序章
吐きそうなほどに甘く、濃密な花の香りがあたりに満ちている。一歩足をすすめるたびに、空気が重くもったりとかき混ぜられていく。
お母さまを殺した毒も、こんな匂いがしていた。薔薇よりもなお濃く芳しい、忘れられない毒の香り。
地を這うように重く響く断末魔は、誰のものだろう。誰のものでもいいか。この城には、私の敵しかいないのだから。
くすくすと笑いながら毒の香の中を突き進むと、やがて、王の寝室の扉の前で絡まるように倒れ込む裸の男女に出会った。女のほうの口もとは吐物に塗れ、すでに虚な目をしている。口紅を塗らずとも薔薇色に色づく形のよい唇も、こうなってみれば無様なものだった。
「ア、デル……おい、しっかり、しろ……」
脱力した腕に鞭打って、男は女の細い肩を揺らしていた。女の体は男の手の動きに合わせて人形のようにゆらゆらと揺れるだけだ。おそらく、もう事切れているのだろう。
「ごきげんよう、国王陛下。わたしの妹との逢瀬はお楽しみになられましたかしら」
にいっと唇を歪め、床に這いつくばる男を見下ろす。裸体に一枚の薄布を無造作に巻きつけた姿で、怯えたようにこちらを見上げる様が滑稽で仕方がなかった。思わず、笑い声が漏れてしまう。
「お前……お前のせいか! この……この毒の香は……」
「僭越ながらわたしからお城の皆さまに贈り物をさせていただこうと思いまして。……わたしのかわいい赤ちゃんを殺した、ほんのお礼ですわ」
どれだけの時間が経っても、お腹からいなくなってしまったあの子のことを思うとつきりと胸が痛む。こんな男の子どもでも、我が子と思えば愛しくてたまらなかったのに。
「は……本当にいたのかも、疑わしいものだ……」
男は唇を震わせながらも、皮肉げな笑みを浮かべた。婚約を結んだときから考えれば、かれこれもう二十年の付き合いだというのに、彼は本当に私のことが気に食わないらしい。
「とにかく……解毒、剤をよこせ。はやく……」
ぐったりと床に体を預けながら、男は告げた。この後に及んで、まだ命令できる立場にあると思っているらしい。
「解毒剤……? なんのことでございましょう?」
「ふざけるな……! 持って、いるんだろう……はやく、よこせ。俺は……お前の夫だぞ!」
「夫? ふふ、ふふふふふ……あははははは!」
あんまりおかしくて、思わず高らかに笑い声を上げてしまった。久しぶりに、目尻に涙がたまる。
「両家で決めた夜伽の日の夜だけに顔を合わせる関係を、夫婦と呼ぶとは思いませんでしたわ。わたくしを散々無下に扱い、いないもののように振る舞っておきながら……どうして命を助けてもらえるなんて思うのです? あなたが王だからですか?」
すでに首を上げる力もなく、視線だけでこちらを睨みつける男の前にそっとしゃがみこみ、膝の上で肘をついてにこりと微笑みかける。
「そもそも、解毒剤なんてありませんわ。だって、このお城の中に助けたい人間なんてひとりもおりませんもの」
「……き……さま」
「あらあら、まだお話しできるんですの? さすがは王族、魔力の高さは伊達ではありませんわね。かなり強い魔術薬を使った毒なのですけれど……」
「……っ」
だんだんと、男の焦点が合わなくなっている。終わりのときは近いようだ。
「ふふふ、苦しいでしょう? 最期の瞬間を見届けて差し上げますわ。あなたに言わせれば、わたしたちは夫婦なのですから、そのくらいはして差し上げなくては」
笑みを深めて男を見つめると、最後の足掻きと言わんばかりに彼の瞳に憎悪の光が宿った。
「この……ヴェルローズの毒魔女め……!」
ヴェルローズの毒魔女。それは、物心がついてからずっと、自分の名前よりも多く聞いてきた蔑称だ。
「ふふ……今際の際に残す言葉がそれですか。こんなにつまらない方とは思いませんでしたわ、陛下」
その場から立ち上がり、ふたりの男女の骸を見下ろす。いつのまにか、ふたりの手はまるで心中した男女のように固く結ばれていた。最後の最後に、陛下が妹の手を握ったのだろう。
ふたりが恋人同士と悟ったきっかけも、人目を偲んでこうして手を繋ぐ姿を見かけたからだった。
じわり、と黒い感情に心を蝕まれていく。霧の中に無理やり迷いこまされたような感覚だった。思えば私の人生は、ずっとこの暗く深い霧と共にあったように思えてならない。
夫と妹の遺体をそのままに、再び廊下を突き進んだ。あれだけ賑やかな城だったのに、もう人の気配はない。
やがて使用人や臣下たちの遺体が転がる大広間に出ると、まっすぐに玉座を目指した。私が座ることを許されなかった王妃の席と、君主のために用意された豪奢な赤い布ばりの椅子が並んでいる。
王妃の席には目もくれず、迷わず王の椅子に腰を下ろした。先ほどまであの男のものだった玉座に。
「ふ、ふふ……」
薄暗がりの大広間には、銀の月明かりが差していた。持ち主を失った玉座の上で、ゆっくりと足を組む。
わたしが、わたしこそが、この静寂の主だった。
ほう、と思わず息をつく。この静けさを得て初めて、心から安堵できた気がしてならない。物心がついたときからずっと、私の周りには悪意の滲んだ言葉ばかりが満ちていたから。
――お前には失望した、レア。この名門ヴェルローズ侯爵家に生まれておきながら、治癒魔術を使えないなんて。
――レア、いちばん強いお薬を作って、お母さまに見せてくれるかしら?
