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日笠真空、16歳……

 少し冷たい雰囲気を感じる立派な石造りの門。その門を抜けるとそこは妖精と出会えそうな森だった。都会の一角にこのような森があるなんてにわかに信じがたい。しかし確かにそこに存在しているのだ。

 森を抜けると見つかるのが、ある建物の玄関だ。その建物の外観はまるで老舗の一流ホテルか、世界遺産のようである。

 そして更に、中もまるで一流ホテルのようだった。とても豪華だが、どこか落ち着いた雰囲気もある不思議な空間だ。

 ここは有名お金持ち学校、戸縁学園。その誰もが羨む豪華な建物の二年ジェミニ組の教室に、たっぷりとしたボリューム感のある黒髪をリボンでポニーテールにしている少女の姿があった。ポニーテールからは二本の三つ編みが伸びている。

 今は一限目と二限目の間の短い休憩時間だ。教室を出てどこかに行くには短すぎるため、友人と会話をしたり、予習をしたり、本を読んだりと各々有効にその時間を利用していた。

 しかしその少女はボーッと自分の席に腰かけたまま何もしていない。誰と話すわけでもなく、勉強をするでもなく、ただただ目の前の黒板を見つめ続けている。

 そんな時、彼女の頭の上に女生徒の声が降ってきた。少女は顔と一緒に二つの宝石みたいな大きい琥珀色の瞳をクイッと上に向ける。

「日笠さん、そのカチューシャとっても素敵! どこで買ったの? 水奈も欲しい!」

「え、あの……お父さんが外国で、オーダーメイドで……」

「ちょー優しいじゃん! あー水奈も欲しいなー! 水奈にすっごく似合いそうだし」

 日笠さんと呼ばれた少女の表情に一瞬影が差す。しかし次の瞬間にはパッと表情を明るくした。と言っても彼女なりの明るさなので、さほど変化はなかったりもする。

 そして何も言わず、おもむろにカチューシャを外すとそれを水奈に手渡したのだった。

「え? 何? どーいうこと?」

「水奈ちゃんにあげる。いつも仲良くしてくれてるから……」

「うそっ!? ホントにもらっていいの!? うわー! ありがとう、日笠さん!」

 そう言って水奈はきゃっきゃと子供のように喜びながら、もらったカチューシャを栗色の髪に付けたのだった。

 ポケットからいつも持ち歩いているであろう小さな鏡を取り出して色々な角度から確認し、最後に正面を向いてにっこりと笑う。

「うん、やっぱり水奈に似合ってるね! 言っちゃ悪いけどちょっと日笠さんには微妙だったもんねー」

「う、うん。そうだよね。あたしも思ってた……」

 やっぱそうだよねーと甲高い声できゃらきゃらと笑う水奈。日笠もうんうんと深く頷き、同意した。

 しかし言っていることとは裏腹に、彼女の表情は何とも複雑なものであった。

「ねえ、みんな見て! 日笠さんにもらっちゃった! 水奈って一番の友達だから!」

 水奈のその言葉と彼女の頭の上できらりと光るカチューシャを目にした彼女の友人達がわらわらと日笠を囲む。みんな言うのは同じこと。いいな、私も欲しい! 日笠さんの一番の友達は私だよね? 水奈にだけずるい!

「日笠さん家、お金持ちだもんね? パパの会社、買収しちゃうくらいだし」

「そうそう。私達仲良しだもん。みんなにくれるよね? 平等じゃなきゃ変だよね?」

 日笠は人知れず下唇を噛み締めた。父親が彼女のためにたった一つだけ作ってくれたカチューシャだ。また同じものを手に入れられるかどうかなんて分からない。でも日笠は手に入れなければならなかった。

