第2話
◇
王妃に案内されたのは、彼女のお気に入りのガラス張りの温室だ。部屋中に四季折々の花が飾られていて、広々とした広間の中央にちょこんとティーテーブルが置いてあるだけの贅沢な空間だった。
ガラス張りの天井越しには、いつでも空の様子を伺うことができる。先ほどまで晴れていたはずだったが、いつのまにか青空は分厚い雲に覆い尽くされていた。まもなく雨になるだろう。
王妃はここに、お気に入りの人間しか呼ばない。噂によれば、国王すらも呼んだことがないという。
わたし自身は、ここに案内されたことは初めてではなかった。一度目の人生を合わせれば、数えきれないほど足を運んでいる。母もまた、ここでお茶をすることを許された人間だった。
「こんなことになって、残念に思っているわ。せっかく、あなたのような愛らしい娘ができると思っていたのに」
王妃は優雅にティーカップを口に運びながら、微笑んでみせた。寂しそうにも、思うようにことが運ばなかったことへの苛立ちを覆い隠す笑みにも見える。昔からこのひとの微笑みは、張り付いた仮面のようで、本音らしい本音に触れられたことはいちどもなかった。
「わたしが至らぬばかりに申し訳ございません。ですが、王太子殿下が心から愛する相手を迎えることができたと思えば、やはりこの決断は正しかったと思っております」
アデルも馬鹿ではない。王太子妃の座を手に入れたら、その座を保持するための努力は惜しまないだろう。王太子に愛され続ける振る舞いも欠かさないはずだ。
「あの子の気持ちなどどうでもいいのです。わたくしは、あなたを王家に迎え入れたかったのですから」
実の息子に対してずいぶんな言いようだ。同時に、わたしへの執着はいまだに薄れていないこともわかって、言葉に表しがたい不気味さを覚える。
「わたしには、もったいないお言葉です。ありがとうございます、陛下」
正直に胸中を吐露するわけにもいかず、当たり障りのない言葉で返事をすることしかできない。下手に深掘りしたら、なんだか取り返しがつかなくなりそうな危うさが王妃にはあった。
「そうです、わたくしの女官になるのはどうかしら。あなたの将来に悪いようにはならないわ。王妃付きの女官ですもの」
夢見るように、王妃は笑った。王太子とよく似た深い青の瞳が、じっとわたしを見つめている。だがその目は笑っていなかった。どちらかといえば執着や翳りを感じる目だ。
「ありがたいお言葉ですが……陛下の女官になりたい女性は大勢います。魔術のひとつも使えぬわたしが、陛下に使っていただくのは、その方たちが納得しないでしょう」
王妃の女官なんて、それこそ魔術学園での優秀な成績を収めた者や有力者の夫人がこぞって狙う立場だ。間違ってもヴェルローズの毒魔女なんて罵られる人間に与えていい座ではない。
「とやかく言ううるさい子たちはわたくしが処分してあげるわ。ね? いいでしょう?」
まるで花を剪定するくらいの気軽さで王妃は笑った。ガラスの天井には、ぱらぱらと雨が打ち付け始めていた。
「目覚めたらあなたがいて、一緒に支度をして、お食事をして、舞踏会に出かけて、湯浴みをして、わたくしが眠るまで見守ってもらうの。ね、すてきじゃない?」
わかっていたことだが、この言葉を聞いて確信した。やはり王妃はわたしを求めているわけではないのだ。
「陛下……わたしは、私の母では……エヴェリーナではありません。陛下のお望みには応えられないと思います」
わたしと母の見た目は本当によく似ていると思う。長い黒髪も、黄緑に近い鮮やかな緑の瞳も、身長や体型さえ、そっくりだ。母のほうがいくらか美人だと思うが、それでも母を知るひとは私を見て血のつながりを感じずにはいられないだろう。
母と姉妹のように親しい幼馴染として育ったという王妃にとっては、母の面影を色濃く宿したわたしを手に入れたいと思うのは当然なのかもしれない。けれど、わたしは王妃が本当に欲しいものではないはずだ。
「陛下にそこまで大切に思っていただいて、母も喜んでいると思います。もしよろしければ、母の命日にはこうしてお話をしませんか」
王妃の幼馴染の娘としてやるべきことは、母の代わりになることではなく、一緒に母を偲ぶことであるはずだ。
