二人はドッペルゲンガー!
約四十分の長旅を終え、深海と真空とドラの三人は戸縁学園の最寄り駅に降り立った。駅はたくさんの人で混雑していた。
「深海、のど乾いた。ここで座ってるからコーラ買ってきてよ」
「お、おう。ドラさんも何かいる?」
「え? 良いんですか? じゃあボクは……あずき味の炭酸!」
「それもう売ってないと思うんで違うのでお願いします」
「もう売ってないんですか!? 期間限定だったのか……じゃあボクもコーラで良いです」
もう少しまとめて買っとくんだったなと残念そうに呟くドラの味覚に恐怖を感じながらも、深海は一人自動販売機を探しに歩き出した。
人ごみを器用にすり抜けつつ、自動販売機がないかと辺りを見回す。
深海はあまりこの駅に降りたことがなかった。深海の必要なものなんてあの田舎な駅周辺で揃うものだったし、わざわざここまで来なくても遊び場は意外とあるからだ。
「自販機発見!」
ついに自動販売機を発見して、深海は嬉々としてそれに近寄る。真空達に頼まれたコーラもあるし、深海の大好きなオレンジジュースもある。
鞄の中から財布を取り出し、小銭を投入する。そういえばお金をもらっていないがあの二人は後で返してくれるのだろうかと貧乏性の深海は心配になりながらもボタンを押した。
ガコンと言う音と共にコーラが自動販売機から出てくる。深海はそれを取り出すと、もう一度小銭を投入しようとした。
その時である。誰かがグイッと左腕を掴むのだ。
真空かドラだろうかと思い、振り返るとそこには思った通り真空の姿が――。
「あ、会いたきゃったれす!」
いや、違う。顔は全く同じだが、着ている服も髪型も喋り方も雰囲気も何もかも真空とは違う。同じでも、深海には一瞬で違う人物だということが理解できた。
そしてこれがあの『日笠真空』なのだろうと言うことも。
学生証で見た彼女と同じポニーテールを少し三つ編みでアレンジしたような髪型に覇気のない表情。どう考えてもこの子が『日笠真空』だった。
やはりいたのだ。ドラの言うとおり『日笠真空』は確かに存在していた。誰かのいたずらでもドラの冗談でもない。
『日笠真空』に腕を握られているという事実がそれを証明している。
「か、噛んだ! え、えっとあの! あたあたあたあたあたし……」
噛んだことが相当恥ずかしかったようで、日笠真空は恥ずかしそうに頬を真っ赤に染めながら、目線を逸らした。
そんな表情をされたらドキドキせざるを得ない。あの真空は見せない等身大の女の子のようなその可愛すぎる仕草に深海は抱きしめたい衝動に駆られるが必死にそれを抑える。
「え、えっと君は……」
「喋った! あ、じゃなくて、あの! あたし!」
喋ったとは失礼なと普通の人なら思いそうだが、深海はデレデレした笑顔で日笠真空を見つめていた。
しかしすぐにこれでは駄目だと頭を振って、何とか真剣な顔を保とうとした。あまり保てておらず可笑しな表情になっているのだが、それにも気付かず深海は言う。
「日笠真空……ちゃん?」
「あ、は、はいっ! あの! それで!」
その時、日笠真空が驚いたように大きく目を見開いた。
彼女は深海のすぐ後ろの辺りに、何かまたは誰かを発見したようである。
深海は嫌な予感がして振り返る。もしかしたら真空かもしれない。
『日笠真空』と『月笠真空』が出会えば二人は死ぬ。こうして現実的ではない『日笠真空』が確かに実在していると分かった今、わざわざ二人を会わせるなんてこと深海には出来なかった。
「あれ?」
振り向いた深海の瞳には意外にも真空は映らなかった。その代わり、なんだかこちらを睨みつける一人の少年の姿が目に入った。
色素の薄い髪と水色がかった瞳からハーフだろうかという印象を深海は受けた。彼は漫画やドラマなどで執事が着ている高そうなタキシードを身に着けている。
知り合いなのかと日笠真空に尋ねようと深海は彼女に向き直った。
「えっ、ちょ!」
しかししっかりと向き直る前に日笠真空が走り出してしまったではないか。腕を掴まれている深海はグイッと引っ張られ、一緒に走り出す形になってしまった。
振り払おうには振り払えるし、止めようと思えば止められる。でも必死に走る彼女の後ろ姿を見るととてもそんな気にはなれない。それにここから遠ざかってもらった方が真空とも会う可能性が低くなって好都合である。深海はそのまま日笠真空に付いて行くことに決めた。
深海と日笠真空が走り出すと、こちらを睨みつけていた執事らしき人物も、ものすごい形相で追ってきた。やはり日笠真空は彼に追われていたようだ。
戸縁学園は金持ち学校なので、通っている生徒も金持ち揃いである。日笠真空もきっと社長令嬢か何かだったりするのだろう。もしかしたらお金目立ての誘拐かもしれない。
執事風の青年はどんどん間を詰めてくる。人ごみのおかげでどうにか逃げ切れているが、追いつかれるのも時間の問題だろう。
日笠真空はすごく足が遅かった。しかも走り出してまだ数分も経ってないのにだらしなく口を開け、苦しそうに息をしている。顔は既に汗まみれで酷い顔だ。可愛い顔が台無しである。
深海の良く知っている真空は、運動神経は悪くない。すごく良いわけでもないが、もし百人でマラソンをしたならば、四十番目くらいになるほどの運動神経はあった。だから日笠真空がこうも運動音痴なのは深海にとってとても予想外であった。
「だ、大丈夫?」
「だ、だいじょうぶ……だいじょうぶ……」
深海に返事をしたというよりも自分に言い聞かせるように日笠真空は呟いた。どうやら彼女はまだ頑張る気でいるようだ。
しかし執事風の青年はすぐそこに迫っている。このままでは追いつかれ、捕まってしまう。
仕方ないと深海は小さく呟いた。そして日笠真空の手から逃れるように思い切り左腕を振った。すると思ったよりも簡単に外れた。
いきなり手を振り解かれた彼女は驚いた様子で後ろを振り返る。見捨てられたとでも思ったのだろう。
しかし彼女の瞳に映ったのはしゃがんで後ろに両手を差し出す深海の姿だった。
「乗って。おんぶするから。このままじゃ追いつかれる」
「ええっ!? で、でも! あ、あたしすごい重いよ!」
「良いから!」
深海は半ば無理やり日笠真空をおぶって、また走り出した。執事風の青年が手の届く距離まで迫っていたのだ。間一髪といったところだ。
運動神経だけが自慢の深海は執事風の青年との距離をどんどんと離していく。道を曲がったと見せかけながらまっすぐ進んだり、トラックの後ろに隠れながらやり過ごしたり。運よく向こうが信号に捕まってくれ、差を広げることも出来た。他にも路地裏を通ってみたり、怪しいお店が立ち並ぶ細い道を赤面しながら走り抜けたりした。
そうこうしているうちにいつの間にか彼の姿は見えなくなっていた。しかもビル街を走っていたはずなのに人の少ない河原に出ていた。
地元民ではない深海にはここがどこだか全く分からない。もう少し遠くに走らなければ追いつかれるのだろうかと考えていたら耳元で声がした。聞き慣れているけれど全く違うその声が。
「や、休もう。この辺で。ずっとおんぶしてて疲れたでしょ?」
ゾクリと気持ちのいい寒気を感じ、頬が熱くなる。大好きな幼馴染の声で囁かれるなんてご褒美以外の何物でもなかった。しかもいつもの真空からは聞けない優しくて思いやりのある言葉だ。
むしろずっとおんぶしていたいくらいだよと言いかけて深海はまた正気に戻るのだった。
「や、休もっか! うん、休もう休もう!」
深海がそう言うと日笠真空は嬉しそうに笑った。
深海は名残惜しげに日笠真空を背中から下ろす。そして二人は仲良く川べりに腰掛けたのだった。
「あ、あの……いきなり引っ張っちゃってすみませんでした」
「別にいいよ。びっくりしたけど。あの怖そうな人、誰なんだ?」
「うちの執事です。色々罠を仕掛けて家を抜け出してきたんだけど、あいつにはバレバレだったみたいで……」
誘拐ではなくお嬢様に振り回される可哀想な執事さんだったようだ。
深海は申し訳ない気持ちになるが、今さらどうしようもない。今から戻ってお嬢様を連れてきましたなんて引き渡せるわけもない。大好きな真空と同じ顔のこの子を裏切る気にもなれない。
「あの……名前、聞いても良いですか?」
「あ、うん。俺、波花深海」
「ふ、深海君……でいいのかな」
「良い良い! すごく良い! 他にもふみ君とかふー君とかあなたとかご主人様とか……げほんごほん」
「ご主人様……?」
自らの欲望が爆発しそうになって、深海はいけないいけないと必死に自制した。