 歪めた表情は誰にも見せずに作り笑いを浮かべると、出来るか分からない約束を彼女は『友人達』と交わすのだった。

「みんなの分、お父さんに頼んでみる……」

「本当!? 絶対だよ!」

「忘れないでよ! 約束だからね!」

 大丈夫、と日笠は不器用に微笑んで見せた。

 その痛々しい笑みを痛々しいと感じるものはいない。同情するものもいない。

 水奈を含めた数人は絶対だよと念を押し、自分たちの席に帰っていこうとした。しかしそれを日笠が呼び止める。

「あの、水奈ちゃん。今日のお昼ご飯……」

「うん、一緒に食べよ!」

 そうニコッと屈託のない笑みを浮かべて水奈は友人達と共に席に戻っていった。

 日笠はホッとした表情で一つ大きなため息を吐く。これで大丈夫。まだ大丈夫。

 水奈達は一つの席に固まって談笑を始めている。そこに日笠は混ざらない。いや、混ざれなかった。聞こえてくる嫌らしい笑い声。向こうは聞こえていることに気づいているのだろうか。

 いや、気づいていようとなかろうと、それは日笠の心に着実に傷を付ける行為であることに変わりはなかった。

「日笠って本当ちょろいよねー」

「何しても許してくれそう! お友達ーって言っとけば良いんだもんね」

「パパも仲良くしといて損はないって! むしろ利用しまくっちゃえだって!」

 聞こえない。日笠には何も聞こえない。両手で耳を押さえているから聞こえない。

 あと少しの辛抱だ。もうすぐ休憩も終わる。休憩さえ終われば彼女たちは雑談なんて出来なくなる。そうすれば耳を押さえる必要も、泣きたくなる必要もない。

 大丈夫、あと少し。

「次の授業、先生急用だってよ。自習らしい」

 そう言いながら入ってきたのは色素の薄い髪をきっちりと整えた色白の少年だった。

 瞬間、やったあとクラス中から歓声が湧き上がる。

 しかし日笠にとってそれは地獄の時間だった。最初こそ真面目にプリントに取り組むだろう水奈達もどんどんダレて、また日笠の話をし出すだろうから。

「プリント配るから席に着きやがれー」

 色白の少年の言葉に、クラスメイト達ははーいと気の良い返事をして席に着いた。

 プリントを配り終えると、少年は灰色がかったブルーの瞳をぎょろりと動かし、一人の少女を見据えた。校庭側の窓際、前から三列目で机に突っ伏し耳を両手で押さえた少女。そう、日笠である。自習プリントが配られたことに気付いていないようで、ずっと同じ体勢で寝たふりをしている。

 少年はその様子を見て、顔をしかめた。怒りに満ち満ちた表情で、彼はまっすぐ日笠の元へと向かう。そして彼女の前の席に荒々しく腰かけ、体ごと後ろに向いた。

「おい。お前、カチューシャどうしたんだ」

 何も聞くまいと耳を両手で押さえていた彼女だったが、さすがにこの至近距離では聞きたくなくても聞こえてしまう。少年の声にビクリと体を揺らし、おずおずと顔を上げた。

「家に置いて……」

「はあ? 朝付けて家出ただろーが。嬉しそうにげらげら笑いながら」

「げ、げらげらなんて笑ってないし!」

 日笠はむっとして少々声を荒げつつそう言った。

「また誰かにやったんだろ?」

 低い声で少年は言う。明らかに腹を立てているのが見て取れる。

 彼のカチューシャでもないし、彼からもらったわけでもない。それなら何故彼が怒るのだろう。そう、日笠は思った。

「あたしが誰にあげようと光輝には関係ないでしょ」

「友達を買うようなやり方が気に食わねえんだよ。誰の金だと思ってんだ? 旦那様の金だろうが」

 この色白の少年、もとい朝凪光輝あさなぎこうきは日笠の家の執事だった。だからカチューシャを付けてきただとか、そのカチューシャを誰からもらっただとかは聞かなくても知っているのだ。

