偽りの永遠に、幸福を
読んでいただき、ありがとうございます。
番外編とスピンオフを掲載しておりますので、ご興味ありましたらシリーズ「幸福の肖像」からどうぞ。
『たとえ世界が滅んでも、あなたと一緒なら──それでいい』
窓の向こう側では先すら見通せない闇が広がっていて、わずかばかりの燭台の炎が雪を照らしている。
そっと、傍らの温もりを引き寄せた。あなたは少し驚いたように目を瞠ったけれど、すぐに微笑んで「僕も同じ気持ちだよ」と言ってくれた。
音もなく積もっていく雪は当たり前のようにそこに広がり続けていたから、私の愛もあなたの心に堆く降り積もればいいと思った。
私の世界の中心は、あなたただひとりだけ。
このまま氷の帳の奥底に、永久に閉じ込められてしまっても。帰れなくなっても、あなたと一緒にいられるのなら。
それもまた幸福の形であると、思えるほどに──あなたのことを、愛していた。
あなたもそうであると、信じていた。ひたむきに、信じていたのだ。
「エドワード様……」
その名前を口にした瞬間、胸の奥で音がした。砕け散った硝子が突き刺さる、じくじくとした痛み。
過去の思い出たちが、まるで昨日のことのようによみがえっては消えていく。
はじめて見た私の瞳をきれいだと言ってくれた日のこと。木漏れ日の下、秘密の場所を教えてあげると手を引いて連れていってくれた。
はじめての舞踏会で固まって、言葉が出なかった日のこと。悪戯っぽく微笑みながら「緊張してる?」と耳打ちをして、私の強張りをほどいてくれた。
そして──吹雪の日のこと。遠出した先で急な悪天候に見舞われて、道が閉ざされ、帰るに帰れなくなってしまったとき。
今思い返せばそれほど足止めされたわけではないし些細なことだったけれど、そんな経験をしたことがなかった私は必要以上に怖がってしまった。
そんな私のそばに、あの人はずっといてくれた。私に寄り添い、手を握ってくれた。
私を見つめる瞳の中には確かに深い愛情があるように思えて、私のすべてを包み込んでくれるようだった。
あの日確かに、私たちは同じ気持ちだったはずだった。
でも、そうではなかった。
あの日と同じように雪が降る日。私はひとりぼっちで、窓を見つめている。
彼に会うことは、もう二度とない。彼は、私を選ばなかった。彼の愛は、私にはない。
私がどれだけ彼のことを愛そうと、彼の隣には別の人が立つ。
「世界が滅んでも、あなたと一緒なら──」
あなたがいないのなら、私はどうすればいいのだろう。
私の世界は、あなたなしには存在できない。
だから、私はひとりで私の世界を終わらせる。
指先に触れた刃のひんやりとした感触は、最後に見たあなたの瞳のよそよそしさに似ていた。
私はそれを、ゆっくりと喉元へと突きつける。
どうか──どうか、愛しいあなたが幸福でありますように。
私は、あなたを呪いません。
永遠に、心から、愛しています。
*
「アリシア・レイモンド。君との婚約を……解消したい」
王太子による急な先触れが届いたのは、肌寒さが残りながらもあたたかい春の日差しが降り注ぐおだやかな日のことだった。
侯爵家の応接間にて、置かれた紅茶と菓子は彼の好みに合わせて選んだものだったが、どちらにも手を伸ばされる気配はない。一瞥もくれることなくそのままに、相対した彼は早々に告げる。
アリシアの隣には侯爵である父が腰かけていた。突然の申し出に驚愕し、思わずといった様子で拳を握りしめている。
向かいに座るのはアリシアの婚約者であるこの国の第一王子、エドワードと──その横に一人の少女が名も告げられぬまま、当然の顔でソファに腰かけていた。
エドワードがこの侯爵家を訪れてアリシアとの時間を持つことは、ここしばらくないことだった。そのためアリシアは王太子の訪問を知らされてからの短時間で、慌てて準備を整えた。
彼が好きだと言った花を屋敷に生けて、着る機会がないまま眠っていた淡い青のドレスを下ろした。「君に似合うよ」とほかでもない、彼が言ってくれたものだった。
唇の色も、耳元に揺れる宝石も──彼に素敵だと言ってもらいたくて、着飾った。
そうして今か今かと彼の来訪を待ち望み、そわそわと窓の外を見守っていたのだ。馬車の音を聞いて急いで出迎えようとしたら出入りの商人だったりして、とにかく侯爵家の令嬢としてあるまじき落ち着きのなさだった。
そんなアリシアを侯爵家の誰もが微笑ましそうに見守っていたのに、ようやく訪れたエドワードは──今も隣に座らせている、クラリッサ・メイベルという少女を伴ってやってきたのだった。
