月笠真空、16歳!
「あれ? おーい! 提灯ー!」
目の前をのろのろと亀のようなペースで歩く少女がいた。深海に提灯と呼ばれたその少女はくるりとこれまた亀のような鈍さで振り向いた。
このボブヘアーが良く似合った色白の少女はクラスメイトの提灯闇夜。左目の下の泣きボクロがセクシーで、気怠そうな表情がどこかクールで無愛想な印象を与える。しかし普段の彼女は庭で盆栽を愛でたり、ゲートボールに興じているお爺さんのようなのんびりマイペースだったりする。
「波花も遅刻か?」
「おう! お前も急げよ。遅れるぞ?」
「私はいつも通りとことん遅れていく」
大真面目に不真面目な発言をする闇夜。
遅刻とは一般的に言えばいけない行いである。遅刻しそうになったらどうにか間に合わせようと思う人が大半だろう。深海も間に合わせようとする中の一人である。
しかし闇夜にそんな気持ちはこれっぽっちもないようだ。
「波花は真面目だな。見た目に反して」
「見た目に反してってなんだよ! 反してねーよ!」
深海は反してないと言い張るが、知らない人が彼を見たらきっとヤンキーだとか不良だとかいう言葉をもって言い表すのではないだろうか。
ワックスでツンツンに立てた金髪、だらしなく着崩した制服――きっとお年寄りが見たら近頃の若いもんは、と言い出し兼ねない見た目である。
「じゃあ先行くからな? お前も出来るだけ早く来いよ。真空が怒るから」
「あー、はいはい。すぐ行くすぐ行く。朝マックして本屋で本買って一旦家に置いたらすぐって真空に言っといてくれ」
「すぐじゃないよね、それ!」
深海はそう捨てツッコミを吐き、闇夜を残し走っていった。しかし自分の目の前にとある人物がいることに気づき、後ろ走りで引き返した。
「何それ波花、気持ち悪い。異様に速くて気持ち悪い。しかも何故戻ってきた気持ち悪い」
「気持ち悪いって酷いな! 前にあいつがいたからお前に報告してやろうと思ってさー」
あいつ? と闇夜は不思議そうに首を傾げた。
少し前の方に二人と同じ高校の生徒が歩いているのが見える。じっと闇夜がその背中を見つめているとその視線を感じ取ったのか否か、その人物はくるりと後ろに振り向いた。闇夜とその少年の視線が交じり合う。恥ずかしいのか、闇夜は視線をすぐに逸らした。
「なに照れてんのー」
「べ、別に照れとらんわ! ってうわ、来るし! 君の幼馴染だろ! どうにかしろ!」
「いや、どうにかしろって言われましても……」
闇夜の言う通り、深海の幼馴染であるその少年は満面の笑みを浮かべて深海と闇夜の方に向かって小走りでやってきた。
ピンと跳ねた横髪が何だか子供らしい彼の名前は芽吹大地。男にしては可愛らしく整った顔立ちをしており、女性からの人気も高い。
深海と大地とここにはいないある少女はいわゆる幼馴染というやつであった。
「深海! 提灯さん! おはよう!」
「大地、おはよう!」
「め、芽吹、おはよう」
闇夜は大地の方を向かず、明後日の方向を見ながら挨拶をした。初々しいやつめ、とか思いながら深海はそんな闇夜をニヤニヤと見つめる。
深海の当たるか当たらないか分からない男の勘によると闇夜と大地は両想いだ。でもお互いなかなか素直にならないため、全く距離が縮まらないのだ。
ここは大地の幼馴染で闇夜のクラスメイトの俺が人肌脱がなければと、深海は一人頷いた。そして――。
「じゃ、俺行くわ! さっさと来いよ、提灯さん!」
「え? ちょ! 一人で行くなっ!」
闇夜はそう深海を呼び止めたが、時既に遅し。深海は持ち前の運動神経の良さを見せ付けるかのように全速力で走っていった。
キンコンカンコンと一限目開始の鐘が鳴る。
深海は最後のコーンのところでちょうど二年A組の教室に飛び込むことが出来た。
そしていそいそと廊下側の一番端の後ろから二番目の席に腰を下ろした。
「デデーン! 波花、アウトー!」
そう後ろから声がしたと思った瞬間、深海は頭頂部にチョップを食らっていた。そのチョップは思ったよりも強烈で、深海の瞳から一粒涙が零れ落ちる。
涙で濡れた瞳で後ろの席を振り向くと、艶やかな長い黒髪の少女がいた。両サイドの髪を少し取って三つ編みにし、後ろでくくったお嬢さんといった雰囲気のする少女だ。長くボリュームのある睫毛の下には大きな琥珀色のキリリとした瞳が覗いていた。
少女はその可愛いと言うより美人と言った方が良い顔で、してやったりと微笑んでいる。
彼女が深海の二人目の幼馴染、月笠真空である。
「おはよう真空! 今日も朝から可愛いな!」
「波花ー、朝から幼馴染口説くなー」
担任教師のツッコミが入る。その一言でクラスはドッと盛り上がる。それとは逆に真空の表情は不愉快そうに大きく歪んだ。しかし深海は気にすることなく教師にこう言った。
「口説いてないですよ! 愛の告白です!」
深海の愛の告白発言にクラスメイト達は笑い声を上げた。
それに比例して真空の機嫌はどんどん悪くなっていく。笑いの中心にされるのが心底嫌なのだろう。しかし深海は全く気にしていなかった。
「それ以上恥ずかしいこと言うと殴るわよ」
ドスのきいた声で真空はそう言った。顔には黒い影が差しており、元々少し吊り上っている目が更に鋭さを増している。彼女のまき散らす黒いオーラに教室全体が一瞬にして静まり返った。
いや、全体というのは少し語弊がある。ただ一人を除いて、なのだから。
「て、照れてる! 真空が照れてる!」
すかさず真空は一言。
「屋上」
「やったー! 真空と屋上デート!」