「コ、コーラ飲む!?」
「い、良いの? コーラ大好き。ありがとうございます」
深海から差し出されたコーラを受け取り、満面の笑みを浮かべる日笠真空。眩しすぎる笑顔に深海はノックアウト寸前である。
真空が普段深海に見せる笑いと言えば、嘲笑、冷笑、苦笑、高笑い……などなどだ。だけどやはり真空は普通に笑うととても可愛いのである。
「可愛いぃぃぃぃぃ……」
日笠真空から視線を逸らし、声を押し殺しながら深海は叫ぶ。そんな不審な深海を不思議そうな表情で日笠真空は見つめるのだった。
「そ、そうだ! あの、深海君。昨日あたしが深海君のバイト先で預けたお財布なんだけど……今、持ってるかな?」
「へ? あ、預けた? えっと日笠さんが……俺に?」
「え、う、うん? ご、ごめんなさい。深海君に預けてすぐあたし連れてかれちゃったから。ほら、さっきの執事に。あ、あと……ま、真空で良いです……」
最後の方だけもじもじと恥ずかしそうに俯きながら日笠真空は小さく言った。
本当ならまた可愛い表情ゲット!と小躍りしたい深海だったが、今はそれよりも気になることがある。日笠真空は昨日バイト先で深海と出会い、会話を交わし、財布を預かってもらったと言うのだ。
しかし当の本人には全くその記憶はない。財布は鞄の中に入っていたが、それをどこで手に入れたか全く覚えていないのだ。
だから深海になり変わろうとしているドッペルゲンガーが存在するとかどうとかの話になって――。
「俺に、会って……話したの? ひ、日笠さんは……」
「う、うん。あたしが探してる食玩の場所を教えてくれて、小銭を零したら持っててくれるって言って……あ、あれ? 覚えてない?」
日笠真空の言うとおり深海は全く覚えていない。というよりもそれは深海ではない可能性があるのだ。深海ではない誰か、例えば彼のドッペルゲンガーが日笠真空から財布を預かったとかいう可能性が。
こうして『月笠真空』のドッペルゲンガー『日笠真空』は確かに存在していたのだから突拍子のない話ではないはずだ。深海がボケたとかより現実味も信憑性もあるのではないだろうか。
「ちょ、ちょっと待って。もう少し遠くに行ってから話そ。追いついてくるかもしれないし。ちょっと気持ちの整理がつかない……」
そう言って深海は立ち上がる。つられて日笠真空も「うん」と言って立ち上がった。
財布を返してほしいと言うのに誤魔化す人物がいたら間違いなく盗まれるのではないか、または使われたのではないかと考えるだろう。でも日笠真空は違うようだ。
じゃあ次はあたしが深海君をおんぶしようかと両腕を後ろに向けて広げ、おんぶのポーズをして見せた。何とものんきなお嬢様だ。
「見つけた」
その時後ろから良く聞き慣れた彼女の声がした。隣にいる彼女も同じ声の持ち主だがそれとはどこか違う。普通の人が聞いたら同じ声と言うかもしれない。でも深海には分かる。
気の強さを感じさせるまっすぐな声。でもどこか憂いを帯びていて自分が守ってあげたくなるような、深海が恋した愛しい声。
そう、この声は『日笠真空』ではない。『月笠真空』だった。
「えっ?」
自分の声が後ろから聞こえたことに驚き、日笠真空は条件反射のように振り向いた。
深海はすぐに止めなければいけなかった。でももう遅かった。深海が止める前に、もう彼女達はお互いをお互いの瞳で捉えてしまっていた。
まるで時が止まったかのように二人の真空は見つめ合う。月笠真空は不敵に微笑みながら。日笠真空は大きな瞳を更に大きく見開きながら。おそろいの琥珀色の瞳に映るのは、自分自身の姿だった。
まるで鏡のようだ。でも違う。これは鏡ではない。確かに『月笠真空』も『日笠真空』もそこに存在しているのだ。どちらの真空にも触れたことのある深海には分かる。幻でも夢でもない。この世界に、真空が二人いる。
五時のチャイムが流れている。チャイムが鳴ったら帰ってくるのよと言われた小学生達がそろそろ帰り支度を始める頃だろうか。
夕日がお互いを見つめる真空達を照らしている。そんないつもと変わらない夕焼け空の下で真空と真空は出会ってしまった。
「うっ……」
瞬間、時が動き出す。二人の真空が小さく呻き声を上げて、地面に崩れ落ちた。そして二人とも両手で胸を押さえて苦しそうに息を荒げだした。触りたくなるくらい柔らかそうで血色のいい肌が、一瞬にして土気色に染まる。どんどんと二人の息は荒くなっていく。
深海はその時、確信した。二人は死ぬ。このままでは死んでしまう。どうにかしなければならないことは分かっているのだけれど、恐怖で足が動かない。がくがくと足が震え、全身が震え、一歩踏み出そうにも体が言うことを聞かない。その間にも二人の真空はどんどんと弱っていくのが目に見えて分かった。
助けなければと言う気持ちと自分に何が出来るという気持ちが深海の心の中で葛藤する。
どうしていいか分からず、怯え、立ちすくむ深海の耳に届いたのは大好きな幼馴染の声だった。
「ふか……み……」
深海に助けを求めるようなその弱弱しい真空の声に、ハッと我に返った。
いつも強気な彼女が自分に助けを求めている。それなのに自分はここで怯え、何もせずに突っ立っている。自分には何も出来ないと震えているだけじゃ大切なものなんて守れない。何も出来ないんじゃなくて、何か出来ることを探さなければ。
深海は震える足にグッと力を入れ、一歩踏み出した――。
「これで分かったでしょう?」
「朝凪も良く見ておけ」
深海が踏み出すよりも先に真空を抱き起こしたのはドラだった。日笠真空の方も、誰かは分からないが白衣を着た眼鏡の黒髪男性が支えてくれている。
そしてもう一人、気が動転していた深海は全く気が付かなかったがいつの間にかさっきの執事がそこにいた。
執事は日笠真空とそれを支える黒髪の男性の隣にしゃがみ込み、その男性の襟元を荒々しく掴んだ。
「どういうことだ、クソ教師」
クソ教師と言われたその男性の眼鏡があまりの勢いにずれてしまう。男性はやれやれとめんどくさそうにずれた眼鏡を直した。
それが更に執事の怒りを増幅させたのか、今にも殴りかかりそうな形相で彼は叫ぶ。
「どういうことだって聞いてんだ!」
あまりの気迫に、自分に言われたわけではないのに深海はびくりとしてしまった。
見た目は落ち着いたハーフの執事さんといった感じなのだが、中身はヤンキーのようだ。
見た目だけヤンキーで中身は気弱な少年の深海とは全くの正反対である。
「ま、まあ、落ち着け。オレ、殴って停学とか残念でならないだろ? で、持ってきた?」
「はい、確かに。どうぞ」
男性の最後の言葉はドラに向けられたものだった。ドラはポケットから小さな箱を取り出すとその中から黄色い宝石のようなものを二つ摘み上げた。そしてその一つを、執事に襟元を掴まれ首の締まりかけた男性に手渡した。
一体何なのだろう。突然の出来事に踏み出した足が止まっていた深海は、やっとそこで真空の近くにしゃがみ込んだ。
ドラは隣にしゃがんだ深海ににっこりと笑いかけ、すぐに真空に視線を戻した。
真空はいまだに荒い息をして、右手で胸の辺りを苦しそうに押さえている。額には汗が滲み、全く生気が感じられない顔色だ。
死にそうな真空を近くで目の当たりにし、深海はまた先程のような強い恐怖を感じた。
「大丈夫ですよ」
ドラはそう言うとすぐにその黄色い宝石のようなものを真空の口元に近づけた。口を開けるようドラが言うと真空は大人しく開いた。
そしてまさかとは思ったが、ドラはなんと真空の口にその宝石を放り込んだではないか。
するとどうだろう。
「あ……あれ?」
みるみるうちに真空の顔色がいつも通りのほんのりピンク色に変わっていく。苦しさも治まったようで大きな目をぱちくりさせてドラと深海の顔を交互に見やった。
いつもの真空だった。いつもの強気で非現実なことが嫌いで自分のことを下僕のように扱ってくるけれどそれでも大好きな真空だ。
深海は感極まってドラから真空を奪うように、思い切り抱きしめてしまった。
「真空! 良かった! 本当に良かった!」
「ちょちょちょちょっと! どどどういうつもりよ! どこ触ってんの! 変態かっ!」
バシーンと真空のビンタが深海の頬にクリーンヒットした。
流石の真空も抱き締められるのは恥ずかしかったのか、顔を林檎みたいに真っ赤に染めている。先程見た土気色の顔をした彼女の姿なんか想像出来ないほど元気でいつも通りだ。
頬の痛みも真空が元気な証だと思えば全く痛くない。
「元気ですねー、真空は」
「げ、元気よ! ねえ、ドラさん! あたしに何飲ませたの?」
