならこのまま月笠真空でいたい。日笠真空なんて楽しくない。ただ辛いだけ。ただ寂しいだけ。ただ悲しいだけ。
でも戻らなければいけない。月笠真空と彼女の居場所はひぃの物ではなく真空のものだから。あの辛い生活に戻らなければいけないのならばいっそ……。
ひぃは静かにドラからもらった琥珀のペンダントを見つめた。
「やっぱり。ヒビ、入ってる……」
彼女の琥珀には小さなヒビが入っていた。でも当然なのかもしれない。今の彼女は生きたいと思っていない。辛い人生を送らなければいけないのならいっそ、と思っている。
ひぃは細く白い指で琥珀のヒビをなぞった。
「ひぃちゃん! お風呂、次どうぞー。ってあれ?」
「深海君っ!?」
ノックもせずに深海が真空の部屋のドアを開けた。ひぃは深海に琥珀を見られないように寝転がったまま急いで服の中にしまった。
何を焦っているのだろうと深海は首を傾げる。しかしすぐに違うものが目に入り、顔を真っ赤に染めた。
「ひ、ひぃちゃん……お、おパンツが……お見えになっていますが……」
「きゃああああっ!」
誰もいないのを良いことに、無防備に寝転がっていたのが仇となった。
深海と同じようにひぃも顔を真っ赤に染めつつ、急いで起き上がり何故か正座した。かなり動転しているようだ。
「深海君の馬鹿……」
「いや、だってひぃちゃんがそんな風に無防備に寝てるから……」
「馬鹿深海君……」
「ええー」
深海は風呂上りのため、しなっとなった金髪頭をポリポリ掻いたのだった。
中間考査の最終日。テストを終えた深海と真空は修学旅行のプリント整理を手伝わされることとなり、担任がいる教室までの道を歩いていた。他の生徒はほぼ帰宅しているというのに災難である。
「あー、どのテストも完璧! 今回も学年一位取っちゃうかもねー」
真空はそう言いながら大きく伸びをした。真空はこう見えても頭が良く、いつも学年一位を取っている。常に勉強しているわけではないし、ゲームや漫画なども大好きなのだが、効率良く勉強するのが上手いようだ。要領が良いのだろう。
それに比べて深海は――。
「ヤバい、ヤバい……。俺、三年に上がれないかも。真空と一緒に卒業できないかもー!」
「勉強しないから悪いんでしょ。睡眠学習とか言いつつ寝過ぎなのよ、あんたは」
「勉強したもん! ひぃちゃんと! つーか風真と真白がうるさいんだよ! ふみ兄いつまでいるのー? ふみ兄これクリア出来るー? ふみ兄お馬さんごっこしよー! ふみ兄抱っこー! ふみ兄が王子様で真白はお姫様ね! もう疲れたっつーの!」
「二人のせいにすんなー。それより、ひぃは大丈夫だったかな?」
戸縁学園でテストを受けているひぃに思いを馳せながら真空はそう言った。
カチューシャを取り返せたことには感謝してもらえたが、それでも真空もちょっとやり過ぎたかなと反省しているようだ。
「ひぃはあのままでも良かったのかもしれないし……ちょっと後悔中」
「でも言いなりのままが良いこととは俺には思えないけどな」
「でもひぃには迷惑だっただろうなと考えると何かねー」
真空のしたことは間違いではないと思うが、その行いが誰にとっても嬉しいものかどうかは分からないのだ。
元気のない真空のために、深海は気分を変えて違う話をすることにした。
「あ、そうだ! 修学旅行はどうすることにした?」
「もちろんひぃに行ってもらうわよ。今はひぃが『月笠真空』なんだし」
「じゃあ真空と修学旅行、行けないのか?」
「小学校も中学校も一緒に行ったじゃない。それにこれからだって一緒にどこでも行けるわよ。修学旅行なんてルールあってめんどくさいじゃない?」
そう言って真空は笑った。彼女は満面の笑みを浮かべているつもりなのだろう。でも深海にはどうもそうは見えなかった。
きっと真空はひぃの築き上げた、出来るだけ辛い思いのしない環境というものを壊してしまった罪悪感があるのだろう。自分は頭が悪いから真空に迷惑を掛けると言ってテスト期間の入れ替わりをひぃが提案した時も、真空はその提案を受け入れるか心底迷っていた。今までずっと学年一位な完璧主義の真空がである。それだけ自分の軽率な行いを悔いているようだった。だからこの修学旅行も真空なりの罪滅ぼしの一つなのかもしれない。
全て真空が言ったわけではないが、そうだと深海には確信出来た。ずっと近くで見てきたのだ。傍若無人で自己中に見えるが、真空は人一倍思いやりのある子だということは分かっている。
「そ、そうだな! 一緒に旅行しような! 二人っきりで……げへへ」
「ほう、光輝と二人っきりで旅行とな?」
「そんなこと言ってないし! 絶対嫌だよ! 会話続かねえだろ!」
「大丈夫! 徐々に友情が芽生えていくはず! 胸が熱くなるわね!」
「嫌だよ! そんな展開いらねえよ!」
真空とこんな風に冗談を言い合うのが楽しい、ずっとずっと一緒にいたい、真空の隣にいたい、深海はそう思うのだった。
「あ、でも修学旅行には行かないけど、五時前に空港に行こうと思ってる」
「修学旅行の最終日が運命の日……だもんな。俺、怖いよ。結局何も出来なかった……」
「大丈夫。あたしは絶対に死なないよ。まだまだみんなと一緒にいたいからね」
真空はそう言って笑った。一番怖いのは真空なはずなのに、そうやって彼女は強がってみせる。深海は只々無事を願うことしか出来ない自分をもどかしく思った。
そんな風に二人、会話をしながら渡り廊下を歩いていた時だった。
「今、大地君の声しなかった?」
「え? そうか?」
どこにいるのだろうと真空はきょろきょろと辺りを見回し始めた。そして、見つけた。
渡り廊下の向こうの静かな化学室に大地と女生徒がいた。大地は窓際の机に腰掛け、女生徒はその机の椅子に頭を垂れながら座っていた。
深海は女生徒の姿に見覚えがあった。それは真空も同じだったようだ。
「あれ……もしかして……」
深海と真空は足音を立てないように器用に化学室まで走った。どう見ても良い雰囲気というか告白現場というか、そんな感じの空気が流れていたからだ。
悪いと思いつつも、少し開いた窓の隙間から二人を盗み見ることにした。
「ねえ、覚えてる? 初めて会った入学式の日」
大地は微笑みながら、俯く女生徒に問いかけた。彼女は顔を上げずにブンブンと首を横に振る。そっかと残念そうに大地は小さく呟いた。
「あの日、寝坊しちゃって体育館前でうろうろしてた時に会ったんだけど……」
それでもブンブンと彼女は頭を横に振る。すごく悲しそうに大地はへらっと笑った。
「君も同じように遅れてて、体育館前をうろうろしててさ。それで一緒に学校探検したんだよ? それがとっても楽しくて、一緒にいて落ち着く人だなーって思ってたんだ」
やっぱり覚えてない? と大地はもう一度優しく問いかけた。
でも女生徒は顔を上げようともしない。今度はこくりと頷き、覚えていないという意を示した。
「そっか……。でも俺はその日からずっと……提灯さんのことが好きだっ――」
「ああああ、突然頭が痛い! なんか知らんが突然頭が痛くなってきた! 割れるかもしれない! スイカ割りのスイカみたいに!」
突然女生徒がそう叫んで頭を両手で押さえながら立ち上がった。そう、二人が思っていたようにその女生徒とは提灯闇夜その人であった。
突然ジタバタ暴れ出した闇夜に大地は驚きを隠せない様子だ。
「え!? だ、大丈夫!? 保健室行こう! 俺、おぶるから!」
「良い! 帰って寝る! と言うわけでさよなら! 芽吹も早く帰れよ! 五日後の修学旅行に備えてな!」
そう言って闇夜は光の速さで化学室を飛び出していった。自分達の存在に気付かれるかもと深海は不安になったが、全く気付かれることはなかった。
化学室には大地が一人残されている。ぽかんとした表情で立ち尽くす姿には、何とも言えない哀愁が漂っていた。
どう考えても大地は闇夜に愛の告白をしようとしていた。真空に精一杯の告白をし、返事も聞けずに流されてしまったあの日のことが鮮明に蘇ってきて深海は苦しくなった。
「ちょっと行ってくる」
深海が大地に声を掛けようか掛けまいか迷っていると、真空がそう言って立ち上がり、
「真空っ!?」
走り出した。
「真空! 待て! どこ行くんだよ!」
深海も慌てて彼女の後を追う。真空は人のいない廊下を全速力で駆け抜ける。深海の方が運動神経は良いはずなのに、今回ばかりは追いつくことが出来なった。
真空は何かを探すように一つ一つの教室を覗き、階段を駆け上がり、窓の外を眺めた。そして見つけた。
「闇夜っ!」
そう、真空はあの場から逃げ出した提灯闇夜を探していたのだ。
闇夜は真空の腹立ちを含んだ呼び声に驚き、振り返る。しかしその瞬間には闇夜は真空に襟元を掴まれ、廊下の壁に押しやられていた。
「ま、真空! やめろよ! 何やってるんだ!」
深海の声に真空は聞く耳も持たなかった。グッと両手に力を込めて、怒鳴り散らす。
「何なの、あんた! 何で大地君から逃げるの!」
「み、見てたのか!?」
「好きなくせに何で逃げるの! 何で聞いてあげないの! 何でなかったことにしようとするの!」
「べ、別に私は最初から芽吹のことなんて……」
闇夜は口ごもりながら目線を下に落とした。
「まっすぐあたしの目を見て言いなさいよ! 言えないでしょ!? ずっと前から分かってるのよ! あんたが大地君のこと好きだってことくらい!」
「だから違うと言ってるだろ! 私はあいつのことなんか好きじゃない!」
「闇夜には後悔してほしくない! 逃げないでよ! 告白って勇気がいるんだよ!? 大地君がどれだけ勇気を出して闇夜に告白しようとしたか分かる!? 想いを無駄にしないであげてよ! 逃げないで向き合ってあげてよ!」
そう言って真空は闇夜の襟元を掴んだまま泣き始めてしまった。そんな真空を見て、闇夜は焦り始める。彼女の瞳にもいっぱいの涙。普段の冷静な彼女からは想像も出来ない姿だった。
