第2話
小講義室の扉を開け、隅の席に座る。ここは狭さと古さのために、今ではほとんど使われていない講義室だ。ほとんど誰も立ち寄らないだけあって、ここだけはいつでも静かだ。わずかに曇った窓ガラスから中庭を眺めることができるのも、この場所がお気に入りとなった理由のひとつだ。
すこしの間外の景色を眺めたあと、鞄から濃紺の小さな袋を取り出す。このところ地道に製作を進めている香り袋だ。近ごろは城でも眠るぎりぎりまでアルバートやセシリアと過ごすことが増えたから、こうしてひとりになれる時間を見つけては作り進めていた。あとは、アルバートに送る香り袋の刺繍を終えるだけだ。
……大公家の紋章がいちばん難しいのよね。
白い狼と剣、月桂樹をモチーフにして、作られているのだが、構造が入り組んでいで王家のものよりよほど難しかった。この間やっとセシリアに渡すぶんを縫い終えたばかりだ。
……この剣は、一度目の人生でアルバートが手にしていた剣に似ているわ。
確かあの剣は、魔術師団長に代々受け継がれるものだと聞いている。現時点で副団長であるアルバートはまだ携帯していなかった。再びあの剣を目にするときが来たら、わたしはどんな気持ちになるだろう。やはり、恐れるのだろうか。
記憶が正しければアルバートが魔術師団長になるのは二十二歳のころだから、もうまもなくそのときは訪れるはずだ。
剣の部分を刺繍しながら、あの静寂の夜を思い出す。空っぽだったわたしに、アルバートだけが誠実に向き合ってくれた。死の間際に初めてわたしは、美しいものを拾い上げたのだ。
自分が殺された夜を懐かしむなんて妙な話なのかもしれないが、あの夜の記憶は今も静かな光を放って心の隅に大切にしまいこまれている。アルバートたちに対する愛しさと同じくらい、大事なものだ。
細かく刺繍を縫い進めていると。中庭の人影が視界の隅にちらついて顔を上げた。まだ昼食の時間は十分にあるはずだが、中庭で過ごしていた生徒たちが慌てたように校舎のほうへ駆け寄っている。窓越しだからはっきりとしないが、いつもより騒がしい気がした。
そうこうしているうちに、廊下からもばたばたと何人かの人間が駆けるような足音が聞こえてきた。
……何かあったのかしら。
刺繍の針と作りかけの香り袋を鞄にしまい、鞄を抱き抱えるようにして講義室からそっと顔を出す。廊下には、昼食どきにそぐわない妙な緊迫感が漂っていた。
「かなり燃えているらしい」
「取り残された人がいるって……」
「先生たちが魔術で消火してくれないのかしら?」
普段はわたしが姿を現すだけで不快そうに顔を顰める生徒たちも、今ばかりはわたしに見向きもしない。断片的に聞こえてくる生徒たちの言葉がどれも物騒で、何かがあったことは間違いがないようだ。たまらず、わたしも彼らが駆けていく方向へ急いだ。
何があったのかは、すぐにわかった。廊下をしばらく走り抜けると、やがて平穏な学園にはふさわしくない赤い炎が見えた。
「っ……」
燃えているのは、薬草小屋の方向だった。どうやら炎は小屋だけに収まっておらず、周囲の木々や芝生にも燃え広がっているようだ。すでに数名の生徒や先生たちが炎を囲むようにして消火にあたっているようだが、炎の勢いが強く火災の範囲を広げないので精一杯のようだった。
「あれって、何があった場所だ?」
「さあ……倉庫みたいなものだったかな」
薬草小屋の存在自体、多くの生徒には認知されていないようだ。それもそうだろう。魔術が使える彼らにとってはほとんど用のない場所だ。
「どうして……」
居てもたってもいられず、遠巻きに火災を眺める生徒たちの群れから飛び出した。魔術も使えないわたしができることなんてないに等しいが、あの場所はわたしの大切な居場所だった。
嫌な予感がする。確かな証拠もないけれど、どうしても脳裏によぎるのはアデルの存在だ。わたしはひょっとして、彼女を甘く見ていたのではないだろうか。
「下がっていなさい! ここは危険です!」
炎に千花養老としたわたしを、すかさず教師が牽制する。学園中の教師陣が必死に炎に立ち向かっていた。
ごうごうと唸るように燃え盛る炎を前に、思わず二、三歩後ずさってしまう。直接触れている訳でもないのに、肌を溶かすような熱風に包まれて思わず咳が出た。
その瞬間、背後から何者かに足を払われ、地面に突っ伏するような体勢になる。瞬く間に腕を後ろ手に掴まれ、身動きを封じられてしまった。
「何ごとです!」
わたしの目の前にいた女性教師が驚いたような金切り声を上げる。すぐ後ろに何人かの足音が近づいているのがわかった。
「先生、驚かせてしまって申し訳ございません。けれど……これはこれ以上の被害を広めないために必要なことなのです!」
炎が唸る音の中に、甘ったるい声が響く。聞き間違えようがない。これはアデルの声だ。
……嫌な予感があたってしまったわ。
「どういうことです?」
「わたし見てしまったのです……! つい先ほど、お姉さまがセシリアさまとオスカー殿下とともに、小屋に入っていくところを……!」
炎に向き合っていた教師陣に、動揺が走る。同時にわたしの腕を押さえつける何者かの力が余計に強くなるのを感じた。
「てっきり魔術薬学の授業かと思っていましたが、ヒース先生は午前中不在になさっていたというではありませんか。授業でないならお姉様はふたりと何をしていたのでしょう? それに、三人が小屋に入っていく姿を最後に、誰もセシリアさまとオスカー殿下の姿をお見かけしておりません!」
……まさか、アデルはあのふたりにも何かしたの?
