準備に抜かりはございません
「すぅー……はぁー…… 大丈夫ですわ」
背後から、侍女の心配そうな声がかかった。
「お嬢様、本当に大丈夫でいらっしゃいますか?」
「ええ。今日という日のために、どれほど準備を重ねてきたと思っているの」
数日前、婚約者である王太子から王城で開かれる夜会へ出席するよう告げられて以来、入念に準備を重ねてきた。
「ハンカチは?」 「三枚ご用意しております」
「一枚で十分よ」 「昨日は五枚必要とおっしゃっていましたが」
「考え直したの。何度も涙を拭っていては美しくないでしょう」
「……泣かれることは決定なのですね」
「万一に備えているだけよ」
何が起きても取り乱してはいけない。それでも涙が零れてしまったなら、一度だけそっと拭う。
一筋。 多くても二筋。 それ以上はよろしくない。
「化粧は?」
「昨日、洗面器の水をお顔にかけても崩れませんでしたので、問題ございません」
「なら大丈夫ね」
「……普通はそこまで確認いたしません」
「では、扇を」
侍女から扇を受け取り、姿勢を正して手首の力を抜く。
ぱさり。
「……少し左ね」 「何がですか?」
「落とす位置よ。もう少し左の方が綺麗でしょう」
「そこまで調整なさる必要がございますか?」
「本番で失敗するわけにはいかないもの」
扇を拾い上げ、もう一度。
ぱさり。
「これね」
「本当にそこまでなさるのですか……」
その瞬間が訪れたなら、まず息を呑む。手から扇を落とし、三秒。それから、わずかに唇を震わせる。
ここまで決めてある。
「昨日から二十七回練習なさっています」
「二十九回よ」 「二回増えておりますね」
「眠る前に確認したの」
「……左様でございますか」
鏡台へ置かれた書類を手に取る。
そこには、これまで王家から贈られた品が一つ残らず書き出されていた。
髪飾り、首飾り、誕生日に贈られた絵画、外国から取り寄せたという茶器。
「こちらも問題ないわね」
「はい。お嬢様のお申し付け通り、すべて確認しております」
「漏れは?」 「ございません」
「なら大丈夫ね」
書類を鏡台へ戻した。
「荷物は?」 「昨夜のうちに手配しております」
「馬車は?」 「王城正門近くで待機させるよう申し付けてございます」
「御者には?」 「お嬢様がお戻りになり次第、すぐに出発できるよう準備させております」
「完璧ね」
「…………完璧でございます」
最後に鏡へ目を向け、自分の姿を確かめる。
「参りましょう」
胸を張り、侍女を伴って部屋を後にした。
◇ ◇ ◇
王城の大広間には、多くの貴族が集まっていた。
予想していた以上の人数だった。
それだけ重要なことなのだろう。
視線を巡らせると、アルベルトの近くに一人の令嬢が立っていた。
ミレーヌ・バーデン伯爵令嬢。
ここ数か月、アルベルトと頻繁に会っていると噂されている令嬢だった。
王城の図書室 庭園 慈善事業の打ち合わせ
幾度かアルベルトと二人でいるところを目撃されている。
最初は偶然だと思った。 二度目も。 三度目までは。
しかし五度を超えれば、さすがに察する。
しかも最近のアルベルトは、何かを隠している様子だった。
話しかけても、どこか歯切れが悪い。
予定を尋ねても『少し準備があって』と濁す。
さらに『近いうちに大切な話がある』とまで言われている。
ここまで揃えば、覚悟を決めるには十分だった。
すると、そのアルベルトがこちらに気付いた。
「リディア」
いつもと変わらない声だった。
「殿下」
アルベルトはミレーヌを伴い、こちらへ歩いてくる。
「私、アルベルト・レイヴァンは、リディア・アルヴェイン侯爵令嬢との婚約を正式に――」
左手から扇が落ちた。
ぱさり。
「…………」
「…………」
「……なぜ扇を落とした?」
「お気になさらず」
「いや、気になるが」
「殿下はそのままお続けくださいませ」
「この状況でか?」
「覚悟はできております」
「何の覚悟だ?」
「何の、と申されましても……」
「リディアは何の話をしている?」