 そして彼女がいつも誰かに物をあげ、それで偽物の友人関係を保っていることも。

「財布も無くしたらしいな? もしかして財布も誰かにあげたんじゃねえのか? 金までやっちゃうとか最低野郎だな。親の金をなんだと――」

「それは違うっ! 本当に無くしたんだもん!」

 日笠は怒りを爆発させ、机を両手で叩き、立ち上がった。突然大声を上げて立ち上がった日笠にクラスのほとんどが驚き、注目する。

 しかし怒りに身を任せている日笠はそれに気付かなかった。

「それに光輝も悪いんだよ! いきなりあたしを連れ戻そうとするから! 財布忘れてきたって言っても信じてくれなかったでしょ! 光輝が悪い! 光輝が全部悪いっ! あんたさえ来なきゃもっと……」

 そこで日笠は我に返る。

 その時にはもうクラスメイト全員が彼女に注目しており、ひそひそと内緒話をしていた。特に水奈とその友人達は、良い悪口のネタが出来たと言わんばかりに盛り上がっている。

 日笠は顔が熱くなるのを感じた。恥ずかしすぎる。こんな状況で何事もなかったかのように自習プリントなんか始められない。

 いてもたってもいられなくなり、日笠は教室から逃げ出した。

「おい、真空っ!」

 光輝の呼ぶ声なんか無視して、『日笠真空』はホテルのような校内を駆け抜けたのだった。




「サボってしまった……」

 日笠真空は一人、森の中の噴水に腰掛けていた。

 この戸縁学園は小中高一貫の学校だった。真空は入学したての頃、この森に迷い込んでしまい、この噴水を見つけた。ここで半べそをかいていると、彼女がいないことに気付いた担任の教師が迎えに来てくれたのだった。不安げな小さな執事の光輝と共に。

 最初こそ怖かったこの森も、年を重ねるごとにそう感じなくなり、いつの間にかこの場所は真空にとっての憩いの場となっていた。

 ぶらぶらと足を揺らしながら小さくため息。あの頃は良かったなあと真空は物思いに耽る。あの頃は光輝とも仲良しだったし、学校も苦痛ではなかった。父と母も離婚せず――。

「サボりはいけないなあ、日笠」

 突然の呼び掛けに、真空は一気に現実に引き戻された。胸がドクンと大きく高鳴る。

 恐々振り返るとそこにいたのは良く見知った人物だった。

「し、紫蘇野先生!」

 噴水の丁度反対側に、真空の担任の紫蘇野マスオ(しそのますお)先生がいた。

 国民的魚介類家族アニメの婿養子と思われがちだが実はそうではないあの人と名前が微妙に似ている気がするが、きっと偶々だろう。うん、偶然であろう。

 長い黒髪を高いところで一つに纏めており、あまり教師っぽくないだらしのない見た目だが、白衣と黒縁眼鏡がかろうじて教師感を演出してくれていた。

「ま、かく言うオレもサボりだったりして」

 彼の手には何やらいかがわしい表紙の雑誌が握られている。彼は「良く辞めさせられないな。つーか辞めろよ」と廊下で堂々と悪口を言う生徒がいるくらいに変態教師で有名だった。

「急用なんじゃ……」

「いや、これ朝、駅の売店で見つけたのよ。この表紙の子めちゃくちゃ人気でさー、どの書店行っても売り切れって言われてもうお手上げ状態だった時に見つけたのよ。これはもう買うっきゃないってね! で買ったらすぐ鑑賞しちゃいたいわけよ。と言う訳で自習にしました! なのにどうして日笠はこんなところにいるのかな?」

