第4話
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覚えているもっとも古い記憶は、鍋の中でふつふつと煮えるお湯の上に、お母さまの白い手が薬草をちぎっていれる場面だった。
『魔術薬を作るときにはね、魔力をこめるだけじゃなくて、薬草が持っている本来の力を魔力で引き出すことも大事なの』
薄緑に変わった液面を、お母さまは木の匙で掬い上げ、小瓶に詰めた。コルクできゅ、と蓋をする瞬間の音が好きだった。
『魔術薬はあまり使われなくなってしまったけれど、じゅうぶん役立つものなのよ。あなたも、きっとうまく作れるわ、レア』
そう言って、細い手が幼いわたしの頭を撫でてくれる。軽く目を瞑ってその心地よさに身を委ねた。幸せな時間だった。
『レア、あなたにこのご本をあげる。……きっと、あなたが生きていくために必要になるものよ』
そう言ってお母さまは、やがてわたしが愛用するにようになる魔術書をくれたのだ。これがいつの出来事だったのかはっきりとは覚えていないけれど、わたしが大した魔力も持たない上に、魔術を使えない落ちこぼれだと判明したあたりだと思う。
魔術書をもらったその日から、わたしは魔術薬作りに励むようになった。魔術薬をひとつ作っては、必ずお母さまに見せにいった。お母さまに、褒めてほしかったのだ。
『いい子ね、レア、あなたは才能があるわ』
お母さまにそう言ってもらえるたび、生きていていいのだと思えた。その言葉をもらうためだけに、わたしはますます魔術薬作りに打ち込んでいった。
だが、そのころから次第にお母さまはやせ細り、弱っていったのだ。ろくに顔を合わせない父に、母が縋り付くようにして何かを泣き叫んでる場面を見るようになったのも、そのあたりからだった。
『あんな落ちこぼれを産んでおきながら、なぜ愛されると思えるんだ? 離縁されないだけましだと思え!』
父の怒鳴り声は、びりびりと空気を震わせるように大きくて嫌いだ。その声でお母さまを泣かせると知ってからは、もっと嫌いになった。
お母さまは、確実に追い詰められていた。父に見捨てられ、かと言って離縁されて自由になることもできず、水を与えられなくなった花のように徐々に徐々に弱っていった。
『今更こんなものを見せないで! あっちへ行って!』
いつからか出来上がった魔術薬を見せに行っても、そうやって追い払われることも増えていった。お母さまの主治医は「奥さまはお心の病で錯乱なさっているだけです」「あなたが嫌いなわけではない」と励ましてくれたけれど、本当のところはどうかわからない。
わたしがアデルのように優秀であれば、そもそもお母さまは心の病などに罹らなかったはずだ。それが叶わないならせめて、生まれてこなければよかったのだ。わたしは救いようのない親不孝者だった。
それでも、十回会いに行けば一度くらいは、昔のように頭を撫でて褒めてくれる日があって、それがあるからわたしはお母さまのもとへ魔術薬を持っていくことをやめられなかった。物に当たるようになった母に魔術薬や花瓶を投げつけられ怪我をしても、お母さまに褒められたくてわたしはお母さまのもとへ通い続けた。
お母さまが弱り始めてから、一年ほどたったころだろうか。その日、ついに魔術書に載っている魔術薬をすべて作り終えたわたしは、その成果を報告するためにお母さまの部屋を訪れた。
そのころにはもう、お母さまは骨と皮しか残らないほどに痩せ細っていたのに、わたしを見るなりそばにあった水差しを投げつけてきた。
『こんなもの……こんなもの! あなたのせいでわたくしはここから出ることも叶わないのに!!』
水差しが額に当たってどくどくと血が頬をつたっていく。痛い、のだろうがそれもなんだかよくわからない。血は体の外に出てもこんなに温かいのだと、そんなようなことばかり考えていた気がする。だからこそ、どうしてこのときにこんなことを口走ったのか、今でもわからない。
『お母さま……ごめんなさい』
