第2話
二百年ほど前に現れた魔術の天才、アルシュによって魔術は大きな発展を見せた。それまで魔術と魔術薬は対等な地位を築いていたが、アルシュの登場によってすべての魔術薬の効果は魔術で代用できるようになった。以来、魔術薬の分野は衰退の一途を辿っている。
治癒魔術という上位互換がある以上、どれだけ質のいい魔術薬を生み出したところで、貴族相手にはまず商売にならない。それでいて平民に売り付けるには高価で一部の富豪にしか手が届かず、富豪たちもまた魔術薬などという古びた療法に頼るくらいならば優れた治癒魔術師に治療を依頼するのが普通だ。今の時代に魔術薬を売って生計を立てようという魔術師はまず存在しなかった。
だがわたしは、魔術薬を素早く作るのが得意だ。本に書かれている想定された時間の三分の一ほどで同等の効果を持つ魔術薬を完成させることができる。安定した利益を得られるのには時間がかかるだろうが、薄利多売の戦法で売り出そうと決めていた。
こっそり街へ赴いて、魔術薬を売り出してもらう店も決めることができた。魔力がない平民でも扱える魔術具や薬草を取り扱っている小さなお店で、老夫婦が経営している。街へはお忍びで出かけているので、身分不詳のわたしが作った魔術薬を信用してもらうには苦労したが、夫人が肺炎を拗らせた際にわたしの魔術薬で助けたところ、店に置くほどの信頼を得ることができた。
その店で取り扱っているほかの品物も魔術具にしては比較的安価で、安く売り出そうとしているわたしの魔術薬を置いてもらうにはちょうどよかった。細々とだが魔術薬は売れているようで、今まで魔術薬に手が届かなかった層の人々もぽつぽつと買っていってくれているらしい。
……でも、なかなか思うようにはいかないわね。
魔術実技の講義を抜け出して、学園の隅の薬草小屋でぐつぐつと湯を沸かす。もちろん薬草を煮出すためのお湯だ。進級に必要な講義にだけ顔を出して、あとの時間はこうして魔術薬作りに勤しんでいた。定期的に進級に関わる試験も行われるが、学園で学ぶ範囲の知識は残っているから問題ない。魔術実技はそもそも魔術がつかえないからいつも零点だった。これも以前と変わりない。
湧いた湯の中に薬草をぱらぱらと放り込み、小さく息をつく。思うようにいかないのは学園の単位の取得状況ではなく、魔術薬のことだ。
魔術薬を安価に売り出したはいいが、平民にとって「魔術薬は高いもの」という印象が強すぎるせいか、店で見向きもされないことが多い。運良く見つけてもらっても、安価な魔術薬はきっと効果が薄いのだろうと判断され、選ばれないこともある。
十分に安価に売り出したつもりでいたし、実際相場の半分ほどの値段で売っているのだが、彼らにとっては「効かなくても仕方がない」と簡単に諦めてしまえるような値段ではないようだ。そのため、期待しているような売り上げは得られていなかった。貴族の令嬢としては、ほんのお小遣いにもならないような金額だ。
……これでは魔術薬を売って得たお金で逃亡するなんて夢のまた夢ね。
知名度のある人間にわたしの安価な魔術薬の存在を広めてもらい、品質を保証してもらえれば話が早いが、そんな広告を打つ資金も人脈もない。しかも王家に知られないように進めなければならないなんて至難の業だ。
店の老夫婦はそんなわたしを見かねて、魔術薬を売る傍ら、魔術具に魔力を込める仕事を提案してくれた。
平民が使う魔術具は、あらかじめ込められた魔術師の魔力で作動する。動かなくなったらまた店にもってきて、魔術師に魔力を込めてもらわなければならない。魔術具の販売も魔力を込める仕事も、貴族家から出奔してきた人間や生活が苦しい貴族家が生計を立てるためにしている。
きっと老夫婦もわたしをその類の人間だと思ったのだろうが、残念ながらわたしはその点では大きな力になれそうになかった。
