学園祭
あの運命の日から一週間が過ぎ去ろうとしていた。今週の土曜と日曜は深海が言っていた通り学園祭がある。そのため本日金曜は学園祭の準備の時間として取られており、授業はない。
朝から学園祭実行委員の男女数名が中心になって作業を行っていた。深海みたいな体育会系の男子は女子にあれ買ってきてこれ持って来てそれ貼ってそこの運んでと命令され、せかせか働いている。そのため一限目が始まったくらいの時間なのに深海はもう汗だくだった。
「ちょっと波花! 汗落とさないでよ!」
「波花君、それ運んでほしいんだけどその汗だくの腕は止めて下さい、ホント止めて」
「制汗スプレー全身にかけていい? ファブリーズでも良いけど」
「こき使っといてお前ら俺に言いたい放題だな!」
深海はどこにいても弄られキャラだった。小学校の時も中学の時も高校に入ってからもその立ち位置は変わらなかった。ヤンキーっぽい見た目なので最初は人から距離を置かれ孤独で……なんてことは今まで一度もない。人懐っこくて気さくな性格が長所でもあり、短所でもあった。
「深海君、タオルどうぞ」
「あ、使っていいの? ありがとう!」
ひぃがみんなにからかわれて涙目の深海にいそいそとタオルを持ってきてくれた。
こんな優しく接してくれるのはひぃだけだ。しかも何だか真空から優しくされているような錯覚の陥ることが出来るのだ。深海は嬉しくて抱きつきそうになるが、必死にその衝動を抑えた。
「おー、お熱いねー。最近仲良すぎじゃね?」
「は? 真空と俺は前から仲良いんですけど!」
ひゅーひゅーと周りが深海とひぃを囃し立てる。ひぃは顔を赤くして俯いてしまった。
周りはひぃのことを月笠真空だと思っているため、突然仲が良くなったように感じているのだ。もしかしたら付き合ってるんじゃね、つーか付き合ってるだろという噂まで流れている。一応この真空は月笠真空とは別人だということはばれていないみたいなので良しとしているが。
「ほら、馬鹿共働け! そういう話は打ち上げの時にゆっくり、ね! さ、男子でどうしても衣装が作れなかった人は女子に託して他の作業してー」
実行委員の女子がクラスメイト全体に向けてそう言った。
そう、深海達のクラスの出し物には衣装が必要なのだ。それもとっても特殊な衣装が。出し物の名前は「男女逆転バー風喫茶」。男子がバニーガールの衣装を着、女子が男性バーテンダーの衣装を着て接客するという男性にとっては何とも残念な感じの喫茶店だ。
深海はバニーガールの格好をするのが嫌で嫌でたまらなくて、まだ一つも衣装を作っていなかった。でもみんなで決めたことなのだから、一人がうだうだ言っていても迷惑がかかるだけである。仕方なく深海は配られた布を鞄から取り出した。
「おー、波花。ついにバニーガールの衣装を作る気になったか」
「くっそー、ニヤニヤしやがって! 提灯のせいでこんな出し物になったんだぞ!」
「私は知らん。みんなが勝手に話を進めただけだろ」
文化祭の出し物を決定し提出する日になってもなかなか決まらず、とりあえず一人ずつ意見を出していくことになったのだ。しかし闇夜の番になったのに彼女は居眠りをしていて起きない。仕方なく深海が肩を叩くと、寝ぼけた闇夜が「男がみんなバニーガールの衣装を着ているバーに」とかごにょごにょ言い出し、みんな面白がってそこから話を膨らませていってしまったのだ。そして他に意見も出ないしそれで決定となってしまった。
深海はどうせならメイド喫茶をして真空のメイド姿を見たかったと思った。
「変な夢見たから真空に教えてやろうと思ったんだよ。まさか授業中だったとはな、はっはっは。すまんすまん」
「すまんじゃ済まねえー!」
女子はまだ良い。でも男子は酷い。あんな露出度の高い服を男性が着て、一体誰が喜ぶと言うのか。一部の人には大人気かもしれないが、それは置いておいて。
深海は自分のバニーガール姿を想像して吐きそうになるのだった。
「深海君、衣装どうかな……? 良ければあたし、作るけど……」
「えっ、出来んの? だってひぃちゃん……」
「不器用だけど……裁縫だけは一応得意……なんだよ」
月笠家で皿を割ったり食べ物を爆発させたり洗濯機を故障させたりしているひぃを深海は見ているので裁縫が得意だとは到底思えなかった。
でもここで断ると彼女の厚意を無駄にすることになる。もし失敗したら自分は着なくて良くなるかもしれないしそれならそれで良いかと思い、深海はひぃに衣装の布を託した。
「あ、波花! 衣装託したならドンキでウサ耳買ってきて! 何個か足りなくってさ!」
「衣装もわざわざ作らなくてもドンキで買ったら良いんじゃね」
「布を一気に買った方が安いの! はい、お使い行ってらっしゃい、波花わんこ!」
「わんこじゃねえー!」
何だかんだ言いつつも良いように使われてしまう深海なのであった。
「みんなついでとか言ってジュースとか昼飯とか頼みやがってー! 重すぎなんだよ! なんで誰も付いてきてくれないんだよー」
「あのー、手伝いましょうか?」
「うん、手伝って下さい。ってドラさん!?」
文句を言いつつ学校への道を歩いていると、何とあの日から一度も学校に来ていないドラとばったり遭遇した。
「今まで何してたんだよ!? 話終わらないうちにどっか言っちゃうしさ!」
