狂ったオルゴール
「じゃあ父さん、行って来るよ。」
「ああ。」
そう言って、俺は家を後にした。
「十六、か……。」
俺の名前はエル。母さんの名前を取って、父さんが付けてくれたらしい。今日は、俺の十六歳の誕生日だった。この街では、十六歳になれば成人として見なされる。つまり、俺も今日から大人の仲間入りという訳だ。
「なんか、全然実感ないな……。」
そう、俺にとっては、成人と言う言葉には何の意味もなかった。普通の大人と同じように仕事にも出ていれば、家ではこっそり父さんとお酒を飲んでいたりもする。つまり、今までの生活と何も変わらないのだ。
俺が仕事に出ている理由は、父さんが街の人々に疎まれていて、仕事ももらえないということだ。生活にはお金が必要だろうと思って、自給自足の生活に限界を感じた俺は、十三歳になった時に父さんに代わって仕事に出るようになった。父さんが悪い訳ではないと、俺は思っている。おそらく父さんは、何かの事件に巻き込まれてしまったために、人々に避けられるようになってしまったのだろう、と。こんなにも優しくて、温かい人柄の父さんなのだから。
「あ、来たのね、エル。おはよう。」
俺を迎えてくれたその声は、俺が勤めている食堂のウェイトレスの、アリスのものだった。陽気で気さくな彼女は客からの評判も良く、店の看板娘となっていた。もちろん俺だって、まともに仕事がもらえている訳ではない。この店の主人の厚意で、おもに裏方の仕事を行っていた。俺が表に出ると、色々と問題もあるだろうし……。
「エル、今日は誕生日でしょ?だから、プレゼントを用意したのよ!」
アリスはそう言って眩しい笑顔を俺に向けた。ふと、父さんの思い出話が俺の脳裏をよぎった。母さんも、笑うととてもきれいな人だったらしい。俺に、よくそう聞かせてくれていた。アリスは父さんの子だというだけで人々に疎まれている俺にも、とても優しくしてくれていた。理由なんか考えたことはないが、その優しさが常に俺の支えとなっているということは、紛れもない事実だった。
「いいのか?アリス。俺、この前のお前の誕生日忘れてたし……。」
アリスが満面の笑みを浮かべた。
「いいよ、別に。来年も忘れてたらぶっ飛ばすけどね。」
そう言って彼女は、俺の手に両手に少し余る位のプレゼントを乗せた。中身は、すぐにわかった。
「……ケーキか?」
「ご名答!」
ザワ……。彼女の明るい表情に、俺の中の何かが騒ぐ。全身が熱くなり、総毛立つ。意識が、一瞬薄れる。
「どうしたの?エル。」
「え、あ、いや……。」
自分でも気付かない内に、彼女の手首をきつく握りしめていた。俺は、一体何がしたかったのだろうか?今までそんなこと、一度もなかったのに……。体中の血が、ザワザワと騒ぎ続けている。
「なんでもないよ、ありがとう。」
彼女の手首を、パッと放す。すぐにまた捕まえたくなる衝動を、ぐっと堪えた。アリスは、また眩しい笑顔を振りまくと行ってしまった。
「……どうかしてるよな。」
食堂の掃除に行ったその後ろ姿を見送りながら、俺はそう自分に言い聞かせるように呟いた。
「ただいま。」
「ああ、おかえり。」
俺が帰宅するのは、すっかり暗くなってからだ。父さんは、いつも待っていてくれる。
「アリスがケーキを焼いてくれたんだ。一緒に食べよう。」
俺はそう言って、父さんがいる居間ではなく、食堂に入った。食卓の上で、その包みを開く。中にはケーキと、手紙が一通。かわいらしい薄桃色の便せんには、花びらが描かれていた。ケーキの甘い香りを吸い込んだそれを開く。中まではケーキの香りは染み込まなかったようだ、開いた途端に、アリスの香り、菫の匂いが広がった。父さんの肩が、その匂いにピクリと動く。そう言えば母さんも菫の匂いがしたって、父さんが言ってたよな……。
「親愛なるエル
お誕生日おめでとう!私の誕生日を忘れていたことは、百歩も千歩も譲って許してあげます。優しいでしょ?来年は忘れないでよ!