「そうですね、その話は月笠真空の家でしましょうか。当然、そこの日笠真空も一緒に」
見ると、日笠の方の真空も黒髪の男性から先程の黄色い宝石を飲ませてもらったようで何が起こったか分からなそうにきょとんとしていた。
「はあ? 何であたしの家なのよ!? 絶対嫌よ!」
しかし真空の訴えは却下というより完全にスルーされ、深海と二人の真空+三人は彼女の家に向かうこととなったのだった。
真空の家はごくごく普通の一軒家であった。洗濯物が干せるくらいの小さな庭には赤い犬小屋があり、真っ白な毛並みの良い犬が気持ちよさそうに寝息を立てていた。
「散らかってるけどどうぞ」
そう言って真空はチャイムを押そうとした。しかし彼女はあることに気が付いたようで、苦笑いを浮かべながらみんなの方に振り返った。
「あれ、ちょっと待って。あたしは鍵を持ってないからチャイムを押すんだけど。チャイムを押したら妹が出てくるのね。そして妹が出てくると妹はあたしが二人いることに気付くわけよ……駄目じゃない?」
「だ、駄目だな」
「だ、駄目だね」
「何で鍵持ってねえんだ、馬鹿かお前」
深海と日笠真空の同意の後に執事の棘のある一言が飛んできた。ムカつくやつだ、と深海と真空は誰もが分かるように眉間に皺を寄せるのであった。
「あんたちょっとその辺で待っててくれる?」
「え、は、はい。待ってます……」
どうやら日笠真空だけ外で待機させ、妹がいなくなった後に家に入れる作戦のようだ。
深海は壁を登って二階の窓から侵入とか、妹を手刀で気絶させるとか、真空だけ一度家に入り、睡眠薬を盛って寝たのを見計らってみんなで入るとか考えていたのだが、真空の作戦を聞いてから自分の作戦の馬鹿さ加減が恥ずかしくなるのだった。
「じゃ、行くわよ」
真空はピンポーンと勢いよくチャイムを押した。すると家の奥の方から玄関に向かって走る音が聞こえ、次の瞬間にはガチャリとドアが開いた。
「空姉おかえり!」
「ただいま、愛」
釣り目の真空とは対照的な真ん丸としたたれ目が可愛いセーラー服の少女が優しげな笑顔で迎えてくれた。
彼女は月笠真愛、真空の妹である。真空とおそろいの繊細だが少し重苦しい印象を与えがちな漆黒の髪が血の繋がりを強く感じさせてくれる。だが真空みたいに長くは伸ばしておらず肩まできれいに切りそろえている分、軽い印象を受けた。
「それにふみ兄に……えっと他の皆さんもいらっしゃいませ!」
真空ですらほとんど知らない人間を当然真愛が知っているわけもなく、名前が分からないのでとりあえず深海と一緒に挨拶をしておいたという感じだろう。
「この人は銅鑼れもんさん。クラスメイトの変な人よ」
「変な人って酷いです、真空!」
「ドラさん? 素敵な名前ですね!」
銅鑼れもんと聞けば誰もが初めにあの猫型ロボットを思い出し驚くと言うのに彼女は全く気にしていない様子だ。というよりも気付いていないのかもしれない。
「ありがとうございます! こっちは知り合いの変態教師、紫蘇野マスオとその教え子の朝凪光輝君です!」
そこで深海、真空、そして光輝の三人が同時に「え?」と素っ頓狂な声を上げた。
深海と真空の驚きは某国民的アニメの登場人物のような名前についてなのだが、光輝の驚きは少し違っているようだった。
「変態教師とか有り得ないんですけどー、マジさげー」とか言ってドラに抗議している変態教師は放っておこう。
「そうなんですか! 紫蘇野先生に朝凪さんですね! 私は月笠真空の妹、真愛と申します。姉がお世話になっております」
その時、また光輝は「え?」と同じような素っ頓狂な声を上げた。真愛の言葉に驚く要素はなかったように感じるが、彼は一体どこで驚いたのだろうか。
「全くお世話になってないから良いのよ。もう挨拶は良いから晩御飯の用意お願いね」
「うん、分かった。あ、風真が二面進めないーって泣いてたから後でやってあげてね」
風真は真空の小学三年生の弟である。もう一人小学二年生の妹真白がおり、月笠家は四人姉弟なのである。
「二面くらいで手こずるとか! もうちょっと頑張れって言っといて!」
「了解!」
真空に向けて可愛らしくピースをしてから真愛はリビングの方へと消えたのだった。
これでやっと日笠真空を家に上がらせることが出来る。深海が「もう入っていいよ」と小声で伝えると、日笠真空は泣きそうな声で「怖かった……」と呟いたのだった。
どうやら近所のおばさんに「真空ちゃん、そんなところでどうしたの? あ、眼鏡似合ってるね。でも目悪かったっけ? そうそう、おばちゃんこれ渡しに来たの。コロッケいっぱい作ったから良かったらみんなで食べてね」などと話しかけられていたらしい。手にはコロッケの入ったタッパーがしっかりと握られていた。
「あー、おばちゃん来てくれたんだ!」
「ちゃ、ちゃんとお礼は……一応……多分……きっと……言いました……」
「……はっきりしないけどまあ、ありがとね」
感謝されたのがよっぽど嬉しかったのか、暗かった日笠真空の表情がパッと一気に明るくなった。まるで花が開いたかのような可憐な表情に、深海はまたまたノックアウトされそうになるのだった。
ミッションコンプリートで和やかムードが漂い始めたそんな時。
「空姉、聞き忘れてた! お菓子か何か持っていこうか?」
真愛が瞬きをしたほんの一瞬の出来事だった。真愛に日笠真空の存在がばれてはいけないとみんなが思い、守らなければと言う感情が一つになった。
「みなさん、何してるんですか?」
真愛の疑問はもっともだろう。だって玄関で、何故かみんなで円陣を組んでいるのだから。体育祭や文化祭の始まる前とかにみんなの心を一つにして頑張ろうと言う意味で行われることは多い。そういう場面では良く目にする光景である。
しかし玄関で円陣を組むことなんてそうそうあることだろうか。いや多分ほとんどないだろう。
先程まで普通にしていたはずなのに、瞬きをした次の瞬間にはみんな円陣を組んでいるなんていう異様な体験は真愛も初めてだっただろう。
「ちょっと友情を深め合ってるのよ! 深め合いならに深海合いー! なんちゃって!」
「あはは、真空それかなり面白いな! 大爆笑だぜ、はっはっは!」
「真空は天才ですか! 天才ですね!」
みんなが円陣を組んだそのちょうど真ん中に日笠真空がいる。上から見られなければ多分ばれない。足の数が多いけどきっとばれない。ばれないでほしい。
全員が同じことを願う。そしてその願いが神様に届いたのか
「そっかあ、仲良しなんだね」
真愛はあっけらかんとして言った。何故いきなり友情を深め合い始めたのかとかそういうところに深くは突っ込まないでくれるようだ。
何と優しい子なのだろう。相手の気持ちを汲み取れる、出来た子なのだろう。ただの馬鹿という線も捨てきれなくはないけれど、真空の妹だしあまりその線は考えたくない。
「そう、仲良し仲良し! あとお菓子の件についてだけど後で深海が取りに行くから!」
「そうそう、俺が……ってあれえ!?」
「うん、分かった! じゃあ用意しとくね!」
真愛はそう言って笑顔でリビングへ去っていった。とりあえず危機は脱したようである。
もっと上手い言い訳とか、上手い隠し方があった気がしないでもないが、それについては考えないことにしよう。
よっぽど自分のダジャレが恥ずかしかったのか真空がさっきから「深め合いならぬ深海合いって何よ……面白すぎ……ふふふふふ」と変な笑い声を上げているがそれについても触れないであげた方が良さそうである。
「さっきのダジャレ、センスないな」
しれっとした態度で、沈んでいる真空に追い打ちをかけたのは言わずもがな光輝であった。こんなにムカつくやつは初めてだと深海は思ったのだった。
「早速聞かせてもらおうかしら。銅鑼れもんさんに……紫蘇野マスオさん? ……ぶふっ」
すっかり気を取り直した真空が二人にそう告げた。
最初は真剣な面持ちだったが、『銅鑼れもん・紫蘇野マスオ』と言うおかしな名前の並びに最後の最後で吹き出してしまったようだ。
真空の部屋は一見普通の女子高生と変わらない部屋だった。きっちりと片付いていて彼女の好きなピンク色のグッズで統一されたなんの変哲もない部屋だ。
しかしそれは半分だけ。真空の部屋はドアから真ん中、真ん中から奥、という具合に分かれている。ドア側の方は誰もが想像する女の子の部屋そのものだった。
しかし真ん中から奥がおかしかった。何というか、危険だった。ドア側を花の女子高生の部屋と称するなら、奥はウホッ筋肉だらけのオタク部屋ポロリもあるよ、だった。