――ねえ、お姉さまが侯爵夫人を殺したのでしょう? 本当のお母さまなのに、怖い方ね。
――子どもができた? 冗談だろ。ヴェルローズの毒魔女の子なんて生まれてくるだけ憐れだ。
心に刺さった棘をひとつひとつ抜き取るように、わたしに投げかけられた呪いの言葉たちを静寂の中に溶かして流し込んでいく。不思議なくらいに、すっと心が軽くなっていった。
ろくでもない人生だった。
治癒魔術の名門貴族家に生まれておきながら、魔力がほとんどない時点で私の一生は決まっていたのかもしれない。毒魔女の汚名を着せられ、異母妹に居場所を奪われ、王家に定められた結婚をし、名ばかりの王妃としてこの城に閉じ込められた。そんな人生だ。
おまけに貴族から使用人まで、ひとり残らず私のことを嫌っていた。幸せだったことなんて、ただのいちどもなかった。
このお腹に宿ってくれたあの子だけが、ひょっとすると私の幸福の鍵だったのかもしれない。けれど、その子すら夫と妹の部下たちに魔術で殺され、わたしは空っぽになってしまった。
その復讐として、わたしはこの城に毒の香を焚きしめることに決めたのだ。わたしが生み出した毒は、どうやらこの城中の人間を綺麗さっぱりあの世に送ってくれたらしい。
「ああ、ろくでもない人生だった……!」
声を上げて笑いながら、玉座の背もたれに寄りかかる。わずかに視界がくらくらと揺らいでいた。静寂を楽しむ時間を稼ぐために毒の症状を軽くする魔術薬を飲んでいるとはいえ、わたしの体にも毒の香は回っている。おそらくこの命もそう長くはないだろうが、ここで死んだところで何の後悔もなかった。
空っぽのお腹を撫でながら、何度も歌った子守唄を口ずさむ。
悲しいくらいに、わたしは解き放たれていた。弧を描く唇とは裏腹に、両目からはぽたぽたと涙がこぼれ落ちていく。
幸せに、なりたかった。誰かを愛して、慈しんで、そして自分も、いつか愛されてみたかった。家族を、作ってみたかった。
どれくらい、そうしていただろう。子守唄を紡ぐ声が枯れ、乾いた涙が頬に張り付いたころ、いつのまにか、遺体が転がる大広間の中にひとりの青年が立っていた。
「……城の人間を殺したのは、あなたですか、王妃陛下」
低く澄んだ、美しい声だった。わたしがようやく手に入れたこの静寂を決して邪魔しない、緩やかに闇に溶け込込んでいく様な、優しい音だ。
青年はゆっくりと玉座の前へ歩み寄ってきた。濃くなった月明かりに、青年の銀髪が輝いている。
まるで、月からの使者のように神秘的な雰囲気を纏う青年だった。左目には黒い革でできた眼帯が付けられているが、不思議と恐ろしくは感じない。これが初対面であれば、きっと彼を人ではない何かほかの美しい生きものだと思っただろう。
だが、私は彼を知っている。足を組んだまま、真夜中の客人ににこりと笑みを送った。
「ごきげんよう、ティアベル大公。いい夜ですわね」
気づけば城中に立ち込めた毒の香はずいぶんと薄れていた。私の想定では、すくなくとも夜明けまでは誰も立ち入ることのできない濃度になるはずだったのに。
「ティアベル大公……あなたの仕業ですのね。城中に立ち込めた毒を打ち消すなんて芸当ができるのは、あなたくらいですもの」
王国ラティアでもっとも強大な魔力に恵まれている名門貴族家。それがティアベル大公家だ。その当主ともなれば、一般的な魔術師には到底扱えないような魔術を使いこなせてもおかしくはない。
大公は、痛ましいものを見るように私を見上げていた。怯えでも憎悪でもない表情を見るのはずいぶん久しぶりだ。
「どうして、聡明なあなたがこんなことを……!」
まるで悔やむような口ぶりに、思わずくすくすと笑ってしまった。わたしにそんな言葉を向けたのは、彼が初めてだ。
「毒魔女らしい行いだと非難してくださって結構ですのよ。後悔はひとつもしておりませんから」
「ぼくは悔やんでいますよ。……どうして、こうなる前にあなたをこの城から救い出せなかったのかと」