どうでもいい話はさておいて、本題に入ります。あ、エルの誕生日がどうでもいい話なんじゃないわよ。本当は、このプレゼントを渡すのも、すごく迷いました。でも、エルは鈍いからこうでもして機会を作らなきゃ、気付いてくれないでしょ?……私、エルが好きです。」
彼女らしい手紙の書き方に、彼は自分が自然と笑顔になっていることに気が付いた。最後の言葉を書いたことで一気に恥ずかしくなってしまって、差し出し人も書かないで封筒に手紙をしまったのだろう。彼女らしいせっかちさが窺えてなんとも微笑ましかった。そう言えば、俺も今日から成人か。それなら。
「ねえ、父さん?」
「どうした?」
食堂に入って来た父さんは、そう俺に返事をしながら席に着いた。
「父さんは、いくつの時に母さんと結婚したんだっけ?」
「どうした、急に?気になる子でもいるのか?」
父さんの言葉に、俺はチラリとケーキを見やった。それだけでも、俺の言いたいことをわかってくれるはずだ。父さんは、その答えを見逃すことはなかった。深く息を吸い込んでから、長く吐き出す。父さんは、何度もそんな呼吸を行っていた。そして、しばらくしてから口を開いた。その動作は、俺には一生忘れられないだろう。とてつもなく辛そうに、重そうに父さんの唇が動いた、その様子を。
「お前も、今日で十六か……。」
「うん、そうだよ。」
またやや長めの沈黙が部屋の中に訪れる。居心地の悪さを感じるその静寂を破ったのは、またしても父さんの方だった。
「そろそろ、話して聞かせた方がいいのかもしれないな。」
「話して聞かせるって、何をだよ?」
父さんの薄茶の瞳が、俺を見上げて来た。一瞬俺と視線を合わせてから、またすぐそれを自分の手元に落とす。もしかすると、話しにくいどころか、話したくないことなのかもしれない。どうしてだろうか?普段はあんなに優しい目をして、母さんのことを俺に聞かせるくせに。
「エル、座れ。少し、長い話になる。そして何より、お前には耐えられないような話かもしれないな……。それでも良いなら、座って父さんの話を聞くんだ。」
「あんまり長いノロケ話なら、聞かないよ。」
ふざけた調子の俺に一瞬きつい視線を当ててから、父さんは重い唇を動かし始めた。俺の運命が、動きだした。
「今から十九年前、いや、もう二十年近いな。父さんと母さんは、恋人として平和に過ごしていた。母さんは体が弱かったんだが、陽気で明るい、美しい人だった。」
父さんの語る声、その瞳は、どこか遠くに向けられていた。おそらくは、時の彼方の自分たちに。
「その頃この街は、小さいながらも独立した一つの国だったんだ。大国に囲まれていながらもな。その小さな国は、皆が軍神と呼んでいた存在によって護られていたんだ。」
その後の父さんの話は、俺にはとても衝撃的なものだった。綺麗だった母さんは巫女として祭りに参加して、軍神に見染められてしまう。そして、父さんの元に嫁いで来るはずだったその日に、神殿の贄として神殿の奥の間、軍神が待つ場所に送り込まれてしまったという。国への守護と、交換条件で……。そして俺が何よりも驚いたのは、父さんが、この温和な父さんが、母さんを奪われたくないがために神殿に乗り込み、その軍神を倒したということだった。
「どこからどうやって奥の間に入ったのかも、どうして神殿の剣を持っていたのかもわからない。だが父さんが気が付くと、その剣先からは血が滴っていて、足元には軍神と名乗っていたものの死体があった。そして父さんは、母さんを左腕に抱えていた。そこに、神殿に仕える者が一人、やって来た。」