ガラス戸のついたシンプルな棚の上には屈強な男と女。ムキムキマッチョという言葉がぴったりなフィギュアの数々が並んでいるのだ。それらはアメリカンコミックのヒーローだったり、格闘ゲームのキャラクターだったりした。そのフィギュアのどれもがファイティングポーズをとっており、夜になったら動き出して攻撃を仕掛けてくるのではないかとバカな想像をしてしまうほどリアルだった。
他にも色々な棚があり、ゲームの棚、DVD・BDの棚、漫画の棚など綺麗に仕分けしてあった。
そう、月笠真空は結構濃い部類のコレクターだった。特にゲームが大好きで、暇さえあればやっている。一度やったゲームでも色々な縛りを自分で決めて、何度も何度も繰り返す。自宅警備員並みにゲームに情熱を注ぎ続ける女子高生なのだった。
そんな真空の部屋の、花の女子高生側の丸い机を、それぞれ座りやすい座り方で囲んでいた。
日笠真空や光輝は奥の圧倒的存在感に押されているが、深海は何度も来たことがあるのでむしろ落ち着く部屋なのだった。
「えーっと……まずは改めて自己紹介でも……」
「そうね。あたしは月笠真空。よろしく」
またしても光輝が驚きの声を上げた。彼は一体何に驚いているのだろう。謎である。
とりあえず光輝のことは放っておいて、自己紹介を進めていく。
「俺は真空の幼馴染で彼氏の波花深海です!」
「ええっ!?」
何故か日笠真空が顔を真っ赤にして驚く。
「あんたいつからあたしの彼氏になったのよ!」
怒りの真空が右手で深海の両頬を掴む。掴まれた深海はタコみたいな口になりながらもごもご言うしかなかった。謝ろうにも謝れない。
「あのさ、もしかして君……泣き虫ふみちゃん?」
紫蘇野がおずおずと自信のなさそうな表情で挙手しながらそう言った。
泣き虫ふみちゃん。それは深海の黒歴史。幼い頃いつもいじめっ子にいじめられ、泣いていたことからそのあだ名が付いた。深海にとってはあまり思い出したくない苦い記憶なのだった。
「ななな、なんでそのあだ名! もう忘れてたのに!」
「あの頃は何度も助けてあげたわね。懐かしいわ」
「お世話になりましたです……真空すっごいかっこよかったです……」
「じゃあやっぱり泣き虫ふみちゃん!? いやー見違えたなー! 全然気づかなかった!」
久しぶりに親戚の家に行っておじちゃんおばちゃんに大きくなったねーと言われる時の何とも言えない気恥ずかしさを感じる深海だった。
「あなた何年前から報告書読んでないんですか! 一週間ごとに送ってますよね!」
「え、いや読んでるよ、報告書。うん、ちゃんと読んでるしー! 人疑うとかありえないんですけどー」
「あなたからの報告書はいつも異常なしじゃないですか! ちゃんとして下さいよ!」
「ちゃんとしてますー。異常なしだから異常なしって書いたんですー」
小学生の言い訳みたいだ。
それにしても、どうやら二人の会話からして真空の周辺のことは報告書に纏めてお互いやり取りをする約束だったようだ。紫蘇野の方は何年も前から読んでいないようだし、自分の報告書も適当のようだが。
本当に彼らは何者なのだろう。しかしその辺りの核心めいたところは後回しにし、自己紹介を続ける。
「あ、オレは紫蘇野マスオね。戸縁学園で教師やってるよ。ちなみに本名ではないから。こいつがこの名前にしろってうるさくて……」
「良い名前でしょう! ボクは銅鑼れもんです! ボクのも本名じゃないです。尊敬するドラえもんさんから拝借させていただきました! お気に入りの名前です!」
本名じゃなかったのかと深海を含む四人はほぼ同時に思ったことであろう。
やはりわざと国民的アニメのキャラクターに似せていたようだ。親に可哀想な名前を付けられ、生まれた時からからかわれる要素を背負って生きてきた「銅鑼れもん」も「紫蘇野マスオ」もいなかったということが分かっただけで大きな収穫かもしれない。
「でもドラさん。マスオさんの苗字ってフグ田よ? なんで磯野をもじった感じになってるの?」
「え? え? マ、マスオさん、磯野じゃないんですか……?」
「ええ」
それを聞き、ドラは顔を真っ赤にして紫蘇野の肩を掴んだ。そして近所迷惑になり兼ねないほどの大声で叫んだ。
「改名しましょう! 今すぐ! 今すぐにー!」
「いや、今からは流石に無理だろ! オレ紫蘇野で通ってるもん!」
「にわかファンだと思われますー! やだー!」
「お前がオレの名前つけたってこいつら以外は誰も知らないんだから別に良いじゃん!」
「あ、それもそうですね」
にわかファンだと他の人間に思われなければどうでも良いらしく、ドラは大人しくなった。扱いやすいのか扱いにくいのか、良く分からない子である。
「で、本名は教えてくれないの?」
「ああ、教えたくてもボクらも分からないんですよ。……次、真空どうぞ!」
やはりこの二人の正体に興味が湧く。でも今は自己紹介が全て終わっていない。数々の謎は後でドラ達がきちんと説明してくれるだろう。……多分。
「は、はいっ! 日笠真空でしゅ! よろしくおにゃがいしましゅ!」
「日笠も先生の噛み噛みの呪いがかかったか……」
「紫蘇野先生ぇ」
涙目になりながら紫蘇野に抱きつく日笠真空。そしてそれを無理やり引き剥がし、紫蘇野を睨み付ける光輝。何とも言えない複雑な表情を浮かべる紫蘇野。
三人の関係がとても良く分かる一場面だった。
「俺はこの馬鹿の幼馴染で執事の朝凪光輝だ。ところでドラとか言うやつがオレの名前を知っていたことも気になるが……名前が一緒ってことは、お前は真空の生き別れた双子の姉じゃねえのか?」
光輝の二つの驚きはそういうことだったのだ。
一つ目は知り合いではないドラが自分の名前を知っていたこと。もう一つが月笠真空に関すること。
光輝は真空を見て、日笠真空の双子の姉だと思った。しかし下の名前が同じだと知って違和感を覚えたのだろう。まあ普通なら双子と勘違いするだろうし、光輝が間違えたのも無理はない。
「あたしは……双子とかそんなのじゃないって会った瞬間感じた。多分あなたはあたしであたしはあなたなんだと思う。で、ですよね……?」
日笠真空の方は直観的に『月笠真空』が自分だということを感じ取っていたようだ。
深海達は事前にドラから少しだけ話を聞いていたが、この二人は全く情報がない状態だったみたいである。どうやら一から説明する必要があるらしい。
「らしいわ。あたしはあなたのドッペルゲンガーであなたもあたしのドッペルゲンガー」
「ドッペルゲンガー……。そうなんだ……」
「ドッペルゲンガー? それ本気で言ってんのか? あんなの空想上のもんだろ?」
光輝が失笑した。信じられないのも無理はない。深海だって真空本人だって信じられなかったのだから。
でもドラの言った通りに出会った瞬間死にそうになった真空の姿を見てしまったため、それが嘘とはどうしても思えなかった。
「死にそうな真空をあなたは見たでしょう? あれが真実です。ドッペルゲンガーに出会うと死ぬ。そしてその出会いは他人がどれだけ妨害しても避けられないのです」
「は、はあ? そんなこと――」
「命に関わる問題なんだ。先に進むぞ」
紫蘇野の言う通りこれではいつまで経っても深い話が出来ない。真空達の命がかかっているかもしれないのだ。命の危険は去っていない。今は信じて二人の話を聞く他ない。
光輝はチッと舌打ちをしつつも、それ以上何も言わなかった。
「単刀直入に言いますね。あなた達はこのままでは近いうちに二人とも死んでしまいます。でもどちらかが犠牲になればどちらかは今まで通りの生活を送ることが出来ます。なのでどちらが犠牲になるかを決めます」
「何それ……。あたしとこの子、どちらかが犠牲に……?」
「嘘……」
深海は何も言葉を発することが出来なかった。このまま何もしなければ二人は死んでしまう。それを阻止するためにはどちらかが犠牲になるしかない。
つまり『月笠真空』、『日笠真空』のどちらかが死ななければならないのだ。
死ぬということは二度と会えないということ。二度と話したり笑い合ったり出来ないと言うことだ。
「なら真空の代わりにお前が死ね」
光輝が真空に向かって言い放つ。
その瞬間、深海は言葉よりも先に手が出てしまった。こんなに思い切り人を殴ったのは初めてかもしれない。それくらい思い切り光輝の頬を殴りつけていた。
荒々しく口元の血を拭いながら、光輝は深海を野獣のような目で睨みつける。
しかし深海は一歩も引かずに怒鳴りつけた。
