マタニティーマークを着けていたら
春、妊娠6ヶ月目を迎えた私は、産休を取った。
「6ヶ月目で産休なんて早くない?」と思われるかもしれないが、つわりがひどくて、水も食べ物も受けつけない状態が続いた。
産婦人科の先生からも「安静が必要」と診断され、母性健康管理指導事項カードを会社に提出した。
幸い、女性の管理職や、育児経験者も多い職場だったから、産休や育休の前倒しにも、かなり柔軟に対応してくれた。
若い女の子たちなんか、おしゃれな雑貨屋さんで買ったという、かわいいスタイや靴下をくれたりした。
中にはハンドメイドのものもあったから、これには驚かされた。
「お身体、大事にしてください!」
「復帰後も、しっかりサポートしますから、遠慮なく頼って下さいね。」
……なんて言われたりもした。
───つくづく、恵まれてるなあ……思い出すだけで、笑顔になりそう。
それに加えて、夫も協力的だ。
通院の時は必ず付き添ってくれるし、貴重な休日もパパママ育児スクールに参加して、沐浴やおむつ替えの練習を熱心にしている。
「おれ、母子家庭だったからさ、お父さんになるの緊張するんだよ。お手本がないんだもん、ちゃんと勉強しときたい。」
こんなふうに言われて、嬉しくないはずがない。
初めての妊娠と出産、不安ではないと言えば、嘘になる。
だけど──絶対に、元気な赤ちゃんを産もう。楽しい家庭にするんだ。
そんな思いに胸を膨らませて、今日も夫と通院する。
私たち夫婦は電車に乗った。
「事故ると危ないから」という夫の提案で電車通いにしている。
平日の朝10時ともなると、さすがに電車もガラガラだ。
優先席にも、余裕で座れる。
───通院の帰りに、どこかへ寄ろうかな。ちょっと休みたいし。
私はスマホを取り出し、画面をタップする。
そこへ、すうっと影が落ちた。
思わず視線を上げると、目の前に女性が立っていた。
年齢は、私と同じくらいか、少し上くらい、だろうか。
背は低くて小柄、よれたスカートからひょろりとした足が伸び、細い顔にはそばかすらしきものがあった。
茶色く染められた髪は、油っけもなく、パサパサしている。
他に空席もあるというのに、なぜ彼女は、私の目の前にベッタリと立っているんだろう。
つり革も持たず、直立不動でまっすぐに立っている。
表情は逆光でよく分からない。
ただ、私を見つめているのだけは、分かった。
───私、何か失礼な事でもしてしまっただろうか?あ、優先席に座っているから?でも、マタニティマークは付けてるし…。
「幸せアピールですか?」
「──え?」
「あたし不妊治療してるのに……マタニティマークつけて自慢ですか!幸せですって言いたいんですか!失礼ですよ!配慮してください!そういうので傷付く人がいるって何で分からないんですか!」
頭が、真っ白になった。怖い。訳が分からない。
───いったい、なにを、言っているの?
「おいアンタ何だよ!警察呼ぶぞ!」
夫が立ち上がり、女性を一喝した。
普段、温厚な夫から出たとは思えないほど、大きな声だった。
それが効いたのか、彼女は恨みがましい視線を向けながら、別の車両に移った。
「大丈夫か?次の駅で降りて、病院まではタクシー乗ろう、な?」
夫が優しく声をかけてくれて、やっと我に返った。
それでも、震えが止まらない。手の先が冷えて、白くなっている。
───幸せアピールですか?
タクシーに揺られながらなお、あの一言が、頭の中でこだまする。
───考えた事もなかった。
私の妊娠が、誰かを傷つけている?