「な、何で泣くんだよー。意味分かんないよ。私は真空にいつでも笑顔でいて欲しいんだよ……。真空の泣き顔なんて見たくないよ……。泣かないで、お願いだから……」
「じゃああんたも素直になりなさいよ! いつまでも誤魔化さないでよ……」
「そ、そんなこと言われたって……私にだって色々あるんだよー」
闇夜も真空と共に泣き始めた。まるで子供のようだ。二人でぺたんと床に座り込み、抱き合うようにして泣き叫んでいる。
声を掛けようにも、深海にはなんて声を掛けていいのか分からなった。
「付き合うとか付き合わないとか……恋愛とかそんなのどうだっていいんだよ! 真空っていう友達がいれば私はそれでいいんだ!」
「ど、どんだけあたしのこと好きなのよ……引くわー」
「引かれても真空が大好きなんだよ! 真空と一緒にいられれば何もいらない!」
闇夜の言葉に真空はプッと吹き出した。まさか同性からこんな告白紛いのことを言われるとは思っていなかったのだろう。
「も、もう。あたしも闇夜だーい好きだよ」
「ま、真空ぁ……」
そう言って二人は強く抱き合った。
同性だと深海は自分に強く言い聞かせるのだが何となく許せない気持ちになるのだった。
「でも……だからこそ後悔しないでほしいの。あたしに対する好きは友達に対する好きでしょ? 大地君に対する気持ちとはちょっと違うでしょ?」
言葉が見つからないのか、闇夜は何も答えず黙っていた。闇夜のその反応を見て、真空は小さくため息を吐いたのだった。
「ま、家でゆっくり考えたら良いんじゃない。あたしもカッとなって言い過ぎちゃった。ごめんね。でもいつまでも自分の気持ちを誤魔化していたら、後で後悔するわ。と経験者の真空はかく語りき」
闇夜は不器用に笑いながら黙って頷いた。真空はスッと立ち上がり、そんな彼女に微笑みながら手を差し出す。闇夜はその手を借りて立ち上がった。
「あー、何か思いっきり怒鳴ってすっきりしたわー。じゃああたし達行くね。キツイこと言ってごめんね、闇夜。さ、深海、行くわよ。先生待たせてる」
「お、おう」
今度は闇夜に背を向けて真空は歩き出した。その後を深海は追いかける。
闇夜と話した廊下からだいぶ遠ざかった階段で真空は足を止めた。
「はあ……」
ため息を吐く真空はいつもより何倍も小さくて弱弱しく見えた。涙はもう乾いてしまっていたが、目元が真っ赤に腫れていてとても痛々しい。
深海は何も言わず後ろから真空をギュッと抱きしめたのだった。
「な、何よ」
「やっぱり大地のこと、好きだったのか?」
「はあ? 何言ってんの。違うわよ。ただ闇夜にはあたしみたいに後悔してほしくなかっただけよ」
「後悔? 後悔って、何だよ」
深海の胸はドキドキと高鳴っていた。もしかして真空は、自分の告白を流したことを後悔しているのではないかと思ったからだ。
でも自分の都合の良いように考えすぎな気もする。そんな相反した二つの思いが深海の心の中を駆け巡る。期待して良いのだろうか、してはいけないのだろうか。
「秘密だよ」
結局真空の真意は分からなかったが、彼女は深海が抱き締めても抵抗しなかった。つまり深海に抱き締められるのは嫌ではないということ。それだけは確かだった。
「あの……水奈ちゃん?」
テスト最終日、見事撃沈したひぃは友人達と楽しそうに会話をする水奈にそう声を掛けた。
心底嫌そうな顔をしながらひぃの方を振り向く水奈。他の女子達も同じように眉間に皺を寄せながら、こそこそとひぃの目の前で陰口を叩き始めるのだった。
「なあに日笠さん。さっさとあっち行ってくれない? あんたの顔なんて見たくもないの」
「い、今までごめんね……でももう一度仲良くして欲しいの……」
ひぃの言葉を聞いてみんなクスクスと笑い始めた。水奈は可愛い顔には似合わない、嫌らしい笑顔を浮かべて言う。
「はあ? 何言っちゃってんの? 仲良くするわけないでしょ。水奈達に言いたい放題言いやがって、それでまた仲良くしてくれーですって? 舐めてんじゃないわよ!」
「前みたいに何でもするから……だからもう無視しないで! お願い!」
「嫌に決まってるでしょ?」
そう言って周りの女子達と一緒にきゃはははと甲高い声で水奈は笑った。
このテスト期間中、彼女達はひぃのことを完全に無視していた。水奈達の言いなりになる前は教科書に落書きをされたり、靴を隠されたり、黒板に死ねと書かれたり、そんな嫌がらせを受け続けていた。
でもそれぐらいのことは耐えられる。一番嫌なのはまるでそこにいない人間のように扱われることだ。ひぃはどうしてもそれだけは耐えられなかった。自分は誰からも必要とされていないような、いてもいなくても同じような、そんな錯覚に陥ってしまう。
それにこの三週間ちょっとでひぃは自分の存在意義が分からなくなっていた。全く同じ顔をしているのに自分より出来が良くて色んな人から必要とされている月笠真空として暮らしたばかりに、前以上に自分はこの世界に必要ないのではないかと思い始めていた。
それでも、必要とされたいのだ。誰かに必要とされたくて堪らない。いじめられるだけでも良いから無視だけはしないでほしかった。自分に構って欲しかった。
利用されているのだとしても、自分がここで生きていて良いと思える理由が欲しい。
「水奈ちゃん! 何でも言うとおりにするから! お願いだから!」
「絶対嫌。何度謝ったって許さない。水奈達にあんたなんて必要ないのよ。いてもいなくても良いの。あんたなんて誰からも必要とされてない。生きてる意味ないよ。死んじゃえば良いじゃん? 生きてても空しいだけだよ」
「そんな! 水奈ちゃん! みんなも! お願いだからもう一度あたしと!」
ひぃは悲痛な声で叫び続けるが、水奈達はもう飽きてしまったのか、ひぃに見向きもせずに違う会話を始めた。
甲高い笑い声がひぃの頭に響く。酷い頭痛がする。このまま死んでしまいそうなくらいの酷い頭痛が。そしてひぃはそのままパタリとその辺りにあった机の上に倒れ込んでしまった。しかしそんな彼女に誰も見向きはしない。
彼女が倒れたのに気付いたのは執事の光輝、ただ一人だった。
「うっ……」
目が覚めた時、目に入ったのは保健室の白い天井だった。ああ、自分はあの後倒れてしまったのかとひぃは朦朧とした意識の中思った。
「お前、倒れるほど勉強してたか?」
そう憎まれ口を叩いたのは光輝だった。いつも通りの呆れ顔でひぃのことを見つめている。
「光輝が運んでくれたの……?」
「感謝しろよ。俺以外誰も気付いてなかったんだからな」
「そっか……」
ちょうど教師に呼び出されていた光輝が帰ってくると、誰もいない教室でひぃが一人机に突っ伏していたという。それでとりあえず保健室に運んだのだそうだ。
「ねえ、光輝もあたしなんていなければ良いと思ってるよね。あたしみたいなのの執事なんて本当はしたくなかったよね」
「急に何言ってんだ、お前」
光輝は不機嫌そうに顔を歪めた。
「だってそうでしょ? あの時あたしが声を掛けなければ光輝はあたしの執事なんかにならずに親戚の家で幸せに暮らしてたかもしれない」
「はあ!? 親戚は俺を引き取りたがらなかった! お前が住み込みの執事にならないかと言ってくれて俺はどれだけっ! ……何でもない」
光輝の父親は大企業のやり手社長だった。しかし彼が小学校に上がる前に彼の両親は交通事故で亡くなってしまった。
そしてその時、ライバル企業だった日笠に消されたのではないかとマスコミで噂された。その噂を裏付けるようにひぃの父親の会社は光輝の父親がいなくなったことによってその市場のリーダー企業になった。
ちなみにその噂やひぃの父親の数々の所業が今でもひぃが水奈達にいじめられる原因となっている。
光輝の父親の会社は多額の借金を背負い、つぶれてしまい、光輝を引き取ってくれる親戚もいなかった。
そんな時、幼馴染だったひぃが光輝に住み込みの執事にならないかと誘ったのだ。光輝は他に行く当てもなかったし、仲良しのひぃと一緒にいられるのは嬉しかっただろう。噂などは一切気にせずに彼は日笠家の執事となったのだ。
「……光輝だってつっきーの方が生き残るべきだと思うでしょ?」
「は? 何の話だ? 誰もそんなこと言ってないだろ! それにどっちが犠牲になるとかそんな話はやめたはずだろ! 二人で一緒に生き残るって言ってただろーが!」
「でもそんなことホントは無理かもしれないもん! それならあたしが死んでつっきーが生き残った方がみんな幸せだもん! お父さんだってあたしみたいなダメな子がいない方が良いって思ってる! ダメな子だからお母さんもあたしを置いてった! 闇夜ちゃんだって深海君だって光輝だって! あたしなんて誰からも必要とされてないん――」
バシンという小気味良い音が保健室の中に響き渡る。ひぃの頬が右側だけ、一瞬にして真っ赤に染まった。平手打ちの痛みでひぃの頬に涙が伝う。
「ちょっと頭、冷やせ」
そう言って光輝は保健室を出ていってしまった。荒々しく閉まるドアの音に驚き、ひぃはビクリと体を揺らした。
「あー、久しぶりのふかふかベッドー! ただいま、あたしの真マイホーム!」
「もうすっかり自分の家だな」
「まあね。はあ、疲れた一日だったわ」
日笠家に帰るや否や、真空はまっすぐひぃのメルヘンチックなベッドに飛び乗った。
自分の体をしっかりと包み込んでくれるそのベッドが真空は大好きになっていた。自分の部屋にも一つ置きたいくらいである。大きさと値段の問題で置けないのが非常に残念だ。
「ひぃは中間テスト中どうだった?」
「しらね。興味ねえし」
「適当過ぎ。何というか、あんたって他人のことはホントどうでも良いんだねー」
ゴロンと大きく寝返りを打ちながら、真空はそう言った。光輝は真空の眠るベッドの傍らにピンと背筋を伸ばして立ちながら首を傾げる。