「いやーすみません。すぐ自分の世界に入ってしまう質なので……そっちの袋持ちます」
「あ、どうも……」
ドラはとても疲れ切った様子だった。聞きたいことは山ほどあったが、儚く消え去りそうなドラの姿を見ていると何だか可哀想な気がして深海は何も話せなくなってしまった。
すると、ドラの方から深海に話しかけてきた。
「今、二人は入れ替わって生活しているんでしたね」
「う、うん。知ってたんだ……」
「そりゃまあ、見てますから」
普通にクラスメイトをしていた時は全く気付かなかったが、ドラの漂わせる雰囲気はやはり常人とは少し違ったところがあった。
「ボクも色々調べてきましたよ。出会えないはずの二人が何故出会えたか。あと深海の記憶が消えたわけも」
「それも知ってたの!?」
「だから、見てますから。あいつはサボり魔なのでちゃんと見てくれませんけど」
そう言ってドラはぷうっと頬を膨らませた。あいつとはきっと紫蘇野のことだろう。
「聞きたい! 何か分かったのか!」
「ある人が深海と日笠真空を故意に出会わせたようです。そして何らかの理由でもう一人のある人が深海の記憶を消した」
「何それ……一体誰がそんなこと……」
「……ボクらもまだはっきりとは。それに生きている人間にほいほいして良い話でもないので。とにかくです! 真空達にはこの話はしないで下さい。無駄な心配をさせてしまってはいけませんし。ボクらがいるので安心してもらって良いのですが、出来れば深海には真空から目を離さないで頂きたいです。あ、着きましたね」
ドラの言う通り、いつの間にか二年A組の教室の前まで二人は来ていた。この教室に入ってしまうともう先程みたいな話をしている暇はないだろう。
最後に深海はどうしても気になったことを聞いてみた。
「生きている人間って……ドラさんは違うの?」
「はい。死んでいます」
ドラは今まで見せたどんな表情よりも切なげに笑ったのだった。
「あっ! おかえり! 出来たよ! 着てみて!」
教室に入ると飼い主を待って待って待ちくたびれた子犬みたいに嬉しそうなひぃが駆け寄ってきた。
ドラはいつも一緒にいる女子達の輪に入っていき、ドラちゃん大丈夫!? などと声を掛けられていた。聞きたい話は山ほどあったが、今は我慢するしかなさそうである。
「うわっ!? ひぃちゃん、もう出来たの!?」
「え!? 真空ちゃんすごーい! 一時間もしないで作っちゃったの!?」
「本当だ! きれーい! しかも手縫いだよね!?」
「ミシンのあたしより上手いとは……月笠さん何者!?」
突然色々な人に話しかけられ、ひぃはいつものように焦ってわたわたしている。だが褒められるのは嬉しいようでひっそりと口元を緩めていた。
「ド、ドールのお洋服を作るのが好きで……家で良く作ってるから……かな?」
「あ、ドールってブライスみたいなやつ?」
「えと、もっと大きくてリアルなのなんだけど……。まあ……そんな感じ。あ……」
ひぃはスマートフォンを取り出し、何やら操作をし出した。一体何だろうと、深海と数人の女子達は覗き込む。どうやら画像を探していたようで、お目当ての画像を見つけると嬉しそうに見せてくれた。
「これ、うちの子で……名前はErnestine Violette Claudette Didier」
「お、おう。良く分からないけど良く分かった」
プラチナブロンドの長い巻き毛の女の子がフリルとレースがあしらわれた薄桃色のドレスを纏い、お澄まし顔でこちらを見ている写真だった。
真空もムキムキマッチョのフィギュアを集めているが、ひぃは全く正反対のお姫様みたいな可愛いドールを集めるのが好きらしい。
似ているようで似ていない二人を良く表している趣味なのかもしれない。
「すっごい可愛いねー。Ernestine Violette Claudette Didierちゃん!」
「一瞬で名前覚えたな!? すごいな!?」
「でも高そうだよねー。いいなー欲しいなー! Ernestine Violette Claudette Didierちゃん!」
「えっ!? みんな記憶力半端ないな!?」
その時一瞬ひぃの顔に影が差したのを深海ははっきりと見た。すぐ笑顔になったが、確かに一瞬暗い顔をしたのだ。
深海が気になっていると、彼女は作ったみたいな笑顔でこう言った。
「この子はあげられないけど、他の子なら……あげても良いよ。みんなあたしに優しくしてくれるから……」
ドールに興味を示していた女子達が驚きの声を上げる。彼女らが言っていたようにドールは意外と高い。それをほいほい人にあげるだなんて、普通は考えられない話だ。
もしかしていつもこんなことをしているのだろうかと深海は何となく思った。
「良いよ、良いよー。高いだろうし、真空ちゃんが大事にしてるものもらえないよ!」
「そうそう! でも今度見せてもらえたら嬉しいな! てか一度月笠さん家、遊びに行きたかったんだよね!」
「うんうん! ほら、今度クラスの女子でお泊り会とかしたくない?」
いいねーと女子達は盛り上がり始める。そして一通り盛り上がった後、それが終わったらこっちの衣装も手伝ってねとひぃに笑顔で告げ、自分達の作業に戻っていった。
ひぃは彼女達の反応に目を丸くしていた。