わたしの魔力は本当に貧弱で、魔術薬を作るのがやっとのものなのだ。魔術具にひとつふたつ魔力を込めたら、それだけでしばらく魔術薬を作れなくなってしまう。魔術具に魔力を込める仕事は、わたしにとって効率的とは言い難かった。
……結局、わたしにできることは魔術薬作りだけなのよね。
幸いなことに、今は魔術薬の売り上げに頼らずとも衣食住に困ることはない。学園にいる間だけでもこの調子で魔術薬を売り続ければ、どうにかひと月ぶんくらいの逃亡資金は得られるはずだ。最悪の場合、ひとまず家を飛び出して見知らぬ街でまた職を探せばいい。どんな仕事だって、あの新婚生活よりはましだろう。
「あっ」
考えごとをしているうちに、薬草を煮出した液体に魔力を注ぎすぎてしまった。慌てて力を抑え込むも、もう遅かったようだ。店に出している傷薬の十倍は効果のある魔術薬が出来上がってしまった。さすがにこれを他の傷薬と同等の値段で売るわけにはいかない。
念入りに魔術薬を分析してから、蓋をする。どうやらぎりぎり成人が死ぬような濃度ではなさそうだが、子どもが飲めば死ぬだろう。
そんな危険なものを、無闇に売り出すわけにはいかない。かと言って今日一日ぶんの魔力を注ぎ切った魔術薬を捨てるのももったいなくて、商品を納める鞄の隅に他の小瓶と分けて収納した。
これでも自分で作った魔術薬の効能を、見誤ったことはなかった。店に下ろす魔術薬は全部分析して安全を確かめているし、店の老主人にも再度確認してもらっている。
母に渡したあの魔術薬だって、あれを飲めば人は死ぬのだということをわかっていて渡したのだ。
ずきり、と胸の奥が鈍く痛む。喉の奥に魚の骨が刺さったままみたいな不快感だ。死ぬほどの痛みではないけれど、忘れられない。取れるものなら取って欲しい。
小さく息をついて、釜の残り湯で消火をする。不覚にも魔力をほとんど使い果たしてしまったので、今日はもう店じまいだ。何度も水をかけ完全に火が消えた薪を、指定の場所に捨てにいく。
魔術が使えれば瞬きのうちに終わる動作だが、わたしには魔力がない平民と同じように、こうして自力で火を起こし、そして水をかけて消火することでしか火を扱うことができない。わたしの魔術薬作りの時間の半分は、魔術が使えれば一瞬で終わる動作に費やされていた。もしも火の始末と水汲みの時間がなければ、魔術薬をもっと安く売り出すことができるだろう。
最後にもういちど火と水の始末を確認して、薬草小屋を出る。今日はもう進級に必要な講義には出たから、このまま魔術具店に向かうつもりだった。
魔術学園の制服は目立つので、外套を羽織ることを忘れない。肌寒いいまはまだいいが、夏になったらこの格好は目立ってしまうから、面倒だが制服から着替える必要があるだろう。
学園から店への道のりは、街の細々とした道をいくつも通っていく。正直、昼間だから通れるが夜だったら避けなければならないような道だ。実際強盗や人攫いが出ているらしい。いちどだけだが、死体を見かけたこともある。
初めは多少戸惑ったが、ひと月も歩いていればずいぶん慣れた。急がなければならない危険な場所も、だいぶわかってきたと思う。
もっとも、この油断が命取りになるのだ、と自分に言い聞かせ、気を張って路地裏を歩いた。わたしも生成色の外套に深くフードを被った不審な格好をしているから、無闇に近づいてくる人はいない。それに一応、護身用の短剣も携帯していた。
足早に路地裏を駆け抜け、いちばん危険な地帯を通り過ぎる。店はもうまもなくそこだ。街の大通りの賑わいが近づいてきた。
その途中でふと、か細い鳴き声を聞いた。
足もとを見やれば、細い道の隅でせっせと子猫を舐めている薄汚れた白猫の姿がある。どうやら子猫は怪我をしているようだ。