「そんなことねえけど」
「そんなことあるでしょ。どうでも良くなかったらいじめられてたひぃのこと助けてあげるんじゃないの?」
「……何で俺がそんなことしないといけねえんだ」
吐き捨てるように光輝は言った。
「だから、どうでも良いんでしょ?」
「そんなことねえ……」
「他人がどうなろうと知ったこっちゃないんでしょ?」
「だから違う……」
「ひぃなんてどうでも良い存在なんでしょ?」
「だから違うって言ってるだろ!? 俺はあいつのことが心配で心配で……!」
怒鳴ってから光輝は気付いた。真空が光輝からこの言葉を引き出そうとしていたことに。
彼女はニヤリと意地悪な笑みを浮かべて、ベッドに腰掛けていた。
「何なんだ、お前! 何がやりたいんだよ!」
「いや、ただ単に光輝はひぃのことをどんな風に思ってるのかが気になっただけよ。いっつも意地悪なこと言ってるから嫌いなのかなーと思いましてね」
そう言って真空はにっこりと笑った。
「……嫌いじゃない。むしろずっと自分のヒーローみたいに思ってた」
「自分のヒーローのひぃが敵にやられてたから失望したの?」
「まあ……そういうことだな」
こんなことを人に話すなんて光輝は初めてだった。だってとても恥ずかしいことだから。誰にも話さず、ずっと心の中に仕舞っておくつもりだったのに。
真空は足を組み直して一言こう言った。
「それってめちゃくちゃ自己中ね」
「分かってる。分かってるけど……弱いあいつをあいつだとは思えない。俺の中ではあいつは強い存在だったから、どう接していいか分からない」
光輝も頭の中では理解しているのだ。自分がどれだけ自己中心的な行いをしているのか。
でも、どうしても素直になれない。強いひぃの印象が強すぎて、弱い彼女が彼にはとてもショックだったのだろう。
「でもそれもひぃなのよ。受け止めてあげなきゃ。ひぃを守れるのはいつもひぃの傍にいるあんただけでしょ? あんたのヒーローなんでしょ? ヒーローが敵にやられてるのって言うのに、あんたは応援しなくても良いの?」
「でも……俺なんかに何が出来るって言うんだ?」
「出来る事なんていっぱいあるじゃない。笑いながら傍にいてあげればいいのよ。その仏頂面じゃなくて、ね」
真空はムニーッと自分の頬を引っ張ってみせた。いつもの可愛い顔が酷く崩れて面白い感じになっている。光輝は思わず吹き出しそうになってしまった。
「ほらほら、笑いなさいっ! あんた見た目だけは良いんだから笑ったらモテモテよ!」
「だけは余計だ! っておいっ! 引っ張るなっ! うわっ!」
真空に思い切り引っ張られて光輝はバランスを崩してしまう。ちょうど光輝が真空をベッドに押し倒したみたいな体勢になってしまい、二人にして顔を赤くするのだった。
流石の真空もこれは想定外だったようで、すぐさまベッドに正座で座り直しコホンと咳払いを一つする。
「と、ところでよ。今日ひぃと何かあったんじゃないの? あんたもひぃも元気がなかったから気になってたんだけど……」
「……今日あいつに、自分はこの世に必要ない存在だから死んだ方が良いんだって言われて、思い切り平手打ちしちゃったんだ。すっげえムカついて……勝手に手が出てた。俺は死んでほしくないって思ってるのにそんなこと言うなって思っちゃって……。今まであいつのことほったらかしにしてきた俺にムカつく権利なんてないのに」
「それ、ひぃにちゃんと伝えた?」
「伝えてないけど……」
「じゃあひぃにちゃんとそのこと伝えなきゃ。俺はお前のことが必要なんだってちゃんと言ってあげなきゃ。思いは言葉にしないと伝わらないの。テレパシーでも使えるんなら話は別だけどね」
そう言って伸びをしながら真空はまたゴロンとベッドに寝転んだ。
光輝は真空が寝転んでくれて良かったと思った。この情けない顔を面と向かって見られずに済む。
「間に合うか? 今からでも遅くないか?」
「大丈夫。きっと間に合う。ひぃは絶対待ってるよ。光輝の言葉を」
何度も何度もひぃに憎まれ口を叩くのをやめよう、弱い彼女を受け止めよう、彼女の支えになってあげようと思ってきた。
でもどうしてもあと一歩が踏み出せなかったのだ。彼の中ではひぃはスーパーヒーローだったから。
だが自分だけでは決心がつかなかった『ひぃに素直になる』ということを、真空が背中を押してくれたことで光輝は今度こそ出来るような気がしていた。
「あー何かあたしめっちゃ臭いこと言ったわよね!? 恥ずかし! よし! 空気を換えて楽しい話でもしましょうよ!」
「じゃあ今後の日本について朝まで徹底討論するか」
「ん? それは果たして楽しいのかな?」
「うわっ、あっつー!」
飛行機から降りるともわっとした空気が深海達を包んだ。彼らがやってきたのは沖縄。前々から深海がとても楽しみにしていた修学旅行である。
真空と来られなかったのは非常に残念であるが、必ず生きてまたみんなで旅行に行くという約束を交わした。もちろんひぃも一緒に……。
「本当にあたしが来て良かったのかな……修学旅行……」
「真空が良いって言ってるから良いんだよ。いっぱい楽しんで、絶対生き残ろうな! それで今度は真空とか光輝とか提灯とか大地とかと一緒にさ、みんなで旅行しようよ!」
「う、うん……。そう……だね……」
修学旅行一日目はガマ体験をしたり、首里城見学をしたり、現地の方に沖縄戦の話をして頂いたり、沖縄平和祈念公園に行ったりした後ホテルに向かった。朝が早かったものだからみんな疲れ切ってバスの中で爆睡していた。
でもホテルに着けば元気いっぱい。ホテルでけー、ロビーきれーい、海近―い、泳ぐぞーなどと騒いだ馬鹿がいて学年主任の教師に全体で厳重注意を受けた。
「おー結構大きな部屋ですね。ここでお泊りですか。夜は枕投げに恋バナですね! まあボク何一つエピソードがありませんがー」
「おいドラ。どたどた走り回るな。埃が舞うだろ! 足ひっかけて転ばすぞ。畳は痛いぞ。顔面畳柄ドラ」
「な、何ですかそれ! 嫌ですー!」
ひぃと闇夜、ドラは三人で一つの部屋だった。
三人組を作る時、一人足りない真空と闇夜はどうしようかと困っていた。するとドラが進んで二人のチームに入ってくれたのだ。まだ何も起こっていない平和な時期の話だったが、真空を監視するのに好都合だったからだということが今なら分かる。
「海が見えるな。後で写真でも撮りに行くか……」
「闇夜はカメラ女子ですか?」
「いや、別に。ちょっとな」
そう言って闇夜は適当にその話題をはぐらかした。
「おーい! お前ら、遊ぼうぜ!」
その時、ノックもせずに深海が男女数名と一緒にひぃ達の部屋にやってきた。右手にはウノ、左手にはトランプを持って、いかにも遊びに来たという感じだ。
同じクラスの人もいれば、ひぃや闇夜達が顔くらいしか知らない人もいる。きっとここに来るまでの間、出会う人出会う人に声を掛けてきたのだろう。
「飯の時間までみんなでゲームしよう!」
深海のその言葉と共に数名の男子がイエーイと歓声を上げた。みんな修学旅行だからいつもより何倍もテンションが高い。あれ、こいつこんなやつだったっけというやつまで一緒になってはしゃいでいた。
「負けたやつは何か罰ゲームでもあるんだろうな? ないと盛り上がらん」
ニヤリと闇夜が不敵な笑みを浮かべる。
きっと彼女はカードゲームが強いのだろう。だからこそ罰ゲームを御所望なのだ。闇夜はそういうやつだ。
「よーし! やってやろうじゃないか! なあみんな!」
深海の呼び掛けにみんなオーと声を上げた。
テンションが上がっているため誰も彼もノリノリだが、カードゲームなどほとんどやったことの無いひぃは一人、額に冷や汗を浮かべながら押し黙っていた。
「波花の腹踊り、最高だったな! しっかり写真におさめたぞ! 拡大プリントして真空にプレゼントしてやるよ!」
「やめろ! やめてくれ! お願いだからー!」
時間があまりなかったせいで大富豪を一回しか出来なかったのだが、その一回で負けたのが深海だった。
しかもルールの良く分からなかったひぃは深海とチームを組んだ。そのせいで一緒に罰ゲームを受けることとなり、隣で良く分からない踊りを踊らされたのだった。
「ひぃの踊りは可愛かったな。実に癒された」
「えっ? そ、そんなことないよ! へ、下手くそだったし……」
「ホント可愛かったですよ。それに比べて深海の踊りは……」
「あーもうドラさんまで! 忘れさせて! 黒歴史として語り継がないで!」
そんな会話を繰り広げながら深海達は食事会場へと向かっていた。今日の晩御飯は沖縄の郷土料理である。どんなものが出てくるのかと今からとても楽しみだ。
とその時、闇夜がふと足を止めた。一体どうしたのだろうと前を見ると、大地が数人の友人達と一緒に歩いているところだった。彼らもまた夕食の会場に向かっているのだろう。
こちらの視線に気づいたのか、大地がちらりと振り返った。彼はいつもと変わらぬ最高の笑顔を向けてくれたというのに、闇夜はすぐに顔を逸らしたのだった。
闇夜のあからさまな態度を見て、一瞬だけ悲しげな表情を浮かべた大地だったが、すぐに友人達と歩いて行ってしまった。
「あの後話してない感じ?」
「う、うっさいな。どうでもいいだろ」
「おー、闇夜は大地と何かあったんですねー。気になりますー」
「それはね。果てしなくどうでもいいことなんだよ、ドラ。ほらさっさと行こう」
いつも闇夜にはからかわれてばかりなので良い弱みが握れたと、ちょっと意地の悪いことを考えてしまう深海なのであった。
「おお、すごい! 夜の海も良いものだな」
夕食後、闇夜は深海やひぃ達に何も言わず写真を撮るために一人海岸に繰り出していた。
時間が遅いということもあってか、人は一人もいなかった。