そこで父さんは、一度言葉を切った。コップに水を汲んで来て、一口それを口に含んでから、やや緩慢な動作でまた口を開いた。
「そいつは、父さんを指差して、こう言った。」
また一度音に区切りをつけてから、父さんは話を続けた。どうやら今の一瞬の間で、言われたことを正確に伝えようと考えたようだ。
「これよりお前は、神殺しの異名を背負うこととなる。お前は、神殺しとして人々に恐れられ、忌避され、排斥されるだろう。それが、お前に耐えられるかな。」
「神殺し……。」
呟いた俺の言葉に、父さんは重く頷いた。その薄茶の瞳の奥には、色々な感情が渦巻いている。怒り、絶望、そして悲しみ。だが、それら全ても含めて父さんの瞳の奥にある物を呼ぶとすれば、狂気、という言葉が一番ふさわしいのかもしれない。父さんの話は、まだ続いた。
「父さんは、それでも構わない、と思った。たとえ人々に避けられようと罵られようと、母さんさえいてくれれば、それで良いと思っていた。だが、そうもいかなかったんだ。」
「どうしてだよ?父さんは無事に母さんを助け出したんだろ?その後にちゃんと俺も生まれて……。」
父さんが重く首を振る様子を見て、俺は口をつぐんだ。何が起きたのだろうか?血が、騒ぐ。全てが逆流して、嫌な悪寒が俺の体を走る。この先を聞いてはいけない。なぜだろうか、そんな気がした。外界の全てを拒絶しようとする体を意志の力で抑えつけて、俺は耳に全神経を傾けた。
「贄として神殿に差し出された娘は、全員無事に戻っては来る。たった一か所、心を除いてな……。そして、母さんもその例外ではなかった。」
「っ……!嘘だろっ?じゃあ!」
ゆっくりと俺に頷いて見せてから、父さんの唇がまた動いた。俺の目は、その動きを追うのがやっとだった。父さんの話が衝撃的過ぎて、俺の思考回路は混線していた。
「母さんの心は、壊されてしまっていた。父さんも、それを知った時には、ひどく絶望した。どこか一か所でも違っていれば、母さんをそんな恐ろしい目に遭わせずにすんだかもしれないのに。父さんの胸の中には、今もその後悔がくすぶっている。」
その後悔を吐き出そうとでもするかのように、父さんは深く息を吐いた。俺は黙ってその様子を見つめながら、父さんの声に対して拒否反応を示す体をなんとかして押さえつけていた。
「だが、一度狂わされたオルゴールは、狂った旋律を奏で続ける……。」
珍しいな、と俺は思った。まさか父さんがそんな比喩的な表現を使うだなんて、思いもしなかったのだ。
「父さんは、母さんを連れて町から少し離れたここに住むことにした。しばらくは、穏やかな日々が続いた。確かに母さんの心は失われてしまったが、その明るい表情や、父さんの中にある母さんへの想いが消えた訳ではなかったからな。だがある日、父さんは気付いてしまったんだ。」
体の抵抗が、一層激しくなる。ギリギリのところでそれを制御しながら父さんに視線を向けると、なるほど、ここが一番話しにくい部分に違いない。父さんはその唇の色が変わってしまう程に強く噛み締めていた。父さんを急かしてしまいそうになる自分と必死で戦いながら、父さんの心の準備が整うのを待った。そして。
「母さんは、妊娠していた。父さんの子でもなく、別の男の子供でもなく……。」
ピタリ、と空気が止まる音が、俺の耳元に残った。混線していた思考回路も、その動きを完全に停止して、沈黙を作りだした。どういう、ことだ?