「いつもなら……いつもならみんな欲しい欲しいって言うの……」
「ん? もらって欲しかったの?」
せっかく自分があげると言ったのに、もらってもらえなかったことに腹を立てているのかなと思った。
しかし予想とは裏腹に彼女はブンブンと頭を横に振る。そしてこう言った。
「何かあげないと……仲良くしてもらえないの……。いじめられるの……」
「え、ええっ? それって……」
「こんなの初めて……幸せだよ。同じ真空なのに……あたしは何でこんなに駄目なんだろう……」
ひぃの大きな瞳には涙が浮かんでいた。戸縁学園ではこんなこと、一度もなかったのだろう。何かあげなければ、物で釣らなければ彼女は友達として認めてもらえなかった。
でも真空は、ひぃと全く同じなのに全く違う。真空は何もしなくてもみんなに仲良くしてもらえる。闇夜という親友もいる。深海や大地という優しい幼馴染も。
それなのに、同じ真空の自分はどうしてこうも違うんだろう、と。
「あたし……月笠真空になりたい……」
零れ落ちた涙を、深海は拭ってあげることが出来なかった。
「うわー、キモいー! 波花、クソキモいー」
「クソキモいとか言ってんじゃねえよ! 提灯だってクソキモい!」
何故か最終チェックのために衣装を着せられた深海と闇夜はお互いを罵りあっていた。
でも実際気持ち悪いのは深海だけである。細身の男性が着るならまだしも、意外と体格の良い深海が着ると気持ち悪いことこの上なかった。しかも金髪ロングのウィッグに可愛いウサ耳付きである。これは酷いと言わざるを得ない。
それに比べて闇夜はとても似合っていた。すごくスラッとしていてかっこいいのだ。
「うわー、深海可愛い―」
「は!? 可愛くねえし! って大地!? スパイだー皆の衆スパイがやって来たぞー!」
「何しに来たんだ、このE組スパイ!」
「偵察だよ。あとうちのお化け屋敷の宣伝頼まれちゃって。みんな来てね」
うわ、やっぱり偵察だったよ! と深海は叫ぶが、みんなはそれを完全無視で絶対行くよ! とか言っていた。大地がサッカー部のエースで人気者だということを見越して、クラスメイト達は彼を宣伝係に選んだのだろう。
「提灯さんも似合ってるね。明日、提灯さんを指名しに来るよ」
「そ、そういう店じゃないから! それに私は受付でひたすら判子を押す係だ! 残念!」
闇夜は恥ずかしさを紛らわすかのようにそう捲し立てた。本当は大地のことが好きなのではないかと誰もが疑う反応なのだが、本人曰く違うらしい。
ちなみに、この学校の学園祭は一日目にスタンプカードが渡され、展示パート、劇パートなどの各パートをそれぞれ一つずつ回り判子を押してもらえなければ出席したとは認めてもらえない、ぼっちにとっては鬼のようなルールが課せられている。
闇夜は中で接客するのが嫌だったらしく、この係を決める時に一番に手を上げた。真空が一緒に中で接客しようと誘ったのにその誘いを断ってまでなので相当嫌だったのだろう。
「えー。それは残念。メイド服の提灯さんに萌え萌えパワー注入してもらいたかったなー」
「だからそういう店じゃないからっ!」
「でもそっちの方が絶対需要あるよ」
「ねーよ! 変態E組スパイは去れ! ほらほらっ!」
ぶつぶつ文句を言う大地の背中を闇夜は必死に押して、教室の外まで追いやった。
ぐるりと教室の中を見回すと、何となく数人の女子の目がすごく鋭い気がした。闇夜がいつも怖がっているのはああいう女子達のことだ。大地の方から闇夜に絡んでくるので彼女に罪はない気がするが、多分そう言っても彼女達には通じないのだろう。
早く帰って来ないとヤバいぞ、提灯! と深海が思っているとすぐに闇夜は帰ってきた。心なしか顔が赤い。
「大地に何か言われた?」
「な、何なんだ、あいつは……。君の幼馴染だろ、どうにかしてくれ……」
深海の思った通り闇夜は大地に何か言われたらしかった。それが何なのかは分からないが、うちの幼馴染がすみませんと申し訳ない気持ちになる深海だった。
「提灯さーん、もうちょっとウエストきつく締めようかー?」
「細いから全然大丈夫だよねー、細いから!」
闇夜の顔がサーッと青くなる。きっと大地のファン達なのだろう。無駄に笑顔なのが逆に恐ろしさを引き立てている。
女子って怖いんだなと完全に他人事状態で深海は思うのだった。バニーガール姿で。
一日の疲れを取るためにベッドでごろごろしていた真空の携帯が突然鳴り響いた。
真空は急いで携帯に飛び付く。携帯の画面には『深海』の文字。真空はにっこりと笑顔を浮かべながら電話に出た。
「何? 何か用?」
本当は満面の笑みを浮かべているというのに、そっけなくそう言った。
『愛しの深海君からの電話が嬉しくないのかー』
「嬉しくないし愛しくもありませーん。闇夜がかけてきてくれたのかと思ったのに。あんたって分かってたら出なかったわよ」
『あれ? お前の携帯、かけてきた人の名前出るよな?』
痛いところを突かれ、真空は言い返せずに押し黙る。しかしすぐに言い訳を思い付き、平静を装いながら言った。
「急いで出たから見なかったのよ。で、何なの」
『いや、ひぃちゃんがさ。クラスでいじめられてたらしいから真空は大丈夫かなと思って』
「ああ、みたいね。あたしは大丈夫。初日からひぃがクソ女に取られてたカチューシャ取り返してやったし。ちょこちょこ突っかかってくるけどガキの悪戯みたいなもんよ」
