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春朝

作者: 神箭花飛麟
掲載日:2026/04/30


桜が散り始めている。


まだ七分も残っているのに、日和はなぜかそっちに目が行く。咲いているところじゃなくて、もう落ちてしまったほうに。


ふと坂の下を見ると、咲羅が片膝をついて靴紐を結び直していた。日和は自転車を止めて、黙って待った。


「何ぼーっとしてんの。遅刻するよ」


「してないよ、まだ」


「チャイムが鳴り終わるまではセーフって言うんだよ」


咲羅は笑いながら駆け上がってきた。その軽さが、日和には少しだけ眩しい。重力に逆らうみたいに生きている人だと思う。


「なんか考えてた?」


「ちょっとね」


「なに?」


「うまく言えない」


「じゃあいいじゃん」と咲羅はあっさり言った。「言えないことって、別に言わなくていいやつが多いから」


それは本当のことだと思う。思うけど、なぜかすっきりしなかった。



校門のところで、高瀬律が文庫本を閉じるのが見えた。


日和たちの姿を確認してから閉じる、という順番が律らしかった。何でもそうだ。ちゃんと見てから、ちゃんと動く。


「おはよう」


「おはよ」と咲羅が答えながら、「澪は?」と周囲を見回した。


「まだ来てない」と律。


三人で黙って待っていると、二分後に森川澪が改札を抜けてくるのが見えた。走っているのに、鞄が全然揺れていない。あいつ、走り方だけ妙に綺麗なんだよな、と日和は毎回思う。


「ごめん、乗り換えで」


「ミスった?」と咲羅。


「一本早いやつが遅延してて」


「あーそれ運が悪い」


澪は少し息を整えながら、日和の隣に並んだ。背が高いから、歩くと半歩分くらいずれる。去年は同じくらいだったのに、気づいたら追い抜かれていた。


「なんか、クラス変わった感じする?」と澪が歩きながら言った。


「してる」と日和は正直に答えた。「でもうまく言えない」


「また言えないやつ」と咲羅が笑う。


「今年多いな、それ」と澪が静かに言った。


笑い声が上がって、日和もつられて笑った。でも、澪の「それ」が何を指していたのかは、少し気になったままだった。



昼休み、渡り廊下の端に四人で集まった。


去年から使っている場所で、日当たりがよくて、校庭の桜がちょうど見える。日和はそこが好きだった。変わらないものの一つとして。


「ねえ、」と咲羅が弁当の蓋を開けながら言った。「私、推薦出そうと思ってる」


誰も箸をつけなかった。


「東京の大学。受かるかわかんないけど」


澪が「東京」と繰り返した。確認というより、自分に言い聞かせるみたいな声だった。


「いつ決めたの」と律が聞いた。


「ちゃんと決めたのは先月。でも、言うタイミングわからなくて」


「そっか」と律は言った。短すぎる返事だった。


「何?」と咲羅が律の顔を見た。


「何でもない」


「何でもなくないじゃん、今の間」


律は少し考えてから、「早く言ってほしかった、とは思う」と静かに言った。「決まってなくても、迷ってるうちから」


「迷ってることを言うのが怖かっただけで」


「わかってる。でも」


「でも、何」


会話が止まった。止まったまま、続かなかった。


咲羅が箸を置いて、「律と少し話したい」と日和と澪を見た。怒っているわけじゃない。でも、二人だけにしてほしいという顔だった。


日和は「うん」と言って立ち上がった。澪も無言でついてきた。


渡り廊下を離れながら、日和は一度だけ振り返った。咲羅と律が、まだ何も言わずに向かい合っていた。桜の花びらが一枚、二人の間を抜けて落ちた。



「怒ってるのかな、律」と澪が言った。


「怒ってないと思う」と日和は答えた。「でも、何か思ってる」


「そうだな」


階段の踊り場に腰を下ろして、二人で弁当の続きを食べた。教室に戻る気にもなれなかった。


「澪はどう思った? 咲羅が東京行くかもって」


澪はしばらく何も言わなかった。窓の外の、半分散りかけた桜を見ていた。


「まあ、そういうこともあるかなって」


「そっけない」


「そっけなくはない」澪は少し笑った。「ただ、なんか、先に想像しちゃったんだよな。三人で一緒にいるとこ。それだけ」


日和は何も言えなかった。同じことを想像していたから。


「先に想像すると、慣れるじゃん。嫌なことって」


「それって、寂しくないようにってこと?」


「どうかな」と澪は言った。「寂しくないようにじゃなくて、寂しくても大丈夫なように、かもしれない」


その言葉が、思ったよりも深いところに刺さった気がした。



放課後、日和は一人でトイレに寄った。


鏡の中の自分と向き合う。何かを確かめるために来たわけじゃないけれど、来てしまった。


変わっているのか、変わっていないのか。


去年の春、自分はこんなふうに立ち止まらなかった。気がする。でもそれが正しいのかも分からない。人間って、変わった自分を起点に過去を書き換えるから。


何が怖いんだろう、と日和は思う。


咲羅が東京に行くことが怖いのか。律と咲羅の間に入れなかったことが怖いのか。澪が「寂しくても大丈夫なように」と言えるのに、自分はそれすら考えていなかったことが怖いのか。


全部が少しずつ正解で、全部が少しずれている。


水を出して、顔を洗った。冷たかった。それだけが、確かだった。



校門を出ると、咲羅が一人で待っていた。


「律は?」と日和は聞いた。


「先に帰った」


「そっか」


「ちゃんと話したよ。仲直りとかじゃないけど。言えてなかったことが言えた、みたいな」咲羅は空を見上げた。「律って正しいこと言うじゃん。正しいから、ちゃんと受け取らないといけない気がして疲れることある」


日和は「わかる気がする」と言った。


「澪は?」


「もう電車行った」


「あいつ早いなあ」咲羅が笑った。笑ったけど、どこか違う笑い方だった。朝の笑い方と、少し違う。


「咲羅」と日和は言った。「本当はどう思ってるの、大学のこと」


咲羅は少し間を置いた。


「正直、こわい」


「こわい?」


「行きたいのは本当だよ。でも、こっちのことが全部消えるわけじゃないから」


日和は何も言わなかった。言えなかった、じゃなくて、言わなくていいと思った。初めて、そう思った。


二人で坂を下り始めた。桜がまた何枚か落ちた。春の夕方の光の中で、それがやけに綺麗に見えた。


「ねえ日和、悩んでること、言えた? さっきうまく言えないって言ってたじゃん」


「言えてない。でも、なんかちょっとだけわかった」


「何が?」


「言えなくていいこともあるって、ちゃんと実感した」


咲羅は笑った。さっきと違う、朝と同じ笑い方だった。


「それ、私が朝言ったやつじゃん」


「そうかも」


「人の言葉じゃん」


「借りてみた」


咲羅はまた笑って、そのまま何も言わなかった。


坂の下で二人は別れた。


また明日、と言った。


その言葉の軽さの中に、日和はちゃんと重さを感じた。また明日、はいつか来なくなる。でも今日は、あった。


桜はまだ、降り続けていた。

春の朝は、始まりの匂いと、別れの予感を、同時に連れてくる。

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