第3話
「アルバート……」
そうするのが当然というように、ふわりと彼に抱き上げられる。都合よく振ったこの雨はきっと、彼が魔術で降らせたものなのだろう。自らが降らせた優しい雨の中で穏やかに微笑む彼の姿は、この世のものではない神聖で美しい何かのようだった。一瞬何もかもを忘れて見入ってしまう。
「もう大丈夫だよ。遅くなってごめん」
彼はまるで子どもをあやすような調子でわたしの頭に頬を擦り寄せた。雨と彼の優しい匂いが混じり合って、どうしようもなく安心した。いつのまにか彼のそばが、わたしの帰る場所になっていたのだと思い知らされる。
「アルバート……! 助けて、セシリアとオスカーが小屋のなかに閉じ込められているかもしれないの」
安心感に身を委ねてしまいたい衝動に抗って、彼にしがみついて助けを乞う。相変わらずアルバートは慈しむように目を細めてわたしを見るばかりだった。
「こんなに酷い目にあったのに、真っ先にセシリアたちのことを心配するなんて、本当にきみはお人よしだ」
彼はわたしを抱き上げる腕に力を込め、いっそうわたしを引き寄せると、王太子とアデルに向き直った。微笑んではいるが、ぞっとするほど冷えきった眼差しだ。
「こんな馬鹿馬鹿しい茶番を繰り広げるなんて、王太子殿下も婚約者殿もずいぶんお暇なようですね」
「ティアベル大公さま……! わたしは本当に見たのです。お姉さまが、セシリアさまとオスカー殿下を小屋に誘導するところを……!」
恐怖を露わにして固まっている王太子とは裏腹に、悲痛な表情でわたしの罪を訴えるアデルは大したものだ。教師陣でさえ、アルバートの怒りと魔力に怯えを示している者がいるくらいなのだから、アデルの神経は図太いどころの話ではないのだろう。ある意味、王太子妃には向いている精神力の強さなのかもしれない。
「おふたりを早くお助けしなければ……! みなさん、小屋へ急いでください!」
こうしてはいられない、とでもいうようにアデルは取り巻きたちに命じていた。自分では決して足を踏み入れないところもさすがだ。
取り巻きたちはアデルに命じられ、びくびくしながら動き出そうとした。その彼らを、アルバートがひと睨みする。
「あなたがたの助けなど結構です。……セシリア、いつまで遊んでいるんだ」
アルバートがぽつりとつぶやいた矢先、燃えて半壊した小屋の中からゆっくりと人影が姿を現す。セシリアとオスカーだ。制服はところどころ焼けこげているが、自分の足で歩けるくらいには無事らしい。オスカーは両腕に、大きな麻袋を抱えていた。
「お兄さま、これでも急いだのですよ。レアが追い詰められているのにのんびりできるはずがないでしょう」
「セシリア……!」
セシリアはいつも通りに涼しげな物言いで、わたしたちのそばまで歩み寄ってきた。思わずみじろぎしてセシリアに抱きつこうとするも、アルバートの腕に抱えられた状況ではそれも叶わない。
「レア、心配をかけてごめんなさい。わたくしたちは無事です」
「脱出する際にできるだけ薬草を持ってきましたが、残念ながら一部は燃えてしまいまったようですね」
オスカーがそう言いながら、麻袋を地面に下ろす。たしかに袋の中には、薬草がぎっしりと詰まっているようだった。
「……薬草なんて放っておいて、一刻も早く脱出するべきよ!」
思わずふたりを責めるような声が出てしまう。無事だったからいいものを、あまりに呑気すぎる。
「レアはこの薬草を大切に手入れしていましたから、放っておけなかったのです。それに……どのみち無事に脱出できることはわかりきっていましたから」
「うっかりうとうとしていたお嬢さまはどなただったかな」
オスカーが、珍しくセシリア相手に嫌味をこぼす。思い当たるところがあったのか、セシリアまた彼女らしくもなく視線を彷徨わせた。
「……それだけレアの魔術薬はよく効くということです」
セシリアとオスカーのやりとりを、皆が呆気に取られて見ていた。アデルだけが、明らかな苛立ちを露わにしてふたりを睨みつけている。
「騙したのね……ふたりとも」
震えるような声でアデルはふたりを責めていた。それを受けて、セシリアはくすくすと可憐な笑い声をあげる。
「ああ、おかしい……。睡眠薬をわたくしたちに盛るような方は、やはり言うことが違いますね」
セシリアの発言に、この場にいる誰もが息を呑むのがわかった。大公家の令嬢と第二王子に睡眠薬を盛るなんて、いくら未来の王太子妃となるアデルでも重罪だ。