「もー、そういうのやめてって言ってるでしょ……」
何を言っても無駄だと思ったのか、真空は一人机に突っ伏し呟いた。
真空は冗談だと思っているし、深海も冗談ぽく聞こえるように言ってはいるが、本当は冗談でも何でもなかった。
深海は昔も今も、真空に恋していた。
午前中の授業が終了し、深海と真空は昼ご飯を取るために屋上への階段を上っていた。深海が真空を追跡する形で。
一限の途中にとても疲れた表情で遅れてきた闇夜は昼ご飯を売店まで買いに行っている。
真空は屋上への扉を、鞄を持っていない方の手で開く。屋上は真空と闇夜の昼ご飯を食べるお決まりの場所だった。
「いつもとことん遅れてくる闇夜が早く来るなんて珍しいわね」
「だなー」
真空は一呼吸置いてからくるんと振り返る。それと同時に彼女の長い黒髪が大きく揺れて深海の顔に思い切り当たった。
「うおっ!」
「何であんたが付いて来てるのよ」
「だって屋上って言われたから。良いじゃん、一緒に食おうぜ」
「あんた友達多いんだからそいつらと食べなさいよ。闇夜はあたししか友達いないんだからあたしがいないと駄目なのよ」
こんな普通の人が言いにくいようなこともはっきり言ってしまうのが月笠真空であった。そのため彼女のことを良く思わない人間も多くいる。
しかし深海はそんな真空のことが小さい頃から大好きだ。
「んじゃ三人で食おうぜ!」
「何が楽しくてあんたと昼飯を共にしなくちゃならないのよ。ヤンキーがうつるわ、シッシッ」
「俺、ヤンキーじゃないし!」
深海の言うとおり、彼は見た目こそヤンキーだが性格や友人関係などは全くそんな感じではなく、むしろ真面目な方だった。
「遅れてごめん、真空!」
その時、良く聞き慣れたもう一人の幼馴染の声がした。
「あ、大地君! 大丈夫だよ。闇夜もまだ昼ご飯買いに行ってるし」
やってきたのはあの芽吹大地。深海の幼馴染であり、真空の幼馴染でもある彼だった。
へらへらと締りのない笑顔を浮かべてこちらへやってくる大地に、深海は少しだけ苛立ちを覚えた。
真空に誘われなかった上、一緒にご飯を食べるのが嫌だと言われたことがショックでならなかった。そして誘われた大地にヤキモチを妬いてしまった。
「深海も来てたんだ!」
「お、おう。なあ、真空! 何で大地は良くて俺はダメなんだよ! 差別だ!」
「そうよ、差別よ。大地君とあんたは違うの。深海の小さなおつむで理解できるかにゃあ?」
「くっ……そ、そりゃ違うけど。こんなに俺は真空のことが好きなのにー!」
「はーい、関係なーい。あんたがいくらあたしを好きでも私は大地君の方が好きでーす。ご愁傷様ー」
いつもの様に冗談っぽく告白した自分が悪いのだが、真空に冗談っぽく受け流されてしまい、深海はぐぬぬと悔しげに奥歯を噛み締めた。
「良いじゃん! みんなで食べた方が楽しいよ!」
「そーだそーだ! 大地の言う通りだー!」
「そんなに一緒に食べたいなら勝手に座ってれば良いじゃない。仕方ないから時々話振ってあげるわよ」
「ホント俺の扱いぞんざいだよね、真空って!」
同じ幼馴染でも真空の自分に対する態度と大地に対する態度は違うと深海は思っていた。
だから、もしかしたら真空は大地のことが好きなのかもしれない。そんな風に思うことが良くある。
なので時々こんな発言をして真空の様子を窺ったりしてしまう。
「そういえば大地さ、今日提灯と一緒に登校したんだろ?」
「うん! 提灯さんすっごい面白い人だよね!」
嬉々として今日の朝の出来事を大地は語り始める。そんな大地を見つめる真空の表情はいつもと変わらないものだった。
このくらいじゃ流石に真空も動揺しないかと思い、深海は更に踏み込んだことを言ってみることにした。
「提灯のこと気に入ったみたいだな! これはニューカップル誕生かな!?」
「アハハ。っていうか――」
「おい、波花! 君は何てことを! ローファー投げつけるぞ!」
真空の反応を見る前に、ものすごい剣幕の闇夜が手ぶらで帰還してしまった。
こんな風に大地とのあらぬ噂を立てられるのが闇夜は心底嫌らしい。それにはちゃんとした理由があるようだ。
「波花、お前も知ってるだろーが。こいつのファンの女子共がどれだけ恐ろしい存在か。私は目を付けられたくないんだよ。平和に暮らしたいんだ。だから二度と変な話するなよ」
そう言って闇夜はフンと鼻を鳴らし、真空の隣に腰掛けたのだった。
深海は素直にごめんと謝った。闇夜がこんなに嫌がるとは思っていなかったのだ。
大地を少し哀れに思ったが、いつも通り何の話と言わんばかりにニコニコと笑うところを見ると彼は全く気にしていないようだ。
二人が両想いだというのは、やはり深海の勘違いだったのだろうか。
「君達、早く食べないと昼休み終わるぞ?」
「あんた売店行ったんじゃないの? 何で手ぶらなのよ」
「欲しいのが売り切れていた。行くのが遅かったようだ」
昼食前の授業が二限と入れ替わりで体育になったせいである。二限の場合、次の授業に遅れないように先生は早めに授業を終わってくれる。しかし次が昼休みとなったためギリギリまで体力測定をさせられたのだ。
生田(女体育教師、三十代独身)のやつ一生恨むと闇夜は顔を歪ませた。
「残り物買ってこれば良かったじゃない」
「食べたくないものなんか食べたくない」
「提灯、何も食わねえの!?」
「ああ。一食くらい抜いたって人は生きていけるのだよ、波花君」
何かを極め、悟りを開いた者のような表情で語る闇夜。このまま昼を抜こうと決め込んでいるらしい。