少し迷った。
ここまできて、あえて口にさせるつもりなのだろうか。
「……婚約を破棄なさるのでしょう?」
アルベルトの動きが止まった。
「…………は?」
「ですから、わたくしとの婚約を破棄なさるのでしょう?」
「しないが?」
今度はこちらが止まった。
「…………え?」
「…………」 「…………」
「……なさらない?」
「しない」
「婚約破棄を?」 「しない」
「わたくしと?」 「しない!」
「……では、今夜は何のために?」
「私たちの婚約を正式に発表するためだ!」
アルベルトの声が大広間に響いた。
固まった。
「では、ミレーヌ様は」
「殿下から、あなたへの贈り物について相談を受けていただけです」
ミレーヌ本人が答えた。
「え」
「婚約発表に合わせて、何かお贈りしたいとのことで」
「私には姉妹がいないからな」
「ですが、何度もお二人で」
「贈り物を決めるのに時間がかかった」
「図書室でも」 「外国の宝飾品を調べていた」
「庭園では」 「花の種類を聞いていた」
「慈善事業の打ち合わせでは」 「そちらは本当に慈善事業の打ち合わせでございます」
頭の中で、何かが音を立てて崩れた。
「では、殿下が最近わたくしに何か隠していらしたのは」 「今日の発表を驚かせたかったからだ」
「『大切な話がある』と」 「婚約を正式に公表する話だ」
「大勢の貴族を集めたのは」 「婚約発表だからだ」
「殿下が険しいお顔で「緊張していたんだ!」
プッ
それをきっかけに、大広間のあちこちから笑い声が広がっていく。
ゆっくりと膝を折り、床に落ちた扇を拾い上げた。
「……そうでしたの」 「そうだ」
「婚約破棄では」 「ない」
「まったく?」 「まったくだ」
扇を開き、顔を隠した。
アルベルトが深く息を吐く。
「一体なぜ、そんな勘違いを」
「……状況が」 「状況が?」
「完全に婚約破棄でしたので」 「どこがだ!」
「伯爵令嬢と頻繁に会う王太子」 「贈り物の相談だ!」
「大切な話があると呼び出される婚約者」 「婚約発表だ!」
「貴族が集められた大広間」 「婚約発表だ!」
「殿下が険しいお顔で「緊張していたんだ!」
アルベルトは肩で息をしていた。
少し考えた。
「……紛らわしいですわ」
「私が悪いのか!?」
「では、今日まで重ねてきた準備はどうすればよろしいのですか」
「知らん!」
国王がとうとう声を上げて笑った。
王妃も扇で口元を隠しているものの、肩が震えている。
急に恥ずかしくなってきた。
だが、問題はそれだけではない。
「あの」
「何だ」
「殿下」
「今度は何だ」
「申しておかなければならないことが」
「……言ってみろ」
「殿下からこれまでいただいた贈り物は、すべて箱詰めいたしました」 「なぜ?」
「返却するために」 「なぜ?」
「婚約破棄かと」 「婚約破棄されない」
「返却しなくていい」
「それから、わたくしの荷物はすべて領地へ送りました」
アルベルトが止まった。
「……すべて?」 「ほぼ」
「なぜ?」 「今日中に王都を離れる予定でしたので」
「婚約破棄されない」 「はい」
「戻せ」 「すでに出発しております」
「戻せ!」 「今頃、領境を越えているかと」
「早いな!」 「昨夜発送しましたので」
アルベルトは額を押さえた。
「あと、王城正門に馬車を待機させております」
「何のためだ」 「このまま領地へ帰るために」
「帰るな!」
「御者には、わたくしが乗り込み次第、休憩を最小限にして侯爵領へ向かうよう伝えてございます」
「撤回しろ!」 「はい」
「はぁ……」
「あ、あの……」 「まだあるのか?」
「はい」 「……言え」
「婚約破棄後の生活について、父と相談いたしまして」
「待て」
「領地経営を学ぶため、来月から南部の農村地帯を半年ほど巡る予定を組んでおります」
「待て」
「宿泊先もすべて押さえてございます」
「待て!」
アルベルトが頭を抱えた。
「なぜそこまで準備が早いんだ!」 「破棄されてから慌てては、侯爵家の名に傷がつくでしょう?」