「――順序立てて、すべて説明しなさい」
低くしわがれた声でそう命じながら、ひとりの老人が人混みをかき分けて姿を現した。入学式でいちど見かけたことしかないが、彼は学園長だ。
「簡単なことです。そこにいるアデル・エル・ヴェルローズ侯爵令嬢が、わたくしとオスカー殿下を催眠作用のある魔術薬で眠らせ、小屋に閉じ込めて火を放ち、殺そうとした。しかも、異母姉であるレア・エル・ヴェルローズ侯爵令嬢に罪を被せようとしたのです」
「違います、学園長――!」
セシリアが話した側から弁明を始めようとするアデルを、学園長は静かな瞳でじっと見つめて黙らせた。睨んでいるわけでもないのに、不思議な圧のあるひとだ。
「ティアベル、続けなさい」
学園長に促され、セシリアはこくりと頷く。
「今日の昼食時、わたくしとオスカー殿下はアデルさんに声をかけられました。一緒にお茶でもどうか、と。王家と大公家の親交を深めるため、わたくしとオスカー殿下はアデルさんとともにお茶をいただきました。ですが、そこで出された紅茶は睡眠薬入りのものだったのです」
セシリアは胸に手を当てて、痛みを感じたかのように眉を顰めた。普段は絶対にしないような大袈裟な表情だ。
「セシリアさまは何か混乱なさっているみたい。わたしはおふたりとお茶をともになどしていません。きっとお姉さまに薬を飲まされて幻覚を見たのでしょう」
アデルは涙を浮かべて、セシリアとオスカーを憐れむそぶりを見せた。こういう演技は相変わらず上手い。
「それでしたら、ここに証拠があります」
セシリアは表情ひとつ変えずに、制服のポケットから人差し指ほどの長さの小瓶を取り出した。中には紅茶らしき少量の液体が入っている。
「……睡眠薬が盛られていると気づき、隙を見て吐き出したものですから、あまり綺麗なものではありませんが……調べればレアが作った魔術薬の成分と、王家のみに献上される高級茶葉の成分が検出できるでしょう」
セシリアは涼しげな微笑みを浮かべたまま、わずかに視線を動かしてアデルを捉える。ほんのわずかに、その眼差しには愉悦が含まれている気がした。
「こんなふうに足の残るものをわざわざ使ってくださるなんて、未来の王太子妃殿下はあまり茶葉にご興味がございませんのね」
いつの間にか私たちを囲むように群がっている生徒たちの一部から、くすくすと嘲笑が湧き起こる。教養のなさを指摘されたアデルは、明らかに表情を引き攣らせていた。
「その後、猛烈な眠気に襲われ意識が朦朧とするわたくしとオスカー殿下を、アデルさんはお仲間に命じてこの薬草小屋まで運ばせました。そして、火を放ち、わたくしたちを殺そうとしたのです」
さらりと告げたが、あまりに残虐な行いだ。余程の殺意がなければ成し得ないだろう。
「幸いわたくしもオスカー殿下も、紅茶を口に含んだだけで飲み込んではいませんでしたから、すぐに意識は清明になり、防護魔術を展開することができました。そしてわたくしは、この状況を打開するために、兄に助けを求めたのです」
そういってセシリアは、薄紫の石がついたペンダントを見せた。おそらく魔術具の一種だろう。アルバートに危機を知らせることができるのかもしれない。
「ちなみにまた証拠は、と問われる前に提示しておきます」
セシリアはポケットから今度は手のひらで包み込めるほどの大きさのガラスの球体を取り出した。中には小さな炎がゆらゆらと揺れている。
「このガラスは、兄が開発した魔術保存用の容器です。ここに魔術で起こした火や先ほど兄が降らせたような雨、魔術で咲かせた花などを閉じ込めれば、半永久的にその魔術を鑑賞することができます」
さらりと説明したが、用途によっては人々の暮らしをさらに発展させる素晴らしい魔術具だ。アルバートの才能には驚かされるばかりだ。
「わたくしはここに、先ほどの火災の炎の一部を閉じ込めました。もちろん、術者の魔力も薄れることなく残っています。調べれば、どなたの魔術で起こされた炎なのか、すぐにわかるはずです」
いつの間にか雨は止み、しんとあたりは静まり返っていた。これらがすべて本当であれば、アデルは王太子妃の座を剥奪されてもおかしくないような罪を犯していることになる。誰もがその可能性に思い至り、この国の貴族社会をゆらがしかねない大事件を目の当たりにしているのだと察し、絶句しているのだろう。