しかしどうやら真空様はそれが許せないご様子だ。
「そんなやつの横でなんか食べられないわ! ほらあたしのおかず分けてあげるから!」
「いらん。昼はパン派だ」
ピキッと真空の額に太い青筋が浮かぶ。
マイペースな闇夜は意外と頑固な一面もある。真空と闇夜が出会ったのは高校一年の時らしいが、良くここまで仲良くやってこられたなと周りが驚くほど二人の性格が合うとは思えなかった。
「でも提灯さん、女の子がお昼抜くなんていけないよ。ちゃんと食べなさい、ね?」
「君はお母さんか……」
「大地君の言う通りよ! ほら! 口開けて!」
真空は持ってきた鞄からささっと弁当を取り出し、蓋を開いた。
彼女に似合わず、と言ったら怒られそうだが実に可愛らしいお弁当である。彩りも鮮やかで栄養のバランスもちゃんと考えてあることが一目で分かるそんな弁当だ。
「いらんとゆーとろうが」
「あんたねえ……」
そろそろ真空様の怒りがピークに達してきた。ピキピキと青筋の浮かぶ音が聞こえてくるかのようである。
しかし怒りの原因である闇夜はマイペースに空なんかを眺め始めているではないか。
真空は一度機嫌が悪くなると深海に当たる癖がある。深海はそんなことになる前にこの場を丸く収める方法は無いかとぐるぐる思考を始めた。
真空のことは好きだが、機嫌の悪い彼女はとても扱いづらくそして恐ろしいのだ。
「あ、そうだ! 提灯! 謎のパンいるか!?」
「何が謎なのよ」
「気付いたら家にあったから謎のパン」
「意味が分からない」
「多分買っといたのに忘れてるだけだと思う! これバイト先の限定品なんだぜー」
とりあえず鞄に入れてきたんだよと深海は鞄をゴソゴソと漁り始める。取り出したのは少し変わったコロッケパン。深海のバイト先であるスーパー限定のコロッケパンだ。最近販売が開始した新商品である。
「フタゴヤ限定コロッケパン! 食べたかったんだ! ありがとう! いくらだった?」
「別にいいぜ、それくらい。やるよ」
「君に借りは作りたくない」
「な、何でだよ! もー、分かった! 今、レシート探――あれ? これ……何だ?」
深海の鞄から出てきたのは、明らかに彼のものではない可愛いピンク色の長財布だった。誰がどう見てもそれは女物の財布だ。
何故そんなものが彼の鞄から出て来たのか、考えられる理由は主に二つ。
深海の母親の財布だということ。しかし深海は母の財布など持ち歩いていない。
ならもう一つは――。
「お? 深海君、盗みですか? サイテーねー。幼なじみ、辞めさせてもらうわ」
「私もクラスメイト辞める。コロッケパンもいらん」
「深海、自首しよ?」
「ち、違うっ! 知らないうちに入ってたんだって! ホント何だ、コレ!?」
必死に自分が盗みを働いたわけではないと主張する深海だが、真空も闇夜も大地も聞く耳を持たない。
しかしここで諦めたら駄目だ。これ以上傷が広がらないうちに持ち主に返せばその人が盗んでいないと証明してくれるかもと思い、深海は財布の中身を確認してみることにする。
「うわー、中身確認してるし。警察呼ぶわよ」
「だから盗んでないって! いつの間にか鞄に入ってたんだよ!」
「見苦しい言い訳ねー」
「だから今から返しに行くって! あ、学生証発見!」
深海は財布の中から裏返しの学生証を見つけた。見た目からしてどうやらこの学校の生徒ではないようだ。名前に顔写真、学校名まで載っているはずなので返却するのにとても役立ちそうだ。
早速、と裏返してそれらの情報を確認しようとしたその時だった。
「そ、そのお財布、ボクのですー!」
突然声を張り上げながら深海から学生証を取り上げたのは同じクラスの女生徒であった。
自分のことをボクと言っているがれっきとした女子である。しかしその一人称通りの少年みたいな見た目をしていて、寝癖なのか元からなのか良く分からないボサボサのショートヘアーがとても印象的だった。しかしそれ以上に名前がインパクト大なのだ。
「それ、他校の学生証でしょ? ドラさん」
そう、彼女の名は銅鑼れもん(どら・れもん)。嘘でもあだ名でもない。あの国民的アニメのキャラクターと名前が似ている気がしないでもないが銅鑼れもんなのだ。
クラスメイトにあまり興味がない真空でも覚えているくらいにインパクト大だった。
「ハッ!? あの……えと……ボ、ボクの姉の物です!」
「ハッ!? って何よ、ハッ!? って。闇夜ー、警察ー! 本物の泥棒よー詐欺師よー」
「了解した」
ポケットからスライド式の黒い携帯電話を取り出し、番号を押し始める闇夜に、ドラは元々青白い肌をもっと青くした。やめて下さいと瞳を潤ませながら何故か深海の首を掴んでグラグラさせている。
蒼白なのはむしろ首が締まって死にかけの深海の方である。
「死むー! 死むー!」
「うわー! 深海が死んじゃうよ!」
「闇夜、ストップ。殺人の加担をしてるみたいで嫌だから」
「了解した」
闇夜が携帯をしまったのを確認すると、ドラは深海の首から手を離し、ふうっと大きなため息を吐いた。
――が、真空が満面の笑みでヒラヒラと揺らす光るシルバーのカードを見た瞬間、体の全ての汗腺から汗が噴き出したのではないかと思うほど彼女は汗まみれになった。
ドラは恐る恐る自分の手のひらを確認しているが、真空が取り返したのだからあるはずがない。
「落としたわよー。深海の首を掴んだ瞬間にね!」
「わー! なんでー!?」
真空は学生証の裏に書いてある文字を見つけ、読み上げた。それはある学校名であった。