「その軍神と呼ばれた存在の、子を……。ここまで言えばわかるだろう、エル。つまり、お前は……。」
「俺は、父さんの子供じゃあ、ない?」
自分の口からその言葉をこぼして、まさかと思った。ありえないだろう。俺が、父さんの子供じゃない?とんだ冗談だ。それなら今までこんなに優しくしてくれていたのは、何だったと言うつもりなのだ?紛れもない親子の情を、俺はこの家に、父さんに感じていたのに。止まっていた空気が、再び動き出す。
「ああ。お前は母さんの中で、三年という月日をかけてゆっくりと成長していった。父さんは、お前のことを母さんに頼まれたんだ。お前を産んですぐ、死の間際に母さんは正気を取り戻した。そして父さんに、お前のことを頼む、と言った。父さんの子として、かわいがってくれ、ってな……。」
「そ、んな……俺は、父さんの……。」
俺にはそれ以上、言葉を紡ぐこともできなかった。ただただ、目の前に急に突き付けられた現実から目を逸らしたくなるのを、必死で堪えているだけだった。しかし、現実から目を逸らすことの許されない俺は、父さんから目を逸らすことでその事実を否定しようとした。しばらくの無音の世界の後に、父さんがふと自嘲的な笑みを漏らした。
「信じられないか?それなら、良かった。父さんは、母さんとの約束を守れていたことになるからな。」
俺は、首をゆっくりと横に振り続けた。信じられないどころの話じゃない、今でも信じていない、と。
「ねえ、父さん。」
しばらく頭の中を整理してから、俺は父さんに、一番聞きたかったことを聞こうと声をかけた。
「何だ?」
「父さんは、幸せだった?」
なんとも幼稚で、抽象的すぎる質問。それでも、他にうまく俺の中の疑問を言い表せる言葉は、見つからなかった。やや空白があってから、父さんは俺の質問への答えを弾き出した。いつもと同じ、柔らかい笑顔を俺に向けながらそれを告げる。
「……ああ、とても幸せだった。たとえ心が壊れてしまっていても、母さんと一緒に暮らせて、お前という子供も授かった。それを、どうして幸せでないと言うことができる?」
きつく握りしめている俺の手の甲に、温かい滴がこぼれた。父さんは、まだ。まだ、俺を自分の子供だと言ってくれるのか……。震える肩を止めることも、溢れる涙を拭うことも、俺にはできなかった。そしてもう一つ、聞いておかなければならないことがある。
「軍神の正体は、何?父さんの言い方を聞いていたら、到底、神様だとは思えないんだ。」
軍神と呼ばれた存在という表現が、それを顕著に示していた。父さんが、答えの重さにその表情を歪めた。それでも、俺は聞こうと思った。自分が神の子だろうと、何か別のものの子であろうと、俺は、父さんの子なんだ。そう、自信を持って。
「軍神は……。」
そこまで言葉にしてから、父さんは再び口を閉ざした。その表情は、今までに見たこともないほど、苦かった。ずいと身を乗り出して、辛そうにしている父さんに続きを促す。早く言ってしまえば父さんだって楽になるはずだ、そう思って。室内は、再び答えを待つ沈黙に支配された。蝋燭の明かりも、ゆらめくことすらしない。父さんの黒い髪も、さらりと一筋流れてから、動くことをやめた。大きな手が、その色が変わる程にきつく握りしめられた。父さんのその動きは、続きを口にする苦痛をありのままに表していて、何者も動きを止めた室内では、ひどく異質な物にも思えた。
「軍神の正体は、魔物、だった。翼と一本角がある、蛇の魔物。」
「っ……!」
俺は、ついに紡ぐべき言葉すら見つからなくなっていた。俺は、俺という存在は……。答えを待つ気まずい沈黙から解放された部屋では、再び全ての物が普段らしい動き方を始めていた。まるで、変わったものなど何もないかのように。父さんの髪も、もう一筋前の方へ流れて来る。俺の栗色の髪とは違う、黒い髪。