「ちょ、ちょっと色々ありまして……」

 真空は明後日の方向に目線を逸らした。まあ先ほどサボりだと自供しているので今更どう言い訳しても無意味だろう。

「日笠のことは昔っから見てるから親心が湧くんだよ。だから何か悩みがあったらオレに相談するんだぞ?」

 彼の言う通り紫蘇野と真空は何の巡り合せか、小学一年生から高校二年生の今までずっと担任教師と生徒の関係なのである。

 真空が森で迷った時に迎えに来たのも彼であった。その日から真空は目を離したら危ない存在とでも思われていたのだろうか、良く声を掛けられるし、真空も彼を頼り切っていた。

 大抵の生徒は変態教師、セクハラ教師と嫌っているが、真空は全然気にしていなかった。

「大丈夫です。ちょっと気分が悪くて空気を吸いに来ただけなので。すぐ戻ります」

「ま、無理に戻らなくても良いと思うぞ。よし! 二限は先生と一緒にサボっちゃおう!」

「せ、先生がそんなこと言っちゃっても良いんですか?」

「いーの、いーの。それに日笠には二人きりで聞きたいことがあったんだよ。秘密のお話」

 真空は「え?」と可愛らしく小首を傾げた。

 二人きりでということは他の人間には聞かれたくない話であることは間違いない。教師と生徒が二人きりで秘密のお話、と表現すると何だかいやらしい雰囲気である。いかがわしい雑誌を手にした教師だから尚更そう感じてしまうのかもしれない。

 紫蘇野は雑誌を畳んで立ち上がり、真空の目の前までやってきた。そして真空と目線を合わせるように腰を折り、グイッと顔を近づけた。黒縁眼鏡の奥の金色がかった瞳がキラリと怪しく光る。

 それでも真空は何の危機感も持っていないらしく、パチパチと不思議そうに瞳を瞬かせるだけであった。

「昨日、誰かと会わなかった?」

 「え?」と今度は逆の方向に真空は首を傾げた。

「例えば、そう。スーパーとかさ」

 真空は「あっ!」と小さく声を上げた。思い出した、というよりもしかして紫蘇野はあの人のことを言っているのだろうかということに気づいた「あっ!」である。

 真空はすぐさまコクコクと大きく頷き、

「会いました! 昨日スーパーで! 素敵な方に会いました!」

 熱っぽくそう言った。

 「そうかそうか」と紫蘇野は笑顔で返事をする。どうやら紫蘇野が聞きたかったのはその人物のことのようだ。

「先生、お知り合いなんですか?」

「まあ……知り合いっちゃ知り合いかなあ」

「あ、会えますか!? あの、私どうしてもその人と会わなくちゃいけなくて! 知っているのなら教えて下さい!」

 今度は真空が立ち上がり、両手を胸の前で組んで、頭を下げながらそう言った。

 真空がこうも必死に頼み込むのには大きな理由があった。光輝との喧嘩の原因にもなったアレである。

「あたし、その人にお財布を預けちゃったんです。でも光輝は信じてくれなくて、喧嘩しちゃったんです……」

 そこまで言い終わってから紫蘇野の反応を見ようと真空は顔を上げた。

 すると彼は目を大きく見開いたまま固まっているではないか。銅像のように体は全く動かないが、何故か荒い息遣いだけが聞こえてきて、彼がまだ人間であることが分かった。

「あの、紫蘇野先生?」

 ツンツンと肩を叩いてみる。反応はない。後ろに回ってグイグイとポニーテールを引っ張ってみる。これまた反応はない。顔の前で右手を行ったり来たり。一向に反応はない。

 一体紫蘇野はどうしてしまったというのだろうか。真空は困り果ててしまう。

 水でも掛ければ戻るかなと噴水の水をちらりと一瞥した時だった。微かに声がした。

「……けちゃっ……の?」

「ケチャ……野? あああっ、すみません!? もしかして今まで勘違いしてましたか!? 紫蘇野先生じゃなくてケチャ野先生だったんですか!?」

「いえ、紫蘇野です」

「ああああ……よ、良かったです……」

 ちゃんと紫蘇野だったことを知ってホッと胸を撫で下ろした。小学生から一緒にいるのだから流石に間違えているわけがないが、ずっと勘違いして呼んでいたのではと真空は本気で焦ったようだ。