「名門金持ち私立高、戸縁学園じゃない! そんなやつから盗んだの? 深海、あんた意外とやるわねー」
「だから盗んでねーって!」
「盗みなんて最低です! 返して下さい! 返して下さーい!」
学生証を取り返そうと必死に頑張るドラだが、真空にいとも簡単にあしらわれてしまう。
「金持ちって馬鹿なのねー。さてと、銅鑼さんいじめも飽きたしそろそろこいつの馬鹿面でも拝みますか!」
「駄目っ! 月笠さん……絶対にそれを見てはなりませんよ……」
「見るなって言われると見たくなっちゃうわね」
「じゃ、じゃあ見て下さい!」
「じゃあお言葉に甘えて」
「えっ!? あれっ!? ちょ、駄目ですってー!」
見るなと言われたら見たくなる。見ろと言われたら遠慮なく見る。それが月笠真空だ。
「キャー!? もうお終いです! 減俸です! 永久追放ですー!」
意味の分からないことを叫んでいるドラには一つも興味を示さずに、真空はその学生証の持ち主の顔を目の当たりにした。
「――日笠……真空? え? あたし?」
そこには月笠真空にそっくりの、『日笠真空』という人物が映っていた。
「ほー、名前もほぼ一緒。顔と生年月日に至っては完全一致だな」
闇夜が驚きつつそう言った。真空と学生証の人物の顔を交互に何度も見やり、こんなことってあるものなんだなと呟いている。
だが闇夜の小さな呟きはドラの大きな叫び声で掻き消されていた。怪しげに叫ぶドラを不思議そうに見つめながら、大地は「いつもこんな子なの?」と真空に耳打ちしていた。
「もう駄目です! ここまでのボクの努力が深海の馬鹿な行動によって全てパーです!」
普段おとなしく目立たないドラの余りの発狂ぶりに、いつもの彼女を知っているクラスメイトの深海を含めた三人は流石に驚きを隠せなかった。
いつもはごくごく普通の女の子で、一緒にいる友人もごく普通、成績も運動神経も並みで正に空気のように目立たない存在だったのだ。
そんな彼女がまさか名前と同様におかしな子だったなんて驚きである。
「ほら深海。何か言われてるわよ。言い返してやんなさい。……深海?」
「俺、昨日バイトだったよな?」
「は? あんたのバイトのシフトなんか把握してるわけないでしょ? ……まあ、バイトだったはずだけど?」
「真空ったら照れっちゃって! 把握してるんじゃん!」
「昨日あんたがバイト先に遊びに来いってうるさかったからでしょ」
ポカリと真空のゲンコツが深海のツンツン頭に落ちた。
寝坊してセットに失敗した髪が真空の攻撃によりどんどんと悲惨なことになっていく。 ボサボサになった髪を何とか整えながら深海はぷーっと頬を膨らませた。
でも頬を膨らませる見た目ヤンキーの高校生男子なんて正直気持ち悪いだけだ。真空も闇夜も自分の世界に籠っていたドラでさえもそんな深海を白い目で見つめるのだった。
「で、それがどうしたのよ。あれだけ騒いどいてバイト行くの忘れてたーとか?」
「いや、分かんない」
「いやいや。分かんないってなんだよ、波花。その年にしてボケが始まったのか?」
闇夜が冗談めかして言う。しかし深海に冗談を言っているつもりはなかった。
「昨日の放課後からの記憶がごっそり抜けてる、みたい。良く考えたら、授業が終わって朝起きたって記憶しかない……。またいつの間にか寝てたのかって思って気にしてなかったんだけど……」
「冗談やめてよ、深海。なんかこの学生証と相まって気持ち悪いわ」
「冗談じゃないよ! ホントに記憶がないんだって!」
高齢者ならまだしも、まだ若い深海が記憶をごっそり無くすなんて少し考え難い話だ。
けれど決して嘘ではない。本当に深海には記憶がなかった。
「深海は嘘吐いてないと思うよ。深海、嘘下手だもん」
「う、うん。大地君の言うことも分かるんだけど……」
幼馴染の二人は知っているのだ。深海がどれだけ嘘の吐けない人間かということを。
それでも信じられないのだろう。真空の言う通り、彼女そっくりの学生証が入った財布が深海の鞄から出てきたというだけでも気味が悪いのに、記憶まで失くしたとなれば不安にならざるを得ない。どこか気持ちの悪いものを感じてしまう。
「とりあえずバイト先に電話してみたらどうだ? 『俺、昨日バイトに出ましたか』って」
「それって何か変な人だろ!」
「大丈夫、今でも十分変な人だから。闇夜の言う通り連絡してみなさいよ」
でもでもと文句を垂れつつも深海はポケットからご自慢のスマートフォンを取り出した。
いつも通りのぎこちない手付きで操作していたら真空に鼻で笑われてしまったのは言うまでもない。それでも頑張ってバイト先に電話を掛けた。
「もしもし、お忙しい時間にすみません。波花です。はい、あの昨日僕ってバイト行きましたっけ? そ、そんな笑わないで下さいよっ! だ、だって! も、もう分かりましたっ! ありがとうございます! はい! では失礼します!」
コロコロ変わる深海の表情を観察しながら真空と闇夜はニヤニヤ笑っていた。
「やっぱ変な人だと思われただろ! つーか思いっきり笑われた!」
「いやー、私の言ったことをそのまんま言うとは思わなかったな。傑作傑作」
「流石、馬鹿正直代表深海君ね!」
「でもそれが深海の良いところだよね」
「くそー! みんな言いたい放題言いやがって!」
「で、どうだったのよ? 行ってたの?」
「あ、ああ。行ってたみたい……。いつも通り働いてたって……」
「うわ、ますます気持ち悪いわね……」
真空は薄気味悪そうな表情を浮かべながら口元に手を当てた。