家から持ってきたデジタルカメラには今日一日の写真がおさめられている。雲一つない青々とした美しい空の写真、歴史の感じられる独特な建築物の数々、どこか切なささえ覚える大きなサトウキビ畑、お昼に食べたソーキそば、デザートのパイナップルもしっかり撮った。それに罰ゲームをしている深海とひぃの姿も。
本当は一緒に来て、一緒にこの写真に写りたかった。そう、この写真に写るのは全て真空と一緒に来たかった場所、そしてしたかったこと、見たかったものだ。
しかし今となってはそれも無理な話である。でもせめて写真だけでも真空に見せてあげたいと闇夜は思った。そしてまたいつか一緒にここに来たいと。
「提灯さん?」
「うわっ!」
海の水面を夢中になって写真におさめていた闇夜は自分に近づく存在に全くと言っていいほど気づいていなかった。
ふいに聞こえたあの人の声に闇夜の鼓動はドクンと大きく高鳴る。もし闇夜の心臓が弱かったら本当に危なかったくらいに大きくだ。
「め、芽吹!? い、いきなり声をかけるな! びっくりしただろ!」
「ごめんごめん。何、撮ってるの?」
「ちょ、ちょっと記念写真をな」
「ふーん、見せて?」
だ、大事にしてくれよとどもりながらデジタルカメラを大地に差し出す。手と手が触れ合わないように闇夜は必死だったのだが、そんな素振りを感じ取られまいと至って冷静な顔を保つのであった。
「ははっ、提灯さん自身が全然写ってないじゃん」
「別に私の写真なんて見たかないだろ」
「提灯さんらしいね。はい、ありがとう」
もう一度手と手が触れ合わないようにデジタルカメラを受け取り、闇夜は早々とここから退散しようとした。しかし大地に腕を掴まれてしまう。
「ねえ、ちょっと話そうよ」
「へ? な、私は別に話したくないぞ」
「いいからいいから」
腕をグイッと引っ張られて闇夜は強制的に砂浜へ腰かけることになってしまった。強制的にと言っても抵抗出来るくらいの力加減だ。しかし闇夜は抵抗出来なかった。腕を掴まれたこと一点のみに集中してしまったがためである。
「いらっしゃーい」
「な、何がいらっしゃいだ。砂浜は君の家か。そう言えば髪型が蟹みたいだな」
「老後は沖縄で猫いっぱい飼ってまったり暮らしたいかな」
「何の話だよ。突然脈絡のない話を振るな、君は」
涼やかな風がそよぐ夕暮れ時の砂浜で、体育座りする高校生が二人。傍から見れば恋人同士見えるかもしれない。
この間の化学室でのことが鮮明に蘇ってきて、闇夜は顔が熱くなるのを感じた。
でも何故か安心感がある。肩が触れ合うか触れ合わないかの距離、でももっと近づきたい。けれど近づけない、近づいてはいけない。闇夜はそんな複雑な感情に囚われていた。
「老後の話だよ。ね、提灯さんは?」
「わ、私は……ゆっくり暮らしたい……かな」
「じゃあ俺と一緒だ!」
「ち、違う。私はゆっくり、君はまったりだ。全然違う。ニュアンスが全然」
「変わらないよ」
そう言って大地は朗らかな笑顔を浮かべた。その笑顔を見ていると闇夜もつられて笑顔になってしまう。
落ち着かないけど落ち着く。とても矛盾しているがそうとしか言い表せなかった。ドキドキと胸は高鳴るのだが嫌な高鳴りではないのだ。
「ねえ、提灯さん。この間ちゃんと言えなかったこと。もう一回言って良――」
「す、すまん!」
「タイミングが早いよ、提灯さん……」
大地は苦笑いを浮かべながらそう言った。でもそれくらい彼女も焦っているのだろう。
「べ、別に芽吹のことが嫌いと言うわけじゃない。でも……そ、そう言うのは私にはまだ早いと言うか……。ゆ、友情を大事にしたいと言うか……。い、今の私は……真空がいればそれで良くて……。昔から協調性がなくて変わり者で嫌われ者でいつも一人だった私を初めて受け入れてくれたのが真空で……。真空は私の中で絶対的な存在であって……」
「……そっか。真空のこと、大好きなんだね」
残念そうに大地はそう呟いた。
闇夜の真空に対する気持ちと大地に対する気持ちは違うはず。でも今の闇夜には大地よりも真空の方が大事なのだ。彼女の中では自分よりも誰よりも真空が一番の存在なのだ。
「あ、あの……この間は済まなかった……。逃げてしまって……。あの時は意地張って覚えてないなんて言ったけど……私も実は入学式の時のこと良く覚えてる。すごく楽しかったし、落ち着く存在だなって……ずっと気になってたのは事実だ」
「あ、それって期待しちゃっていいのかな? 今は無理だけどいつか俺と付き合ってくれるってことで良いのかな?」
「え!? いや! べ、別に悪いことしたなと思って言っただけで! 恋愛感情とかそう言うのじゃないし! 嫌いじゃないけどそういうことじゃないし! ゆ、友人としてだし!」
「俺、結構しつこいからね? そんな脈アリなこと言われたら絶対に諦めたくなくなってきた。だって提灯さん、絶対俺のこと好きだもん」
そう言って大地はフッと自信満々な笑みを浮かべた。
大地の言う通り、闇夜は彼のことが好きだろう。それは誰が見ても分かることだ。
闇夜は必死に自分の気持ちを否定しているが、押しに負けて彼女が素直になる日もそう遠くないかもしれない。
「な、何っ!? ど、どんだけ自信満々なんだよ!」
一方その頃、深海とひぃはホテルのロビーの長椅子に腰掛けていた。
みんな部屋で遊んでいる人がほとんどなので、ロビーには会話に夢中になっている女子など、数名しかいなかった。
「な、何かすごい悪いことをしたような気がする……」
「悪いことだよ、深海君! 絶対悪いことだよ!」
実はこの二人、闇夜と大地の密会を陰で盗み見ていたのだ。でも途中で罪悪感に囚われ引き返したのである。
「でも好奇心には勝てない! なぜなら俺は恋愛学者であるから! 学者は危険を顧みないのだ! ふははははっ!」
「え!? 何それ、深海君! 深海君って偉い学者さんだったの!?」
クソ真面目な表情でひぃはそう言った。
彼女の反応は真空とは全く違う。真空ならきっとここで助手になりきって返答をしてきたりするのだろう。
「冗談だよ、冗談! ひぃちゃんはホントおっかしいな! やっぱ真空とは全然違うよ!」
「……お、おかしいよね。違うよね……。ごめんなさい……」
「え? いや、面白いってことだよ?」
深海はそうフォローしたのだが、ひぃはしゅんと肩を落とし顔を上げようとしなかった。
「さっきの話聞いて、やっぱり闇夜ちゃん……つっきーと一緒に修学旅行来たかったんだろうなって思った……。あんなにつっきーのこと好きなんだもん……」
「いやあ、そりゃあの二人は親友同士だから仕方ないんじゃない?」
「深海君だってあたしよりつっきーと来たかったでしょ。だってあたしよりつっきーの方がみんなから必要とされてるもん。あたしはいらない子だもん」
深海だって真空と一緒に来たかった気持ちは大いにある。
でも決してひぃと一緒にいる時間が楽しくないわけじゃない。なのにそんな風に自分を卑下する彼女の態度に、深海は少々イラつきを覚えてしてしまった。
「何それ? 楽しくない?」
「う、ううん。すごく楽しい。今までの人生で一番なくらい月笠真空でいれる時間は楽しい。でもこの楽しさはあたしのものじゃない。この楽しい環境はつっきーが築き上げてきたもので、みんなから必要とされてるのはあたしじゃなくてつっきーなの。だから時々ふと我に返って嫌になる。何で同じ存在なのに自分はこんなに劣ってるんだろうって。こんなあたしは今すぐ死ぬべきで、あたしよりも完璧なつっきーに早く命を譲ってあげるべきなんじゃないかって……」
「何言ってんだよ。そんなことな――」
「そんなことあるの! こんな自分が嫌で嫌で……もう生きていたいと思えなくなっちゃった……!」
そう泣き声交じりに一気に捲し立て、ひぃは自分の琥珀のペンダントを服の中から取り出した。
それを見て、深海はギョッとした。ひぃの琥珀には大きなヒビが入っていて、今にも割れそうなのだ。少しつつけば崩れてしまいそうなくらい危険な状態に見えた。
「こ、この間急いで隠したのって……もしかしてこれ!?」
「うん……。でも良いの。最初から大人しくあたしが死ぬべきだったんだ。その方がみんな幸せだったんだ。あたしなんていてもいなくても一緒――」
「馬鹿なこと言うなよ!」
ひぃの肩を思い切り掴んで深海は怒鳴る。いきなりのことにひぃは面を食らい、かちこちに固まってしまった。手に強い力を入れると、ひぃは痛そうに顔を歪めた。
「ふ、深海く……」
「見た目は一緒でも二人が全く違うの当たり前なんだよ! ひぃちゃんは『日笠真空』だろ? 『月笠真空』じゃない! 当たり前のことなんだよ! この一か月一緒にいて、ひぃちゃんにはいっぱい良いとこがあって、ちょっとだけ悪いとこもあるっていうことを知ったよ? でもそれは真空も一緒なんだよ。真空だって完璧な存在じゃない。真空だってみんなから必要とされてるわけじゃない。あいつのことめちゃくちゃ嫌ってるやつだっている。それと反対にひぃちゃんのことが大好きな人だっているんだよ!」
「そ、そんな人……いないもん」
「仮にいなかったとしても、これからどうなるかなんて分かんないだろ? 生きてさえいれば周りだって自分だって変わっていくだろ? 変わっていけるだろ!?」
きっと深海はロビーで会話する女子達に聞こえるくらいの声で怒鳴ってしまっていただろう。でもそんなことどうでも良かった。深海はイラついていた。
死ぬべきだとか自分は必要ないとかそんな悲観的なこと言わないでほしかった。深海は真空にもひぃにも生きていてほしいのだ。短い間しか一緒にいないが、ひぃのことだって大好きなのだ。
もっとこれから色々知っていきたいと思っている。もっと色んなところに遊びに行って、色んな話をして、もっともっと彼女のことが知りたい。
真空とは姿形が同じなのに全く違う存在のひぃをもっと好きになりたいのだ。