「許さねえ! 何なんだよ、お前! 真空のことなんだと思ってんだ! こっちの真空だって日笠さんと同じように生きてるんだぞ! 大切に思ってる人がいるんだぞ! それなのに死ねって! お前どういう性格してんだ!?」
「俺はそっちの真空は知らねえ。こっちの真空は旦那様の大事な娘だ。俺はこっちが生きてればいいんだよ」
「お前っ!?」
また殴りかかろうとした深海の腕を真空が掴んだ。深海は何故止められるのか分からなかった。今すぐにでもこいつをボコボコにしてやりたかった。
でも真空が止めるのに、それを振り解いてまでという気持ちはない。大人しく振り上げた腕を下ろした。
「すごいムカつくけど、まあこいつの言い分も分からないでもない。でもこれはあたし達の問題よ。あんたに死ねとか言われる筋合いはないし、深海がそいつを殴る必要もないわ」
「そ、そうだよ。光輝には関係ない。酷いこと言わないで……」
二人の真空にそう言われてしまうと深海も光輝もそれ以上何も言えなくなってしまった。
そう、これは真空達の問題であって外野がとやかく言う必要はないのだ。
それは分かっているのだが、深海はずっと心に引っかかっていた。自分が真空に財布を見せてしまったこと。そしてそれが二人の出会うきっかけになってしまったことが。
「気を取り直して、同じ真空じゃ呼びにくいわね。日笠だから、ひぃって呼ぶわ」
「え、えっと! じゃあつぅちゃん、かな?」
「何か二番手っぽくて気に入らないかも」
「じゃ、じゃあ……つっきーはどうかな!」
「ま、それでいいや。よろしくね」
嬉しそうに「よろしく」と返事をする日笠真空、改めひぃ。仲良くなってもあまり長くは一緒にいられないだろうことを考えると何だか深海は切なくなった。
顔も声も名前も一緒でも二人は違う。性格も仕草も表情も、過ごしてきた場所も周りの人間も。
それなのにどちらかが犠牲になってどちらかが真空として生きていくなんてそんな酷なことが他にあるだろうか。
「で、ドラさん。あたしとひぃで話し合って決めろと?」
「いいえ。あと一か月二人にはこれを肌身離さず付けていてもらいます」
ドラが取り出したのは先程真空達に飲ませたものと良く似た黄色い宝石のペンダントだった。
受け取った二人はその宝石をマジマジと見つめる。ひぃがすぐに何かを見つけ、学校の授業のように挙手をして言った。
「あの、何か虫が入ってるような……」
「ええ。それは琥珀です。琥珀には強い生命のパワーが宿っていまして、特に虫入りはそのパワーが強いんです」
「もしかしてさっき食べたのもこれじゃないわよね!?」
「あれは同じ力を宿したただの琥珀飴です。甘かったでしょう?」
しかし二人は同時に首を傾げた。あの時の二人は噛み砕く余裕も味わう時間もなかったはずだ。味なんて分からなかったのも当然だろう。
美味しいのにとドラは残念そうな表情を浮かべたが、すぐに気を取り直して話を始めた。
「説明しておきます。まず、二人はどちらかのコピーとかそういうのではなく一人一人が真空という存在なのです」
真空の大嫌いな非現実的な話である。普段の彼女なら笑い飛ばしてきっと信じないであろう。しかし今はどんなに非現実的な話でもドラの言うことは本当だと信じざるを得ない。
「人には元々寿命というものがあって例えば深海の寿命は深海だけのものでこの世界には一つしかありません。しかしあなた達の場合、真空の寿命という全く同じものが二つ存在してしまっているのです」
つまり図にするとこう言うことです、とドラは自分の鞄から授業のノートを取り出しお絵かきを始めた。
どんな分かりやすい図を描いてくれるのだろうかとみんなは期待したが幼稚園児の落書きみたいなものだったのでそれぞれ愛想笑いしてスルーした。
「寿命が縮むと言えば例えばどんな時でしょうか、深海君!」
「え!? えーっと……驚いた時とか怖かった時、とか?」
光輝に馬鹿かお前は、みたいな目で見られたが深海はこれしか思いつかなかったのだから仕方ない。恥ずかしくて少し俯き気味になったが、ドラの言葉で形勢が逆転した。
「正解です。人の寿命は驚くと縮んでしまいます。あ、でも普通の日常生活での驚きなんてたいしたことはありませんので縮みません。ご心配なく。でももう一人の自分と出会うことは寿命にとっても大きな驚きなのです。寿命はもう一人の自分と出会うとパニック状態に陥り、どんどん縮んでいきます。そしていずれは尽きてしまい、死に至るというわけですね」
「パニックを抑えるのがその琥珀な。そしてこの世界に不必要な方の琥珀は今日からきっかり一か月後に割れ、死ぬことになる。今日から一か月……つまり十月二十一日の五時だな。あとおすすめはしないがもちろん自分の命を相手に譲ると言うのなら一か月を待たずとも勝手に死んでくれても構わない。自分の人生は自分で決めろってことだ」
「そういうわけです。決めるのはボクらではありません。あなた達自身です。あなた達自身がどうやって生きてきたか、そしてこれから一か月どう生きるのかです。悲観せず、懸命に生きて下さい。死んでしまいたいなんて決して思わないで下さい」
とても信じ難い話だった。でもドラも紫蘇野も真剣だった。
「一か月を懸命に生きる事しか出来ないの? 二人が生き残る方法は絶対に無いの?」
「これを言うと変な期待をさせてしまうのであまり言いたくなかったのですが、あるにはあるみたいです。でもまだ良く分かってなくて……」
「やり方は分からないけど可能性はあるってことね」
「はい。でもどちらにせよ大事なのは一か月を一生懸命生きること。死にたいなんて思っちゃいけない。最後まで自分は生き残るんだという気持ちを捨てないこと、です。諦めた方が死ぬと考えて頂いても構わないと思います」
つまり二人ともが生き残ることが出来る可能性はゼロではないということらしい。希望の光が見えてきて、深海は少しだけ気が楽になるのだった。
「ボクらは少しでも二人が普通の生活を送れるようにと見守ってきました。本当は、二人が惹き合わないようにしていたんです。真空の周辺の人間も、もう一人の真空には出会えないようになっていた。でも最近おかしい。本当は深海と日笠真空が出会えるはずがないんです。なのに出会ってる……おかしい。本当におかしい。どうなってるんでしょう……」
途中からドラは独り言のようにブツブツと言い始めた。最初は明らかにこちらに話しかけていたはずなのに、だ。
おかしいおかしいと呪文のように唱える彼女が何だか恐ろしくて深海は寒気を感じた。まだ何か起こるのではないかという嫌な予感がする。
そういえば深海の失われた記憶については何も解決していない。誰が深海の記憶を消したのか、または誰が彼になりきっているのか。
深海とひぃが出会うのは予想外の出来事だと言っているドラは何も知らない可能性が高そうだが、聞いてみる価値はあるだろう。
深海が口を開こうとしたその時、突然ドラが立ち上がった。
「ボクもう少し調べてきます! 気になって仕方ありません! 行きますよ!」
「いや、待て! まだ話が終わってなくね? ちょ、離せー!」
「ドラさん!?」
何かを思い立ったドラは紫蘇野を連れて階段を駆け下り、大きな声でお邪魔しましたと言うと、そのまま出て行ってしまった。
誰もがまだ話を聞きたかった。だから止めたかったのだがそんな暇もなく去っていった。
これで事情を良く知る者はいなくなってしまった。これから一体どうすればいいのだろう。どちらが犠牲になるか、会議でもしろというのだろうか。
「もうちょっと詳しい話を聞きたかった」
「ま、どうせクラスで会うんじゃない?」
「紫蘇野先生も担任だし……きっと……」
そうそうと言って真空はため息を吐いた。余裕な素振りをしているが彼女が一番辛いのだろう。そしてひぃもちゃんと理解出来ていないのかもしれないが同じくらい辛いのは確かだ。
自分か相手のどちらかが死んでしまう。誰しも死にたくはないだろうし、だからと言って人を犠牲にしてまで生きたいかと言えばそれも難しいところだ。小さな希望はあるが期待し過ぎることも出来ない。深海なら恐ろしくて何日もふさぎ込んでいる自信があった。
でも流石真空であった。ひぃも気が弱そうに見えて芯はしっかりとしているようだ。
「あたしはとりあえずお互いの生活を交換してみたらどうかなと思うんだけど」
「あたしがつっきーになって、つっきーがあたしになるってこと?」
「イエス。あと一か月の命かもしれないんだもん。あたしはこの状況を十分に楽しみたいなと思うの。それに精一杯生きろってそういうことじゃない?」