『やっぱり嫌がらせされてるんじゃん……俺、心配だよ』
真空は何でもなさそうに言ったつもりだったが、深海は本当に心配そうな声色でそう言ってくれた。深海の優しさが嬉しくて、真空は顔をほころばせる。
でもそんなことを微塵も感じさせないように平然とした口調で続ける。
「心配なのはひぃがこっちに戻って来た時の話ね。あたしやりたい放題やっちゃったし。ま、その辺は後々考えるわ」
『あんまり無理するなよ? でも元気な真空の声が聞けて良かった。真空が元気だと俺も嬉しいよ! あ! 明日学園祭だけど、覚えてる? 早く真空に会いたいな』
「覚えてるわよ。学校休んでいくことになってるんだから。話したいことがあるんだけど長くなりそうだから明日にするわ! じゃ、明日ね! おやすみ! バイバイ!」
『えっちょ、まそ……あっ!』
深海の言葉を最後まで聞かず、真空は強制的に通話を終了させた。呆れと嬉しさの混じったような笑顔を浮かべて真空は呟く。
「バカ深海……」
「こ、こんなのでどうかな……?」
待ちに待った学園祭当日。昨日以上にみんな慌ただしく走り回っていた。そろそろお客さんがやってくる時間なので、どのクラスも追い込みに夢中だ。
午前中に店番の深海は、心底嫌だったが何とかカーテンに包まりつつ着替えを終わらせていた。あとは男としての何かを失いそうなメイクをしてもらい、もうどうにでもなれと思いつつウィッグを被り、半笑いでウサ耳を装着するだけだ。
深海はずっと前に真空にメイクしてもらうと約束していた。しかし今ここに真空はいないのでひぃに代わりにやってもらったのだが……何と言うか、酷いことになっていた。
「お、おう。な、なんでこんな歌舞伎役者みたいなメイクに……」
「ご、ごめんなさい……あたし化粧したことなくて……」
「それで良く引き受けたな、ひぃよ」
バーテンダー姿が決まっている闇夜が呆れた表情でそう言った。しゅんと肩を落とすひぃ。彼女はきっと深海のためになりたくてやったので責めることは出来ない。
でも流石にこのメイクは酷過ぎる。他の女子達も深海の顔の惨状を見て、それはやり直した方が良いかなと苦笑いを浮かべている。
「ごめんね、深海君……ごめんなさい……」
「いやいや! 俺から頼んだんだし!」
うるうると瞳にいっぱい涙を溜めながらひぃは何度も謝ってきた。こんなに謝られるとやり直すのが可哀想な気さえしてくる。
このまま接客すれば深海はただの笑いものだが、逆にウケを狙っても良いかと妥協しかけていたその時だった。
「ハロー、深海! 来てやったわよ!」
ガラッとA組のドアが開き、非常にキラキラした人物が入ってきたのだ。美しい金髪の巻き毛、三つ編みをカチューシャにし、可愛らしい髪留めで留めた女の子らしい髪型、シンプルな黒縁眼鏡の奥で光るのは大きな琥珀色の瞳、ピンクの花柄ワンピースからのびる足はすらりと長くまるでカモシカのよう。彼女から醸し出される雰囲気はTHE・お嬢様。
深海の知り合いか、と周りがざわざわ騒ぎ始める。
誰も気付いていない。でも深海は声を聞く前に、一瞬でそれが真空だと分かった。
「お隣のおばさんの娘の友達の妹の先輩の後輩の彼氏のバイト先の店長の娘でフランス人の母を持つハーフの帰国子女、クリスティーヌ早江島さん!」
「誰だよ!」
深海のボケに闇夜のキレのいいツッコミが入る。別に誤魔化したかっただけで、深海にボケたつもりはなかったが。
真空改めクリスティーヌ早江島はコツコツとサンダルのかかとを鳴らしながら深海に近寄り、何と抱擁した。真空から抱き締められることなんて初めての深海は顔を紅潮させつつ、わたわたと慌てる。
「ななななっ!? どうしたの!? どうしたのっ!?」
「OH! 深海! 久しぶりデース!」
どうやら深海の誤魔化しに乗って、クリスティーヌ早江島になりきってくれているようだ。さっきまで普通に日本語を話していたのにいきなりカタコトになったのは非常におかしいが、誰も気にしてはいないようだ。
「どしましたか、深海ー! 何でジャパニーズ歌舞伎メイクになってマスかー! 私がやり直してあげマース!」
「おおっ!? 本場ハリウッドで数々の俳優達のメイクをして経験を積んだのではと語り継がれているクリスティーヌ早江島さんの神業をこんなところでっ!?」
「ハーイ! 本場ハリウッドで数々の俳優達のメイクをして経験を積んだのではと語り継がれているワタシの神業をご披露しちゃいマース!」
「『積んだのでは』ってことは実際積んだかどうか不明なのかよ!」
またまた闇夜のキレの良いツッコミが入る。深海は吹き出しそうになるのを必死に堪えた。真空が来てくれたことが嬉しくてちょっとテンションが上がってしまったが、クリスティーヌ早江島が真空だと言うことがばれてしまってはいけない。
これ以上騒ぎ過ぎると注目されて仕方がないので、話を聞かせてほしいなどというクラスメイト達を押し切って部屋の隅へ退散したのだった。ポカーンとしているひぃも引き連れて。
「バカ深海! クリスティーヌ早江島って誰よ!」
「ごめん、ちょっと調子乗っちゃった」
「何かこんなノリは随分久しぶりな気がするな」