この深海の記憶喪失事件、真空も決して部外者ではない。財布が深海の鞄に入ったのはごっそり抜けた空白の時間以外に有り得ないだろう。そしてその財布には真空にそっくり人物の学生証が入っていたのだ。関係がないと考える方が難しい。
「もしバイトに出ていなければボーッとしながら帰った深海がそのまま寝ちゃって朝でしたーってのが有り得るんだけどね。バイトに出ていてかつ記憶がないとなると不気味よね」
「波花のドッペルゲンガーが波花になり変わろうとしてる……とか」
深海はゾッと背筋に何か冷たいものが走るのを感じた。
ドッペルゲンガーが本物になり変わろうとしている。怖い話などで良く目にする話だ。深海も一度テレビでそんな怖い話がやっていた時、「こんなん有り得ないし!」とか言いつつ内心ビビりながら見たことがある。
でもまさか、そんなことが現実に起こり得るのだろうか。
「闇夜、それ冗談で済まないかも」
「あ、すまん……でも……」
「冗談じゃ済まないけど……提灯さんの言っていること、正しいかもしれないよね。真空のそっくりさんの学生証があるんだもん」
「そうか!」
深海はみんなより一足遅れて冗談では済まない意味を理解した。
ドッペルゲンガーが関わっているかもしれない証拠がここに確かに存在しているのだ。そう、真空と名前以外は完全一致した人物の学生証だ。
まだドッペルゲンガーがいるとは断定出来ない。でも真空や闇夜、そして大地は深海よりも先にその存在を怪しみ始めていたのだ。
とその時、真空が素っ頓狂な声を上げた。
「あれ!? 財布どこやったの、深海!」
「え、真空が持ってたじゃん!」
「あたしは学生証だけよ!」
「あれっ? ないっ! ってか真空! その持っていたはずの学生証、どこやった?」
「だからここに……は!? 何これっ!?」
財布はなかったが真空は学生証とは違うおかしなカードを掴んでいた。某猫型ロボットの親友達が一枚ずつ持っている友情の証、「親友テレカ」というやつであった。
嫌な予感がし、深海は辺りを見回す。そういえば先ほどからおかしかったのだ。あんなにうるさかったある人物が妙に静かになっている。普通なら気付くものだが、会話に夢中になりすぎていて、みんな全く気付かなかった。
思った通り、もういない。財布と共に消えてしまった。謎の財布泥棒、銅鑼れもん。
「ドラさんがいない……」
「あー、しくじったわね。うるさいのが静かになったから安心してたんだけど、まさかね」
「いつの間に真空の手から取ったんだ、あの人。恐ろしいな」
「ちょっと待てよ。深海にゲンコツした時、一度床に置いたかもしれない……」
真空はそうボソリと呟いた。つまりあの時ドラが静かになったのは、気持ち悪い深海を白い目で見ていたわけではなく学生証を奪うチャンスを掴んだためだったのだ。
「真空が波花の頭なんか叩くからー」
「だ、だって! 何かあたしが深海のこと全部把握してるみたいなこと言うからっ!」
思った以上に真空はあの時動揺していたようだ。それが深海に対する照れ隠しなのか何なのかは分からないが、深海はいつものように冗談っぽく言ってみせた。
「真空ったらマジで照れてたの!? もうっ! 可愛いんだからっ! このこのっ!」
「は、はあ!? 違うわよ! 全然違うからね! 可愛いのは当たり前だし!」
いつものように冗談を返してくると思っていた。でも意外にも真空は顔を真っ赤にして必死に否定するではないか。本当に先程の行動は深海に対する照れ隠しだったのだろうか。
これは期待しても良いのだろうかと深海は一瞬思ったが、いやそんなことあるはずがないと勝手に否定して自己完結させるのだった。
「学生証が親友テレカになっちゃったね」
大地が真空の握る金色の親友テレカを見つめながら苦笑いした。
「なんちゃらキッドとかドラなんちゃらとかのこと思い浮かべたら連絡取れちゃったりするの? 七人集まったら強大なパワーが発揮出来たりするの?」
「真空は七人のうちの一人じゃないから無理なんじゃねえの?」
「ドラミちゃんも使えたんだからあたしだってあるいは……」
「無理だろ!」
真空は親友テレカを床に置き、「とりあえず」と呟きながらプチトマトを口に運んだ。
「お弁当、食べながら話しましょ。お昼終わっちゃう」
「そうだな。コロッケパンが冷える」
「最初から冷えてるよ、提灯」
「まあな」と深海のツッコミに同意しつつ、闇夜はもらったコロッケパンの袋を開いた。そしてパクリとかぶりつき、いつもの彼女からは想像出来ない無邪気な笑みを浮かべた。
しかし闇夜は何かに気づいたように動作を止め、鞄をごそごそし始める。
また謎の財布が出てきたりするんじゃないかと深海は一瞬不安に思ったがそんなことはなく、闇夜のものと思われる黒猫の長財布が出てきた。おすましした小さな黒猫が刺繍されたシンプルなデザインで何とも彼女らしい。
「その猫、俺ん家のうどんに似てる!」
「あ、言われてみればそうかも!」
大地が闇夜の財布を指差しながら嬉しそうに言った。真空も大地の意見に同意する。
「うどんってどんな名前だよ……」
「うちのソバとお揃いなのよ!」
「そういえば真空ん家の犬はソバって名前だったな」
動物さえ飼っていれば自分もパスタという名前を付けたのにと深海は悔しそうに奥歯を噛み締めるのだった。
「提灯さん、猫好きなの? 今度うちにうどん見に来る?」
「私は犬派だ。犬なら行く」
「あれ、そう? 残念……」
いかにも猫好きそうな顔をしているのに、これは深海も意外だった。
