第3話
翌日は、あいにくの雨だった。老夫婦からもらった外套が濡れるのが嫌で、代わりにお忍び用に買った男性用のシャツとトラウザーズを身につけた。黒髪を纏めて帽子に隠せば、一見青年に見えなくもないだろう。幸か不幸か、わたしは痩せぎすであまり女性らしい体つきをしていない。
「さあ、お母さまのもとへ帰るわよ」
お湯で洗い、ブラシをかけた子猫はすっかり見違えた。ふわふわの毛並みで傷口も隠れ、小さな雲がころころと地面を歩き回っているようだ。
昨晩は子猫を抱いて眠った。他の生き物と一緒に眠るとこんなに暖かく幸せな心地になるのだと、生まれて初めて知った。
正直手放すのが名残惜しいほどだが、このままこの屋敷に置いておいても子猫にとって幸せな未来は想像できない。アデルはきっと、わたしを貶めるためならば猫だって利用するだろう。わたしのせいで不幸な結末を辿る生きものは見たくなかった。
せめてこの猫と親猫が寒くないように、と、分厚い毛布を鞄に詰めた。貯蔵庫からミルクの大瓶も盗んできたし、猫たちが食べられるかはわからないけれど干し魚も手に入れてきた。ついでにこの子が遊べるように、毛糸でできたボールも詰め込んだ。わたしが即席で作ったものだからずいぶん歪な形をしている。
子猫を毛布に包んで鞄の中にそっとしまい、屋敷を出る。裏口を使えば案外気づかれることはなかった。わたしを郵便配達の青年かなにかと思っているのだろう。この屋敷の人はみな、わたしに興味がないことも幸いした。
夏が始まる前の雨は、思ったよりも冷たく、強く打ちつけた。分厚いジャケットを羽織ったが、すぐに水を吸って重たくなってしまう。思っていたほど保温効果は得られなかった。
昨日のまだ真新しい記憶を辿って、はじめに猫と会った場所にたどり着く。
だが、そこに親猫はいなかった。ひょっとすると大公が倒れていたほうにいるのかもしれない。
雨の日の路地裏はあまり気が進まないが、この雨のなか親猫がこの子を探し回っている姿を想像すると、じっとしてはいられなかった。俯き気味に、足早に大公が倒れていた場所へ向かう。
ざあざあと、雨が石畳を打ち付ける音だけが響いていた。いつもは大通りから聞こえる賑わいも、今日は雨音にかき消されて届かない。そもそも人があまり出歩いていないのかもしれない。
「おやあ、こんなところに不釣り合いなかわいいお嬢ちゃんじゃねえか」
音もなく、その男は路地裏の陰から姿を現した。はっきりを顔を見上げたわけではないが、わたしよりひとまわりもふたまわりも体が大きい。咄嗟に角を曲がり、男を巻こうとしたが足音はすぐ後ろをついてきた。
わたしなりに男性に見えると思って変装してきたのに、一目で見破られてしまった。いかに自分が世間知らずか思い知らされているようで、悔しくてならない。
足早に駆け抜けているうちに、気づけば行き止まりに迷い込んでしまった。路地の横幅を埋め尽くすほどの大男が、路地の入り口を塞ぐ。ただでさえ薄暗いのに、目の前がいっそう暗くなったように感じた。触れられているわけでもないのに、かなりの圧迫感だ。
「お嬢ちゃん、そう怖がらずともちょっと遊んでくれるだけでいいんだ。わずかだが金もやるぜ」
「あいにくだけどその気はないの。どこかへ行って」
いつもは護身用の短剣を携帯しているというのに、血がついた外套のなかに入れっぱなしで手元にない。油断していた。
代わりに、鞄の外付けポケットに忍ばせた小瓶の存在を確かめる。これは時間が巻き戻ってからいつでも携帯している魔術薬だ。
いざとなれば、これを飲んで逃げられる。誰の手も届かない場所へ行くことができる。
それが、わたしなりの安心材料だった。あいにく、尊厳を傷つけられたり絶望を味わされたりしてまで、この人生を続ける理由もないのだ。
暗い覚悟を決めかけたその瞬間、目の前をぱっと紫色の光が覆い尽くした。咄嗟に目を瞑り、視力を守る。すこししてから恐る恐る瞼を開いてみると、ちょうど大男がどさりと音を立てて倒れ混んでいくところだった。
石畳の上に四肢を投げ出した男は、完全に気を失っている。遠目には、胸が上下しているかどうかもわからず、思わずそっと近づいてみた。