「そう、だね……あたしも賛成」
真空の言葉で深海は胸がすごく苦しくなった。あと一か月の命かもしれないなんて、そんなこと冗談でも言わないでほしかった。
でもこれは冗談でも何でもない。事実である。生き残れるか生き残れないか、それは深海がどうにか出来る事ではないが、少しでも力になりたいとそう思った。
「というわけだから、深海。ひぃのこと、よろしくね! 特別に世界一周旅行中のパパとママの部屋使っていいから一緒にいて色々教えてあげて」
「ええっ!?」
真空の突然の提案に、深海とひぃは同時に驚いた。ひぃは顔を真っ赤にして、少しだけ嬉しそうである。
深海も真空の家に泊まるのは嬉しいが、真空がいないのならあまり意味がない。一応真空はいるにはいるのだが違う真空だ。
「じゃ、じゃあ光輝! つっきーに色々教えてあげてね!」
「ホントにやんのか、入れ替わり……」
「そうだよ、ホントにやるの!? そんなことより生き残る方法考えるとかさ! それに真空! 今週末学園祭だぜ!? それにテストも修学旅行もあるし……」
「あーそうだったわねー。とりあえず学園祭は遊びに来るわ」
何だかとんでもない話になってしまった気がする。
『月笠真空』と『日笠真空』が一か月間入れ替わって生活する。顔と声は全く同じの二人だが、性格は全く違う。果たして上手くやっていけるのだろうか。
「制服と私服交換するから男共は出てって」
「み、見ちゃ駄目だよ?」
深海も光輝もあまり乗り気ではないのだが、当の本人たちはノリノリのようだ。
「それじゃ頼んだわよ、深海! 期待してるからね?」
「真空にそこまで言われたら頑張るしかないな」
「それじゃ頼んだよ、光輝! 期待してるからね?」
「舐めてんのか、お前」
真空の真似っこをしてみたひぃだったが、深海とは全然違う光輝の反応にブスッと膨れっ面になるのだった。
洋服も髪型も交換したため、これで入れ替わりの準備は万端である。真空はいくつか大切なものを鞄に詰めると立ち上がった。真空は今から『日笠真空』だ。
「その辺のゲームとか漫画とか、綺麗に扱うなら自由に楽しんでくれて良いからね。でもあたしのデータだけは触らないこと。あと服も箪笥から適当に出して着てくれて良いから」
「あ、あたしの方もそれで大丈夫。あ、あとつっき――」
「オッケー。じゃ、行きましょうか。光輝」
ニヤリと不敵な笑みを浮かべつつ、光輝の部分だけ強調して真空はそう言った。光輝は心底嫌そうな顔をしている。ひぃが何か言いかけた気もするが、真空は気付かずに自分の部屋を後にした。
万が一妹弟達に出会ってはいけないので、深海と真空と光輝だけが一階へと降りる。ひぃは部屋で待機だ。真空とひぃはなるべく一緒にいない方が良い。
玄関で真空は自分の靴ではなく、ひぃのブランドもののリボンが可愛い黒の靴を履いた。
「じゃ、ホントよろしくね。また学園祭の時に会いに来るから」
「真空に会えないと寂しくて死んじゃうかもしれない」
「そんなことないくせに。それにいるじゃない、ここにも真空が。じゃあね」
深海と真空の会話が終わるのを見計らって光輝が一言。
「うちのお嬢様に何かあったら容赦しねえからな、頭爆発男」
「なっ!? 頭爆発!? じゃあお前は……」
とその時、真愛の「お客さん帰るの?」という声が奥から聞こえた。玄関までやってくるのも時間の問題だ。
光輝だけ短くお邪魔しましたと言うとそのまま彼女がやってくる前に二人は月笠家を後にしたのだった。
これでこの家に残されたのは偽月笠真空とサポーター深海。ちゃんとやっていけるのか不安でいっぱいだ。
「あれ? ふみ兄だけ? ふみ兄、帰るの?」
「あのー何日かお泊りしてもよろしいですかね」
「ふみ兄お泊り? やったー!」
「こいつ、提灯闇夜な。すっげえ変わってるけど真空の親友。真空が良く絡むのはこいつくらいだからこいつに注意しとけば後は適当にやってもバレないと思う。呼び方は闇夜な」
「さげあかやみよさん、と……」
深海は自分のスマートフォンから画像を探して、真空に関係がありそうな人物をどんどんと上げていった。真空の写真は良く撮っているのでいつも一緒にいる闇夜を見つけるのは容易だった。
ひぃは深海に言われたことを次々とノートにメモしていく。明日も普通に学校があるので今のうちに対策を練っておかなければならないのだ。
こんな大人しい感じのひぃが真空を演じきれるかは謎だが、深海は真空に言われたからには全力でサポートしてあげる気持ちでいた。
「で、こいつが俺らの幼馴染の芽吹大地。いっつも大地君って呼んでるな。良いやつだし悔しいけどサッカー部のエースでイケメンだからすげえモテる。でも提灯のこと好きっぽいから好きにならない方が良いよ」
「ほ、ほう。え、えと……ふ、深海君はつっきーと付き合ってるの、かな?」
「あーあれただの冗談だよ。絶対ないから。俺、一回振られてるし」
そう、深海は中学の時に一度思い切って真空に告白したことがあるのだ。精一杯勇気を振り絞って泣きそうになりながらも何とか告白することが出来た。
でも真空は返事をくれなかった。「そういうのやめない?」と言われ、そのまま話を流されてしまったのだ。深海の精一杯の告白はそんな悲しい結果で幕を閉じたのだった。
それでも真空のことはまだ好きだ。でもあの日から深海は本気の告白が出来なくなっていた。また流されるのが怖くて、冗談めかすことしか出来なくなってしまったのだ。
「そ、そうなの? で、でもまだ好き、なの?」
「え? いや、そんなことないよ。幼馴染としては好きだけどさ」
まだ好きだという気持ちは誰にも話していない。真空本人にも今は好きな人はいないと伝えている。真空はきっと自分のことは諦めてくれたんだとホッとしているだろう。
このまま伝えられなくても良いと深海は思っていた。真空のことは好きだが、真空を嫌な気持ちにさせるくらいなら自分の気持ちなんてどうでも良いと。
「そ、そっか……」
何だか少し嬉しそうにメモしたような気がするのは気のせいだろうか。もしメモしたなら恥ずかしいので消してもらいたいなと深海は思うのだった。
しかし覗こうとするとひぃにノートを隠されるので確認は出来なかった。
「あと提灯のことなんだけど、あいついっつも学校遅れてくるからまあ適当に『あんたまた遅れてきたのー? 懲りないわね』くらい言っといたら良いと思う」
「な、難易度高いなあ……」
深海の渾身のモノマネはスルーされてしまった。
それは置いておいて、やはり温和な彼女が気の強い真空に完璧になりきるのは無理があるかもしれない。深海は男なので常にひぃと一緒にいることは不可能だ。でも闇夜ならずっと一緒にいられるし力になってくれるのではないかと思った。信じてくれるかは分からないので慎重に行く必要はありそうだが。
「あんたまたおくれてきたのー。こりないわね」
すごく棒読みである。台本を手に持ってそれを音読しているかのようだ。とんだ大根役者である。本当にダメダメだ。これで本番がうまく行くとは到底思えなかった。
「ま、まあ俺もサポートするし。何か分かんなかったら俺を頼ってよ」
「う、うん! ありがとう、深海君!」
素敵な笑顔だ。真空もこんな風に自然に笑えばもっと可愛いのにと深海は思うのだった。でも想像しすぎて鼻血が出たのは予想外だった。
「深海君!? え!? 大丈夫!?」
深海とひぃは早起きしてしまい、普通の登校時間よりも早く来てしまった。一度深海の家にお泊りセットや教科書類を取りに行ったりしたのだが、それでも時間が大量に余った。
クラスには誰もいない。事前練習の絶好のチャンスである。
だが、ひぃはもう既に疲れ切っていた。昨日弟の風真に何時間もゲームにつき合わされ「今日の空姉下手くそ」と言われたり、妹の真空に猫の絵を描いてほしいと頼まれ、これまた「今日の空姉下手くそ」と言われたり、妹の真愛に今日の皿洗い当番は空姉だと言われやってみたものの「空姉、調子悪いなら寝てていいんだよ」と言われたりして意気消沈しているのだ。
それに学校のことが気になり、緊張して眠れなかったため寝不足というのもある。
「ひぃちゃん大丈夫?」
深海は体ごと後ろに振り返りながらそう言う。ひぃは机に突っ伏しながら、くぐもった声で「うん」とだけ呟いた。
大分お疲れのようだ。今の時間に登校してくる人なんてそうそういないだろうし「少し寝たら?」というと、ひぃは何も言わずにこくんと頷いた。
しかしその時予想外にもガラリと教室のドアが開いた。ひぃはびっくりして飛び上がる。
「あれ? 早いな」