「ふ、深海君……。あ、あたし……本当は生きていたい。もっと深海君と一緒にいたい。光輝ともつっきーとも闇夜ちゃんともドラちゃんとも先生とも大地君とも。もっといっぱいお話ししたい。みんなのこともっと知りたい。好きになりたい。もっとあたしのことを知ってほしい。好きになってほしい」
「だったら死んだ方が良いんだとか言わないでよ……」
「で、でも怖かったんだもん! 生きていても、誰も必要としてくれないんじゃないかって! 今まで通りあたしはいてもいなくても同じ存在なんじゃないかって……必要じゃないって言われるくらいなら先に死んだ方がマシなんじゃないかって思っちゃって……。そしたらヒビが入って……もっともっと怖くなって……。怖いよ! 怖いよ、深海君! あたし……死にたくないよぉ……!」
「ひぃちゃん……。大丈夫、大丈夫だよ。俺が君を必要としてるから、絶対に死なないよ。絶対生きてみんなで一緒に旅行行こうよ。どこに行きたい? 俺は海外とか行ってみたいなーって思うんだ。英語話せないけど。ひぃちゃんと二人で迷子になったら俺たち一生日本に帰れないかもね?」
「ふ、深海君……深海君……!」
そう言ってひぃは深海の大きな胸に飛び込んだ。一瞬どうしようか迷った深海だったが、優しく抱きしめてあげることにした。
涙で濡れて胸の辺りがちょっと冷たい。でもひぃの体温はすごく温かかった。心臓の音が、『日笠真空』という存在が生きているということを証明していた。
「深海君……好き……」
ひぃの微かな呟きは、深海の耳に届くことなく虚空に消えた。
二日目の夜、クラスごとでレクリエーションが行われることになった。
しかし深海達のクラスで計画されていたカラオケ大会は機械の故障により出来なくなってしまった。そして仕方なくA組はE組と合同で肝試しをすることになった。
「E組ってどんだけお化け関連好きな人間が集まってんだよ! 学園祭もお化け屋敷だったし、恐怖スペシャリスト達の集いかよ! 何でこんな良い感じに集っちゃったんだよ!」
「さっきから妙に喋るな、波花。怖いのか? 怖いんだな?」
「深海は相変わらずビビりですねー。小さい頃から変わりません」
「は、はあ!? 別に怖くないんですけど! 全く怖がっちゃいないんですけど!」
どう考えても虚勢を張っているだけである。見た目は変わっていても中身はほとんど小さい頃のままだ。泣き虫ふみちゃんの称号はそう簡単に消えたりはしない。
「くじ引きでペア決めまーす。即席で作ったから男女とかぐっちゃぐちゃだけど勘弁ね」
E組の女子がクジの入ったビニール袋をみんなに回し始めた。人数が多くなってしまったので早く回さなければ時間がなくなってしまう。
「同じ番号の人とペアだから探してー。ペア出来た人から審判に言ってスタートしてね! ホテルの周りを一周する時間が一番短かったチームに豪華賞品!」
元々E組だけのレクリエーションだったので、脅かし役二十人、肝試しする人二十人だったのだが、A組が参戦したことによりすごく人数が増えてしまった。
「俺、五番! 五番の人ー!」
「あー深海だ! 俺も五番!」
深海のペアの相手はなんと大地だった。何が楽しくて男同士で肝試しなんてしないといけないのだろう。
「大地かよ……」
「酷いなー。俺だって提灯さんとが良かったなー」
「なっ!? ど、堂々と良くそんなことが言えるな、君は! 羞恥心を持ち合わせろ!」
大地の言葉に顔を真っ赤にする闇夜。そんな彼女をドラはニヤニヤと見つめている。
どうやらそのドラの態度が癪に障ったのか、闇夜は無表情でこう言った。
「おい、ドラ。あとでひぃとまくら投げするぞ」
「まくら投げ大会ですね! やりましょう!」
「ひぃは私とチームだ」
「お! じゃあこっちだって! ……あれ? ボクのチーム、メンバーいないです」
「教えてやろう。まくら投げ大会じゃない。まくら投げドラリンチだ」
「ひ、酷いです!」
涙目のドラを余所に闇夜は自分のペアを探しにその場から去ってしまった。ぷーっと頬を膨らませながらドラは闇夜の背中を見送るのだった。
「ドラちゃん、ドラちゃん」
「何ですか、真空」
「あたし、八番なんだけど……ドラちゃんも八じゃない?」
「あ! ホントです! よーし。行きますよ、真空! 幽霊のボクが肝試しに挑戦です!」
そう言ってドラはひぃを引き連れ、早々と肝試しをスタートした。
ああそう言えばドラは幽霊だったなと深海は久しぶりにそのことを思い出したのだった。
「俺達も行こうか、とっても不本意だけど」
「そうだな、俺達も行くか。俺の方が不本意だけど」
「いやいや、俺の方が不本意だよ。提灯さんが良かったよ」
「俺の方が不本意なの!」
そんな馬鹿なことを言い合いつつ、二人は懐中電灯の光だけを頼りに道を進んで行く。
何度か、わっ! とかどろどろどろーとか言って驚かされたが、思ったよりも怖くはなかった。クオリティが低すぎて。まあ、突然A組が参戦したのだから無理もないだろう。
「深海と二人っきりで話すのって久しぶりだよね。小学校以来かな?」
「そうだっけ?」
「そうだよ。俺、あの時から深海にずっと憧れてたんだー」
「え、何それ気持ち悪い」
「気持ち悪いって酷いなー。サッカーしてる深海がめちゃくちゃかっこよかったから俺もサッカーやり始めたんだよ? なのに深海やめちゃうしさ」
「まああの頃は色々あったからなー」
深海が言う通り、小学校の頃、彼の周りでは本当に色々なことがあった。母親が自殺したり、父親が悲しみの果てに狂ってしまったりと辛いことが重なったのだ。
親戚の家に一度預けられたりもしたのだが、叔母との折り合いがつかず、中学からは月笠家や芽吹家の助けの元、一人暮らしを始めたのだった。
だからサッカーを続けている暇なんてなかった。
「深海の真似して俺って言ってみたり深海とお揃いの靴買ってもらったりとかね。金髪はちょっと無理だったけど……」
「じゃーつまりお前はスーパーサ○ヤ人に憧れてたってことだな」
深海は真面目な顔でそう言った。大地は意味が全く理解できないようで不思議そうに首を傾げている。でも深海は至って真面目だった。
「俺は強くなるためにずっとスーパーサ○ヤ人の真似してたんだよ。この金髪とか特に」
「え……その髪……スーパーサ○ヤ人の真似だったの……?」
「わ、悪いか! 真空がスーパーサ○ヤ人大好きだったし! それに強くてかっこいいから真空を守れるかなーと思ったんだよ! その頃の名残だよ!」
恥ずかくて顔を真っ赤にして話す深海だったが、大地にはそれが相当面白かったらしく、涙を流すほど大笑いし始めた。
ここまで笑われるとは思っておらず、大地に話したことを心底後悔するのだった。
「そんなに笑うなよ! あー言わなきゃ良かった!」
「ごめん、ごめん! まさかスーパーサ○ヤ人の名残だとは思わなかったからさ! 真面目な深海が先生に怒られてまでそんな髪色にしてたから何か深い理由があるのかと……」
「深い理由だろ! 深い理由だよ!」
そんな風に二人でぐだぐだと会話を繰り広げているうちにいつの間にかもうゴール目前だった。
「やっぱ深海って昔から真空のこと好きだったんだねー」
「一回振られたけどな」
「何それ、聞いてない!」
「お前もこないだ提灯に告白したのに教えてくれなかったじゃん!」
「え、マジ? 見てたの?」
「見てた見てた。昨日のも見てたよー」
「うっわ、はずかし……」
大地は口元を押さえながら顔を赤くする。別に男が赤面するとこなんて見たくないんだけどと思いつつ深海は言う。
「ま、お互い頑張ろうぜ」
「見てたからには協力してよね」
「お前こそな!」
遂に二人は肝試しのゴールまでやってきた。そしてわー! と両手を上げながら同時にゴールした。タイムは二十分。今まで帰って来た中では二番目らしい。一位は逃してしまったが、なかなか良い感じだったのではなかろうか。
「ボク達が暫定一位ですよ、深海!」
ドラが踏ん反り返りながら、ひぃを引き連れてやってきた。
何とかドラに支えられて立っているが、ひぃは今にも倒れそうである。きっと相当怖かったのだろう。怖かった上にドラに振り回されて踏んだり蹴ったりだったようだ。
「ひぃちゃん大丈夫?」
「開始早々、腰を抜かしちゃったけど、ドラちゃんにお姫様抱っこしてもらったから……」
ドラはとても華奢に見えるのに、なかなか力はあるようだ。ひぃの方が明らかに(胸の大きさ的な意味で)重そうなのに、軽々とお姫様抱っこし、一番にゴールしたのだから相当なものである。
「きっと生前はアスリートだったんでしょうね、ボク! あー、豪華賞品が楽しみです!」
「なあ、豪華賞品って何なんだ?」
「王様ゲームの王様の権利がもらえるみたいなもん。何でも命令できる権利!」
主催のE組である大地がそう教えてくれた。合コンみたいなノリだなと深海は思ったが、予算を使わず楽しめるものとしてこの案が出たのだろう。
「一位逃しちゃったねー。一位になって嫌がる提灯さんのタイツを無理やり脱がして太ももぺろぺろしたかったなー」
「お、おい大地。お前いつからそんな変態になったんだ……。俺の知らない間に……」
男子の深海にはその大地の気持ちは分からないでもなかったが、にっこり爽やかな笑顔で変態的なことをサラッと言ってのける大地には恐怖を感じた。
女子のひぃとドラはめちゃくちゃ引いたようで、思い切り眉間に皺を寄せている。
「すごい恐ろしい話が聞こえたんだが聞き間違えだよな。そうだよな、うんうん」
その時、肝試しを終えたらしい闇夜が後ろからぬっと現れた。彼女の傍らには疲れ果てたE組男子が。彼もまたひぃと同じようにペアに振り回された犠牲者の一人なのだろう。
「服のままで海に飛び込んでびしょ濡れになった提灯さんを視姦するのも良いかなあ。あっ! ゴーヤを咥えてもらって大地君のお――」
懲りずに大地は一人妄想を繰り広げている。深海もびしょ濡れすけすけで恥ずかしそうに顔を赤らめる闇夜の姿を想像してしまい、頭をブンブン振って必死に邪念を払った。