放っておいてもよかったが、見つけてしまったものを見殺しにするのもなんだか居心地が悪くて、猫のそばに歩み寄る。
そっとしゃがみ込むと、気が立っているらしい親猫に案の定引っ掻かれた。最悪だ。あとで丹念に洗って自分で作った魔術薬を使わなければならない。
一瞬の苛立ちに任せて見殺しにしようかと悪い考えがよぎったが、震えている子猫を見ていると気持ちはいくらか和らいだ。それに、ここまできてなんの成果も得られないのも癪だ。
鞄から小瓶をひとつ取り出して、子猫の傷の上に垂らす。店に納品する予定のものだったが、どうせすべてが売れるわけではない。廃棄されるよりは子猫の命を救ったほうがいいだろう。
魔術薬は基本的には内服で効果を表すものだが、傷を癒す魔術薬に関しては傷口に塗布して使う方法もある。後者の使い方は治癒には向かないが、大きな怪我を負った際に活動性の出血を止めるなど、応急処置的な使い方には向いているらしい。
子猫の怪我は思っていたよりも浅かったようで、小瓶の半分ほど垂らしただけで生々しい血や肉は見えなくなった。親猫と同じ白い毛が、線状に脱毛しているだけだ。震えていた子猫は立ち上がり、甘えるようににゃあと泣いて親猫の周りをくるりと回った。
「よかったわね。わたしは引っかかれたけれど」
親猫への嫌味を一言呟きながら、子猫に使った魔術薬の残りを飲み干す。引っ掻き傷は後で洗って治療する必要はあるが、予防的に飲んでおいて損はないだろう。
「本当はお代をもらうのよ。……まあ、今度金貨でも拾ったら届けにきてちょうだい」
親猫と子猫をそれぞれそっと撫でてやる。あれだけ敵対的だった親猫は、今はじっとわたしを見上げていた。わたしが害をなさない生き物だとわかったのだろう。
「それじゃあ、ごきげんよう、奥さま」
猫たちにくすりと笑いかけて立ちあがろうとすると、すかさず親猫が鞄に噛み付いた。そのまま鞄をぐいぐいと引っ張ろうとする。
「お目が高いけれど、あげられないわ。これは売り物なのよ」
言い聞かせるように親猫に告げるも、鞄を引っ張る力は強くなるばかりだ。よく見ると、わたしをどこかへ連れて行こうとしているらしい。
「……ほかにも怪我をしている子がいるの?」
猫はわたしの鞄を離すと、代わりに子猫をくわえ、たたたっと少し走り抜けて立ち止まった。まるでついてこいと言わんばかりの態度だ。
「まったく……往診料をいただくわよ」
幸い、店に品物を納品する正確な時間は約束していない。日没までに店に品物を届けて、屋敷に帰ればいいのだ。昼過ぎに学園を抜け出してきたばかりだから、時間はまだじゅうぶんにあった。
せっかく街の大通りに近づいていたというのに、猫はわたしを暗いほうへと導いた。随分と入り組んだ路地裏で、普段通る道ではない。帰り道がわからなくならないように時々明るいほうを確認しながら、猫の後をついていく。
「どこまでいくの、あんまり遠くは嫌よ」
呼びかけたとほとんど同時に、路地裏の角で猫は立ち止まった。どうやら目的の場所にたどり着いたらしい。
「あ……」
角を曲がると、ふわりと鉄のような臭いがした。一度目の人生で死ぬ間際に散々嗅いだからよくわかる。これは血の臭いだ。
猫に導かれた先、薄暗い路地裏の上で倒れていたのは、黒い外套に身を包んだ青年だった。顔面の左側が血まみれで、今もじわじわと血が広がっていくのがわかる。
「っ……」
咄嗟に鞄から布を取り出して、青年のもとにしゃがみ込み、出血している部分を押さえた。空いた手で口もとに手を翳し、そのまま首に触れる。幸い、呼吸と脈拍は保たれているらしい。
どうやら額がぱっくりと割れ出血しているようだ。傷口を押さえ込む布に、じわじわと生温かい血が染み込んでくるのがわかる。
「とんだ怪我人のところへ連れてきてくれたわね……わたしは医者じゃないのよ」