「闇夜とはずっとメールしてたでしょ? それにまだ入れ替わってから一週間も経ってないのよ」
楽しそうに談笑する三人を余所にひぃは引き続きポカーン状態。もしかしてクリスティーヌ早江島が真空だと言うことに気付いていないのだろうか。少し心配になった深海はひぃに声を掛ける。
「えっと……これが真空だって、気付いてるよね?」
「ええっ!? つっきーだったの!?」
「この天然さ。ホント、この子とあたしが同一人物とは思えないわね」
本当に見た目や声こそ一緒であるが、他は全くの別人と言っていいほどだ。環境が違うとここまで性格というものは変わるのかと驚かされる。
「さ、ちゃっちゃとやっちゃうわよ。それにしても酷いわねー」
「それじゃあ私はそろそろ受付という名の判子ひたすら押しゾーンに移動するか」
「あ、ひぃも一緒に行ってこれば? 外で光輝が待ってるわよ」
「光輝が……?」
少し嫌そうな顔をしたが、誰かは知らんが行くか? と闇夜に声を掛けられ、ひぃは渋々教室を出て行った。出たすぐのところに机で受付が作ってあり、そこで生徒はスタンプカードに判子を押してもらうのだ。
「一度メイク落としで全部取っちゃうからね。もっとこっちに顔寄せて」
「う、うん」
「なに照れてんの? 気持ち悪いわね」
「べ、別に照れてないしっ!」
と言っては見たものの、実際深海は照れていた。息がかかるくらいの距離に真空の顔がある。変装しているが、その宝石みたいな琥珀色の瞳は変わらない。ピンク色の頬は相変わらず柔らかそうだし、ぷるぷるの唇にはすごくそそられる。
顔があまりにも近いので、鼻息荒くないかなとか口臭くないかなとかいつもなら気にしないことが妙に気になってしまい深海は先程から一言も喋らず出来るだけ息をしないようにしていた。苦しくて死にそうである。
「あんた顔色悪くない? 大丈夫?」
ブンブンと頭を縦に振った。ひぃにもメイクをしてもらったのだが、やはりその時とは違うのだ。同じはずなのに真空だとこんなにドキドキする。
「なににやけてんのよ、エロいことでも考えてんの? 最低」
深海は顔を真っ赤にしながらブンブンと顔を横に振り否定した。どうだか、と真空が蔑むような目で深海を見つめる。そのSっ気たっぷりの目つきも堪らない。
「ねえ、深海。聞きたいんだけど……ひぃ楽しそう?」
「……うん、多分。そう言えば昨日、月笠真空になりたいって泣いてた……」
少しだけ俯きながらも深海はそう答えた。初めはまた頷くだけで済ませようと深海は思った。しかし昨日ひぃが言っていたことが気になっており、どうしてもそれを真空に伝えておきたかった。
「そ、泣くほど楽しいんだ。なら良いのよ」
「でもさ、いつかは日笠真空に戻らないといけない。この生活続けてたら続けるだけ辛いだけなんじゃないかと俺は思ってしまって声が掛けられなかったんだけど……」
「戻らなくても良い方法があるわよ。あたしが日笠真空として死ぬこと」
吃驚して深海は目を見開いた。
「は? 冗談だよな?」
「馬鹿ね。冗談に決まってるでしょ。でもね、ひぃになって生活してるとさ、あの子今まですごい辛い生活をしてきたんだな、楽しい思いさせてあげたいなって思っちゃうのよね」
「そんなに辛いのか?」
居たたまれない気持ちで深海はそう言った。ひぃが辛い思いをしてきたと言うなら、真空もいま辛い思いをしているということではないか。
真空はファンデーションやチーク、マスカラなどを取り出しながら笑った。
「あたしは大丈夫よ。強いから。ひぃだって強いよ。今まで一人で逃げなかったんだから。光輝ってホント頼りにならないのよ。ま、あの子もあたしだから強くて当然だけどね」
「楽しむために始めたんだろ? 楽しいか、今」
「喋らないで、やりにくい。……もうクソ女共は黙らせたしなんてことないよ」
話しながらも真空は着々と深海のメイクを進めていく。学校などではノーメイクの真空だが、外で遊ぶ時などはばっちりメイクしていることが少なくない。だが深海と一緒にいる時はほぼノーメイクである。
何だか男と思われていないような気がして深海はいつも落ち込んでいた。でも真空は何もしなくても可愛いので、彼女の素の姿がいつでも見られるのは役得なのだと自分に言い聞かせることにしている。
「一生懸命生きて、二人で生き残らなくちゃね! 一か月って意外と短いから。あの時は一か月の命かもしれないしとか言ったけど、やっぱり死にたくないもん」
「う、うん! だよな! 良かったー。真空があんなこと言うから心配だったんだぜ……」
「だから、喋るな」
グイッと真空に頬を掴まれ、深海は強制的に黙ることとなった。これ以上真空を怒らせると歌舞伎メイク以上にすごいメイクにされそうなので大人しくすることにした。
「諦めないといけないのかなーとも思ったよ。でもね。深海が、あたしが元気だと嬉しいって言ってくれてちょっと嬉しかったんだよね。必要とされてるんだなーって」
深海はそれって、と言いかけたが真空に人差し指で唇を押さえられてしまう。そして真空は普段見せないはにかんだ笑顔で言った。
「あ、でもあんただけじゃないからね! 闇夜だって毎日メールくれたし! 大地君だって事情は知らないけど心配してくれてたんでしょ? だからさ、死にたくないなって。それにひぃを犠牲にしたくもない。『真空』じゃなくて『月笠真空』と『日笠真空』として一生懸命生きたいの」