もしかして誰か、というか数多くのファンに遠慮しているのだろうか。大地の家に猫を見に行ったなんて知れ渡れば闇夜の平和な生活はないものと思った方が良いだろう。それくらい、大地のファンは恐ろしいのだ。
「で、いくらだっけ?」
「あ、そっか! 忘れてた!」
先程のゴタゴタですっかり忘れていたが、レシートを探すために鞄を漁っていたのだ。あの財布が出てきたためおかしな話になってしまったが、本来の目的はレシートだ。
「……そういえばそのコロッケパン、謎のコロッケパンって言ってたわよね」
「おう! 朝起きたら何故か抱き締めててさー」
「うわ。このコロッケパン、君と寝てたのかよ。通りで不味いわけだ」
「え、めちゃくちゃ美味しそうに食ってたのに……」
途端に顔をしかめる闇夜。先程の満面の笑みは一体なんだったのだろうと問いたくなる発言である。
何となく切ない気持ちになりつつも、深海は財布の中にあるはずのレシートを探る。
しかし――。
「ない。レシートがない」
「なかったのね。闇夜、それ食べない方が良いかも」
「え? もう一口食べたぞ」
「そのコロッケパン、いつ買ったか記憶にないんでしょ? だったら深海の記憶が抜けてる空白の時間に買ったって考えた方が無難よね」
「あ、そっか。でも俺が買ったのをすっかり忘れてたってことも……」
真空は深海からボロボロの財布を取り上げ、小銭入れの口を下に向け、思いっきり中身を床にぶちまけた。
ああああと叫び声を上げながら転がる小銭を追いかける深海を余所に真空は淡々と続ける。その目線の先は大量のレシート。くしゃくしゃで、小銭の色が移っている汚げな紙屑の山。しかしくしゃくしゃなのはくしゃくしゃなのだが、一つに纏めてあることが辛うじて分かる。
「あんたは必ずレシートをもらって家計簿つけるためにこうやってくしゃくしゃに纏めてる。めったなことがない限りあんたがレシートもらわないはずがないのよ、ヤンキー主婦のあんたが」
「ヤンキーでも主婦でもない!」
まだ小銭を追いかけながら、一応ツッコミだけは入れておく深海であった。
「つまりめったなこと、例えば衝撃的な事件に遭遇しちゃってレシートもらうのも忘れ、記憶も飛んでしまった。もしくは、まあこっちは前者以上に非現実的だからあんまり考えたくないけど……深海以外の誰かがそのコロッケパンを買って深海の抱き枕にしたか、ね」
「そ、そんなこと誰がするんだよ! 意味分かんないよ!」
転がった小銭を何とか拾い終え、深海はみんなの輪の中に戻る。
「うん、あたしも意味分かんない。だから非現実的度が低い前者を押すわ。どちらの説もあたし的には嫌いなんだけど。だってバイト行っていつものように働いてんのに記憶に無いのよ? 気持ち悪ーい」
「わ、悪かったな! 俺だって気持ち悪い!」
「ま、とりあえずご飯よ、ご飯。ほら、その気持ち悪いコロッケパンはとりあえずほっといて。大人しくあたしのおかずを食べなさい、闇夜」
「コロッケパン……。でも仕方ないな。真空がそんなに食べてほしいなら食べてやるか」
「あげないわよ?」
真空様はまたまたお怒りの様子だ。ピキピキと可愛い顔に青筋がくっきり浮かんでいる。
しかし闇夜は本当に全く動じない。マイペース過ぎるのもここまでくると、変わっていると感じずにはいられない。
「あ、提灯さん。コロッケなら食べる?」
「え?」
その瞬間、闇夜は嬉しさと驚きの混ざった笑顔を浮かべて大地の方に振り返った。どうやらコロッケパンが特別食べたかったわけではなく、コロッケが食べたかったようなのだ。そのコロッケが目の前にあると知って、よっぽど嬉しかったらしい。
しかし自分がコロッケにつられてどんなに嬉しそうな表情をしているか気づいたようで、すぐに恥ずかしそうにコホンと咳をして「い、いらん」と小さく呟いたのだった。
「いらないって言ってるんだからあげなくて良いわよ、大地君。こんな頑固者」
「いやいや……。遠慮しないでいいんだよ、ほら?」
にこにこと変わらぬ笑顔でコロッケを差し出す大地。大地は誰に対しても優しく接しているが、やはり闇夜に対する優しさはそれらとは違うと深海は感じていた。男の勘である。当たるかどうかは分からない。
「じゃ、じゃあ頂く。ありがとう」
「あたしの時もそうやって素直に受け取りなさいよね」
「真空の怒る顔を見るのが楽しいからな」
「あんたねえ……。このあたしをからかおうなんて百年早いのよ。仕返ししてやるから覚悟しときなさい!」
不敵に笑う闇夜にそう宣戦布告し、真空はパクパクと弁当を食べ始めた。
闇夜も気にせず黙々とコロッケを頬張り始めたが、深海はまた真空が怒ってしまったのだろうかと気になり、真空の顔を覗き込んだ。
すると意外にも真空はにっこりと笑顔を浮かべているではないか。予想だにしていなかった真空の可愛らしい笑顔に深海は見惚れてしまうのだった。
「な、何よ。深海」
「へっ!? いや! あの! あっ! 俺、昼飯ないんだ! 寝坊したから! だから真空から頂こうかな、と!」
赤面しているのを悟られないように突然立ち上がり、大きな身振りで深海は言う。
普段は好きとか可愛いとか軽々しく言ってみたりして、冗談っぽく振る舞っているが、やはり真空のふとした仕草とか笑顔とかを見ると本気で赤面してしまう自分がいるのだ。
そんな深海の気持ちなんか知らない真空は何こいつと言わんばかりの蔑みの瞳を向ける。
「はあ? あんたお昼ないの? 草でも食べてれば?」
「真空、酷い! 提灯の時と態度が違うー!」