途端、屋敷に緊張感が走ったのは言うまでもない。クラリッサはまるで花嫁衣装のような真っ白いドレスを身に纏い、エドワードの腕に我が物顔でまとわりついていたのだから。
アリシアは叫び出しそうになる激情を堪え、恋する乙女の顔は秘し、努めて冷静に言葉を紡いだ。
「理由をお伺いしても、よろしいでしょうか」
その声はとても小さかったが、辺りに凛と響き渡る美しさがあった。
エドワードはその静謐に並べられた音に狂いがないことに、目を伏せた。なぜだか落胆したようだった。
「君に瑕疵はないよ。ただ、僕は真に愛する人を見つけてしまったんだ」
「……真に、愛する人、ですか」
その言葉がゆっくりと胸に沈み込み、アリシアの睫が静かに震えた。
アリシアは、あれほど荒れ狂った感情が凪ぐのを感じていた。次にアリシアが瞬きをしたとき、その瞳に宿るものは、愛でも怒りでもなく──諦めだった。
「承知いたしました。ならば、どうか王太子殿下のご随意に」
アリシアの隣で、侯爵が息を呑んだ。しかし彼女は素知らぬ顔で、そっと微笑んだ。
「アリシア様っ……! 本当に、本当にありがとうございます……私、アリシア様に嫉妬されて、陰で何か言われたらと思うと、怖くてっ……」
まるで白磁の人形のようだったクラリッサが、涙ぐみながら言った。
先ほどまですまし顔をしていたにもかかわらず、今ではその瞳は溶け落ちてしまいそうなほど潤んでいる。
そんな彼女の肩を抱き寄せるエドワードの姿を、アリシアは何も言わずに眺めていた。
「ご心配には及びません。私は、決してお二人の邪魔はしないと誓います」
「……ありがとう。君ならば、きっとわかってくれると思っていたよ」
「いえ。あとはどうぞ、お父様と続きを。私はもう必要ないでしょうから、部屋に戻らせていただきますわ」
微笑みを崩さず誰の返事も待たぬまま、アリシアはゆるやかに立ち上がる。その仕草のどこにも破綻はなく、見事な淑女の所作だった。
けれどそれこそ──この場に一秒でも多くいたくなくて、すぐにでも退出したかった彼女の綻びであったのだが、恋に浮かれた二人は気が付く様子もなかった。
部屋にひとり戻ったアリシアの姿は、さながら萎れた花だった。日の傾いた室内に、ドレスの裾が揺らめく。
椅子に腰を下ろすでもなく、寝台に崩れ落ちるでもなく、ただ立ち尽くしていた。
何もかもを投げ捨てて大笑いしたいような気にも、大泣きしたいような気にもなりながら、ただどうすることもできずに項垂れていた。
このままエドワードの言葉通りに婚約は正式に解かれるだろう。もともと、彼の強い希望で結ばれたものだ。政治の均衡のためではなかった。故に、婚約者はアリシアでなくとも構わない。
それが苦しくて仕方がないが、しかし仲睦まじい二人のあの様子を見てしまったら、了承するほかなかった。彼の愛が自分にないのならば、意味がなかった。
「……好きだったのに。あなたのことを……こんなにも、愛していたのに」
震えが止まらぬ指先で唇を押さえた。頬の辺りに何かが流れたような気がしても、アリシアはそれを拭おうともしなかった。
その姿を誰に見せることもなく、アリシアは項垂れていた。
──そして、社交界にはとある噂が広まっていった。
曰く、運命的な出会いをしたエドワードとクラリッサ。愛を育んだ二人は、アリシアに対し誠実に頭を下げ、穏便に婚約を解消した。にもかかわらず、アリシアはクラリッサを妬み、嫌がらせをしているのだと──。
白い花のような少女と、若き王太子の美しい物語。嫉妬に狂った女の影。
アリシアはそれを聞いて笑った。乾いた、声のない笑みだった。
その夜、彼女は自室で一通の手紙を書いた。筆跡は整い、涙の滲みもなかった。感情の形跡を一滴も落とさなかった。
ただ、そこには短く。祈りのような言葉だけを綴った。
どうか、愛しいあなたが幸福でありますように。
私は、あなたを呪いません。
永遠に、心から、愛しています。
──アリシア・レイモンド
それだけだった。
さらに日が経ち、アリシア・レイモンドは王都を離れた館で自ら命を絶ったと伝えられた。
王都ではすでに春が訪れていたものの、まだ雪深い北の土地での出来事だった。
公には伏せられたその報せは、レイモンド侯爵家からひっそりと王家にのみ伝えられた。
エドワードのもとにも、彼女からの手紙が届いた。
けれど彼がその封を開くことはない──彼は今、新しい愛に夢中だったから。