うそでしょ、健康管理、大変なのに。太っただけで、先生から怒られるのに。つわりだって、気持ち悪いし何も食べられないし、起き上がれない時だってあるし、お腹は張るし、頻尿だってあるし、とにかく身体、重いし、こんなにしんどいのに。
私の落ち込みぶりは、夫にも伝わったらしく、病院の先生にもさりげなく相談してくれた。
それを聞いた先生は、眉間に皺をよせ、ため息を吐いた。
「そういう相談をされるお母さん、結構いますよ。妊娠って、本来すごくおめでたいことなんです。だからこそ、そんなふうに思わせるのは、本当に残念で……悔しいですね。」
そして、すぐ安心させるように、笑顔を浮かべた。
「とにかく、あまり気に病まないでくださいね。何かあったら、すぐに相談して。私たちがしっかりサポートしますから。」
その言葉に、少しだけ、心が軽くなる。
───そうだよね、気にしすぎると、赤ちゃん悲しんじゃう。
お腹を撫でると、中の子が少し動いた気がした。
◆
───それから、約4ヶ月後。
病院のスタッフさんのサポートの甲斐あって、私は無事に出産を終え、退院した。
赤ちゃんは白い産着とおくるみに包まれ、中指には病院から贈られた、パールのベビーリングを付けている。
真っ白なその姿は、小さな天使みたいで、とにかくかわいい。
夫は言うまでもなく、すでにメロメロだった。
◆
久々の我が家──マンションに帰った数日後、隣室に夫婦が引っ越してきた。
奥さんと思しき女の人が、菓子折りを持って、挨拶にやってきた。
その顔には、見覚えがあるような気がした。
───似ている。
通院の時、電車で喚いてきた、痩せた女の人。
私は息を呑んだ。
───いや、落ち着こう。
他人の空似って言葉もあるじゃない。気のせいだよ、きっと、そう。
「今日からお世話になります。これ、つまらないものですが…」
私はつとめて笑顔を作り、ありがとうございます、と差し出された菓子折りを受け取った。
ふと、目線が下に落ちた。
女の人のお腹が膨らんでいる。
それに気がついたのか、彼女はそばかすだらけの顔に笑みを浮かべた。
「…5ヶ月目なんです。もしかしたらお宅のお子さんと同級生になっちゃうかもですね。ママの先輩として頼らせて下さい、ねぇ?」
彼女はそう言うと、ずいっ!と身を乗り出してきた。
その目は笑っているのに、充血していて、光がない。
───話してる時の距離、近すぎない?
そうなんですねぇ、おめでとうございますぅ、楽しみですねぇ、なんて言葉を適当に並べながら相づちを打っている間、思わず後ずさりした。
何だかすごく嫌な予感がする。
頼むから、一刻も早く、この場から立ち去って欲しい。お願いだから。
会話を終えると、私はバタン!とドアと鍵を閉め、ドアチェーンを掛けた。
彼女から受け取った菓子折りの中身は、何なのだろう。
中に何か、とても不吉なものが入っている気がして、一人で開ける勇気が出なかった。
夫と二人で開けよう。
心臓がうるさいほど鳴っている。
赤ちゃんが泣いた。
ミルクの時間だ。
行かなきゃ。
ただただ、夫の帰りが待ち遠しい。
◆
19時ごろ、やっと夫が帰ってきた。
夫に経緯を話すと、「マジ?さすがに考えすぎじゃない?」と笑っている。
能天気な彼を、とにかく必死で説得して、ようやく二人で菓子折りの箱を開けた。
それは、パステルピンクの缶に入った、甘ったるい香りのするクッキーの詰め合わせだった。
「おなかに赤ちゃんがいます」という、マタニティマークのイラスト付きの、アイシングクッキー。
おそらく手作りなのだろう、アイシングの線が少しよれている。
フタの裏側に、メッセージカードが付いていた。
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電車の中で話しかけた者です。
おぼえていますか?
あの時は本っっ当に失礼しました(涙)
私、なかなか赤ちゃんができなくて(汗)
心に余裕がなかったのかなって思います(涙)
でもあれから私にも赤ちゃんができました♡
あの電車であなたを見かけてから
急に運が開けた気がします!
ぜんぶあなたのおかげです♡♡
これって…ご縁?ですよね??
ママどうしなかよくしましょ♡
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「キッツ………。」
呟いたのは、夫だった。
「何ていうかさ、こう言ったら失礼だけど、ちょっと、《《アレ》》だな……あんまり、関わらない方が、良さそうだな……。」
クッキーは食べる気にもなれず、こっそり砕き、カードもシュレッダーに掛けて、破棄した。
1ヶ月もしないうちに、私たちは引っ越した。
もちろん、お隣さんには、何も告げずに。
念の為、親子ともども、お祓いもした。
そうでもしないと、気持ち悪かった。
お祓いの帰り道、一台の選挙カーとすれ違った。
『───すべてのご家庭に、安心して子どもを産み、育てられる社会を!子育ての不安ゼロ!笑顔あふれる未来を、私たちは全力で実現します!』