「ハ、ハハハハッ!」
俺の口からは、意志に反して笑い声が飛び出した。それは、狂わされていた運命が、再び動き出したことを示していたのかもしれない。生まれた時からすでに狂わされていた、俺の運命が。
「エル……。」
父さんの目。そこにあったのは、深い悲しみと、俺に対する憐憫。それは、とても居心地の悪いものだった。俺はそんな父さんを、ありったけの感情が籠った目で見つめ返した。想像するに、そこには俺に思いつく限りの負の感情が詰め込まれているのだろう。
「やめてくれ、父さん。俺をそんな目で見るのは。そうか、俺は。神の子、ではなく、神を騙った魔物の子、だったのか。ハハハ、おかしいな……。」
俺の心は、どうしようもなく暴走していた。その行き場のない怒りや悲しみ、絶望が、今までそんな俺を大切に育ててくれた父さんに向けられてしまうほどに。父さんが眉を辛そうに顰めることすら、今の俺には心地良かった。魔物の、俺には……。
「……父さんは、俺が魔物の子だと知っていながら、どうして母さんに俺を産ませたんだ?俺が魔物の子だと知っていながら、どうして今まで俺を育てたんだっ?どうして俺を殺してくれなかったんだっ?魔物の子だなんて、生きているだけでも危険じゃないのか?今日だって!」
そう、今日だって。あの時、アリスの手を掴んだままだった理由。それは、俺の中の魔物の血が騒ぎ始めたからだったのだ。あの時の、血が逆流するような感覚。あまりに心地良く、そして、あまりに快美な、その感覚。父さんの薄茶の瞳が、ほんの少し怪訝そうに細められた。それでも、俺を見つめるその色は、どこまでも優しい。父さんに行き場のない負の感情をぶつけている俺に向けられていても、優しい。
「……エル、父さんの考えを聞いてくれるか?」
俺が少し落ち着いたのを見計らって、父さんはそう俺に声をかけた。これ以上、俺に何を聞けと言うんだ?お前は父さんの子じゃないと言われ、さらには魔物の子だ、なんて言われたんだぞ?これ以上、何を知れと言うんだ?
「父さんがお前を母さんに産ませた理由はな、父さんが、魔物だったからだ。母さんの中でお前が育っていくのを見て、殺した方がいいのでは、と何度も思った。だがそれは、父さんには母さんを失うことを意味しているように思えたのだ。」
父さんは、そう深く溜息をついた。薄茶の瞳に揺れる蝋燭の明かりが、ふと陰る。その目には、後悔や自責という物が見受けられた。深く長く息が吐かれる。遠く、おそらくは母さんと過ごした日々に目を向けながら、父さんは続けた。
「だから父さんは、お前が魔物の子だと知りながらも、殺すことはできなかった。母さんを失いたくない。父さんのそんなエゴで、この世界を危険に陥れるかもしれない。その可能性も十分に理解していた。だが父さんには、この世の全てよりも、父さんと母さんを引き裂いたこんな世界よりも遥かに、母さんの方が大切だったんだ。いいか?エル。」
今まで俯いて話していた父さんは、そう言って顔を上げた。覚悟が、窺えた。俺に、一番聞かせたいことを言うのだろう。俺は、その言葉を真摯に受け止めなければならないと思った。俺の目は、真っ直ぐに父さんの薄茶の瞳を見つめ返した。
「……人は……かくも簡単に、魔物になり下がる。父さんは、身をもってそれを証明する形になってしまった……。だがな、エル。」
父さんの言葉が切れた。俺は、続きを待った。父さんが真に聞かせたいことは、このすぐ後に来る。そう、心構えをしながら。真剣なお互いの瞳は、結ばれたまま。
「人が魔物になってしまうように……魔物も、人になれるのではないだろうか……?父さんは、お前を育てて行くうちにそう思った……。もちろん、それが簡単だとは言わない。それでも、お前なら。お前なら、人と一緒に暮らして行くことができると思った。そして、それは今も変わっていない。」