「聞き間違いじゃなかった! おい! どうにかしてくれ!」
「い、いやあ……俺に言われましても。そりゃあ大地だって男だし……」
「闇夜! こっちに来て! そっちは猛獣の集まりですよ! ボクらが守ります!」
「闇夜ちゃん早く! 危ないよ!」
ドラとひぃは闇夜を守るように自分達の後ろに隠し、深海と大地をキツく睨みつける。
大地に釣られて妄想はしてしまったが、深海に罪はないはずだ。なんだか同じように変態として敵視されるのは不服である。
「俺、関係ないよ! そっちに入れてよ!」
「男は全員敵です! どうせボクらが一位です! 深海と大地には、そうですね……。二人だけでリンボーダンスでもしてもらいましょうか!」
「良いな、それ。真空にあげる面白写真が増えて嬉しいよ」
「深海君と大地君が悪いんだよ。一生懸命頑張ってね」
深海は必死に抗議したのだが、結局ドラ達が一位となり、二人はみんなの前で熱いリンボーダンスを踊らされることとなった。
大地ファンのキャーキャーと甲高い声援の中で踊るのはすごく惨めだった。それに大地は意外と楽しんでいるようだったので、嫌がる自分が何だか空しく思えた深海なのだった。
午後四時四十分、月笠真空は光輝、紫蘇野と共に空港に来ていた。あまり遅くない時間だというのに展望デッキには何故か真空達の他に人はいない。
展望デッキから深海達が乗っていると思われる飛行機を眺めながら真空は小さくため息を吐く。そして胸元から琥珀のペンダントを取り出した。彼女の琥珀のペンダントにも大きなヒビが入っていた。
真空もまた、ひぃと同じように自分が死ぬべきだと一瞬でも考えてしまったことがあったのだろうか。
「あと二十分だ。覚悟は出来てるか?」
「ええ。この一か月、あたしは一生懸命に生きてきたから。もし死んでしまっても後悔はないわ。死ぬつもりはサラサラないけどね」
紫蘇野の問い掛けにそう答え、真空は余裕な笑みを浮かべて見せた。
でも強がっていても体は正直だ。必死に抑えているつもりでも、足が大きく震えている。それに真空は朝ご飯も昼ご飯もほとんど食べていない状況だった。
「腹減ってねえか。パン持ってきたから食えば?」
「フタゴヤのコロッケパン……何かすごく懐かしく感じる。ありがとう」
このコロッケパンやあの財布がキッカケで真空はひぃと出会うこととなった。
この一か月自分達のことで精いっぱいだった真空だが、そう言えば深海の消えた記憶の謎とは一体何だったのだろう。そんなことを思いながら真空は光輝から受け取ったコロッケパンの袋を破った。
「危ないっ!」
その時だった。真空は突然紫蘇野に背中を強く押され、転倒した。
何かを睨みつける紫蘇野。その場で立ちすくむ光輝。そしてここにもう一人、見知った人物がいた。見知っていると言っても何年も会っていない。と言うよりも会えるはずがない人物がそこに立っていた。
その人物はニヤリといやらしい笑みを浮かべている。右手にはとても鋭く、完璧に磨き上げられたナイフが握られていた。
「……え? どうして?」
先生方の、「家に帰るまでが遠足」みたいな長い話が終わり、深海達はやっと自由の身となった。時間は午後四時四十分。急いで真空達のところに向かわなければ、運命の五時になってしまう。
「真空達が展望デッキで待ってるはずだ。早く行こう!」
深海、ひぃ、ドラの三人は荷物をロッカーに手早く預けると展望デッキへの道を急いだ。
闇夜も付いていきたいと言っていたが、ドラがそれを制した。考えたくはないが、もし最悪の事態が起きてしまった時のための配慮だろう。
「深海、ちょっと良いですか?」
「どうした?」
「もしかしたら……来ているかもしれません。何だか嫌な感じがします」
ドラが言っているのはきっと真空達のことを殺そうとしているというある人物のことであろう。
深海はひぃがはぐれてしまわないように、ぎゅっと彼女の手を握った。
「ふ、深海君?」
「俺から離れないで」
「う、うん……」
ひぃは嬉しそうに頬を赤く染めながら頷いた。
真空達は何も知らない。自分達が殺されるかもしれないということを。だからそれを知っている深海が守らなければならないのだ。
四十五分頃、深海達はやっとのことで展望デッキにたどり着いた。走ってきたため、ひぃの呼吸は乱れ、苦しそうである。前みたいにおんぶしてあげれば良かったと深海は少し後悔した。
展望デッキには深海達の他に人は見当たらない。夕焼けに染まる空港は美しく幻想的な雰囲気を醸し出しているというのに、だ。
その時、向こうの方に数人の人影が見えた。夕焼けのせいではっきりとは確認できないがきっと真空達であろう。
「いたいた! おーい真空ー!」
深海は真空に会えるのが嬉しくて、大きく両手を振った。人影は全部で四つ。真空に、光輝、紫蘇野に……あれ、もう一人は一体誰だろう?
不思議に思いつつも、こちらに気付いていない四人に大声で呼び掛けながら、深海達はそちらへ近寄っていった。そして必死の呼び掛けが実を結んだようで、一人がくるりとこちらを向いてにこやかに笑った。
「ひぃ! 逃げてっ!」
真空の叫びが聞こえたと思った瞬間、振り向いた人物がこちらに向かって走ってきた。
深海は一瞬にして危険を察知する。ここにいては危ないと。
「深海っ! ひぃを連れて逃げて下さいっ!」
ドラの言葉を聞くや否や、深海は無理やりひぃの手を引くと全速力で走り出した。ここから早く逃げ出さなければひぃが殺されてしまうかもしれない。それは絶対に嫌だ。深海はひぃを、真空を守らなければならない。
しかしその時、深海の耳に泣きそうになるくらいとても懐かしい声が届いた。
「深海! 母さんよ! 深海に会いに来たの! お願いだから逃げないで!」
十年も前に自殺をしてしまった深海の母親の声だった。足を止めてはいけないと思っていても、深海は足を止めざるを得なかった。
ずっとずっと会いたかった母親の声がする。六年しか一緒にいられなかったけれど、自分のことをいっぱい愛してくれた母親の声が。
罠かもしれないと分かっていても、深海は振り返ってしまった。
「母……さん……?」
「そうよ。私よ、波花海石榴。あなたの母さんよ。会いたかった。ずっと会いたかったよ!」
紛れもなくそれは深海の母親、波花海石榴であった。深海の家の仏壇に置いてある写真と変わらぬ優しい笑顔がそこにはあった。
年も取っておらず、深海が最後に見た彼女そのままの姿でそこに確かに立っていた。
「違う、深海! 止まっちゃダメ! そいつは深海のママじゃない!」
「待て、月笠! 危険だ!」
自分が危ないかもしれないと言うのに、真空がそう叫びながらこちらに向かってきた。その後ろを光輝と紫蘇野も追いかける。
「深海。私は海石榴よ。あの時と同じでしょ? 変わらないでしょ?」
じりじりと海石榴は深海とひぃに近寄ってくる。深海はひぃを自分の後ろに隠し、警戒を解くことはなかったが、どう見ても彼女は自分の母、海石榴にしか見えなかった。
「深海! こっちに来て! 何もしないから。大丈夫だから。もっと良く私に顔を見せて」
海石榴の白い指が深海の頬に伸びる。ひんやりと冷たくて、柔らかかった。
小さい頃触れたあの手と全く変わらなかった。大好きな母親の手だった。ずっとずっと会って話したかった大好きな海石榴母さん。
「母さん……」
「違う! 騙されちゃダメ! 深海のママはこんなんじゃない!」
頬に触れる母の手に深海はそっと自分の手を重ねた。すると海石榴は瞳に涙を浮かべながらにっこりと嬉しそうに笑った。
「深海……信じてくれたのね……」
「……うん、信じるよ」
深海はにっこりと微笑んだ。海石榴の頬に一筋の涙が伝う。
「深海……ありがとう。本当にありがとう」
「は? あんたじゃないよ。俺は真空を信じる。あんたは俺の母さんじゃない」
深海の言葉に海石榴は顔を歪めた。
深海は海石榴の手を自分の頬から引き剥がし、まだ触れようとするその手を振り払った。
「何を言っているの? 私よ? 母さんよ? 深海の大好きな母さんじゃない!」
「違うよ。母さんじゃない。母さんはそんな喋り方じゃないし自分のことはガキっぽく『つー』って言ってた。それに俺のことは深海って呼ばない。ふみちゃんって呼ぶんだよ」
深海は最初から気付いていたのだ。この母親に似た人物は母親本人ではないと。
六年しか一緒にいなかったけれど、その時間はとても濃く、今でも鮮明に思い出せるくらいに印象深い思い出なのだ。
姿形は同じでも、それは波花海石榴ではない。きっと彼女は――。
「そうです、深海。彼女は波花海石榴じゃない。彼女は波花海石榴のドッペルゲンガー、金花海石榴の幽霊です」
そう、彼女はドッペルゲンガー。同じ姿をしていても中身は全くの別物。
「あーあ。なに勝手に言ってくれちゃってんのよ、最低。あんたは昔からホント邪魔なだけ。何の役にも立たないただの馬鹿」
先程の笑顔は一体何だったのだろうと思ってしまうくらいの形相でドラを睨みつけながら、金花海石榴はそう言った。金花のドラを知っているような口ぶりからして、ドラが担当した一組のドッペルゲンガーとは彼女達のことなのだろう。
「ドラっ!」
それは深海がそんな風に考えている間に起こった一瞬の出来事だった。
紫蘇野の叫びが聞こえた時にはもう遅かった。金花が隠し持っていたナイフで素早くドラに襲い掛かったのである。紫蘇野の呼び掛けは聞こえているはずだが、彼女は足がすくんで動けないようだった。
「消えろ!」
「ドラちゃんっ! 逃げてっ!」
深海達も金花を止めようとしたが間に合わなかった。深海はひぃを、光輝は真空を庇いながら立っているのだから間に合うはずがなかった。
鋭いナイフがドラに向かって振り下ろされる。ドラはキュッときつく目を瞑った。ナイフが何かに刺さる嫌な音が聞こえる。しかしドラには傷一つなかった。