ガラスに打ち付ける雨音が、一層強くなる。遠くでは雷鳴も轟いていた。
「命日……? 違うわ、リナ姉さまは死んでなんかいないもの……今もこうして、私の目の前で……」
ぼそぼそと王妃は何かをつぶやいたかと思うと、不意に席を立ち上がり、わたしの目の前に迫った。頬に王妃の手が触れる。ひやりとした冷たい手だ。
「ねえ、わたくしのことを名前で呼んで」
「……レティシア、さま」
「違うわ、いつもみたいにシアって呼んで?」
王妃の手がそのまま首筋に、胸に、お腹に滑り降りてくる。そのまま彼女は椅子に座るわたしの膝に縋り付くようにして頭を預けた。
「リナ姉さまと同じ匂いがする……」
膝に加わる重みに、いっそう不気味さを感じてならなかった。王妃に気軽に触れるわけにもいかず、置き場のない手が宙を彷徨う。
「リナ姉さま、わたくし頑張ったのよ……あいつと結婚して、子どもまで産んだの。しかも生まれたのは男だったの……最悪よ。それでもいい子で王妃をやっているのよ……」
いつもの夢見るような声からは想像できないほど、暗く沈んだ声だった。今にも消え入りそうな声量で、よく耳を済まさなければ聞き逃してしまいそうだ。
「汚いものにばっかり囲まれていても、ちゃんとにこにこ笑っていたわ。ねえ、リナ姉さま。だから今度こそわたくしにキスをして。いい子だったね、ってわたしにくちづけて」
王妃の手がわたしの胸ぐらを掴んで、ぐい、と引き寄せた。淀んだ青の瞳は、わたしを通して亡き母を見つめているようだ。
「わたくし、許してないわよ。あんな男と結婚すると決めた姉さまのことも、あんな男のために心を病んだことも、勝手にこの世からいなくなったことも、あのときわたくしにくちづけなかったことも、ぜんぶぜんぶ許していないわ!」
胸ぐらを掴まれたまま体を揺さぶられ、そのまま椅子から転げ落ちてしまう。王妃がわたしの体に馬乗りになるようなかたちになった。
「こんなことになるなら、あんな男と結婚する前にわたくしが終わらせてあげればよかった。あんな男に穢されて、ぐちゃぐちゃにされる前に、わたくしが壊しておけばよかった!」
王妃の白い両手が首に添えられたかと思うと、突然息苦しさに見舞われた。
一瞬何が起こっているのか理解できなかったが、首を絞められているのだ。慌ててじたばたと手足を動かすも、王妃は相当力をこめているようでびくともしない。
「もっと早く、こうしておけばよかったのよ……そうしたら、姉さまはずっとわたくしだけのものだったのに」
耳鳴りがする。視界が、時折途切れ始めていた。王城に武器など持ってきているはずもなく、薄れゆく意識に身を委ねるしかないのがもどかしい。
……せっかく、解放されたと思ったのにな。
その瞬間、雷鳴とともに、ぱっとあたりに薄紫の光が満ちた。同時に、潰されていた喉が開いて、自由に息ができるようになる。
「っ……はあ」
咳き込みながら必死に息をすると、温かな力強い腕にそっと包み込まれた。
「ゆっくり息をして、レア。もう大丈夫だから」
静かな声に言われるがままに、深呼吸をする。ちかちかと暗転していた視界が、ようやく元に戻っていく。
「アル、バート……」
どうやら、またわたしを助けてくれたらしい。彼は泣き出しそうな目でわたしを見ると、慰めるようにそっとわたしと額をすり合わせた。吐息の甘さを感じる距離に、余計に体の力が抜けていくのがわかる。
「見つけるのが遅くなってごめん。苦しかっただろう」
まるでわたしを守ろうとするかのようにぎゅう、と抱きしめられると、泣いてしまいそうだった。いつ死んでもいいと思っていたが、怖かったのだと気づく。指先の震えがそれを物語っていた。
「ティアベル大公……あなた、何をしてでもわたくしからその子を奪うつもりね」
床に崩れ落ちた王妃が、睨みつけるようにアルバートを見上げていた。髪も化粧も乱れ、とてもこの国でもっとも高貴な女性とは思えない姿だ。
「レアはエヴェリーナさまの代わりではありません。ましてやあなたに殺されていいひとでもない」
「あなたも、その子が欲しいのね。大公領の独立なんて卑怯な札を陛下にちらつかせてまで……無理やりわたくしからその子を奪い取るつもりなのね!」
