第2話
その日の夕方、わたしはシェレル城へ帰るなり、さっそく城の図書室を訪ねていた。この城に住み始めたときに、アルバートにさらりと紹介されたきり訪れたことはなかったが、もっと早く足を運べばよかったと思い始めていた。それくらい、シェレル城の図書室の蔵書は見事だったのだ。ひょっとするとここにしかないのではないかと思わされるような古書がいくつもある。
……素晴らしいわ。さすがはティアベル大公家ね。
ほう、とため息をつきながらわたしの身長の何倍もある本棚を見上げる。アルバートやセシリアは、ここで教養を身につけたのだろうか。本の影に幼い彼らの姿を見たような気がして、自然と頬が緩む。
本棚は、王国史や魔術書、図鑑などで棚が分けられているようだった。王の薬師グリシナは建国時代に活躍したひとだから、王国史に載っているのかもしれない。
抱えるほど大きく分厚い古書を取り出して、そばにあったテーブルの上で広げる。薄くかぶっていた埃をはらい、ぱらぱらとページをめくった。
初代の国王や、今の主要な貴族家の初代当主たちの名前が次々に現れる。改めて学ぶのは一度目の人生の妃教育のとき以来なので、不思議な懐かしさを感じた。
しばらくページをめくっていると、やがて探し求めていた名前が現れる。古びたインクで記されたその名を、そっと指先でなぞった。
「王の薬師グリシナ……」
そこには、ごく短い文章でグリシナの一生が記されていた。
『魔力は持ちながらも魔術は扱えなかったグリシナは、薬草に魔力を込めて作る魔術薬の分野で才能を発揮し、王や建国に貢献した英雄たちを助けた。中でも王弟ティアベルとは特に親しく交流していた記録が残されている』
「ティアベル……」
考えるまでもなく、このティアベル大公家の初代当主だ。アルバートによれば、治癒魔術が効かない体質は初代当主から続く大公家の呪いのようなものだと言っていたから、魔術薬の才に恵まれたグリシナと交流を持っていたことも納得だ。
「こんなところで何してるの、レア」
ふわり、と背後から濃紺の外套に包み込まれ、はっと顔をあげる。いつの間にか背後には、アルバートの姿があった。
「アルバート、お帰りなさい」
「ただいま、レア」
柔らかな微笑みを浮かべながら、彼はわたしのすぐ隣に移動した。わたしが広げている本に興味を持っているようだ。
「調べ物をしたくて、お邪魔させてもらっているわ」
「もちろん、なんでも使っていいんだよ。何を調べてるの?」
「王の薬師グリシナについてよ。グリシナもわたしと同じように魔力がありながらも魔術を使えなかったと聞いて……興味が湧いたの」
黒髪と緑の瞳を持つ人間がグリシナやわたしと同じように魔術を使えない代わりに魔術薬の才に恵まれている、という記述も見つけたかったが、こちらは難しそうだ。文献にあるようなものではなく、迷信程度の伝承なのかもしれない。
「グリシナ……名前は聞いたことがあるよ。そうか……ひょっとしてきみはグリシナの再来なのかもしれないね」
アルバートは柔らかな表情のままいたって大真面目に告げた。わたしを褒めてくれているのだろう。相変わらず大袈裟で、思わずくすりと笑ってしまう。
「ありがとう、確かにそうだったらいいわね。グリシナとティアベルは仲良しだったって書いてあるから、わたしとあなたに縁があるように思えて嬉しいもの」
まるで運命の出会い、とでも呼ぶべき縁ですてきだ。少し前までならこんな発想にはまるで至らなかったはずなのに、アルバートやセシリアとの出会いが確実にわたしの性格を丸くしてくれているようだ。
重たい表紙を両手で閉じると同時に、ふとアルバートの外套に包み込まれる。どうやら彼に抱きしめられているらしい。
「アルバート?」
「ごめん……きみがあんまり可愛いことをいうから、つい……」