それもそのはず、ドラは紫蘇野に庇われたのだから。
「マ、マスオ……何を……」
紫蘇野の背中にぐっさりとナイフが突き刺さっている。しかし抱きしめられているドラには全く見えなかった。
金花はチッと舌打ちをし、彼の背中からナイフを引き抜いた。紫蘇野は完全に瞳を閉じ、ずるずるとドラの足元に崩れ落ちていった。
「マスオっ! だ、大丈夫ですよね!? ボクら死んでますもんね!? 返事して下さいよ! マスオっ!」
「放っておいた方が良いわよ。私、知ってるの。幽霊はもう一度死ぬと生まれ変わりもせずに跡形もなく消え去ってしまうのよ」
金花はそう言ってニヤリと不敵な笑みを浮かべてみせた。つまり金花は幽霊が死ぬところを見た。もしくは殺したということになる。
「そ、そんなっ! 嘘です! ボク、そんなこと知りません!」
「ドラは知らなかったんだ。私は最近知ったよ。だって私、幽霊を殺したんだもん。私の邪魔をした波花海石榴を殺したの!」
「母さんを!? どういうことだよっ!」
「聞きたい? 運命の時間まで後十分ね。いいわ、あなた達を殺したい理由と一緒に教えてあげる。そしてあなた達二人を優しく殺してあげる」
真空とひぃを順番に自分の瞳に映してから彼女は笑った。
その瞳にはあまり悪意が感じられなかった。無邪気で少しだけ悲壮感の漂う、そんな瞳の色だった。
『絶対一緒に生き残ろうね。約束だよ、かねちゃん!』
金花海石榴は波花海石榴とそう約束を交わした。彼女達はお互いがお互いのドッペルゲンガーであった。必ず惹かれ合ってしまうドッペルゲンガーという存在の二人。個人差はあるが、死ぬまでに二人は必ず出会う。
しかしそのまま死んでしまうのではなく、生まれた時から数奇な運命を背負わされた二人には一度だけチャンスが与えられていた。それが一か月間の猶予である。
二人の海石榴がもらったのは二人の名前にも入っている石榴石、つまりガーネットのペンダントであった。
『どうでも良いよ。こんな人生無意味だし。誰も私のことなんか必要としちゃいない』
金花海石榴はこの世に関心がなかった。生きたいという気持ちもなく、死ぬのならそれでいいかと思っていた。
親に捨てられ、引き取られた先でも虐待を受け、学校にも友達はおらず、成人してもふらふらと遊び歩くだけ。誰もそんな彼女を必要としていないし、彼女もこの人生に執着は全くなかった。
でもそんな時波花海石榴に出会った。彼女は一生懸命今を生きていた。優しい旦那と可愛い息子もいて、仲の良い友達もたくさんだった。誰もが彼女を必要としていたし、彼女もそんな日々を生きることが楽しいようだった。
『そんなこと言わないでよ! つーはかねちゃんが必要だよ? かねちゃんは不器用なだけ。もっと関わればみんなかねちゃんの良さが分かるよ。これからもっともっと楽しいことがある! 一緒に生きようよ、かねちゃん!』
最初はおせっかいな奴としか思わなかった。でも初めて人に必要と言ってもらえて少しだけ心がほっこりとしたのも事実だった。こんな簡単な言葉で心が動かされてしまう自分はなんて単純な存在なんだと思ったけれど、その気持ちは誤魔化せなかった。
このまま死んでもいいと思っていたが、一緒に生き残ってやるという気持ちが湧いてきたのだ。波花海石榴と一緒なら生きていてもいいと思えたのだ。
しかし波花海石榴は重圧に耐えられなかった。そして自らの命を絶ってしまったのだ。
『約束したのに……一緒に生きていくって約束したのに……。つーの裏切り者……』
波花海石榴のために生きていくと決めた金花海石榴は生きる意味を失くした。そして彼女もまたドッペルゲンガーとして生まれてきた運命を恨みながら自ら命を絶ったのだった。
しかし二人はもう一度再会することとなる。そう、二人は成仏することが出来なかったのだ。しかも二人は死んだ時の記憶を鮮明に覚えていた。
三番目を選択し、関心の力を手に入れた金花海石榴はドッペルゲンガーをこの世から消すことを決意した。どうせ自分達と同じ末路を歩んでしまうのならば、苦しむ前に自分が殺してあげようと。相手を犠牲にして生きるなんて苦しい思いをすることがないように。相手の犠牲になり、この世から去らなければならないことがないように。平等に、どちらも殺してあげようと彼女は決意したのだ。
そして彼女は自分の関心の力で真空達を惹き合せたのだった。
「何度も何度も失敗して、やっと深海と日笠真空を惹き合せることが出来た。それなのに、つーが邪魔してきたわ。彼女は思い出の消去の力を持っていたから、勝手に深海の思い出、つまり記憶を消したのよ」
「じゃあ……俺に記憶がなかったのは母さんが……?」
記憶がなかったことにずっと深海は恐怖を感じていたが、それを行ったのは深海の母親、波花海石榴だというのだ。しかも真空達を守るために行ったことだったと。
「そうよ。幽霊を殺すとどうなるかなんて知らなかったけど、殺してやったの。そしたら消えちゃった。転生したわけでもないみたい。この世に顕現した幽霊って死ぬと生まれ変われずに消えちゃうのね。全然知らなかったわ」
金花海石榴はそう自嘲的に笑った。もしかしたら彼女は波花海石榴がもう一度ちゃんと死に、生まれ変わることに賭けたのかもしれない。
でもそれは不可能だった。一度三番目の選択をしたものは生まれ変わることは出来ない。
「マスオももう無理よ。私達って血が出ないから死んだように見えないかもしれないけど、もう助からないわ」
何も言葉が出なかった。昔から彼と一緒にいるひぃ、そしてドラの瞳は涙で濡れていた。
「さあ、もう時間がないわ! 二人とも! 私と一緒に死のうよ! 片方が生き残ったって辛い思いをするだけ! 私みたいに死にたいと思うだけ! それなら平等に死のう! 大丈夫! 優しく殺してあげるから!」
そう言って金花海石榴はナイフを掲げた。夕焼けに照らされ、キラリと光るナイフの先端はとても鋭く、刺さったらきっと痛いのだろう。血が沢山出て、終いには死んでしまうのだろう。
深海は一か月前のあの日のことを思い出していた。どんどん血の気の無くなっていく真空達の姿を。自分の母親が死んだ時の光景と重なって、怖くて怖くて動くことが出来なかったあの時のことを。
しかも今度は母親と全く同じ顔の人物が、大好きな真空達と心中すると言うのだ。
そんなこと、絶対に嫌だった。もう真空の苦しむ顔もひぃの苦しむ顔も見たくない。またこれまでみたいに笑い合いながら、今度はみんなで一緒に旅行に行きたい。もっと二人の真空のことを知りたい。もっと自分のことを、みんなのことを知ってほしい。
ここで、こんな形で終わらせたくはない。
「駄目だ。殺させない」
「何言ってるの? あんたは関係ないよ。これは私達、ドッペルゲンガーだけの問題」
「どちらかが犠牲になったりなんかしない。二人一緒にこれからも生きるんだ。その為にこの一か月一生懸命生きてきた。だから二人とも死なない」
「はあ? ねえドラ。こいつにちゃんと話したの? 生き残ったやつらなんてほとんどいないし、方法だって分かんない。そんなものにこいつらは希望を抱いてるの? 馬鹿?」
金花は深海、真空、ひぃ、光輝をそれぞれ蔑むように一瞥した後、ドラに向かってそう言った。ドラは静かに頷く。
「どうせ私達みたいな末路を辿るのよ? そんなありもしない希望に縋ってて恥ずかしくない? どちらかが犠牲にならなきゃいけないのよ! これはそういうルールなの! 私達は生まれた時から絶望しかないのよ! 犠牲になるとしたらそうね……あなたかしら、日笠真空。あなたは誰からも必要とされてないもの」
ひぃはビクリと肩を揺らした。先程から瞳に溜まっていた涙が一気に零れ落ちる。
「ひぃちゃん。大丈夫だから……大丈夫。俺がいるから……」
「でも……でも……」
瞳から絶え間なく涙が零れる。止めようとしても止められないのだろう。彼女はとても臆病だから怖くて堪らないのだろう。
とその時であった。深海とひぃの隣で風が吹いた。そして次の瞬間、ひぃは光輝にしっかりと抱きしめられていた。
「こ、光輝……?」
「ごめん、真空! 俺さ、自分を救ってくれたお前のことを勝手にヒーローみたいに思ってたんだ。でも俺の前以外で見せるホントのお前は弱弱しくて、いじめられたり金で友達を釣ったりしてて、こんなの俺の大好きなヒーローの真空じゃないってお前のこと避けるようになった。お前は俺を救ってくれた。受け入れてくれたのに! 勝手にヒーローに祭り上げて勝手に幻滅して……ホント俺、勝手だった!」
「こう……き……」
光輝はひぃを抱きしめる力を強めた。少し苦しそうにしながらもひぃは彼の背中にゆっくりと手を回す。
「唯一俺に優しくしてくれたお前が大好きだったんだよ! なのに勝手に自分で避けて素直になれなくて……弱い真空だって強い真空だってお前なのに。どっちも俺の大好きな真空なのに。俺の傷を癒してくれたお前を俺は傷付けてばっかだった! お前を失いそうになるまで素直になれなかった俺を許してくれ! もう遅いかもしれないけど俺は真空が必要なんだ!」
「こ、光輝! わ、私もごめんね! 光輝の期待に沿えないダメな子でごめんね!」
「ダメなところを含めてお前だ! ダメなところは補えばいいんだ。俺がお前のダメなところを補うから、これからも一緒にいてくれ!」
顔を涙でぐしゃぐしゃに濡らしながらひぃはこくこくと強く頷いた。あんなにいつも仏頂面をしている光輝の瞳からも一筋の涙が零れ落ちる。初めて彼の人間らしい優しさを感じられた瞬間だった。
「はいはい。茶番、茶番。でもそれならそっちの月笠真空が死ぬのかな? 性格きつくて嫌われてそうだもんね」
「あたしは死なない。ひぃも死なない。誰からも必要とされてない人間なんかいない。あたしがこの靴を買ったお陰でどこかの誰かの生活の助けになっている。あたしが息をすることによってその辺の植物達は光合成することが出来ている。ほらね、あたしって必要でしょ?」