「深海、俺の弁当ちょっといる?」
「え? くれんの? やっぱり大地は優しいなー。真空も見習えよ!」
「はあ?」
真空の額にくっきりと青筋が浮かんだその時、昼休みの終わりを告げるチャイムが盛大に鳴った。
「あー! あんたのせいで終わったじゃない!」
結局深海は昼ご飯抜き。真空や大地は半分しか食べることが出来ず、闇夜は大地からもらったコロッケのみだった。
しかし何とも濃い昼休みであった。深海の鞄から出てきた謎の財布。その持ち主、日笠真空の存在。深海の記憶喪失問題。そしてドッペルゲンガーの影――。
真相が気にならないと言ったら嘘になるが、これ以上足を突っ込むのは危険な気もする。
ドッペルゲンガーで有名な話には入れ替わりの他にもう一つある。それはドッペルゲンガーに出会うと死ぬという都市伝説である。話の流れから入れ替わりの方ばかりに気を取られていたが、実際にはこっちの話の方が有名と言えば有名だ。
ドッペルゲンガーと出会うと死ぬ。そして真空にそっくりな『日笠真空』の存在。深海は自分よりも真空の方が危険なのではないかと感じ始めていた。
「そーだ。あたし今日、戸縁学園に行くわ。日笠真空に会ってくる」
「え?」
「真空、やめよう! ドッペルゲンガーってあれだぜ? 会ったら死ぬんだぜ!?」
「そんなもん信じてるの? 馬鹿ねえ」
「でも万が一ってこともあるだろ!? 絶対危険だって! やめとこうぜ! マジで!」
深海は『日笠真空』に会いに行くという真空を止めようと奮闘していた。
授業中、何とか真空を説得しようとずっと話しかけていたら教師に問題を解くように言われ全く分からず恥をかいたり、休み時間にしつこく付きまとっていたら女子トイレに侵入しそうになり周りの女子達から非難の目を向けられたりしながらも頑張った。
しかし真空はこうやって日笠真空がいる戸縁学園に行くため、最寄り駅に向かっている。
「提灯は来なかったんだ?」
「うん、闇夜はおじいちゃんとお出掛けだって。すっごく仲良いの」
「言われてみればおじいちゃん子っぽいな」
あの盆栽でも愛でていそうなのんびりマイペース加減はおじいちゃん子だからなのかと深海は納得した。あれだけ闇夜がマイペースなのだからその祖父もなかなかのマイペースなのだろうか。いや、逆にマイペースな闇夜を包み込めるような懐の広い人なのかもしれない。
「往復で五百円以上するじゃない。ま、仕方ないか」
そんなことを深海が考えているうちに、いつの間にか最寄り駅に到着していた。
深海達の住んでいる町は都会ではなく、どちらかと言えば田舎の部類に入る。駅前も閑散としていて小さなコンビニ、和菓子屋、パン屋などがちらほらと建っているくらいだ。
真空はテキパキと自分の切符を購入するとおろおろする深海なんて放っておいて改札の方へと向かってしまった。
深海も仕方なく切符を購入すると真空の後を追う。
「なあ、やっぱり行くのかよ」
「行くわよ。あたしは何と言われようと行く。あ、ちょうど出るわ!」
真空の言った通り、一号線出発しますと言う放送が流れた。
深海と真空はその電車に乗り込み、空いた席に腰掛けた。普段深海は他の人が座れるようにと電車内では立っていることが多いのだが、こんなに空いているのだから座っても罰は当たらないだろう。
スクールバッグを膝に置き、真空はふうと一息吐いた。
「あんたは付いてこなくていいのよ、ホント」
「お前が心配なんだよ」
「ふ、ふーん。じゃあ少しは役に立ってね。暇だし何か面白い話、してよ」
「面白い話ならいっぱいあるぜー。昨日、ネットで見たん――もごっ!?」
「黙って、深海」
嬉々として語り始めた深海の口を真空が左手で押さえた。これからネットで仕入れた超絶面白い話を語るはずだったのに拍子抜けである。
少しむっとして眉を吊り上げながら真空を見やると、彼女は右手人差し指を口元に当てて小さく「しー」と呟いた。
その可愛すぎる仕草にむっとしたことなんて忘れて口元を押さえられたままこくこくと頷く深海だった。
「向こうの車両にドラさん発見」
ニヤリと笑って、真空はクイッと顎で隣の車両を見るよう促した。
彼女の言った通り、制服姿で一人椅子に座るドラの姿がそこにはあった。思い詰めたような表情を受かべながら、移りゆく景色をボーっと眺めている。
「どこに行くのかしらね。というかまだ近くにいたのね」
「午後の授業に出てなかったからてっきり帰ったのかと思った」
「電車通学なのかしら。それとも……」
そこで一呼吸置いて、真空はまたまた不敵な笑みを浮かべる。
「戸縁学園に行く、とか」
本当に好奇心が旺盛過ぎるのも困ったものだ。真空は今のこの状況を楽しんでいる。
深海はもしかしたら本物のドッペルゲンガーかもしれない。真空が死んでしまうかもしれないと不安で仕方がない。
しかし当の本人はこの状況が面白くて楽しくて、怖さなんか全く感じていないようだ。元々非科学的なものは信じない性格のせいでもあるのかもしれない。
「とりあえずドラさんに聞いてくるわ」
「ええ!? 直接かよっ!」
深海が止める前に真空はスッと立ち上がり、隣の車両に移っていってしまった。彼女は何でも一人で決め、一人で行動する。自分に絶対の自信があるのだろう。
仕方なく深海も真空の後を追い、隣の車両へ移るのだった。
「ハーイ、ドラさん。こんにちは」
「ああ、真空ですか。こんにちは」
意外にもドラは驚き一つ見せなかった。