猫に泣き言を言っても始まらないと思いながらも、薄汚れた親猫に告げる。
「お前が賢い猫なら、わたしにしたのとおんなじようにして、誰か人を呼んできなさい。いいこと?」
猫に言葉が通じたのか、それともわたしの苛立ちに怯えを成したのかわからないが、子猫をわたしのそばにおくと、明るいほうへと駆け出していった。何も命じないよりはましだと思おう。
片手で青年の傷を押さえながら、もう片方の手で鞄の蓋を開ける。手に触れた小瓶を手当たり次第取り出して、青年の傷口に振りかけた。拭っても拭っても血が溢れてくるから、なかなか出血源にかけられない。
「何をしたらこんな傷を負うのよ……」
剣で切られたか、あるいは鋭利なもので殴られて額が割れたのだろう。
せっせと血を拭いながら魔術薬を振りかけていると、いくらか視野を確保できるようになってきた。
「っ……」
あらわになった傷口に、思わず息を呑んでしまう。
傷口は額だけだと思っていたが、左目にも傷が及んでいるようだ。しかも眼球が破裂している。
……まずいわ。
これは魔術薬を振りかけるだけではまず治らない。内服したとしても、目が見えるようにはならないだろう。治癒魔術師による早急な治療が必要だ。
それでも、この段階で魔術薬を飲んでおくに越したことはない。傷口を押さえていないほうの手で、青年の肩を強く叩く。
「起きて! 起きなさい! このままだと目が見えなくなるわよ!」
青年の耳もとでできる限りの大声で呼びかける。よほどうるさかったのか、青年はうめきながらみじろぎした。長いまつ毛に縁取られた右目が、震えながら開かれる。
あらわになった瞳の色は、美しい紫色だった。見覚えのある色に、どくりと胸騒ぎがする。
青年は、焦点の合わない瞳で空を見上げていた。
「レア……は? レアは無事だったか……」
「わたし?」
こんなときに、何を言っているのだろう。頭を打ち付けて混乱しているのかもしれない。
「とにかく、今は薬を飲むのよ」
手探りで、鞄の隅に収納していた小瓶を取り出す。先ほど、魔力を込めすぎてしまったものだ。売り物にならないと思っていたが、こんなところで役に立つとは思わなかった。
「さあ、体を起こして口を開けて。……わたしは見知らぬ男に口移しで飲ませてあげるほど、慈悲深くないわ」
本当は、見知らぬ男ではない気がしていた。彼の紫の瞳を見てからずっと、動悸がおさまらない。
青年は震えながら石畳に手をつき、わずかに上体を起こした。すかさず彼の背中に腕を添え、体を支える。そのまま彼の口もとに小瓶の口をつけた。
「飲みなさい。わたしが作った魔術薬よ。効果は保証するわ」
青年は焦点の定まらない瞳のまま、わたしの指示に従って大人しく魔術薬を飲み干した。そのまますぐに横たわらせ、商品用の魔術薬を傷口に振りかける。これですこしは時間を稼げているだろうか。
「アルバートさま!」
ちょうどそこへ、薄汚れた白猫とともに濃紺の外套姿の青年が駆け寄ってきた。あれは王国魔術師団の外套だ。
魔術師はわたしの姿を認めるなり、警戒するように身をこわばらせた。
「お前は何者だ。この方に何をした」
「わたしは治療しただけよ、失礼なひとね」
睨むように魔術師を見上げると、彼も青年の周りに転がっている小瓶に気づいたのか、いくらか警戒を緩めたようだった。
「治療といっても、魔術薬を飲ませただけなの。だから、早く治癒魔術師に診せなければならないわ。……このままでは視力を失うかもしれない」
紫の瞳を見たときから考えていた。この青年はおそらく、ティアベル大公なのだろう。紫の瞳は大公家の証であるし、わたしが知る限り大公家にこの年ごろの青年は大公本人しかいない。
一度目の人生では、大公はたしか左目に眼帯をしていた。おそらくこの怪我で視力を失ったのだ。