赤く染まった頬が林檎のようでとても愛らしかった。その笑顔が自分に向けられているかと思うと嬉しくて嬉しくて仕方がない。
深海は衝動的に真空を抱きしめた。が、するりと腕の中から抜けられてしまった。
「キモい。ほら、完成したわよ。ちょー可愛いー!」
「真空、俺が絶対守るからな」
「完全ボケスルーか! 深海は良いのよ、いつまでも泣き虫ふみちゃんのままで。あたしが守ってあげるから」
「いや、今度は俺が守るの!」
「いやいや、あたしが守ってあげるって」
「俺が守るって言ってるだろ……」
拗ねる深海を見ながら、真空は笑った。いつものような嘲笑ではなく、照れを含んだ感じの笑みだった。
「深海は午後、暇?」
「うん、暇! 俺と学園祭デートしちゃいますー?」
「しちゃいませーん。ドラさんも午後はフリーなのかしらね」
真空は教室の反対側にいるバーテンダー姿のドラを一瞥しながらそう言った。
深海の見る限りドラは今日も朝から元気がなかった。きっとまだ真空達のことを調べて回っているのだろう。ちゃんと説明さえしてくれれば自分たちも何か手伝えることがあるかもしれないのにと深海は思っていた。
「確かドラさんも午後フリーだぜ」
「じゃ、店番終わったらゲットしてきて。あたし光輝と適当に学園祭回ってくるから。午後から屋上で作戦会議よ!」
「分かった! ゲットする! ドラさんゲットだぜ!」
右手で何かのボールを掲げるような仕草をしながら深海は言った。はいはい、と真空が呆れ眼で深海を見つめる。
「じゃ、よろしくね。可愛いバニーガールさん!」
「なあ、正直に言ってくれ……可愛くないよな?」
「うん! とてもゴツくてキモいだけ!」
「あのー受付の前で睨み合わないで頂けるか?」
闇夜はそう言ってため息を吐いた。ひぃと光輝がさっきからずっと睨み合ったまま動かないのだ。次の瞬間にはここで会ったが百年目ーと切り合いを始めそうなくらいには不穏な空気である。
「深海君と一緒にいて光輝の優しさの無さ再確認しました」
「はっ! 俺も月笠と一緒にいてお前の弱さを再確認したよ」
「光輝もつっきーが良いんだ? ふーん」
「は? お前こそあんな爆発頭が良いんだな? 趣味悪っ」
そろそろ開店の時間だ。こんなところでこの二人が罵り合いを続けていたら入りたいお客も入れない。
闇夜が深海や真空の様子を窺うように教室をちらちらと盗み見ていると、首からお化け屋敷の看板をぶら下げた大地がやってきた。
「もうすぐ開店?」
「うわっ! またE組の変態スパイが来た!」
「スパイでも変態でもないよ、宣伝だよ。お化け屋敷来てねー」
大地がそう言うと廊下で作業していたり、学園祭を回り始めていた生徒達がはーいと返事をした。もちろんほとんど女子である。
「昨日も宣伝したくせに今日も宣伝に来るとは! うちの客を狙ってるな!」
「違うよ。提灯さんに会いに来たんだよ? 昨日の話、考えてくれた?」
にっこりと大地は微笑んだ。闇夜の頬が一瞬にして真っ赤に染まる。まるでプロの技だ。
「か、考えるも何もお断りだ! それにみんなで回った方が――」
「あーっ! 大地君だー! 大地君、大地君久しぶり! 会いたかった!」
教室から飛び出してきたのは言わずもがな真空であった。あまりに大声で叫んだため、廊下を歩いていた女子達が誰こいつ、大地君の何? みたいな目で見ているがお構いなしである。ばれないのが不思議なくらい真空はいつも通りやりたい放題だ。
「あ、真空だ。こっちが本物の真空だよね?」
「うん! 本物の真空! 闇夜から聞いてたけどやっぱり大地君はすごい! あたしだって一瞬で分かっちゃうんだね!」
「そりゃ赤ちゃんの時から一緒だからね。当然だよ」
ありがとうと言って真空はにっこりと笑った。
「大地君は今からフリー?」
「うん。あ、一緒に回る? 約束してた友達に断ってくるけど」
「ホント? じゃあ一緒に回る!」
真空の返事を聞くと、大地は友達に一言入れにE組へと戻っていった。
「さてと。闇夜、ひぃ、光輝。午後は作戦会議するから屋上に集合よ。あたし達の今後について考えるから」
「え? う、うん。分かった」
ひぃは少し不安げに頷いた。学園祭にかまけていたが、いま二人の真空は人生の岐路に立たされているのだ。それを忘れてはいけない。
「で、俺にはこれからどうしろと?」
「別に適当にしてたら? 付いてきたいなら付いてきても良いけど?」
「嫌に決まってるだろーが」
幼馴染で仲の良い真空と大地の後を付いていくなんて、明らかに気まずい。光輝には真空お嬢様にお仕えするという使命があるが、こっちは本物のお嬢様ではないので付いていく義理もない。
「光輝は一人執事喫茶でもやってると良いよ……」
「は? 誰がそんなことやるかよ」
「そこで闇夜の手伝いでもしてたら? その容姿に執事服だし客寄せパンダになりそう」
「どっちの真空も最低だな。ってか手伝いなんて私はいらんぞ?」
光輝はチッと舌打ちをしたが、意外にも大人しく受付の空いている席に、偉そうに腰掛けたのであった。不機嫌オーラを漂わせる光輝に、隣の闇夜はとても居心地が悪そうである。それを見て真空はプッと吹き出す。
「冗談のつもりだったんだけど、意外に素直じゃない?」