そのままわたしの頭に彼が頬を擦り寄せるのを感じた。いつだったか彼がマダム・レアを持ち上げて、ふわふわのお腹に顔を埋めていた姿が重なる。マダム・レアはじたばたしてすぐにどこかへかけて行ったし、アルバートの行動の意図もまるで掴みきれなかったが、今わたしも似たようなことをされているのだろう。
嫌ではないけれど、彼に触れられるとやっぱりなんだかくすぐったい。わたしもマダム・レアのようにじたばたしてみようかと考えてみたところで、先に彼の腕がするりと離れて行った。
「許可もなく触れるなんて紳士的じゃなかったね、ごめん」
アルバートはわたしから視線を逸らしながら、ばつが悪そうに告げた。抱きしめられるのは初めてでもないというのに、律儀なひとだ。
「このくらいなら、別にことわらなくてもいいわ。お友だちだもの」
彼がそらした視線の先に回り込み、にいっと笑って見せる。揺らぐ薄紫の瞳が今日も綺麗だ。
「あなたは何かを抱きしめるのが好きなのね。この前もマダム・レアにしていたもの」
幼いころはぬいぐるみでも抱きしめて眠っていたのだろうか。天使のような愛らしい姿をした幼い彼が大きなぬいぐるみにしがみついて眠る姿を想像するだけで頬が緩んでしまいそうだ。きっとメイドたちを騒がせていただろう。
「まあ……そうだね、そういうことにしておこうかな……」
アルバートはどこか腑に落ちない様子だ。その横顔を眺めながら、彼に伝えなければならなかったことを思い出す。
「そうだわ、アルバート。わたしに魔術薬学の先生を紹介してくれてありがとう! グリシナのことも、先生に聞いたのよ」
本当はアルバートに会ったらいちばんに伝えようとしていたことだ。アルバートの助けなしでは、あの気だるげでいかにも出不精なヒース先生に出会うことはできなかっただろう。
「学園長からは教員室で薬草を煮るばかりの引きこもりだと聞いてたから、すこし心配だったんだけど……よかった。きみがそんな表情をするくらい、いい先生だったんだね」
学園長からの評判は散々なようだ。たしかに、あのよれた深緑の外套といい、寝癖がそのままの髪型といい、無精髭といい、人と会うことを意識していない生活をしていることは明らかだった。
「確かに変なひとだったけれど、魔術薬のこととなると子どもみたいに目を輝かせていたわ。悪いひとじゃなさそうよ」
「きみとは気が合いそうなひとだ」
アルバートがくすりと笑ったそのとき、わたしたちの足もとを白い毛玉が走り抜けて行った。マダム・レアだ。どこからか図書室に迷い込んできたらしい。
「ちょっと、マダム・レア! 待って!」
貴重な書物を引っ掻かれでもしたら大変だ。慌てて追いかけようとした矢先、マダム・レアは見えない檻に阻まれたかのように突然その場でくるくると回り始めた。アルバートの魔術だろう。行手を阻まれたマダム・レアはなんだか不満そうだ。そんな彼女をアルバートは軽々と抱き上げ頬擦りをする。
「こんなところにいたんだね。おやつの時間だよ、マダム・レア」
不満そうな表情のまま、マダム・レアはされるがままになっていた。こうしてみると愛情はアルバートの一方通行のように見えるが、あの日倒れていたアルバートのもとへわたしを導いてくれたのはマダム・レアなのだから、懐いていないわけではないのだろう。
……そういえば、分家の件は片付いたのかしら。
目星はついていると言っていたが、アルバートはわたしやセシリアに知られぬように動き出しているのだろうか。また、危ない目に遭わないといいのだが。
……いえ、何かあっても助けられるように、魔術薬の蓄えを増やすべきね。
わたしにできることは、ただの祈りではないはずだ。建国時代のグリシナのように、わたしはアルバートの痛みと傷に寄り添い癒すことのできる人間でありたかった。