「はあ? 話が飛び過ぎよ」
金花の言うとおり、真空の話は飛び過ぎだった。でも彼女が言っていることも一理ある。
ひぃは誰か、つまり周りの人間から必要とされるということばかりに気を取られていた。でも知らない誰かの助けになっていることだってあるかもしれないのだ。
「っていうかあたしがあたしを必要としているからそれで良いのよ。悩んだ時もあったけど、あたしはあたしとして生きるって決めたの!」
「あたしも、あたしとして絶対に生きる! こんなダメなあたしだけど必要としてくれる人がいる! 生きてもっとみんなのことを知りたい! あたしのことを知ってほしい!」
とその時だった。二人の真空の胸元にある琥珀のペンダントが煌々と光り出したのだ。
運命の時間がやってきた。九月二十一日の五時からきっかり一か月、十月二十一日の五時がやってきた。
二人の手の中で、ひび割れた琥珀がまるで最後の力を振り絞るように強く輝いている。
「間に合わないっ! 駄目っ!」
目を大きく見開きながら、金花海石榴はナイフを振り上げ二人の真空に襲い掛かろうとする。最初に狙いを定めたのは月笠真空の方だった。このままでは真空の命が危ない。
深海は咄嗟に靴を脱ぐと、思い切りそれを金花海石榴の後頭部に蹴りつけた。サッカー部のエースの大地に憧れられるくらい元々サッカーには自信があったのだ。
深海が蹴った靴は金花の後頭部に上手い具合に当たった。後ろからの強い衝撃に金花海石榴はよろめく。
すかさず深海はもう一方の靴を脱ぐと、もう一度金花に向かって蹴った。コントロールの良さもパワーも抜群だ。今度は彼女の手に当たり、ナイフがきれいに宙を舞った。
「よしっ!」
深海は地面に落ちたナイフを急いで拾い上げる。軽く脳震盪を起こしかけていた金花はよろよろしながら深海を睨みつけた。
「返しなさい……ナイフを返しなさい!」
「い、嫌だっ!」
「……ふみちゃん。返して? つーにそのナイフ返して。お願いだから」
深海の心を揺さぶろうと金花は波花海石榴の真似をしながら言った。顔も一緒で喋り方まで同じにされると、それはもう波花海石榴本人にしか見えなかった。
大好きな母親がそこにいる。ずっと会いたかった母親がそこに。そんな錯覚に深海は陥ってしまいそうだった。
「ナイフなんて物騒なもの持ってちゃダメだよ、ふみちゃん。つーに返そう、ね?」
優しげなあの笑顔、優しげなあの表情、優しげなあの仕草。何もかも大好きだった母親と同じだ。大人しくナイフを返せば、一緒にいられるのだろうか。また昔みたいに頭を撫でてもらえるのだろうか。抱きしめてもらえるのだろうか。
ずっと一緒に、このまま一緒に――。
「深海っ! しっかりしなさいよっ!」
真空の声で深海は現実に引き戻される。まるで別世界に行っていたような心地よさだった。
でもそれは現実じゃない。もう母親はいない。ここにはいないのだ。
深海はグッとナイフを握り直し、母親のドッペルゲンガー金花海石榴を見据えた。
そして――。
「大好きな母さんと同じ顔で大好きな真空を苦しめないでくれ。お願いだから……」
深海の握ったナイフは金花海石榴の心臓にぐっさりと突き刺さっていた。
「ふみ……ちゃん?」
金花海石榴は光の欠片となって空高くへと飛んでいく。深海や真空、ひぃや光輝、そしてドラ達の周りを縫うように飛んでいく。
もう夕焼けも沈んで、辺りは真っ暗だ。そんな中、飛び散る金花海石榴の命の欠片はとてもとても美しかった。
波花海石榴も金花海石榴ももう生まれ変わることはない。深海は一生母親とは会うことは出来ない。でもこれは本来普通のことなのである。
「深海っ!」
走ってきた真空に深海は強く抱きしめられる。彼女の瞳には大粒の涙があった。
彼女は深海の今までの人生を知っている。どの深海も真空は知っていた。ずっと近くで見ていた。だから彼女は涙を抑えることが出来なかったのだ。
「ま、真空! お、俺なんか……は、恥ずかしい……」
「泣いて良いよ。抱きしめててあげるから……」
「え? う、うん……」
しかし深海に悲しい気持ちはなかった。むしろやり遂げた気持ちでいた。
真空を守ることが出来たのだ。そっちの方が深海にとっては大事なことだった。
母親のことは大好きだし、今でもその気持ちは変わらない。だから母親と同じ顔をした人物を刺すのはすごく勇気がいることだった。
でもそれ以上に真空のことが好きだった。
この世界で一番、真空のことが大切だった。
「あ、あど! いいふんいぎのどごろすびばぜんが! まぞらはぶじでずがー!?」
と突然、ドラの泣き声交じりの声がした。きっと「あ、あの! いい雰囲気のところすみませんが! 真空は無事ですかー!?」と言いたいのだろう。本当に、いい雰囲気が台無しである。
「ってあれ? 真空! 大丈夫!? もう五時五分だけど!」
「え? あれ、うん。大丈夫……。あっ!? ……ひぃっ!?」
深海と真空はまさかと思い、ひぃと光輝の方に振り向く。
「あ、あたしも無事だよ」
ひぃはこちらに向けてひらひらと手を振っていた。顔は涙で濡れて真っ赤だったが、いつも通りの彼女だ。
「コレハイッタイドウイウコトナンダ」
光輝は動揺し過ぎてロボットみたいな喋り方になっている。深海は不謹慎にも思わず吹き出しそうになった。
「つ、つまり……あたし達両方生き残った……ってこと?」
「そ、そうみたい……だね。時間が間違いとかでなければ……」
「まじがいではありまぜんー! べんだんどをみでみでぐだざいー!」
ドラは相変わらず泣きながらそう言った。この出来事の中心である真空達が大泣きするならまだしも、ドラはそろそろ泣き止んだらどうだろうかと深海は思った。
「あれ、ない……」
ドラに言われて二人は自分達の手の中のペンダントを確認した。するとペンダントは紐だけになってしまっていた。割れてどこかに落ちたのだろう。
日が暮れて暗くなっているため、このままでは見つけられない。真空はポケットから携帯を取り出し、ライトで辺りを照らした。
そして見つけた。元に戻すのは不可能なくらい粉々に砕けてしまっている二人の琥珀を。
「粉々ね」
「粉々だね」
そう短く呟きながら、二人はお互いの手を握り、琥珀の残骸をじーっと見つめていた。
彼女達は何を思っているのだろう。生き残れたことが嬉しいだとか、死ななくて良かっただとか考えているのだろうか。
いや、そんな簡単には言い表せない色々な感情が心の中で渦巻いているのかもしれない。
「おーみなさん、元気? あれ? 二人とも生きてるの!? うわっ! すごいね! ドラ、俺達出世しちゃうかもよ!? 上司の上司になっちゃうかもよ!」
「あーもう空気壊さないで下さいよ! 今、ボクはとっても感動……ええっ!?」
みんなが振り返った先には、なんと紫蘇野が立っていた。この世に顕現した幽霊はもう一度死ぬと跡形もなく消え去るはずなのに、何故か紫蘇野はピンピンしている。
「幽霊ですー!? みんなー! 幽霊が出ましたー!? 悪霊退散悪霊退散ー!」
「落ち着いて、ドラちゃん! 最初からあなた達は幽霊よ!」
「あ、そうでした。で、でもそれなら何で! 何でそんな元気なんですか、あなたは!」
えーとめんどくさそうに紫蘇野はポリポリと頭を掻いた。
彼の背中にはちゃんとナイフが刺さった跡がある。スーツに穴が開いているのだ。だからナイフで刺されたのは確かなはずである。
不思議で不思議でたまらない一同の視線が一気に紫蘇野に集まった。これは説明をせざるを得ないと気付いたのか、彼は恥ずかしそうに咳をしながらこう言った。
「あのー、背中にね。三冊ほどエロ本を……」
「は? 何て言いました?」
「あの、だから……背中にエロ本をね。この前、腹の方に入れてたらドラに没収されて、じゃあ背中にと思い三冊ほど入れてたわけですよ。それが盾になったんですね。はい」
「あああああ、あなたって人はあっ!? じゃあ今まで気絶したふりしてたんですかっ!?」
「違う違うっ! ドラの鉄板みたいな胸で頭打って気絶したの!」
「だだだだ、誰が鉄板ですかー!? 絶対に許しませんー! 上に言いつけてやりますー!」
ドラにお説教されたくない紫蘇野はこの場から退散しようと走り出した。それを怒りで顔を真っ赤にしたドラが追う。
深海達は追いかけっこを始めた二人をポカンと見つめていた。何ともお騒がせな人物である。エロ本で危機を免れ、ドラに激突して気絶をしていたというのだから。
「でもま、面白いから良いかもね」
「紫蘇野先生らしくてちょっと安心した」
まあ真空とひぃの言う通り、ちょっと和んだのも事実である。生きていたというのは語弊があるかもしれないが、とりあえず元気でいてくれて本当に良かった。
「何かあたし達ホントに死ぬかもしれないっていう危機に直面してたの? って疑問に思うくらいあっけなかったわね」
「うん。まだ何かあるんじゃないかって若干怖かったりもする……」
「ドラさんが大丈夫って言ってるんだからきっと大丈夫だよ、ひぃちゃん」
深海の言葉にひぃは嬉しそうにうんと強く頷いた。
「さ、うちに帰って生き残れましたパーティーでもしない? 闇夜や大地君も誘ってさ」
「良いね! 闇夜ちゃん、すっごく心配してたから、早く報告してあげて欲しいな!」
まだまだこの先のことに不安は残るものの、今はこの一か月後の五時を無事越せたことを祝おう。
誰だって未来に不安はある。それと同じことだ。でもそんな不安に捉われてばかりで一日一日を無駄にするなんて心底もったいない。いつ何が起こるか分からない人生なのだから、毎日楽しく生きた方が幸せだ。
「で、二人はどっちの家に帰るの?」
「そりゃあもちろん」
「ね?」
深海の問い掛けに、二人はニヤリとお互いの顔を見やったのだった。