春朝
一
桜が散り始めている。
まだ七分も残っているのに、日和はなぜかそっちに目が行く。咲いているところじゃなくて、もう落ちてしまったほうに。
ふと坂の下を見ると、咲羅が片膝をついて靴紐を結び直していた。日和は自転車を止めて、黙って待った。
「何ぼーっとしてんの。遅刻するよ」
「してないよ、まだ」
「チャイムが鳴り終わるまではセーフって言うんだよ」
咲羅は笑いながら駆け上がってきた。その軽さが、日和には少しだけ眩しい。重力に逆らうみたいに生きている人だと思う。
「なんか考えてた?」
「ちょっとね」
「なに?」
「うまく言えない」
「じゃあいいじゃん」と咲羅はあっさり言った。「言えないことって、別に言わなくていいやつが多いから」
それは本当のことだと思う。思うけど、なぜかすっきりしなかった。
二
校門のところで、高瀬律が文庫本を閉じるのが見えた。
日和たちの姿を確認してから閉じる、という順番が律らしかった。何でもそうだ。ちゃんと見てから、ちゃんと動く。
「おはよう」
「おはよ」と咲羅が答えながら、「澪は?」と周囲を見回した。
「まだ来てない」と律。
三人で黙って待っていると、二分後に森川澪が改札を抜けてくるのが見えた。走っているのに、鞄が全然揺れていない。あいつ、走り方だけ妙に綺麗なんだよな、と日和は毎回思う。
「ごめん、乗り換えで」
「ミスった?」と咲羅。
「一本早いやつが遅延してて」
「あーそれ運が悪い」
澪は少し息を整えながら、日和の隣に並んだ。背が高いから、歩くと半歩分くらいずれる。去年は同じくらいだったのに、気づいたら追い抜かれていた。
「なんか、クラス変わった感じする?」と澪が歩きながら言った。
「してる」と日和は正直に答えた。「でもうまく言えない」
「また言えないやつ」と咲羅が笑う。
「今年多いな、それ」と澪が静かに言った。
笑い声が上がって、日和もつられて笑った。でも、澪の「それ」が何を指していたのかは、少し気になったままだった。
三
昼休み、渡り廊下の端に四人で集まった。
去年から使っている場所で、日当たりがよくて、校庭の桜がちょうど見える。日和はそこが好きだった。変わらないものの一つとして。
「ねえ、」と咲羅が弁当の蓋を開けながら言った。「私、推薦出そうと思ってる」
誰も箸をつけなかった。
「東京の大学。受かるかわかんないけど」
澪が「東京」と繰り返した。確認というより、自分に言い聞かせるみたいな声だった。
「いつ決めたの」と律が聞いた。
「ちゃんと決めたのは先月。でも、言うタイミングわからなくて」
「そっか」と律は言った。短すぎる返事だった。
「何?」と咲羅が律の顔を見た。
「何でもない」
「何でもなくないじゃん、今の間」
律は少し考えてから、「早く言ってほしかった、とは思う」と静かに言った。「決まってなくても、迷ってるうちから」
「迷ってることを言うのが怖かっただけで」
「わかってる。でも」
「でも、何」
会話が止まった。止まったまま、続かなかった。
咲羅が箸を置いて、「律と少し話したい」と日和と澪を見た。怒っているわけじゃない。でも、二人だけにしてほしいという顔だった。
日和は「うん」と言って立ち上がった。澪も無言でついてきた。
渡り廊下を離れながら、日和は一度だけ振り返った。咲羅と律が、まだ何も言わずに向かい合っていた。桜の花びらが一枚、二人の間を抜けて落ちた。
四
「怒ってるのかな、律」と澪が言った。
「怒ってないと思う」と日和は答えた。「でも、何か思ってる」
「そうだな」
階段の踊り場に腰を下ろして、二人で弁当の続きを食べた。教室に戻る気にもなれなかった。
「澪はどう思った? 咲羅が東京行くかもって」
澪はしばらく何も言わなかった。窓の外の、半分散りかけた桜を見ていた。
「まあ、そういうこともあるかなって」
「そっけない」
「そっけなくはない」澪は少し笑った。「ただ、なんか、先に想像しちゃったんだよな。三人で一緒にいるとこ。それだけ」
日和は何も言えなかった。同じことを想像していたから。
「先に想像すると、慣れるじゃん。嫌なことって」
「それって、寂しくないようにってこと?」
「どうかな」と澪は言った。「寂しくないようにじゃなくて、寂しくても大丈夫なように、かもしれない」
その言葉が、思ったよりも深いところに刺さった気がした。
五
放課後、日和は一人でトイレに寄った。
鏡の中の自分と向き合う。何かを確かめるために来たわけじゃないけれど、来てしまった。
変わっているのか、変わっていないのか。
去年の春、自分はこんなふうに立ち止まらなかった。気がする。でもそれが正しいのかも分からない。人間って、変わった自分を起点に過去を書き換えるから。
何が怖いんだろう、と日和は思う。
咲羅が東京に行くことが怖いのか。律と咲羅の間に入れなかったことが怖いのか。澪が「寂しくても大丈夫なように」と言えるのに、自分はそれすら考えていなかったことが怖いのか。
全部が少しずつ正解で、全部が少しずれている。
水を出して、顔を洗った。冷たかった。それだけが、確かだった。
六
校門を出ると、咲羅が一人で待っていた。
「律は?」と日和は聞いた。
「先に帰った」
「そっか」
「ちゃんと話したよ。仲直りとかじゃないけど。言えてなかったことが言えた、みたいな」咲羅は空を見上げた。「律って正しいこと言うじゃん。正しいから、ちゃんと受け取らないといけない気がして疲れることある」
日和は「わかる気がする」と言った。
「澪は?」
「もう電車行った」
「あいつ早いなあ」咲羅が笑った。笑ったけど、どこか違う笑い方だった。朝の笑い方と、少し違う。
「咲羅」と日和は言った。「本当はどう思ってるの、大学のこと」
咲羅は少し間を置いた。
「正直、こわい」
「こわい?」
「行きたいのは本当だよ。でも、こっちのことが全部消えるわけじゃないから」
日和は何も言わなかった。言えなかった、じゃなくて、言わなくていいと思った。初めて、そう思った。
二人で坂を下り始めた。桜がまた何枚か落ちた。春の夕方の光の中で、それがやけに綺麗に見えた。
「ねえ日和、悩んでること、言えた? さっきうまく言えないって言ってたじゃん」
「言えてない。でも、なんかちょっとだけわかった」
「何が?」
「言えなくていいこともあるって、ちゃんと実感した」
咲羅は笑った。さっきと違う、朝と同じ笑い方だった。
「それ、私が朝言ったやつじゃん」
「そうかも」
「人の言葉じゃん」
「借りてみた」
咲羅はまた笑って、そのまま何も言わなかった。
坂の下で二人は別れた。
また明日、と言った。
その言葉の軽さの中に、日和はちゃんと重さを感じた。また明日、はいつか来なくなる。でも今日は、あった。
桜はまだ、降り続けていた。
春の朝は、始まりの匂いと、別れの予感を、同時に連れてくる。
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