絶望が、一段と深くなる。小屋が燃えているのを見た瞬間よりも鋭い痛みが、胸とお腹の奥に走るのがわかった。
「実は、わたし、あのおふたりから相談を受けていたのです。お姉さまから離れたいと……。それが気に食わなかったお姉さまは、あの二人を小屋に閉じ込め火をつけた……! こんな許されざる凶行に走ったのですわ!」
無茶苦茶だ。そんなの誰に訴えたところで、アデルの一方的な妄想の域を出ない。けれど、王太子の婚約者という彼女の立場が、発言に強大な影響力を与えていた。彼女が黒といえば白も黒になる。彼女はそういう座にいるひとなのだ。
けれど、今はアデルのことなどどうでもいい。この言いぶんだと、アデルはあのふたりを小屋の中に閉じ込めて火を放ったことになる。あのふたりならば身を守る術はいくらでもあるだろうが、それはあくまで意識が清明な場合に限る。もしも眠らされたり、意識が揺らぐほどの大怪我を負わされていたりしたら、脱出なんて不可能だ。
「やだ……セシリア……オスカー……!」
いてもたってもいられず、無理やり拘束を解こうとするも、頭を押さえつけられ地面に頬を擦り付けるようなかたちになってしまう。どれだけじたばたしても、びくりとも動かなかった。セシリアとオスカーの身を案じる気持ちと、どうしようもない無力感で涙が滲む。
甘くて見ていた。完全にアデルを侮っていた。わたしを絶望させるためならば自国の大公家の令嬢と王子までも手にかけようとするなんて。
「っ……」
ぽたり、と大粒の涙が頬を伝ったそのとき、目の前に影が落ちてきた。
「へえ、お前はそんな顔で泣くんだな。泣いている顔は悪くないじゃないか」
嘲笑を浮かべながらしゃがみ込み、わたしの顎に手を添えたのは王太子だった。王家の生まれとは思えないほど下卑た表情だ。思えば彼は、一度目の人生で初夜に怯えるわたしに対しても似たような嗜虐的な笑みを見せていた。
セシリアとオスカーを案じる気持ちと、王太子に対する嫌悪感で吐きそうになる。油断すれば余計に涙が溢れてしまいそうで、唇を噛み締めて必死に堪えた。
今のわたしがすべきことは涙を流すような非生産的な行いではないはずだ。セシリアとオスカーを助けなければならない。自分の力でどうにもできず、教師陣の力でも炎の勢いを抑えきれないのなら、助けを呼ばなければならない。
……アルバート。
真っ先に思い浮かんだのは彼の姿だった。彼がこの場にいてくれたなら、どれだけ心強いだろう。ひとりで生きていくと意気込んでいたのに、いつの間にかアルバートの存在がこんなにも大きく、わたしの心の支えになっていることに気付かされた。
……アルバート、お願い、助けて。
心の中でそう強く願ったと同時に、ぽたぽたと頬に冷たい雫が落ちてくる。空は清々しいほど晴れ渡っているのに、雨が降り始めたようだ。
雨の勢いはたちまち強くなり、目の前でごうごうと唸る炎をみるみる消火していく。ほんのわずかな間に炎は立ち消え、灰色の煙を残すばかりとなった。
同時にわたしを取り押さえていた何者かの腕が、突然離れていくのがわかった。どうやら、魔術で吹き飛ばされたようだ。わたしのそばにしゃがみ込んでいた王太子の表情が、恐怖に引き攣るのがわかる。
「レア」
雨の勢いが弱まり、霧雨のような小さな雫がきらきらと陽光を反射していた。その光の幕の中から、わたしの名前を慈しむように呼ぶそのひとが姿を現した。