 ケチャ野改め紫蘇野は気を取り直し、一つ咳払いをしてからもう一度言った。

「あじゅけ……噛んだ……もうやだ……早速噛んだ……」

「せ、先生! 大丈夫、大丈夫です! 誰でも時には噛みますよ! 噛みます!」

「オレ結構授業中も噛むじゃん。その度に失笑されてその度にオレは笑って誤魔化すけど実は結構きじゅつ……ほらもうまた噛んだ。マジ消えたい」

 両手で頭を抱えて座り込む紫蘇野。これでは全く話が進まないではないか。

 普通の人間ならイラつきもするだろうが真空はそんな普通の人間とは少々ずれていた。

 ポケットからピンク色のカーバーを付けたスマートフォンを取り出して言う。

「せ、先生! クーグル先生なら力を貸してくれます! きっと! 行きますよー『滑舌 良くする方法』……出た! ほら、先生! かの有名な知恵鞄教授も味方です!」

「クーグル先生に知恵鞄教授……それに日笠……こんなにもオレのことを心配してくれる仲間が……」

「そうですよ、先生。絶望するにはまだ早いです」

 そう言って真空は白い歯を見せながら紫蘇野に向かってグッと親指を立てた。普段は大人しそうな真空が何故かとてもイケメンに見えるのは目の錯覚だろうか。

 錯覚と言えば、彼女の後ろに上半身裸のマッチョ親父と眼鏡に白衣のガリ中年が見える気がする。あれがクーグル先生と知恵鞄教授なのだろうか。誰も知る由はない。

「日笠ー!」

 紫蘇野が両手を広げて真空に抱きつこうとする。真空もそれを嫌がらず、仕方ない胸を貸してやろうと言わんばかりの寛大な笑顔で両手を広げていた。

 ――が。

「変態キモ眼鏡セクハラ髪の毛黒光りねっとりキモ教師が!」

 真空はその言葉を聞いた次の瞬間にグイッと腕を引っ張られ、思い切り木に背中をぶつけた。その為女子らしからぬ「ぐふぉ」という呻き声をあげてしまった。

「あ、真空悪い」

「ひ、酷い……光輝酷い……」

 背中を押さえて座り込む真空を悪びれもせずに見下ろしていたのは彼女の執事、朝凪光輝であった。

「おう、朝凪。先生にえっとなんだっけ……変態キモ……」

「変態キモ眼鏡セクハラ髪の毛黒光りねっとりキモ教師?」

「そう、それは流石にないぞ。先生、すごく傷ついたよ」

 すると背中を摩りながら真空も立ち上がった。そしてキッと目を吊り上げながら彼女は言った。とても自信満々に言った。

「そうだよ、光輝。キモが二回あるとか酷いよ。しかも長いよ」

「いや、長さとか言葉のバリエーションとかの問題ではないんだよ?」

 すかさずツッコミを入れる紫蘇野だが真空と光輝は全くと言っていいほど聞いていなかった。

「じゃあアホ教師」

「大阪人じゃないので普通に馬鹿でお願いします……ってこんなことやってる場合じゃないんだよ、オレは!」

「勝手に自習にして女生徒呼び出してセクハラするやつが何言ってんだ、クソ教師」

 光輝は紫蘇野の首元を掴んでそう言った。紫蘇野の方が身長も高く、体格も良いはずなのだが殺気立った光輝はまるで猛獣のように恐ろしかった。

「いやいや! 呼び出してないよ、朝凪君! セクハラもしてないし!」

「してたじゃねえかよ。俺は見たぞ」

「してない、してない! ただね、友情を深め合ってただけなんだよ! な、日笠!」

 そう言って紫蘇野は真空の方へ振り向いた。

 すると真空はにっこりと笑みを浮かべてこう一言。

「え? 何の話ですか?」

「ちょ、日笠!」

「つまり『セクハラされたの、助けて光輝! きゃー!』って意味だな」

「え? 何言ってるの、光輝」