そんな沈黙の中で、アルバートはいつも通り静かな微笑みを見せた。
「ヒース講師の部屋を爆破したのも、きみだね、アデルさん。さっき部屋を見てきたよ。魔術薬の製作に使う薬品の一部をすり替えただろう。レアの魔術薬を手にいれるためだろうが、ついでに彼のことをも殺してしまえたらいいと思っていたのかな。彼はレアのお気に入りだから」
アルバートはわたしを抱き抱えたまま、指先で何度か髪を撫でた。ほとんど無意識のような仕草だ。
「セシリアとオスカー殿下のことも、似たような動機かな。第二王子派閥の主要人物を一掃して、罪をレアに被せることで大公家にも打撃を与えて王太子派をより強固にしたかったのかもしれないけれど、それはきっとついでの理由だよね? ――きっときみは、ただレアに絶望を味わわせたかったんだ」
アルバートは、挑発するように唇を歪めた。アデルは憎悪を隠しもせず、彼を睨み返している。絵の具で塗りつぶしたような水色の瞳には、珍しく激しい熱が宿っていた。
「きみは、認められないだけでレアのことが結構好きだよね。素直になれば、レアの心を手に入れられたかもしれないのに」
「うるさい……うるさい、うるさい、うるさい!」
その瞬間、アデルはわたしに向かって白い光を放った。あれは、治癒魔術を転用した攻撃魔法だ。この間、魔術実技の時間に彼女が的を破壊していた魔術と同じものだろう。
だがその光はわたしのもとまで届くことはなかった。瞬く間に薄紫の光に打ち消され、離散したのだ。その衝撃がアデルのほうへ跳ね返ったらしく、彼女は地面に崩れ落ちていた。またしても守ってくれたのは言うまでもなく、アルバートだった。
地面に崩れ落ちたアデルを、取り巻きたちがおろおろとしながら見守っている。聖女とまで言われるような可憐な振る舞いをしてきたアデルが見せる怒気を前に、手を差し出そうにも躊躇っているようだった。
「詳しい話は王城でしようか。……王太子殿下、彼女の身柄を魔術師団に預けても?」
「あ、ああ……」
歯切れ悪く答える王太子のそばにはいつのまにかアルバートと同じ外套を纏った魔術師たちの姿があった。ふたりの女性魔術師が、アデルの腕を両脇から掴んで拘束する。
そのまま大人しく連行されるかと思ったアデルだが、立ち上がるなりくつくつと笑い出した。暗く、憎悪のこもった笑い方だ。
一度目の人生でわたしがお腹の子を失ったときも、彼女はそんなふうに笑っていた。嫌な記憶が蘇って、再び胸とお腹の奥がつきりと痛む。
「大公さまもセシリアさまも、みんな騙されて馬鹿みたい。お姉さまは、本物の悪女だっていうのに!」
くすくすと笑いながら、彼女は乱れた髪の隙間からアルバートを見上げた。憎悪でふつふつと煮立つような熱を帯びた瞳がなんとも不穏で、ぞわりと寒気が走る。
嫌な予感がした。彼女はわたしが最も恐れていることを暴露しようとしているのではないだろうか。
「待って……アデル、それは……」
思わず、情けない声が出る。アデルはそんなわたしを見て、にいっと唇を歪めた。
「知らないなら教えてあげる! お姉さまはねえ……わずか六歳のときに、実の母を殺した正真正銘の悪女なの! ヴェルローズの毒魔女の悪名は、本物なのよ!」
「っ……」
知られた。ついにアルバートたちに知られてしまった。叶うことならずっと、隠し通しておきたいと願っていたのに。
「実の……お母さまを?」
セシリアが、はっとしたように復唱する。近ごろ突然に両親を亡くした彼女にとって、親殺しなんて許しがたいことだろう。軽蔑されることはわかりきっていた。
「アルバート……下ろして……わたし……」
解決策なんて何もない。けれどただただ、この場から逃げ出したくて仕方がなかった。
だが、アルバートはわたしから手を離そうとしなかった。それどころか、余計に強く抱きしめられてしまう。
「そうだね、疲れただろうしそろそろ帰ろうか」
普段はわたしの願いはなんでも叶えてくれるというのに、今ばかりは頑なだった。抱きしめる腕の優しさが、今は焼きつくように痛い。
――レア、いちばん強いお薬を作って、お母さまに見せてくれるかしら?
甘い毒の香りがする翳った記憶が、頭の中を埋め尽くしていく。
わたしは逃げ出すこともできないまま、アルバートに連れられてシェレル城へと帰ることになってしまった。