そのときふいに、倒れ込んだ男の背中に人影が乗り上げたかと思うと、半ば強引に腕を掴まれ引き寄せられた。わたしも一緒に大男の背中に乗り上げるようなかたちだ。姿勢を崩して、思わず相手の胸に飛び込むような体勢になってしまう。
「きみは、自分を襲おうとした人間までも助けようとするのか。とんだお人よしだ」
呆れたような響きがあったが、わたしはこの声を知っている。静寂に溶け込むような、柔らかな美しい声。
はっとして顔を上げると、銀のまつ毛に縁取られた紫色のふたつの瞳と目があった。
「あなたは……」
ティアベル大公だ。眼球破裂にまで至っていた深手の傷が、嘘のように治癒している。
「ここは雨に濡れる。ひとまずぼくの馬車へ行こう」
大公はわたしの手を引いたまま、大男をふわりと乗り越えた。わたしもその手に導かれるがままに、とん、と石畳の上に足を下ろす。
「寒いよね。……いくらかましになればいいんだけど」
そう言って彼は、王国魔術師団の黒い外套をわたしの肩にかけてくれた。わたしは女性の中では背が高いほうだが、彼の外套を羽織ると裾を引きずりそうになる。
大公はそのままわたしの手を引いて歩き出そうとしていた。エスコートというよりは、まるでわたしが逃げ出さないように手を引いているような構図だ。
「手を離して。……あなたについていくから」
身分の差云々というよりも、わたしが何をしたところで大公からは逃れられないことはわかっていた。大公はこの若さですでに王国一の魔術師と謳われる実力の持ち主だ。彼を相手に、細々と魔術薬を作るしか能のないわたしが太刀打ちする術などあるはずない。
「これは失礼した。……なんだかきみは手を握っていないと、どこかへ行ってしまいそうで」
なんでだろうね、と大公はどこか寂しそうに微笑んだ。
……まさか、大公も一度目の人生のことを覚えているの?
だが、それにしてはわたしに対する言葉遣いも態度もずいぶん違う。覚えていれば彼は必ず、わたしを王妃として扱うはずだ。彼は唯一わたしを尊重してくれた臣下なのだから。
街は、やはり雨のせいで静まり返っていた。雨足が強まったせいか、外を出歩く人の姿は見当たらない。
大公家の紋章が飾られた馬車は大通りの隅に停まっていた。大公は扉を開けてわたしを先に馬車の中に乗せると、続いて自分も乗り込んできた。
馬車に入るなり、鞄を開けて子猫の無事を確認する。毛布に包まれていた子猫は、何事もなかったかのようなふわふわの毛並みで呑気にわたしを見上げていた。なんだか毒気が抜かれる表情だ。
「やあ、ジゼル。ずいぶん見違えたね。ヴェルローズ侯爵令嬢によくしてもらったんだね」
大公は慣れた手つきで子猫を撫でた。子猫は戯れるようにして大公の膝の上に飛び乗る。
「わたし、今日はこの子をあの親猫に届けにきたの。……あなたの猫だったのね。親猫もあなたのところにいるの?」
「ああ。……ぼくもついさっき、きみの家を訪ねたところだった。ジゼルがきみについていったのはわかっていたから、迎えに行くつもりだったんだ」
大公はそう告げてから、しゅんと肩を落とした。
「ぼくの猫がきみについていったせいで、きみを危険な目に遭わせてしまったようだ。すまなかった」
「わたしが自分で決めたことだから、謝る必要はないわ。あなたがわたしを襲おうとしたわけでもないのだし」
「きみは気丈なひとだね。……きみに害が及ぶ前に、助けられてよかった」
安心したように、彼は静かに微笑んだ。こんなに優しいまなざしで見つめられたことなんて、母が生きていたとき以来だ。誰かに心配される心地なんて、久しく忘れていた。
「ええ。命と尊厳を助けてくださってありがとう、ティアベル大公さま」
ゆっくりと頭を下げて礼をすると、彼はきょとんとしたようにわたしを見つめた。
「ぼくのことを知っていたのか」
「馬車にあれだけ大きな紋章がついていれば、誰でもわかるわ」
大公はふ、と微笑んで、それから胸に手を当てた。
「それもそうだ。……名乗り遅れたけれど、ぼくはアルバート・エル・ティアベル。このあいだティアベル大公位を継いだばかりだ。今は王国魔術師団で副団長を務めている」