というよりむしろこちらの方が面を食らってしまった。元々色白な方だったが、それとは比べ物にならないくらい肌が青ざめており、今にも倒れそうなのだ。
「ド、ドラさん、大丈夫? 顔色悪いみたいだけど……」
「上手くいっていたのに深海があれを持っていたせいでボクの心は折れる寸前ですよ」
「は、はあ? えっと、話が良く見えないんだけど。あの『日笠真空』のこと?」
ドラはすぐには答えなかった。長い沈黙が続く。
先程深海達がいた車両には数人乗っていたのに、この車両には深海と真空とドラしかいなかった。何だか少し薄気味悪い。それに加えてこの沈黙だ。深海は何か嫌なものを感じて仕方なかった。
「どういうこと、ドラさん。あなた、何を知ってるの? 教えて」
「だってどうせ真空は信じないじゃないですか」
「はあ? 何それ。逆に聞かないと気が済まないわ。てかさっきから呼び捨てね」
ドラは少しだけ申し訳なさげな笑みを浮かべて言う。
「ずっと見ていましたから愛着が湧いてしまって……」
「ド、ドラさんってそっち系の趣味っ!?」
そう発言した瞬間、深海は真空とドラに冷たい視線を浴びせられたのは言うまでもない。
深海は軽口を叩いてしまったことを素直に反省し、口を噤んだ。
「何を知っているのか教えて。知りたいの」
「教えたら日笠真空に会いに行くことをやめて下さいますか?」
ドラの口から出た『日笠真空』という単語。やはりその人物が本当に存在し、関係しているのだろうか。深海は更に恐怖を感じた。
「それは内容によるわ」
「絶対に会いに行かないとは約束してくれないんですね」
「そりゃそうでしょ、聞いてみなきゃ分かんないわよ」
「それもそうですね」とドラは自嘲気味に笑い、ふうと大きなため息を吐いた。ドラは何を知っているのだろう。そして彼女はいったい何者なのだろう。
また沈黙が続くかと思ったが、意外にもドラはすぐに口を開いた。
「『日笠真空』と『月笠真空』はお互いがお互いのドッペルゲンガーのようなものです。厳密に言うと違いますが、便宜上そう呼んでいます。こんな都市伝説を知っているのではないでしょうか。ドッペルゲンガーに出会うと謎の死を遂げる。これは都市伝説ではありません。ドッペルゲンガーに出会うと死にます。そしてその運命は決して避けられるものではないのです。あなたと『日笠真空』は生まれた時から惹かれあう存在。遅かれ早かれ二人は出会い、そして死ぬ。これが『日笠真空』に会ってほしくない理由です」
先程よりも長い沈黙が流れる。言葉を返すことが出来ない。
深海は恐れていたが、どこかでそんなことは有り得ないと否定していたのだ。でもドラは、ドッペルゲンガーは本当に存在し、真空は遅かれ早かれドッペルゲンガー『日笠真空』と出会い、そして死ぬのだと言う。
そんなこと信じられるわけがない。あるわけがない。
でもまるっきり嘘だと言いきれない。学生証の存在、消えた記憶。普段ではありえないと笑い飛ばすようなおかしなことが深海や真空達の身の周りで起こっているのだから。
嘘であってほしい、冗談であってほしいと思う傍ら本当の話なのではないかと深海は感じつつあった。
「何それ、信じられない」
「だから言ったのですよ。でもこれは真実です。嘘でも冗談でもありません」
「あんたは……あんたは何なのよ? 一体誰なの?」
「ボクはあなたの監視役です」
そういえば先程ずっと見ていたと言っていた。ドラは真空が生まれてから今までの間ずっと観察していたということだろうか。
でもドラはどうみても深海や真空と同じ年くらいにしか見えない。真空が生まれた時から観察するのなんか無理に等しい。
「あんた一体何歳なのよ」
「ボクはー。何歳なんでしょうか? 自分でも覚えていません」
そう言ってドラは乾いた笑い声を上げた。もしかしたら聞いてはいけない話だったのかもしれない。
「はっきりしないわね。正直言ってあんたは信用できない。財布盗んだと思えばこんな電波な話を突然し出して自分のことなんか碌に説明もしないし。頭のおかしい人だとしか思えない」
「ま、真空……落ち着けって」
「落ち着いていられると思う? いきなりドッペルゲンガーと惹かれあって死ぬとか言われたのよ? 冗談だったら病院送りくらいじゃすまないわよ? 何で良く話したこともない泥棒クラスメイトの話なんか信じなきゃならないのよ。あたしは絶対無理。あたしは自分の目で見たものしか信じない」
真空は昔からそうだ。科学的根拠のない話とか、非現実的な話は絶対に信じない。
それだけではなく、うわさ話なども信じない質だった。嫌われている人がいたら、大抵の人間はその人と関わったことがなくても少し距離を置いてしまいがちになることが多い。
しかし真空は絶対にそれをしない。どれだけ周りが嫌っていようと真空には関係ない。逆もしかりだ。
本当にはっきり、さっぱりした性格で、日本人からは嫌われやすい性格なのかもしれない。現に敵は多い。
「ドラさん、本当に冗談じゃないのか?」
「信じられないのは分かります。でも冗談じゃありません。もし冗談だったら、ボクに何をしても構いません。だって冗談じゃありませんから」
ドラの瞳は本気だ。深海にはドラが嘘を言っているようにはどうしても思えなかった。
でも真空が死ぬなんてことも信じられない。だって真空はこうして息をして、いつも通りの高慢な態度でそこにいるのだから。その真空が『日笠真空』に出会って死んでしまうだなんて、誰が信じることが出来ようか。
「どうせ逃れられないのですし、行きましょうか。ボクと一緒にもう一人の真空に会いに」