入ってきたのは遅刻常習犯の提灯闇夜だった。口元を手で隠してふわあと小さな欠伸をしながら深海の隣でひぃの斜め前の席に腰掛けた。
「さ、提灯なのに早い!」
「聞き捨てならないな。私だって早く来ることはある」
鞄から教科書やらノートやらを取り出す手を止め、闇夜は深海をキッと睨みつけた。
彼女はそう言うが、深海は一度も早く来た姿を見たことがない。どちらかというといつも遅刻ギリギリか、三限終わりくらいにのろのろやってくるかのどちらかだ。
「あんたまたおくれてきたのー? こりないわね」
深海はギョッとした。ひぃがロボットみたいにがちがちになりながら絞り出すようにその台詞を言ったのだ。それは昨日ひぃと一生懸命練習した台詞。しかしそれは今使う場面ではない。
「は? 真空何言ってるんだ? しかも何か棒読みだし」
「え、え……えーっと……」
助けてというひぃの熱い視線を一身に浴びる深海。これは助けてあげなければ、と深海は立ち上がり大げさな仕草で時計を指差しながらこう言った。
「あの時計が正しいといつから錯覚していたああっ!? 今はなあ、もう放課後なんだよ!」
「私の腕時計も同じ時間だが?」
「あ、そうですよね」
闇夜にスッパリと切られ、深海は大人しく席に着いた。ごめんねと小さく呟きながらひぃとアイコンタクトを取る。ひぃは気にしないでと首を横にブンブン振った。
闇夜はすごく不審げにその光景を見つめていた。
「君達、いつもよりやけに仲良くないか? アイコンタクトなんか取っちゃって……」
「えっ、ええっ! そ、そんなことないよっ!」
ひぃが顔を真っ赤にしながら否定する。ああ、真空はそんな反応絶対しないのにと頭を抱えたくなる深海だったが、ちょっとだけ嬉しかったりもした。
「そんなことあるだろ。いつもなら波花は今頃罵倒され、無視され、殴られてるだろ」
「そんなことないだろ! いつも仲良しだろ!」
「気持ち悪いな。まあどうでも良いけど」
どうでも良いんかい!とツッコミを入れたくなったが、さっさとこの話から離れてくれた方が嬉しいのでそれ以上深海もひぃも何も言わなかった。
闇夜は鞄から今日の授業用意を取り出し終えるとお茶を飲んで一息吐いた。
「で、昨日はどうなったんだ?」
そういえばあの学生証を見つけた場面に闇夜もいたのだ。そして真空がひぃに会いに行ったことも知っている。
どう答えようかと深海が迷っていると、先に焦ったひぃが口を開いてしまった。
「き、昨日は何というか……すごかった!」
「すごかったって何だ……」
仕方ない。深海もひぃに便乗するしかない。それしかない。
「あれはすごかったよな! ガーってなってバーってなってジャーって感じで!」
「そうそう! グチャってなってピシャーンってなってデュクシデュクシって感じで!」
「何だよ、それ。一体どういう状況だよ」
闇夜は呆れた感じに笑いながらそう言った。笑ってもらえて本当に良かった。これを冷静にスルーされたら恥ずかしいなんてもんじゃない。
それに何とか昨日のことも誤魔化せたようだし、結果オーライだ。
「まあ、真空が元気ならそれで良いよ。日笠真空とかいうやつに会いに行くって言ってただろ? 昔からドッペルゲンガーに会うと死ぬとか言われてるから気になって……」
闇夜がこんなに早く来るのは珍しいと思っていたが、もしかしてそれが気になっていたからなのだろうか。彼女も真空のことが気になってあまり眠れなかったのかもしれない。
一応元気なことは元気だが、死の危険に晒されている真空のことをこの親友の闇夜に黙っているのは果たして正しいことなのだろうか。深海はだんだん闇夜に本当のことを黙っているのが心苦しくなってきた。それはひぃも同じようでどうしよう?と深海の顔をちらちら見ている。
もしこの話を信じてくれたら、彼女が真空達の力になってくれるのは確かだろう。話すなら早い方が良い。それは今しかない。
深海とひぃは顔を見合わせ、同時にこくりと頷いた。
「提灯、聞いてほしいことがあるんだ」
「そんな大変なことがあったのか。まあ真空のことだから今のところは大丈夫だろうが、心配だな」
「信じてくれたのか!?」
「うん、まあ。今日の真空は何か真空っぽくないし。むしろその話を聞いてしっくりきてしまったんだが……おかしいか?」
深海は昨日、真空に起こったこと全てを闇夜に話した。馬鹿にされるかと思ったが、闇夜は意外にもすんなりと信じてくれたのだった。
「別におかしくはないけど……あっさり信じてくれるんだなー提灯って良い人だなーと」
「これが真空じゃなくて波花の話だったら絶対信じてないけどな」
「酷いよ、闇夜ちゃん!」
下の名前で呼ぶな気持ち悪いと闇夜は深海に吐き捨てる。つれないなーとべたべた気持ち悪い絡み方をしてくる深海を軽くあしらいながら、闇夜はひぃの方へ視線を向けた。
ひぃはいきなり自分の方に向かれて驚いたのか、びくりと体を揺らした。
「下の名前と言えば、波花みたいにひぃって呼べば良いのか?」
「は、はい。提灯さん、ふつつかものですがどうぞよろしくお願いします……」
すかさず見合いかと闇夜はツッコミを入れる。するとひぃはごめんなさいと謝りだしたではないか。
「あ、謝らなくていい。あと私のことは闇夜って呼べば良いから。敬語もいらない。よろしくな、ひぃ」
闇夜が優しい笑顔で手を差し出すとひぃの表情が一気に明るくなった。まるで子供みたいな無邪気さである。
「う、うん! よろしく、闇夜ちゃん!」
「な、何か調子狂うな……」
「でもホントありがとな。提灯が協力してくれると助かる」
「波花を助けるわけじゃないからな? 少しでも真空の助けになりたいんだよ、私は」
闇夜はそう言って遠くを見つめた。まるで今は日笠真空になっている真空を見つめるかのような、そんな遠い目だ。
真空と闇夜の出会いは高一の時だと深海は聞いているが、その時二人に何があったのかまでは知らない。何故闇夜は真空の助けになりたいのだろう。
「提灯って真空のこと大好きだな」
「わ、悪いか。真空にはお世話になったんだ。だから恩返しがしたいんだよ」
深海は何だか闇夜に自分と同じものを感じた。深海もいじめられていつも泣いていた自分を救ってくれた、守ってくれた真空に恩返しがしたいと思っている。今度は自分が守ってやりたいと思っている。今度は自分が真空のヒーローになりたいと。
「その話めちゃくちゃ聞きたい! 真空と何があったんだ!?」
「は!? だ、誰が君なんかに教えるか!」
闇夜は頬を赤く染めて、そっぽを向いてしまった。でも深海は知りたかった。真空のヒーロー伝説を。
しかし他の生徒達がぱらぱらと登校してきてしまったため、聞くタイミングを完全に逃してしまった。しかも数人の男子生徒が深海にお前早ぇな!とか、また朝から月笠さん口説いてんのかーとか言ってきたり、闇夜やひぃにもついでに挨拶してきたりしたため会話は完全に途切れた。
ひぃは一生懸命挨拶を返していたが、声が裏返ってしまい、机に突っ伏してしまった。
「まあ、そういうこともある。ひぃ、気にするな」
「そうそう! 俺だって裏返るし!」
「つっきーも挨拶で裏返る?」
「つっきー? あ、もしかして真空か。真空はまあ裏返ら――」
「裏返る裏返る! 真空もめちゃくちゃ裏返ってた! ことあるごとに!」
本当のことを言いかけた闇夜の口を押さえながら深海は必死にそう言った。闇夜が離せと暴れるが、そんなのお構いなしである。
ひぃは深海の言葉を聞き、ゆっくりと顔を上げた。
「そっか……そうだよね!」
そして満面の笑みを浮かべた。ちょろいもんである。少しめんどくさいところもあるが、頭が良く察しの良い真空より扱いやすいし、なにより何だか和んでしまう深海と闇夜なのだった。深海は闇夜の口を手で押さえたまま、闇夜は押さえられたままで。
「ねーねー深海。何で提灯さんの口押さえてるの? 何プレイ?」
「へっ!? そ、そんなんじゃねえよっ! って……うわっ、大地っ!」
突然の幼馴染の登場に深海は素っ頓狂な声を上げる。それに釣られてひぃもびくりと驚き、椅子から転げ落ちそうになった。
「真空と言うものがありながら、深海は罪な男だね。ねえ、真空」
大地からの問い掛けにひぃはあからさまに慌てだした。いつもの真空ならここで冗談を返してみせるのだろうが、ひぃがそんな演技を出来るとは思えない。ここは深海がフォローしてあげなければ。
「そ、そんなんじゃねえから! あっ!? なになにー? 大地きゅんも提灯と密着したいんでちゅかー? 俺にヤキモチでちゅかー?」