大公は、不思議な熱を帯びた紫の瞳で私を見ていた。紫の瞳は、大公家の人間である証だ。大公家の人間の瞳は吸い寄せられるように美しいという評判だが、確かにその通りだった。
「さすが、王国魔術師団の長を務められる方は、慈悲の御心も常人とは比べ物になりませんわね」
彼を見ていると、自分がひどく汚れたちっぽけなものに見えるから苦手だ。――初めて会ったときから、疎ましかった。
「……ぼくは王国魔術師団の長として、あなたを殺さねばなりません」
また一歩、大公は玉座との距離を縮めた。魔術師団の制服である黒い外套がふわりと靡く。
「なるべく苦しまない方法を取ります。眠るように死ねる魔術で、終わらせて差し上げます」
大公の魔術ならば、本当に安らかに死ねるのだろう。千人を殺した魔女には寛大すぎる処刑の仕方だ。
だが、それは私の望むところではない。城中の人間を殺すと決めたときから、楽に死のうとは思っていなかった。
「せっかくですけれど、結構です。……魔術はもうこりごりですから、どうかその剣で殺してくださいませんか」
大公の腰には、飾り鞘に収まった長剣が下げられていた。ティアベル大公家の人々の瞳を思わせる、美しい紫の石が埋め込まれた剣だった。それは王国魔術師団の長に代々受け継がれるもので、魔力が尽きたときの最後の自衛手段として持っているらしい。
「……かなりの苦痛を伴うはずです。ぼくは、剣士ではありませんから」
大公は、かなりためらっている様子だった。わたしが苦しむことを、心から恐れているかのようにくしゃりと表情を歪めている。魔術師団の長としては甘すぎるくらいの優しさだ。
「結構です。魔術で殺されるよりは、よほどいい」
組んでいた足を下ろし、床の上で揃える。姿勢を正して大公に微笑みかければ、彼は俯いて迷うようなそぶりを見せたのちに、長剣を抜いた。
刃が、月の光を受けて冷たく光り輝いている。これがろくでもないわたしの人生を終わらせてくれるのだと思えば、ひどく清らかなものに見えた。
「……お願いを聞いてくださってありがとう、ティアベル大公。心より感謝いたします」
祈るように指を組んで礼を述べてから、両手を膝の上で揃えた。大公の紫の瞳が、ひどく悲しげに揺らめいている。彼の躊躇をそのまま反映するように、剣先もわずかに揺れていた。
「ふふ、どうしてそんなに躊躇うのです?」
頬を緩めて大公を見上げれば、彼は今にも泣き出しそうに顔をくしゃりを歪ませた。
「――あなたが、美しいからです。レアさま」
その言葉と同時に、彼の瞳から一粒の涙がこぼれ落ちた。月明かりを反射して煌めくそれは、まるで星のかけらのように尊くて、あまりの美しさに思わず息を呑んだ。
わたしのために流された涙を見るのは、これが生まれて初めてだった。
やがて、涙に濡れた大公の瞳に悲壮な決意が宿る。剣を持つ手のわずかな震えがぴたりと収まった瞬間、彼の覚悟が伝わってきた。
目を瞑って、そのときを待つ。一瞬の静寂の後、胸に鋭い衝撃と激痛が走った。
「っう……!」
しっかりと力を込めて、剣先が胸を貫き押し込められていく。貫通した剣先が背もたれにも刺さったようで、脱力しても体勢が崩れることはなかった。
「……あり、がとう、大公……さま」
震える瞼を押し上げて、大公に笑いかける。
彼は、己の罪を焼きつけるような目でわたしを眺めていた。片方だけの瞳から、静かに涙を流しながら。
暗闇が、頭の中を侵食していく。ぐらぐらと、頭の中心から揺れるような気がした。
「レアさま、ぼくは――」
彼は最後に何かを言っていたが、残念ながら聞き取ることはできなかった。
それから程なくして、暗闇すらも私は手放した。
それが王妃レア・エル・ラティアの――ヴェルローズの毒魔女と呼ばれた私の、ろくでもない人生の最後の瞬間だった。
◇
重苦しい暗闇の外側から、騒がしい声が聞こえる。ぐらぐらと肩を揺さぶられるのがわかった。鉛のように重たい体を無理に揺り動かされるのが不快で、思わず眉間に皺を寄せる。
「ヴェルローズ侯爵令嬢が倒れたわ……」
「あれが、噂の毒魔女か……」
「入学の初日からこんな騒動を起こすなんて……さすがですわね」