「は、はあっ!? 冗談だったのかっ!? くっそ、俺を騙しやがって! 容赦しねえぞ!」
光輝は冗談だと気付いていなかったようである。
素直に真空の言うことを聞いた光輝を見て、ひぃはガックリと肩を落としてしまった。
「あたしの言うことは全然聞いてくれないのに。やっぱりみんなつっきーが良いんだ……」
「そ、そんなんじゃねえし! 何言ってんの、お前! 馬っ鹿じゃねえのっ!」
そう言いつつも、結局光輝は大人しく闇夜の隣で受付の作業をこなしたのだった。自己紹介の他は会話もなく、機嫌の悪そうな彼の横にいるのは苦痛過ぎて、これなら一人でやった方がマシだったと闇夜が受付に様子を見に来た深海に愚痴ったのは秘密だ。
しかしその日の午前中、俺様系イケメン執事が受付にいると女子の間で噂になり、男女逆転バー風喫茶は意外にも大盛況だった。真空が冗談で言った客寄せパンダ作戦が功を奏したのは驚きである。
「博士! ドラさんゲットしてきたぜ!」
「良くやったぞ、深海。これは珍しい! 猫型ロボモンスター、ドラれもんじゃな。タイプはボクっ娘。特性は――」
「何なんですかー! ボク、今からお昼だったのにー!」
深海がドラを拉致し、ひぃ、闇夜、光輝の三人を引き連れて屋上に来た頃にはもう真空はそこにいた。
「お昼なら大丈夫よ! みんなの分のお好み焼きとタピオカミルクティー! どや!」
「カエルの卵じゃないですかー! やだー!」
「おい! ドラさんのせいでカエルの卵にしか見えなくなっただろ!」
みんな気持ち悪そうな顔で真空が買ってきたタピオカミルクティーを見つめている。嫌いなものを無理に飲めとは言わないが、一応みんなのために買ってきてくれた真空の身にもなってほしい。
「良いから飲みなさい。美味しいから」
「うぐっ!?」
無理やりドラの口元にタピオカミルクティーを持っていき、ストローを差し込む真空。いやいやとドラは頭を振るが真空は離そうとしない。
深海は止めようと思ったが、それより先に観念したドラがタピオカミルクティーを一口口に含んだのだった。
「んっ……も、もちもちしてます。意外と美味しいですね。ま、まあ飲んであげないこともないです」
「でしょ。だから言ったのよ! さ、みんなも食べて! 張り切って作戦会議行くわよ!」
「作戦会議、ですか?」
「ええ。あたしとひぃが確実に生き残るための作戦会議」
真空の買ってきたお好み焼きは意外と美味しかった。高校生が作ったものだからそんなに期待はしていなかったのだが、深海がネットで見たレシピを参考に家で初めて作ってみたお好み焼きよりは断然美味しかった。
みんなが半分ほどお好み焼きを食べ終えたところで、真空は早速今後の話を始めた。
「ドラさん、あたし達二人が確実に生き残れる方法って本当にないの?」
「だからホントに分からないんですよ。ないとは言い切れませんが……」
「ないとは言い切れねえ理由は何なんだ?」
頬の袋に餌を詰め込むハムスターみたいにお好み焼きを頬張りながら光輝が言うので緊張感が薄れたが、それは深海も聞きたかった。
「いくつか前例があるんですよ」
「前例? あたし達みたいな境遇の人間が他にもいたってこと?」
「そうです」
そう言ってドラは美味しそうにタピオカミルクティーをちゅーちゅー吸い始めた。あれだけ文句を言っていたのに現金なやつである。
「じゃあその話をして」
「生きている人間に話すのホントはルール違反なんですよ。それに、この間はそれで……」
そう言ってドラは何か深く考えるような仕草を始めた。もしかしたら彼女一人では決定することが出来ないことなのかもしれない。前に一度上司と話していたので彼女は下っ端なのだろう。
それでも彼女は決意したのか、こくりと頷いてこう言った。
「仕方ない……お話ししましょう。でもこれだけは約束して下さい。変な気は起こさないで。生きるのを諦めたりしないと」
「分かったわ」
「あたしも……分かりました……」
「はい、あなた達を信じてお話します。まず、ボクらのことについて。深海には少しだけ話しましたが、ボクは既に死んでいます。この世のものではないのです」
笑い飛ばしてしまえそうな台詞も、ドラが言うとどこか真実味があった。
「成仏出来なかった人間は記憶を失くしてある組織に組み込まれます。まあ現世の会社と同じようなものです。ボクやマスオはいわゆる下っ端社員です」
「な、何か漫画みたいだな」
深海はあまりに現実離れした話に驚きを隠せなかった。それは他の四人も同じであろう。誰もが深海のようなことを思ったはずだ。でもこれは漫画ではなく現実の話であった。
「そう感じるのも無理はありませんよ。ボクだって生きてる時にこんな話されても信じなかったと思いますし。えっと話を戻しますね。ボクらがしているのは現世の歪みを正すことと霊に三つの選択をさせることです」
「ど、どういうこと?」
「前者は色々あるのですが、ボクがしているのは歪みの一つであるドッペルゲンガーが生まれないようにする研究ですね。真空達のようなドッペルゲンガーはどうして生まれるのかまだ良く分かっていないのです。そういう人達も他の人間と同じように暮らせるようサポートしつつ、原因を究明するのがボクの仕事です。後者はボクらみたいな成仏出来なかった霊に三つの選択をさせることです。まあ、今回の話に直接関係は無いと思いますので端折りますね」