部屋の中が凍りついたように静まり返った。このときまでわたしは一度も、お母さまに謝ったことはなかった。
たぶん、わかっていたからだ。謝れば、お母さまはきっと我に帰ってしまうだろうと。わたしを恨むことでぎりぎり繋いでいた生きる意欲が、ぷつりと途切れてしまうだろうと。
そして実際、その通りだった。お母さまはふいに手を震わせたかと思うと、信じられないというような表情で己の掌を見つめた。
『あ……ああ……わたくしは、なんてことを……』
お母さまはふらりと寝台から離れたかと思うと、おぼつかない足取りでよろよろとわたしのほうへ向かってきた。途中散乱したガラス片で足が切れても構わずに、わたしのもとへやってきたのだ。
お母さまはそのまま、わたしを抱きしめてくれた。昔のような柔らかさも、いい匂いも、とうに失われていたけれど、お母さまの温もりだった。懐かしくて、勝手に涙があふれてくる。
『ごめんね……ごめんね、レア。痛いよね……ごめんね……』
苦しいほどに抱きしめられていると、痛みも傷口の熱も遠ざかっていく。お母さまからの抱擁は、鎮痛作用のあるどんな魔術薬よりも優れた痛み止めだった。
そのまま、どのくらい抱きしめられていただろう。何度も何度も頭を撫でられたあとに、ふいにお母さまはぽつりと切り出した。
『あなたは、ずいぶん魔術薬を作るのがうまくなったのね。ねえ……レア、いちばん強いお薬を作って、お母さまに見せてくれるかしら?』
久しぶりのお母さまからのお願いだ。わたしはお母さまの腕の中で何度も頷いた。わたしが作れるものの中でいちばん強い魔術薬を作れば。お母さまはそれはそれは褒めてくれるだろう。ひょっとすると、久しぶりに一緒に食事をしてくれるかもしれない。
お母さまに額の傷の手当てをしてもらったあと、わたしは部屋を飛び出して、さっそく魔術薬作りに飛び込んだ。いちばん強い薬、と言うのはずいぶん定義が曖昧だったが、強力な鎮痛薬、睡眠薬、傷薬……あらゆる魔術薬につかう薬草を組み合わせて、わたしは『それ』を生み出した。
それは、香りだけでも目が眩み、吐き気を催すほど強力な作用の魔術薬だった。飲めばたちまち痛みが取り除かれ、穏やかな気持ちになるだろうことは予測がついたが、おそらく眠気を感じたが最後、そのまま呼吸が止まって二度と覚めない眠りにつくだろうと思われた。もはや薬とは呼べない。毒とか劇薬とか言うべき代物だった。
こんな危険なものを、お母さまに渡すわけにはいかない。そう思い、慌てて鍋の中身を捨てようとしてふと、思いとどまった。
……お母さまが望んでいるものは、ひょっとするとこれなのかもしれない。
ぐるりと脳内をかき混ぜるような気持ち悪さとともに、迷いが生じる。その時間は永遠のように感じたが、おそらく実際にはほんの一瞬だっただろう。
結局、わたしはその『いちばん強い魔術薬』を持って、お母さまの部屋を訪ねた。
お母さまは寝台の上でわずかに上体を起こしてわたしを待っていた。そして震える手で小瓶を握りしめるわたしの頭を、そっと撫でてくれたのだ。
『レア、あなたはやっぱり素晴らしい子だわ。賢くて、優しくて……お母さまの自慢の子よ』
お母さまの痩せ細った指が、小瓶を握りしめるわたしの手に添えられる。わたしの震えをそっと包み込むような、優しいふれ方だった。
『さあ、それを渡して、レア。何が起こっても、あなたは何も悪くないわ。……わたくしはね、自由になりたいだけなのよ』
お母さまはそう言って弱々しく微笑んだ。その儚げな笑みを見たとき、このひとはもうここにいてはいけないのだと察した。おそらく、体は生きていても心はとうに死んでいるのだ。いまこうして言葉を交わしているのは奇跡のようなもので、一過性の幻に過ぎない。
わたしがお母さまにできる、唯一の親孝行はきっと、この小瓶を渡すことだ。そう悟ったと同時に、するりと小瓶が抜き取られていった。
『ありがとう、レア。……あなたの幸せを見届けられなくてごめんなさい』
愛しているわ。そう言って、お母さまはわたしの額の傷口の上にくちづけを落とした。