「お忘れのようですが、婚約破棄はレアの意思ですよ。レアをそんなに繋ぎ止めておきたかったのなら、王太子殿下の教育をもうすこしお考えになるべきでしたね」
「それで、あなたはその子を穢すの? わたくしが王にされたように、リナ姉さまが侯爵にされたように……!」
王妃はぼろぼろと涙を流しながら、確かにわたしを捉えた。
「ああ、レア、そんなことになるくらいならば……わたくしが壊してあげたかった」
それが、先ほどの行動だと言うことなのだろう。おそらく、彼女なりの善意と好意の現れだ。
「陛下! いったいどうなさいましたか!」
「レティシアさま!」
アルバートが呼びつけたのか、広間の入り口からぞろぞろと女官たちが駆け寄ってくる。全員、黒髪を長く伸ばしていた。母への執着の証をまたひとつ見つけてしまった気がして、ぞわりとする。
「大公……助かりました。大ごとになる前でよかった」
女官たちの後ろから、金髪の青年がわたしたちに近づいてくる。
会うのは初めてだが、彼は王の側妃が産んだ第二王子であるオスカー殿下だ。一度目の人生では早々に王家と国に見切りをつけて出家してしまったひとだった。
「すでに大ごとになっていました。危うくレアは殺されるところでしたから」
アルバートの言葉尻には確かな怒りが滲んでいた。オスカー殿下もそれを感じ取ったのか、胸に手を当ててわたしに頭を下げる。
「ヴェルローズ侯爵令嬢、王室の者として謝罪いたします。王妃のことも、異母兄のことも……」
「殿下が……謝るようなことでは……」
驚いた。この王室にも真っ当な感性を持つ人間がいたなんて。一度目の人生で表舞台に立たなかったことが惜しまれる。
「内密な話ですが、王妃はもうずいぶん前から心を壊していました。ヴェルローズ侯爵夫人が亡くなってからのことです。……もう、あなたには接触しないように見張りを強化します。あなたも王家にはかかわらないほうがいい」
「……そのつもりです」
女官たちに囲まれる王妃の姿を見やる。女官たちに何かを言い聞かされて、すこしは落ち着きを取り戻したようだった。
王妃がどんな経験をしてきたのか、どんな妄執に取られているのかはわからないし興味もないが、彼女を救えるひとがいたとすれば、きっとわたしの母だけだったのだろう。
かわいそうなひとだ。国の頂点に君臨し、この上ない贅沢品に囲まれて生きていても、いちばん欲しいものは手に入らなかった。その虚しさをわたしで埋めようとしていたのだろうが、あいにく自分の身を犠牲にしてまで彼女に仕える義理はない。
「ティアベル大公が味方についているのなら、安心ですね」
オスカー殿下は静かに微笑んだが、アルバートの怒りはおさまっていないようだった。
「呑気なことを言っていないで、あなたもすべきことをしてください。……誰が権力を手にするのが国のためか、あなたはとっくにわかっているでしょう」
アルバートの冷ややかな視線に晒されても、殿下は微笑みを崩さなかった。アルバートを前に物怖じしていた王太子とはずいぶんな違いだ。
「じゃあ、あなたの妹君をぼくにくださいますか? なにぶん、母の生家だけでは後ろ盾が弱いもので」
オスカー殿下は柔らかく微笑んだまま、けれど瞳はまるで揺らぐことなく真剣にアルバートを見上げていた。この状況でアルバートに交渉を持ちかけるとは思ってもみなかった。
「……大した度胸だ。セシリアを口説いてから言ってください」
アルバートは呆れたように鼻で笑うと、わたしを抱き抱えたままくるりと踵を返した。
「シェレル城へ行って手当てをしよう。いいよね、レア」
「ええ……手間ばかりかけて、申し訳ないわ」
「そんな寂しいことを言わないで。ぼくらは友だちだろう?」
くすりと微笑まれると同時に、胸の内にじわじわと温かなものが広がっていくのを感じた。
友だちなんて、初めてだ。しかもアルバートにそう言ってもらえるなんて、こんなに嬉しいことはない。
「ありがとう……そう言ってもらえて、本当に嬉しいわ」
アルバートが友だちなら、セシリアだってそうだ。友だちがふたりもいるなんて、こんなに嬉しいことはない。絞められた首の痛みも、ふたりのことを思えば和らいでいくような気がした。