「あたしそれも聞きたい」
真空が挙手しつつそう言った。深海も真空の意見に同意だ。ここまで聞いてしまったら、一体それがどういうものなのか気になって仕方がない。
「そ、そうですか? えっとですね、成仏できなかった霊は記憶と引き換えに三つの選択肢のうちどれか一つを選ぶことが出来ます。稀に死んだ時の印象が強すぎて記憶が残ってしまう場合もあるのですが……それは置いといて。一つ目が生まれ変わること、『再び生を受け新たな人生を全うせよ』、二つ目が過去に遡ること、『苦しむための人生ならば自ら終止符を打て』、最後の一つが生きもせず死にもせず現世に留まり続けること、『人ならざるものとして人を学べ』。大抵の者は一つ目を選びますね」
「ドラさんは三番目なの?」
「ええ、ボクは三番目です」
「じゃあドラさんは……ずっとそのままなの?」
「そうです。実はですね、三番目を選ぶと生前の自分に足りなかったものに関する力を一つだけ与えられるのです。ボクは自分がなぜ死んでしまったのか知りたくて、自分に足りなかったものがそれを解く鍵になるんじゃないかと思ったんです。結局良く分からなかったんですがね。でもこの仕事をやっているとたくさんの人間と関われるんです。それが楽しくって。そのせいで時々生まれ変われば良かったかもって後悔することはありますけど」
そう言ってドラは自嘲気味に笑った。その笑顔がとても痛々しくて深海は直視できなかった。
自分で選んだ道なのに、ドラは時々後悔する。生まれ変わってまた新しい人生を始めれば良かったと。でもそう思えたのは現世に留まることを決めたからでもある。
選択と言うのはとても難しいものなんだと深海は思うのであった。
「ドラさんの足りなかったものって何だったの?」
「良く分からないのですが……ボクは人を無関心にすることが出来ます。その力で真空達を惹き合せないようにしてました。でも結局失敗してしまったんですがね」
すみませんとドラは申し訳なさそうに頭を垂れた。
足りないものに関する力を授けられるというのは、一種のご褒美のようなものなのだろうか。これから死ぬことも生きることも出来ず、ただ人間達を見守り、人間のために頑張る彼らへのたった一つのプレゼント。
いや、もしかしたらその力を使い、一生懸命働けということなのかもしれない。
「とにかくですね。ボクらはそういう組織の者です。そしてまだ研究の途中なので生き残る術はハッキリと分かっていないのです」
「魔法が使えて何でも出来ちゃうってわけじゃないんだな?」
「はい。与えられるのは自分に足りなかったものに関する力だけ。それに生き返らせたり、殺したり、過去を変えたり未来を変えたりする力みたいなものを持っている人は今のところいません。生死に関わらない、人間に干渉する力だけです」
つまりもし一か月後に片方が死んでしまったとしても、それを生き返らせることは不可能ということだ。
「今までも何度か生き残ったドッペルゲンガーはいるらしいのです。でも何故生き残れたかは分かりません。でもその生き残った人達は自分のことが好きで、自分として生きたいと言う気持ちが強かったと言われています。大抵は重圧に耐えられず途中で諦めてしまいます。ボクがサポートした一組もそうでした」
ドラはそう言ってパクリとお好み焼きの最後の一切れを口に放り込んだ。
何も出来ず、ただ審判の日を待つのみだという現実。余命一か月と宣告されたようなものである。そんなもの、耐えられなくて当然だ。
でも今は自分として生きたいと思うこと、途中で諦めないこと、それしかないのだ。
「分かったわ。ひぃ! あと三週間、頑張ろう! 絶対二人とも生き残ろうね!」
「あ、う……うん」
ひぃは小さくこくりと頷いた。そして笑いかけてくれる真空に笑い返す。
しかし深海にはその笑顔がどこか引きつっているように見えて仕方なかった。
「そうだ、光輝。ひぃにあれ返しといて」
「ん? ああ、あれな」
真空にそう言われ、光輝は持っていた鞄をがさごそ漁り始めた。そしてピンク色のシンプルなカチューシャを取り出すと、それをひぃに無造作に手渡した。
「月笠が取り返してくれたんだ。感謝しろよ」
「つっきーが……取り返してくれたの……?」
「無意識でやってしまいました……ごめんね。ひぃにとっては迷惑だったかも。それがずっと気になってて……」
ひぃは必死にブンブンと頭を横に振った。そして喜んでいるということを分かってもらえるようにか、そのカチューシャを急いで付けてみせた。
ひぃが父親からもらった大切なカチューシャが今、彼女の元に帰ってきた。日笠真空ではなく月笠真空の手によって。
「水奈ちゃん達……どうしてる……?」
「とりあえず嫌がらせはされなくなったわよ。あっちもあたしのこと無視だしこっちも無視って感じ」
「無視……」
自分が戻った時のことを考えているのだろうか。しかし真空が言うにはもう嫌がらせはされなくなったらしいし、元の生活に戻っても何ら問題はないのではなかろうか。
でも――。
「もう……いいや。もう……何でもいいや……」
ひぃが小さく呟いた言葉を深海だけはハッキリと聞いていた。何かを諦めたような、悲壮感の漂うそんな声色だった。