「ごきげんよう、ティアベル大公さま。ご存知の通り、レア・エル・ヴェルローズです。……ヴェルローズの毒魔女と言ったほうが通りがいいかしら?」
ヴェルローズの毒魔女の悪名は、王国の隅々にまで行き届いているはずだ。大公はそんな悪女が作った魔術薬を飲まされたと知ってどんな反応をするだろう。
興味津々で大公の反応を待っていると、思ったよりも真剣なまなざしで見つめ返された。
「……きみにはそんな蔑称を自称してほしくない。ぼくにとっては命の恩人だ」
「大袈裟ね。応急手当てをしただけよ」
大公の視線から逃れるように顔を背け、そのまま流れに乗って話題を変える。
「それより、傷が治ったようでよかったわ。よほど腕のいい治癒魔術師に診てもらったのね」
額から左目にかけてぱっくりと割れていた傷口は、昨日の今日だというのに見る影もない。どこからどう見ても、滑らかな皮膚と、右目と何も代わりない美しい瞳がそこにはあった。
「昨日は父も妹も呼び出されていないはずだけれど、いったい誰に診てもらったの? ヴェルローズの人間としては、嫉妬する腕前だわ」
今まで治癒魔術においてはヴェルローズの一強だったが、これほどの実力を持つ治癒魔術師が他家にいるのだとしたら侯爵家にとっては脅威だ。もっとも、驕り高ぶった父と妹にはいい薬になるだろう。わたしとしては、その才能ある魔術師がヴェルローズから王立医術院の院長の座を奪い取ってくれたら嬉しい限りだ。
「王立医術院の方かしら? ぜひとも父に報告したいわ。ねえ、どなたなの?」
わくわくしながら再び大公のほうを見やる。彼はやっぱり真剣なまなざしでわたしを見つめていた。
「きみだよ、ヴェルローズ侯爵令嬢。きみが治してくれたんだ」
予想外の言葉に、思わず眉を顰める。
「恩義に感じてくださっているのは結構だけれど、わたしがしたのは応急手当てよ。わたしは、その傷を根治させた治癒魔術師の名前を知りたいの」
魔術薬ではまず、あの深手の傷を治癒させることはできない。応急手当てが関の山だ。魔術の第一人者である彼ならそれがわからないはずもないのに、なぜはぐらかすのだろう。
「いいや、きみが治してくれた。きみが飲ませてくれたあの魔術薬と、残していってくれたあの薬でぼくの目は見えるようになったんだ」
「そんな……ことって」
不意に作ってしまったあの純度の高い魔術薬が、思った以上の効能を発揮したのだろうか。たしかに今の彼には傷ひとつ見当たらないが、治癒魔術師の診察を受けていないと聞いたらそれはそれで不安になってくる。見えないところにまだ損傷が残っているかもしれない。
「……悪いことは言わないから、今からでも治癒魔術師にかかったほうがいいわ。魔術薬だけじゃ不十分だと思うの」
思わず大公のほうへ身を乗り出して、説得する。大公位を継いだばかりだというのに、どうしてこの人はもうすこし自分の体を大事にしないのだろう。
「ねえ、このままわたしの屋敷に行きましょう。父に話を通してみるわ」
御者に合図を送るために壁を叩こうとしたところで、壁に大公の手が添えられた。驚いて振り返ると、思ったよりも近い距離で目があってしまう。
「せっかくだけど、王立魔術院の院長の診察を受ける必要はない。いや、他のどんな治癒魔術も、ぼくには必要ないんだ」
「……どういうこと?」
意図がつかめず問い返せば、彼はどこか皮肉げに微笑んだ。
「ぼくには――ぼくたち大公家の人間には、治癒魔術が効かない。生まれつき、どんな治癒魔術も受け付けないんだ」
「え……?」
そんな体質は、聞いたことがない。驚く暇もなく、彼はそっとわたしの手を取ったかと思うと、乞い願うように指先にくちづけた。
「ヴェルローズ侯爵令嬢、命を救ってくれたそばからこんなお願いをするのは厚かましいとわかっている。でも……どうしても、きみに助けて欲しいひとがいるんだ」
吐息が、指先に触れる。彼はわたしに頭を下げるような体勢のまま、懇願するようにわたしの目を射抜いた。
「きみの力が必要なんだ、レア」
ざああ、と沈黙を埋めるように雨音が響く。一度きりになるはずだった彼との接点をきっかけに、わたしの二度目の人生が思いもよらぬほうへ転がり始めているような気がしてならなかった。