*
春のやわらかなきらめきが、白い王宮の大理石をぼんやりと照らしていた。遠く、天窓から差し込む陽が床に滲んで、溶けていくようだった。
その光の中心に、渦中の二人の姿があった。
「ねえ、エドワード様。今日は……とても天気が良いから、お花を見に行きたいわ」
頬を染めて囁いたクラリッサの声は、鈴の音を転がすようだった。
「もちろん。君の願いなら、なんだって叶えてあげよう」
おだやかに微笑んだエドワードは、彼女の手を取る。
その仕草は流れるようになめらかで、長年繰り返してきたことがわかる──かつてアリシアに向けられたものと、何も変わらなかった。
整えられた庭園で花々はひそやかに息をしていた。のどかな鳥の囀りと、風が運ぶ甘い香り。そこへ無遠慮に踏み入った二人は、自分たちが世界に祝福されているのだと感じてならなかった。
「おいで、クラリッサ。花冠を作ってあげる」
「わあ……! 嬉しい!」
笑いながら駆け寄るクラリッサの足取りは子鹿のように軽やかで、すんなりと腕の中へと飛び込んでくる。その無垢な笑顔と温もりに、エドワードは喜びが満ちるのを感じていた。
クラリッサを抱きしめていると己を縛り付ける何もかもが過ぎ去っていく気がした。
「君といると、心が安らぐよ。……クラリッサ、僕は君に出会えて、本当によかった」
「エドワード様……私もです。ずっと、ずっと……あなたに選ばれる日を、夢に見てたの」
クラリッサはしがみつくように、エドワードの胸に顔を埋めた。細い腕が彼の背に回される。
二人の声は交差して、庭の石畳に静かに落ちていった。
「ねえ、エドワード様……私、幸せすぎて、少し怖いわ」
「怖がることなんてないよ。君は、僕の真に愛する──運命の人なんだから」
彼は、そう言って彼女の額に唇を寄せる。ひときわ風が強く吹いて、花びらが舞っていく。
エドワードは名残惜しげにクラリッサを離してから、目についた花を摘み取った。春先に咲く花だった。
「ほら、この花なんてどうだろう。君によく似合うよ」
「まあ、本当? 私、この花が一番好き!」
──私、この花が一番好きなんです。
「あ……」
クラリッサの瞳の輝きを見て、エドワードの指先がわずかに震える。
花を差し出したときの彼女の笑顔が誰かに重なった。否、誰かだなんて考えなくてもすぐにわかることだった。
この庭園の、この花の、この言葉。風景の反復だ。
そこにいたのは、アリシアだった。正しくは、この庭園で彼女と交わした会話が思い起こされた。
彼女が好きな花だったから、ここでは多く植えられていた。そんな思い出があったから、つい目についてしまったのだった。
「エドワード様? どうかしたの?」
クラリッサが心配そうに覗き込んでくる。エドワードは振り払うように頭を軽く振ると、安心させるように笑顔を浮かべた。
思い出す必要などない。自分が選んだのは目の前にいる、クラリッサだけだ。彼女はアリシアとは違う。エドワードを理解し、寄り添ってくれる。
彼は再び、クラリッサへと唇を寄せた。誓いのように。
だがその時すでに、世界はゆっくりと傾き始めていた。
真実は、静かに、音もなく──彼らの幸福の足元を、侵食していた。
*
輝かんばかりの幸福は永く続くかと思われたが、次第に王宮の空気はどこか張り詰めて、影がよどんでいった。
クラリッサに対する人々の目が変わったのだ。彼女を取り巻く空気は冷たくなり、それはいつの間にか広がっていた不信の種がようやく芽を吹き始めたかのようだった。
最初の兆しは、震える筆跡の名もなき文書だった。
エドワードの側近たちは当初こそただの悪戯だと一笑に付したが、まもなくして続けざまに別の証言が集まってくる。誰かがそのために動いたかのようだった。
使用人たちのささやき。城下の仕立屋からの控え。文具商の記録。一見するとばらばらなはずの断片が重ねられていくと、不気味なまでに綺麗に噛み合う。
──クラリッサ様が、アリシア様宛の茶会の招待状をすり替えた。
出席すべき日程は書き換えられ、アリシアは姿を見せなかった。
彼女への評価は確実に冷えていった。
──クラリッサ様が、アリシア様が選んだドレスとまったく同じ型を、舞踏会の数日前に注文していた。
アリシアがクラリッサの“真似をした”という噂は、笑いとともに広がっていった。
誰も、真似をされたのがアリシアだったとは思わなかった。
──クラリッサ様が、アリシア様の使う便箋と同じ商品を買い求めていた。
