雨の交差点に立つ女
激しい雨が傘を打ち、アスファルトに跳ね返る。
交差点の信号は赤だった。
白い水蒸気が立ちこめるほどの豪雨の中、私はじっと信号が変わるのを待っていた。
そのとき、左隣にひとりの女性が立った。
パステルカラーのカーディガンを羽織り、静かに傘を差している。
やがて信号が青に変わる。
人々が一斉に歩き出す中、彼女だけは動かない。
不審に思い、そちらへ振り返った。
――そこには、誰もいなかった。
雨粒が舗道を叩く音だけが残り、さっきまで隣にいたはずの気配は、影も形もなく消えていた。
*
私はいつものように高校へ通っていた。
昨日の交差点は、駅へ向かう道から少し外れた場所にあり、普段は使わない。
そこに“誰か”がいた。
振り返ったのに姿はない。
そんなことはこれまでも何度かあった。
だが――あのときの女性の美しさだけは、妙に鮮明に残っていた。
数日後、ふと思い出して母に話すと、
「あの交差点、雨の日に女の幽霊が出るって、有名なのよ」
と他愛ない調子で返された。
私は曖昧に笑い、それきり忘れたつもりだった。
――そのはずだった。
予備校の帰り、予報どおり雨が降り出す。
激しい雨がアスファルトを叩き、白い靄が立ちこめる。
商店街のアーケードで足を止めたとき――
濡れた地面に、赤いパンプスが映った。
白いストッキングに包まれた足。
顔を上げると、視界の端にパステルカラーのカーディガン。
――あの女だ。
私は咄嗟にうつむき、視線を逸らした。
友人と話すふりをして歩き去ったが、背後に突き刺さる視線だけは消えなかった。
――狙われた。
そう確信した。
*
その夜、眠れなかった。
窓を叩く雨音が心臓と共鳴し、恐怖を増幅させる。
枕に顔を埋めても、背後から注がれる視線が消えない。
翌朝は快晴だった。
少し安堵して家を出ると、道端にまだ水たまりが残っていた。
そこに映っていたのは、パステルのカーディガンを着た女の笑顔。
――目が合った。
体が凍りつき、視線を外せない。
「おい、大丈夫か?」
クラスメイトの男子に声をかけられて我に返る。
振り向いたときには、もう姿はなかった。
だが胸の奥に冷たいものを抱えたまま、学校へ向かった。
休み時間、洗面台で手を洗ったとき。
鏡に映る自分の隣に、パステルの肩が寄り添っていた。
息を呑むと、鏡の中の“彼女”がこちらを見つめる。
薄い唇が、音もなく動いた。
――「次は、あなたの番」
声にならない悲鳴が喉に張りついた。
*
「顔が真っ青だよ」と心配され、保健室に連れていかれた。
できれば人の多い教室に居たかったが、抵抗できずベッドに横たわる。
布団を頭までかぶり、固く目を閉じた。
――カツ、カツ。
パンプスの踵が床を叩く。
先生のサンダルの音ではない。
恐怖に耐えきれず、目を開いた。
薄暗い保健室。
誰もいないはずなのに、ベッドのすぐそばに“彼女”が立っていた。
赤いパンプス。
白いストッキング。
パステルのカーディガン。
ゆっくりと顔を上げる。
見えたその顔に、息が止まった。
――私自身だった。
濡れた髪が頬に張りつき、虚ろな瞳が私を見返す。
布団を掴む指先が震える。
「次は、わたしの番」
私の口から、その言葉がこぼれ落ちた。
*
下校時、心配したクラスメイトが迎えに来てくれた。
「一緒に帰ろう」
「うん、ありがとう」
彼女と別れ、ぼんやり歩くうちに、またあの交差点に立っていた。
信号が青に変わる。
――ここは、通学路じゃない。
そう思いながら、私は横断歩道を渡り始めた。
白線を踏んだ瞬間、ライトが視界を灼く。
クラクションとブレーキ音が雷鳴のように響いた。
――赤だ!
頭の中で叫んだが、体は前へ進む。
「危ない、赤だぞ!」
腕を引かれて我に返る。
朝も助けてくれた男子生徒だった。
私は反射的に飛び退いた。
轟音とともにトラックが水を跳ね上げて通り過ぎる。
*
びしょ濡れの制服を払いながら、必死に息を整えた。
彼が何か言っていたが、耳には入らなかった。
足元の水たまりに視線が吸い寄せられる。
水面の波紋が収まりそこに、女性の姿が映った。
濡れた長い髪。
パステルのカーディガン。
薄い唇が、不気味に笑っていた。
次の瞬間、水面の“彼女”と目が合った。
――そして、笑ったのは私自身だった。
完