「は、はあっ!? な、何を言ってるんだ、波花! 冗談も大概にし――」
「うん。ヤキモチ」
大地の発言に一瞬辺りがシーンと静まり返った。いや、静まり返ったのは深海達だけで他の人は普通に会話しているのだが、何だかそんな風に感じてしまった。
闇夜の顔が茹でた海老みたいに一瞬にして真っ赤に染まる。
「な、なななななななーっ!」
「冗談だよ?」
「なーっ!?」
動揺し過ぎて闇夜は日本語が喋れなくなってしまったようだ。
いつも深海は闇夜にからかわれる側なので素直に大地のことをすごいと思った。大地のドSの片鱗を垣間見た気がする。
「提灯さんってからかうと面白いね」
「し、知らん! もう知らん! E組に帰れ! E組はA組の敵だ! 相容れない存在!」
「えー、相容ろうよー」
「相容ろうって何だ! 日本語勉強したらどうだ!」
それにしても大地は一体何をしに来たのだろうか。
先程から黙りこくって時々顔を赤らめたり、驚きの表情を浮かべたりしているだけのひぃのためにも闇夜の言うとおりE組に帰って頂きたい。
「で、大地は提灯をからかいに朝からA組の領地に堂々と侵入してきたと言うのか?」
「それもあるよ。でも一番は昨日のことが気になって真空のこと見に来たんだけど……真空じゃないよね、君。日笠さん、かな? あと、E組とA組は同盟組んでるから自由に行き来して良いんだよ」
「その同盟まだ正式に組まれてないから! そっちが一方的に言ってきただけだから!」
「そっちはどうでも良くないか、波花」
今、大地はサラッとすごい発言をした。あまりにサラッとしていたため、深海は同盟の話に反応してしまったが、闇夜の言うとおりこちらは本当にどうでも良い。
「わ、分かるの?」
「分かるよ。ずっと反応見てたんだけど、真空じゃないなって。だから昨日話してた日笠さんなのかなーって思っただけ。入れ替わり中?」
「う、うん。日笠真空です。ひぃって呼んで下さい。え、えと……大地、君?」
「そう、大地。よろしくね、ひぃちゃん」
ひぃはこくこくと大きく頷いた。闇夜以上の平然とした対応に深海は驚いてしまう。
彼もそれだけ真空のことを見ていたのだろう。元々勘が良いだけかもしれないが。
「それだけ。じゃ、授業始まるからE組はE組に帰るね」
「し、知ったからには協力しろよ!」
うんと笑顔で頷くと大地は女子達の黄色い声と共に去っていった。
彼がE組に戻っていくのを見送り終えると、三人は同時にため息を吐いた。こんなに早く他の人間にばれてしまうとは思わなかった。
まあ何だかんだ言って、大地は信用出来るのでたいした問題ではないが。
「授業始めるぞー。席に着けー」
教師の声でバラバラに散っていた生徒達が席につき始める。もうそんな時間だったか、と深海はまた大きくため息を吐いた。
「銅鑼は今日欠席か。じゃあ出席番号の次。波花か。よし、百五十ページから読んでくれ」
どうやらドラは欠席のようだ。もっと詳しい話を聞こうと思っていたが、それは不可能になってしまった。
「あんな大きいお風呂入ったの初めて! 可愛いふりふりワンピースいっぱいだし、シェフの料理は美味しいし、部屋は広いし、ベッドふわふわだし!」
「もう少し真空っぽく振る舞おうとは思わないのか、お前は」
「あら、でもお父さんも『今日の真空は元気だなー』って言ってくれたじゃない。ばれてない、ばれてない!」
真空はきれいにクリーニング済みな制服のスカートを翻しながら笑った。光輝はわざとらしくため息を吐く。
二人が歩くのは戸縁学園の長くて美しい廊下。いつも通りのマイペースさで、日笠家での一晩を真空は存分に楽しんだ。緊張して一晩眠れなかったひぃとは大違いに、初めてのお金持ち学校にわくわくしながらふかふかベッドで爆睡したのだ。
「家では百歩譲ってそのキャラでも許す。でもクラスではいつも通りの真空を振る舞え。じゃないと取り返しがつかなくなる」
「はいはい。あたしこう見えても演技派なのよ。いつものひぃはどんな感じなの?」
「いつものあいつは別に読みたくもない教科書を読むか、鞄の中の何かを探すふりをするか、寝たふりをするかのどれかな」
真空は笑顔で固まってしまった。真空も友達が多い方ではないのだが、別に読みたくもない教科書は読まないし、鞄の中の何かを探すふりもしないし、寝たふりもしない。闇夜がいるし、特別仲が良いわけではないが時々クラスの女子と世間話をしたりもする。
「ト、トイレでご飯食べろとか言わないわよね……」
「それは最近ないな。一応昼飯食うぐらいの友達はいる。物で釣った疑似友達」
「疑似とも……」
何だか急に眩暈がしてきたわと真空は頭を抱えつつ呟いた。楽しい金持ち学校ライフと思っていたようだが、そう上手くはいかないみたいだ。
「昨日も旦那様からもらったピンクのカチューシャを取られた癖に、他のやつにも作ってやるとか約束しやがって」
「ふうん……カチューシャ取られたの……」
真空がそう呟いた時、ちょうどひぃと光輝のクラスである二年ジェミニ組に到着した。
何かネーミングが幼稚園のクラス分けっぽいわねと呟く真空を余所に光輝は部屋のドアを開けた。
ちょうど良いくらいの時間に来たため、部屋の中にはクラスメイトが十五人ほどもう登校してきていた。部屋に入ってきた真空を見つけた女子数名が近寄ってくる。
光輝は真空の耳元で、いつも通りで頼むぞと呟いた。真空はええと静かに微笑む。自称演技派の真空の力が試される時である。
「日笠さん! 昨日のカチューシャ頼んでくれた!?」
「もしかしてもう持って来てくれてたりして」
「水奈も早くみんなとお揃いでつけたいな! ね、日笠さん! どうなの?」
真空は水奈の頭の上で光る、ダイヤモンドで装飾された可愛いピンクのカチューシャに目をやった。とても高そうだが、シンプルなデザインで嫌味の感じない仕上がりのそのカチューシャ。日笠真空のカチューシャがぶりっこ女の頭上で光り輝いている。
「ごめんなさい。お父さん、無理だって言ってて……」
満面の笑みを浮かべて真空に話しかけていたはずの女子たちの表情が一気に歪む。そして口々にえーとかなんでーとか文句を垂れ始めた。
「約束したよね? 約束破る子とは友達でいたくないんだけど……」
「もう一度説得してよ。私達友達でしょ? 何でもしてくれるはずだよね?」
「何で水奈にはくれたのにみんなにはあげないの? そういうの駄目だと思うな。みんなせっかく仲良くしてくれてるのに……最低だよ」
俯きつつ真空はそうねと呟いた。全く顔を上げない真空にそんな落ち込んで見せても許せることと許せないことがあると偉そうにバカげたことを淡々と述べる女子達。
光輝も流石にイライラしているのか、表情がすごく険しい
とその時だった。真空がニヤリと不敵な笑みを浮かべて水奈からカチューシャを取り上げたのは。無理やり頭から奪い取ったため髪の毛が数本抜けたが気にしない。
「きゃあああっ! 何てことすんのっ!? 最っ低!」
水奈が叫び声を上げた。部屋中の生徒が一気に真空達に注目する。
頭を押さえしゃがみ込む涙目の水奈。そんな彼女を気遣う取り巻きの女子達。取ったどーとでも言いだしそうなポーズでカチューシャを取り返した真空。そしてそれを酷いアホ面でポカーンと見つめる光輝。
「みんなにあげられないからあんたのも返してもらっただけだけど、何か問題でも?」
「な、何それ! 酷いっ、日笠の癖して偉そうにっ! 最低っ! 泥棒っ! 死ねっ!」
真空は左手を腰に当て、性悪女達を見下すようにして言う。
「はあっ? 酷いのはどっち? 泥棒はどっちよ? これは日笠真空のもの。日笠真空のために作られたものなのよ。正直言ってあんたには全く似合ってないしね?」
「そ、そんなこと言うならもう一緒にご飯食べてあげないわよ! 親友やめるわよ! いいのっ? いやだよねえ? 物で釣らなきゃお友達なんて出来ないもんねえ?」
「別に良いわよ。偽りの友達なんて要りません。やめて頂いて結構です。ていうかあんたみたいな性悪女こっちから願い下げよ、バーカ」
キーッと漫画みたいな怒りの声を上げる水奈。それに合わせて取り巻き達も真空に死ねやら地獄に落ちろやら最低やら恩知らずやら色々な罵声を浴びせてくる。
しかし真空はいつも通りの涼しい顔だ。それとは対象的に光輝は頭を抱えていた。
「やってくれたな、偽真空……」
「へ? あ……やっちゃった……」
「無意識かよ……」
入れ替わりを止めた後のひぃのことを考えると頭が痛い。でも何となく、光輝は嬉しそうな顔をしていた。本当に少しだけ彼は笑っていた。