どうやら、一番伝えたいことは言いきったようだ。父さんは、乾ききった口の中に水を一口含んだ。
「……お前が恋人を持ったり、さらには結婚したりということに、父さんは反対するつもりはない。ただし、相手にお前の出自をきちんと打ち明けることだ。お前が今心に思い描いている人は、それでもお前を受け入れてくれるような人か?」
やや沈黙を作ってから、俺はゆっくりと口を開いた。俺の顔は俺には見えないが、それを眺めている父さんの顔からして、悪い顔はしていないはずだ。
「ああ……。」
その答えに、父さんは薄茶の瞳を柔らかく細めた。そうだ、俺は。俺は、魔物の子なんかである前に父さんの、この父さんの子なんだ。人として存在しようとすることが困難になれば、それを思い出せばいい。俺の心は、以前よりも遥かに軽くなった。
「明日、アリスにきちんと伝えて来るよ!」
俺の決意を聞いて、父さんは再び笑みをこぼした。
あれから、十年の月日が流れた。父さんは、五年前に熱病にかかって息を引き取った。
「ちょっとエル!いつまで寝てるつもりっ!」
容赦なくカーテンが開かれる。朝の眩しい光が部屋中に満たされて、俺は目をすぼめた。
「ほら、今日はアルとエレナをピクニックに連れて行く約束だったでしょっ?さっさと起きて準備を手伝って!」
「ああ、今起きるよ、アリス。」
「今っていつっ?」
布団がガバリとめくられる。仕方なく、俺はベッドの上に起き上がった。その俺の目の前に、腰に手を当てて立つアリスがいた。
俺たちは、七年前に結婚した。アリスの両親は、俺が父さんの子であるということで俺たちの結婚に反対していて、なかなか許可が下りなかったのだ。魔物の子であることは、彼女の両親には言っていない。アリスだけが、それを知っていた。それでもいい、エルはエルだもの。そう言ってくれた彼女の泣き笑いの表情は、俺の中に今も鮮明に残されている……。
「パパ早くー!」
「パパのねぼすけさん!」
子供たちも寝室に入って来て、俺に飛びついた。俺の両親の名をもらった、二人だ。
「ああ、悪かった悪かった。今起きるから、ちょっと待ってくれ。」
俺は二人を両腕に抱き締めたまま、アリスを見上げた。
「ありがとう、アリス。」
起こしてくれたことに対しての礼にしては、やけに感情が籠っている。アリスは、きょとんとした表情を浮かべた。
「……な、ダメよ!そんな顔してそんなこと言ったって、準備の手伝いは免除しないわよ!」
彼女はそう言って、お弁当作りに戻って行った。薄いピンクのエプロンが、彼の視界から消えた。
「アルヴィーズ、手伝って!エレナも!お父さんの邪魔しちゃダメよ!」
「「はーいっ!」」
二人は同時にそう返事をして、寝室から出て行った。パタパタという騒々しい足音に、笑みがこぼれる。俺は、人として生きていける……。
一度狂わされたオルゴールは、狂った旋律を奏で続ける……。それでも、その狂った旋律の中でも、美しい音色は見いだせるのかもしれない……。父さんが、母さんと暮らせたことを幸せだと感じられたように……。時に、狂わされた旋律は、美しい……。
「パパー、新しい小鳥を捕まえて!」
「え?この前捕まえてやったばかりだろう?」
父親の問いかけに、二人の子供たちは無垢な笑顔を見せる。それから、兄の方がもう一度ニッコリと笑って口を開いた。
「だって、もう死んじゃったんだもん!」
金の鳥籠の中に、白い羽の鳥が一羽。滴る赤い雫……。
こんにちは、霜月璃音です。神殺し~約束の果て~の続編、狂ったオルゴールをお届けいたします。いかがでしたか?
もしよろしければ、感想やアドバイス、評価などをお願いいたします。是非今後の参考にさせていただきたいと思います。
ここまでお読み下さった皆様、どうもありがとうございました。