「そもそも破棄されるか確認しろ!」 「殿下へ直接、『わたくしを捨てるおつもりですか』とは聞けませんわ」
「聞け!」 「品がございません」
「この状況よりましだ!」
会場はもう完全に笑いに包まれていた。
ますます扇の後ろへ隠れた。
アルベルトはしばらく黙っていたが、やがて肩の力を抜き、リディアの手を握った。
「とにかく」 「はい」
「話を戻すぞ」 「はい」
アルベルトは深呼吸した。
「私、アルベルト・レイヴァンは、リディア・アルヴェイン侯爵令嬢との婚約を正式に――」
左手から扇が落ちた。
ぱさり。
アルベルトが固まる。
「……なぜ今度も落とした?」 「癖で」
「今日中に直せ」 「努力いたしますわ」
今度こそ、大広間は盛大な笑いに包まれた。
◇ ◇ ◇
夜会を終えて自邸へ戻ると、侍女が待っていた。
「お帰りなさいませ、お嬢様」
「…………」
「いかがでございましたか?」
無言で扇を差し出した。
「……婚約破棄ではなかったわ」
「左様でございますか」
「婚約発表だったの」
「…………」
「では、ミレーヌ様は」 「わたくしへの贈り物の相談」
「殿下の隠し事は」 「婚約発表の準備」
「大切なお話は」 「婚約発表」
「…………」
「…………」
侍女は受け取った扇へ目を落とした。
「二十九回も練習なさいましたのに」
「落とす位置は完璧だったわ」
「……左様でございますか」
「ええ」
「洗面器の水は」 「それは忘れて」
「ハンカチは」 「それも忘れて」
「かしこまりました」
侍女は扇を鏡台へ置いた。
「では、お荷物を戻す手配をいたします」
「お願い……」
「王家からいただいたお品も箱から出しておきます」
「それもお願い……」
侍女は一つ頷くと、髪飾りへ手を伸ばした。
◇ ◇ ◇
翌日。
王城の一室で、アルベルトと向かい合っていた。
「荷物は戻せそうか?」 「半分ほどは」
「半分?」 「一部はすでに侯爵領へ到着しております」
「……そうか」
「父から伝言がございました」 「何と?」
少し視線を逸らした。
「『帰ってくると思って部屋を整えさせたのに』と」
アルベルトが吹き出した。
「笑わないでくださいませ」 「すまない」
「それから母からは」 「うん」
「『婚約破棄されていないなら戻ってこなくてよい』と」
「侯爵夫人らしいな」 「ひどいですわ」
アルベルトは笑いを収めた。
「しかし」 「はい?」
「昨日のことで一つ分かった」 「何でしょう」
「君は、私と別れることになっても、驚くほどたくましく生きていけるらしい」
少し考えた。
「半年分の予定まで組んでおりましたから」 「昨日聞いた」
「一年分でも組めましたわ」 「何の自慢だ」
「ですが」
扇を閉じ、アルベルトを見る。
「その予定を使うことにならなかった今の方が、ずっと嬉しいです」
アルベルトが目を瞬く。
頬が少し赤くなる。
「……そうか」
アルベルトはリディアの手に自分の手を重ねた。
「使わせるつもりはない」
「では、今後必要になるものを整理しておきませんと」 「待て」
「はい?」
「もう何も準備するな」
「ですが」
「頼むから、もう何も準備しないでくれ」
少し考えた。
「……承知いたしました」
「本当だな?」 「もちろんですわ」
「…………」
「…………」
「あ」
アルベルトの顔が強張った。
「何だ」
「結婚後に必要な荷物だけ、領地から直接王城へ送れば二度手間になりませんわね」
「リディア」 「はい?」
「今、もう何も準備するなと言ったばかりだ」
「まだ準備はしておりませんわ」 「考えるのもやめろ」
「それは無理ですわ」
「…………」
にっこりと笑った。
◇ ◇ ◇
翌朝。
アルベルトのもとへ、リディアから分厚い書類が届いた。
表紙には、達筆な文字でこう記されていた。
『婚姻後の荷物搬入計画書』
全四十二頁。
「…………」
アルベルトは天井を仰いだ。
「何も準備するなと言っただろう……」