「ホントだよ! 何言ってるの光輝! オレ、セクハラなんてしないし!」

「お前に発言権はない。つーか下の名前で呼ぶな、気持ち悪いな。クソ」

 教師でもなくなったと泣き声を上げる紫蘇野。セクハラはしていないので少し可哀想かもしれないが、日頃の行いが悪いのだから仕方ないのかもしれない。

 とその時であった。

「あ……チャイム」

 二限が終わるチャイムが鳴った。チャイムと言っても普通の公立の高校とは全く違う。むしろ教会のベルだ。その音はどこか華麗で荘厳としたものだった。

「さーて、先生はそろそろ三限目の準備をしなくちゃなあ!」

「逃げる気か。まあいい。ただし……夜道に注意しろよ」

「え!? 何それ!? 怖すぎ!」

 本気の目をした光輝に紫蘇野はたじたじである。頭をポリポリと掻きながら、小さく嘆息した。

「で、日笠。預けたんだよな?」

「へ? あ、財布ですよね? はい、預けちゃったんです。だからお知り合いでしたら連絡先を教えていただけないかと……」

「あー、うん。大丈夫。心配しなくてもそのうち戻ってくる」

「え? それってどういう……あれ? 先生!」

 日笠がその言葉の意味を尋ねる前に紫蘇野は走り出してしまった。しかも校舎とは逆方向、つまり学校の出口の方へと。

 すぐさま走って追いかけるのだが、真空は運動神経が学年一、いや学校一悪かった。追いつけるはずもなく、途中で思い切りすっころんでしまった。息が上がって立ち上がるのも不可能になり、そのままけのびのような姿で光輝に発見された。

「いきなり走り出したかと思ったら……何やってんだ?」

「け、けのびの練習」

 苦し紛れの言い訳を一つする。しかし光輝にフッと静かに冷笑されてしまい、真空は恥ずかしさで顔を赤らめた。

 今の体勢も自分の苦しすぎる言い訳も、とても恥ずかしかった。もっと運動神経が良くて、要領も良い人間に生まれたかったと涙まで零れそうになる始末だ。

「ほら、立て。次の授業始まんぞ」

 光輝にそう言われ、真空はやっとけのびの体勢をやめて立ち上がる。

 なんだかずきずきするなあと思って見てみると手のひらを擦りむいていた。しかも両手だ。まあ、けのびの体勢で転んだのだから当然と言えば当然かもしれない。

「おい、タイツ破れてんぞ?」

 真空はいつも好んで白いタイツを穿いている。その膝のところが無残に破れ、白いタイツが血で赤く染まっていた。こちらもご丁寧に両膝だ。

 他にも良く見ると白を基調とした制服は砂や血でところどころ汚れており、薄汚い感じになっていた。

「あとそれ、こないだ俺がクリーニング出したばっかなんだけど?」

 今日の朝、少し肌寒かったので真空はブレザーを羽織ってきたのだ。何とも運が悪い。昨日までならカッターシャツを汚しただけで済んだというのに。

「……今日はもう家に帰る。後で荷物持って帰ってきて」

「は? 早退すんのか!? だったら荷物とってくるからそこで待ってろよ!」

 執事、光輝の役目はお嬢様である真空の身の回りの世話をすること。同級生だからと言ってそれが揺らぐことはないのである。

「早く帰りたい……」




 日笠真空は一人、駅に向かっていた。

 真空の自宅や学校がある街は多くのビルが立ち並び、たくさんのサラリーマン達が行き交う都会だった。

 大きな道路は交通量が多く、ずっとここにいたら排気ガスのせいで鼻毛がボーボーになるのではないかと心配になるくらい空気が汚い。人の通行量も多い。学生の量もサラリーマンに劣らずいっぱいだ。