……わたしの魔術薬は、彼の未来を変えられたかしら。
一度目の人生の終わりに、わたしの願いを聞き届け、わたしをいたぶらずに殺してくれた彼への恩返しができただろうか。彼の誠実さに、これで報いたことになるだろうか。
「それじゃ……わたしは行くわ。ここにいてもできることはもうないもの」
なるべくなら、大公とは関わりを持ちたくない。これがこの人生で最初で最後の接点だ。
「ありったけの魔術薬を置いていくから、治癒魔術師に診せるまで傷口にかけ続けてちょうだい。向こう一日は傷を治す作用の魔術薬は飲ませないで。もう人の体で耐えられる上限いっぱい飲ませたから、傷につけるだけにして」
本当ならば鞄いっぱいぶんの魔術薬と、不意の産物ではあるが特製品ともいっていい純度の高い魔術薬の料金をたっぷり請求したいところではあるが、やめておこう。恩人に見返りを要求するほど、今は困っていない。
「レディ、お待ちください!」
魔術師の呼ぶ声を振り切って、元来た道を走り抜ける。入り組んだ道に却って救われた。おかげで魔術師がわたしを追ってくることはないだろう。そのままいつもの道に戻り、店がある街の大通りへ飛び出した。
商品はすべて大公に使ってしまったから、お店に納品できるものはもうない。大公を助けたことに後悔はないが、店の老夫婦との信頼を損ねたかもしれないと思うと気が重くなった。
……契約を打ち切られないといいけれど。
だが、謝罪のために店に赴くと、老夫婦はわたしを怒るどころか血まみれの外套姿に驚いて、血を拭うための濡れた布と替えの外套を与えてくれた。
可愛らしい花の刺繍がついた、娘らしい白い外套だった。
聞けば、いつかわたしに贈るために、準備してくれていたものなのだという。約束の商品を納品できなかった役立たずなのに、こんな親切をくれる老夫婦が不思議だった。
けれど、悪い気はしない。大公にありったけの薬を使ったことも含めて、全部悪い気はしなかった。
その日の夕暮れは、橙色がいつもよりいっそう濃く、輝いて見えた。わたしもありきたりな人間だ。ちょっとよいことがあっただけで、太陽や空を美しく感じるなんて。気分次第でこんなに見え方が変わるなら、幸せな人間はこの世界をどれだけ美しく思っているだろう。
……大公が美しいものを眺める目を、守ることができならいいけれど。
そういえば彼はわたしの死の間際、わたしのことを美しいなどと言っていた。両目が揃っていれば自分の目の悪さに気づいて、本当に美しいものを見つけられるようになるかもしれない。
いつもより足早に帰路を辿り、どうにか日没までに屋敷の前にたどり着くことができた。安堵感から小さく息をつく。それと同時にふと、足もとに何か温かいものがすり寄っているのを感じた。
見れば、そこには先ほどわたしが手当てしたばかりの子猫がいた。すりすりとわたしの足首に小さな頭を擦りつけている。
「呆れた。お前、お母さまと離れてどうするつもり? 今日はもう戻れないわよ」
ひょい、と子猫を抱き上げてそっと撫でてみる。好き通るような灰色の瞳をしていた。
「……あの場所にはもう行くつもりはなかったけれど、仕方ないわね。明日送ってあげるわ」
親猫は心配して歩き回っているかもしれないが、今日はもう戻るわけにいかない。屋敷を抜け出せないのはもちろんだし、日没後にあの路地裏を歩くのは自殺行為だ。
せめて子猫を保護して、明日の早い時間にでも親猫の元に戻してあげよう。幸い明日は丸一日講義に出なくとも進級に支障がない日だった。
「どうせなら綺麗にしてあげるわ。あと、ミルクも用意しなくちゃね。傷を治すにはご飯を食べないと」
一日くらいなら、誰にも知られずに自分の部屋で保護できるだろう。思いがけない楽しみができて、猫を外套の下で抱えたまま軽い足取りで私室へ直行した。