くすくすと嘲笑まじりの囁き声が聞こえてくる。学生時代を思い出すような、若い子女たちの声だ。
「お姉さま!? お姉さま、しっかりしてくださいまし。いったいどうなさったの…!?」
きん、と頭の奥まで響くような高く甘い声に、ますます顔を顰める。この甘ったるい声は妹のアデルにそっくりだ。彼女はもう、この世を去ったはずなのに。
「お姉さま……! 待っていて。今、治癒魔術をかけますわ!」
アデルにそっくりな声がそう言った途端に、周囲にざわめきが広がる。
「治癒魔術……? つまり、この方が」
「そうよ、名門ヴェルローズ家の聖女、アデルさまよ!」
「アデルさまの治癒魔術をこんな間近で見られるなんて……!」
……アデル? アデルと言ったの?
アデルは、私の妹の名だ。やはり、先ほどからわたしに話しかけているのは実の妹らしい。
……そう、死後の世界でもわたしはあなたから逃れられないのね。
うんざりした気持ちで、重たい瞼を開く。時間をかけて光に慣れた視界に飛び込んできたのは、忌々しいほど鮮やかなストロベリーブロンドだった。
「あ……お姉さま!」
水色の絵の具でべたべたと塗りつぶしたような大きなふたつの目が、わたしを見下ろしている。世間からは「まるで蒼穹を切り取ったかのような美しさ」と評される瞳だが、彼女の目にそんな趣深さは感じたことはなかった。
「よかった。お目覚めになったのね! ご気分はいかが?」
アデルの手が、無遠慮にわたしの肩に触れる。布越しに感じる彼女の体温がなんとも不愉快で、ぞわりと肌が粟立った。
「触らないで!」
反射的に、アデルの手を振り払う。今更どういうつもりでわたしを抱き起こそうとしているのだろう。
彼女は昔からそうだった。加害者の立場でありながら、過去の遺恨を「水に流そう」と言い出すような厚かましい人間で、わたしのことは自分を引き立てる道具くらいにしか思っていない。わたしを心の底から気に掛けたことなど、ただのいちどもないはずだ。
「お姉さま……?」
わたしに手を振り払われたアデルは、水色の瞳に涙をいっぱいに溜めて震えていた。わたしのほうが二ヶ月ほど年上だというだけなのだが、彼女は「妹」という立場をぞんぶんに活用している。
こういう仕草が小動物のようで愛らしいと、夫は嬉しそうに語っていたものだ。ちょっとしたことで身を震わせて泣き出す小動物なんて、自然の中にいればまっさきに捕食されておしまいだろう。森や山の中で懸命に生きる小動物たちにいっそ失礼な例えだった。
「ごらんになって? 今のレアさまの振る舞い」
「母君が違うという理由でアデルさまを虐げているという噂は本当のようだな……」
あたりには、王立魔術学園の黒い制服を纏っている学生たちが大勢いた。
懐かしい。私も八年前にその制服に袖を通し、学園で四年間魔術を学んだものだった。高度な魔術を学ぶ場所であるから、才能のないわたしは到底入学できないはずだったけれど、王家に嫁ぐわたしをどうにか人並みにするために、父が無理やりこの学園に捩じ込んだのだ。
いい思い出のない場所だ。ここで学んだことは、わたしは生涯誰からも愛されず、冷ややかな目に晒されて生きていくのだろうという諦めだけだった。
神さまがいるなら意地悪だ。何も死んでまで、こんな場所を思い出させなくともいいのに。
「新入生たちを迎えるめでたい入学式の日になんの騒ぎだ?」
威圧的な青年の声に、びくりと体を震わせる。わたしとアデルを囲んでいた群衆の間がさっと割れて、こつこつと足音が近づいてきた。
「なんだ、またお前か。構ってほしくてこういう騒動ばかり引き起こすのか?」
人の不幸が楽しくて仕方がないと言わんばかりの下卑た愉悦が溶け込んだ声だった。二度と、聞きたくないと思っていた音だ。
横たわるわたしの視界の中に、磨き上げられた黒い革靴が入り込んでくる。そうだ彼は、婚約者が床に倒れ込んでいても手助けはせずに立ったまま見下ろすような男だった。
「王太子殿下!」
わたしの代わりに声を上げたのはアデルだ。目尻にためた涙をきらきらと飛び散らせて、王太子に飛びつく。