 電車は毎朝満員で、毎日と言って良いほど痴漢が続出したりもする。真空はいつもベンツの最高級リムジンで登下校を行っているのでその朝の通勤ラッシュには遭遇したことがないが、こうやって光輝の目を盗んで屋敷を抜け出してはあるものを入手しに電車で遠くのスーパーへと向かうことは良くあった。

 真空は学校を早退した後、気分が悪いからと言ってずっと部屋に籠っていた。でも大人しくベッドで眠っていたわけではない。

 その間何をしていたのかというと、時間稼ぎのための工作である。天蓋付ベッドのピンク色のブランケットに枕とかクッションとかを突っ込んでこんもりさせ、そこで人が寝ているかのような演出などといった時間稼ぎ出来るとは思えないものばかりだったが。

「ふふふ、これで光輝も追ってこられない」

 それでも真空は自信満々のようだ。

 今日の真空には必ず成功させなければいけないミッションがあった。昨日行ったスーパーに言って財布を渡したあの人と出会うこと。そして財布を返してもらうこと。ついでに預かってもらったお礼をすることだ。

「時間があったらあれもまた買おう」

 ニヤニヤと真空は嬉しそうに笑った。ここに光輝がいたら気持ち悪いなんて言われたのではないだろうか。

「あとはノーブルアウインとトラストダイオプサイドなんだけどなあ……」

 一般人が聞けば英語だとか、石の名前だとか思うだろう単語を淡々と羅列していく真空。

 しかしこれはただの英語でもただの石の名前でもない。真空の大好きな変身ヒロインアニメ、『じゅえりー☆ふぁんとむしーふ』のヒロイン達の変身後の名前である。中学二年生のざくろ『トゥルーパイロープ』が四人の仲間達と共に悪の力が込められた宝石を盗み出す話である。幼稚園から小学校低学年の女児に大人気なのだが、大きなお友達からもキャラクターの可愛さや戦闘シーンのクオリティの高さなどから人気が高かったりもする。

 怪しい笑顔を崩さず、じゅえ☆ふぁむの今後の展開を考えながら真空は歩く。周りの目なんてお構いなしだ。学校ではクラスメイトの目を気にし過ぎているのでこういうところで息抜きしなければやっていけないのかもしれないが。

 そうこうしているうちに真空は最寄り駅に到着した。ここから往復で五百円かかる駅に行く。遠くに行かないと知り合いに会う可能性もあるし、何よりこの街から少しでも遠ざかりたい気持ちが真空にはあるようだ。

 嫌な学校や嫌な執事、嫌な家があるこの街から遠ざかれば自分の望む世界がある気がするのだろうか。

「あれ?」

 切符を買いに券売機へ行こうとしていた真空は、見覚えのあるツンツン金髪頭を見た。どうやら自動販売機で飲み物を買おうとしているらしい。

「似てる……」

 真空は小さく呟いた。すごく似ているのだ。彼女がスーパーで財布を預けたあの人。見た目は少し厳ついけれど、表情は柔らかくて優しい対応してくれたあのアルバイトの人。

 真空の頭に昨日スーパーであった出来事が鮮明に蘇ってくる。そしてそのアルバイトと自動販売機の前にいる人物がぴったりと重なった。

 本人だ。見間違いじゃない、そう真空は独りごちる。

 そして次の瞬間には足が動いていた。いつもは行動力がない真空だが、この時だけは無意識だった。会いたかったのだ。財布も大事だが、彼に会いたかった。財布なんて只のカモフラージュみたいなもの。

 真空は見失う前に彼の腕を思い切り握っていた。驚いたように彼は振り返る。

 真空は自分なりの最高の笑顔を浮かべて言った。

「あ、会いたきゃったれす!」

 何故こうも大事な時に噛み噛みなのか。紫蘇野の呪いか何かだろうか。

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