プロローグ
夏の暑さも和らぎ、そろそろ箪笥の奥から冬用の制服を取り出してこなければならないそんな九月終わりの朝。
優良高校生男子の波花深海は微かに開いた窓から入り込む肌寒い風に頬をくすぐられ目覚めた。
深海はふわあと一つ大きな欠伸をして眠たげに目を擦る。自分で染めたボサボサの金髪頭を荒々しく掻き毟ろうとすると、ふと自分が手に何か握っていることに気が付いた。
見てみるとそれは一つのコロッケパンだった。何でこんなところにコロッケパン? というかこんなの買ったっけ? と疑問は次々に浮かんで来るが、考えても答えは出ない。
それなら仕方ない。深海は昼ご飯にでもと、そのコロッケパンを通学鞄に投げ入れた。
そして四月に機種変更したばかりのスマートフォンを手に取り、時間を確認する。
「八時かー。よく寝たなー」
そこで深海は硬直した。ちょっと待て、よく考えよう。授業が何時から始めるのかを。いつも何時に目覚めているのかを。
「このままじゃ遅刻じゃねーか!」
深海は布団を放り投げ、寝間着のジャージを光の速さで脱ぎ捨てた。そして二年目の付き合いになる制服をハンガーごと腕に抱え首から鞄を下げると、部屋を飛び出した。
リビングには誰もいない。朝ご飯すら用意されていない。しかし深海の家庭ではそれは当たり前ことだった。
深海はどんなに急いでいる時でも欠かさないことが一つだけある。ジャージを脱ぐよりも早く着替えを済ませると、リビングの隣にある和室の襖をゆっくりと開けた。
その部屋には一目見て女性の部屋と分かる家具や小物の数々が置かれており、奥に小さな仏壇があった。
小さな写真の中で笑うのは、深海とどことなく雰囲気の似た女性。深海の母親である。
深海はその前に正座をし、線香をつけた。リンを鳴らしてから目を瞑り、口元辺りで手を合わせる。
母さん行ってきます、今日も楽しく過ごせるように見守っていて下さい。そんな風に天国の母親に一日のことをお願いする。それが深海の日課であった。
「遅れる! じゃ、母さん行ってきますっ!」
鞄を肩に掛け直し、丁寧に襖を閉めた。そしてリビングのドアを荒々しく開け、そのまま開けっ放しで家を後にした。