「違うのです、お姉さまはただ具合が悪くて……わたしの手を振り払ったのだって、ただ混乱していただけなのです!」
わたしを庇っているようで、王太子が把握していないかもしれない情報をわざわざ教えてあげる手管は見事だ。アデルは出会ったときからこの手法をとっていた。きっと、彼女の母から言葉と同時に教え込まれた会話術なのだろう。
「きみの手を振り払っただって? ――どういうことだ、レア」
夢の中ならば、このまま無視しても構わないだろうか。小さく息をつきながら体を起こす。わたしも周囲の人々と同じように、魔術学院の黒い制服を着ていた。学年ごとに色が変わるネクタイは、新入生を表す赤だ。
「おい、レア。返事をしろ。この私を無視するのか?」
王太子とわたしの婚約は、ヴェルローズ前侯爵夫人であるわたしの母と、王妃さまが古くからの友人であったために決まった縁談だった。王妃さまは私の母と私をたいそう気に入っていて、国王陛下に願って「レア・エル・ヴェルローズの同意なく離縁はできない」という誓約書まで作ったのだ。
だから王太子は、どれだけわたしのことが嫌いでも婚約破棄はできなかった。そして愛に飢えていたかつてのわたしも、彼の手を自ら手放そうなんて考えてもみなかった。子どもができて、そしてその子を殺されるまでずっと、わたしは王太子に愛されることを心のどこかで願いながら、親同士が作ったこの繋がりに醜くしがみついていたのだ。
後悔がにじむ苦い想いを噛み締めていると、ふいに右の頬に鋭い痛みが走った。咄嗟のことに姿勢を保てず、床に手をついてなんとか体を支える。遅れて頬にじんじんとした熱が広がった。
……この痛さは、どういうこと?
目の前で意地悪く唇を歪める王太子の態度からして、おそらくわたしはこの男に頬をぶたれたのだろう。それは理解ができるが、夢だというのにこの鮮烈な痛みは理解ができなかった。
ばくばくと、心臓が暴れ出している。血が沸騰するかのように体が暑かった。王太子が何か喚き散らしているのが聞こえたが、音として認識できるだけで言葉は拾えない。
そういえば、魔術学園に入学したときも、倒れたわたしにアデルが治癒魔術をかけて、注目を浴びる騒動があったのだっけ。あのときはたしか、その前の三日間ほどアデルに食事を台無しにされて、ろくに食べていないせいで倒れてしまったのだ。
聖女と呼ばれるほど強い治癒魔術を発揮した彼女は新入生の中でたちまち有名人になった。そしてあのときも今と同じように王太子が駆けつけて、アデルの腕を褒めたのだ。それにわたしは醜く嫉妬して、アデルのせいで倒れたのだと王太子に縋りついたのだっけ。
今も、そのときとよく似たことが起こっている。落ち着きなく震える体とは裏腹に、頭の中ではあるひとつの仮説が導き出されていた。
……まさか、夢ではなく時間が巻き戻っているの?
いつか屋敷で見かけた古い魔術書を思い出す。母がまだ正気を保っていたころ、こっそり教えてくれた魔法だ。
――遠い昔にはね、時間を巻き戻す魔法があったそうよ。
発動の条件や仕組みを解明できた力は「魔術」、そうでないものは「魔法」と呼ばれるのがこの国の慣わしだった。魔法は要は呪いのような、本当にあったかもわからないおとぎ話的な存在だ。
……きっと、似たような魔法がわたしにかけられたのだわ。
理由はわからないけれど、じんじんと疼く頬の痛みがそう告げていた。どうやらわたしは、やりなおしの機会を手に入れたらしい。
いちどだけ深呼吸をしてから、ゆっくりとその場に立ちあがる。
何かを喚き続けていた王太子が、はっとしたようにわたしを見ていた。その隣で、アデルも警戒するようにわたしを見上げている。こうして見れば、まるで狩られる前の小動物のような姿がお似合いだ。
やりなおしの機会を得られたのなら、わたしが初めにすべきことはひとつだった。うまく動かない腫れた頬をわずかに緩めて、まっすぐに王太子の深い青の瞳を射抜く。
「王太子殿下、わたしたち、婚約破棄いたしましょう」