ある日を境に、複数の令嬢たちが「アリシア様から無礼な手紙が届いた」と声を上げ始めた。
だが、アリシアはそのいずれにも覚えがなかった。彼女が否定しても、誰も信じようとはしなかった。
集まった証言のどれもが、単体ではただの疑惑だった。
けれど、撚り合わせていけばそこに現れたのは──“誰かの輪郭を真似ながら、その人の居場所を奪っていった”という意図だった。
その手口はあまりにも巧妙で、さりげなく、確実だった。
追い詰めるのではなく、そっと追い抜くように。
アリシアの立っていた場所に、あたかも初めからそこにいたかのように座ってみせる。
日々の中に滲み出ていた違和感の断片──気付かなかったはずの、悪意の足跡。
クラリッサは立場をなくし始めていた。
「そんなの、全部……嘘よ。妬みからの嘘だわっ、私を、引きずり下ろそうとして……っ!」
「……大丈夫さ。わかっているとも」
エドワードは彼女を抱きしめながらも、心は遠くにあった。クラリッサの泣き声が、アリシアの沈黙を思い出させる。あの日、何も言わずに立ち去ったアリシアの姿が、頭の隅から離れない。
けれど、エドワードはクラリッサを選んだ。彼女を愛している。彼女を慈しむことで、己を保つことができる。だからこそ、努めて優しく彼女に声をかけ続けた。
腕の中で、泣きはらした目をしたクラリッサが顔を上げる。
「エドワード様ぁ……」
甘えた声。不安げな眼差し。あなたしかいないのだと、縋ってくる腕。それらに、やはりエドワードの心は満たされた。
「私……私、エドワード様と一緒なら、乗り越えられます。どんなに辛いことだって。そう、たとえば──世界が滅んでも、あなたと一緒なら……それで、いいの」
その瞬間。
エドワードの心臓が──ほんの一拍、止まった。
クラリッサは渾身の微笑みを浮かべていた。エドワードが受け止めて肯定してくれることを、彼女は彼の腕の中で待っている。
「……なんだって?」
彼の声が、凍てついた水面のひび割れのように空気を裂いた。
「え? あっ……、えっと、ごめんなさい、変なこと言っちゃった?」
エドワードは、クラリッサの体から手を離した。そして、静かに突き放す。
「──それは、アリシアの言葉だ」
「……え?」
「昔、アリシアと北部へ視察に行ったことがあった。突然の吹雪に閉じ込められて、二人で暖炉の前で眠った夜があった。そのとき、アリシアは……そう言ったんだ」
違和感のうねりが押さえ込めないほど大きくなって、エドワードを飲み込む。
「『世界が滅んでも、あなたと一緒なら』って。……それは、あの子の言葉だった」
クラリッサは氷のように固まって動かない。同様に、エドワードの瞳も冷えていく。
「……君は、アリシアの真似をしていたのか?」
「ち、違うの。たまたま、口にしただけで──」
「そんなことをしたって、君は彼女にはなれない……! アリシアは、決して言い訳せず、誰かを陥れることもなかった……!」
「エドワード様、聞いて……私は……!」
「君は、違う!」
その言葉を皮切りに、クラリッサの頬が怒りと恐怖で歪んだ。
崩れたクラリッサは声を荒げる。
「私の何が、いけないのよ!? あの女なんかより、私はずっとあなたを想ってきたのよ! 私を選んだのはあなたじゃない!」
「違う……違う……、君じゃない……こんなつもりじゃ……僕は……」
二人の間には修復できないほどの深い裂け目が刻まれた。そこに、橋が架かることはない。
エドワードの中にあった幸福の幻想は、ここで完全に砕け散った。
クラリッサを強引に帰した後、エドワードはひとりで書斎に閉じこもっていた。
机の上には、アリシアから送られてきた最後の手紙がある。彼はようやく封を切り、その便箋を前に項垂れていた。
「ああ……アリシア……」
──永遠に、心から、愛しています。
その言葉を見つめるたびに、胸が痛む。
今ならわかる。アリシアがどれほど自分を愛してくれていたか。自分の最たる理解者とは、彼女だったのではないか。
それなのに、自分はいったい何をしていたのか。この思いを無下に扱って。
エドワードは手紙を握りしめ、息を呑んだ。
アリシアに会わなければならないと、そう強く思った。
しかし彼は、取り返しのつかない過ちの重さを──この後、初めて知るのだった。
*
数日後、エドワードはレイモンド侯爵家へと向かった。
あの家の門をくぐるのは、いつぶりだっただろうか。どこかにあったはずの記憶が、霞のように遠い。
事前に知らせていたにもかかわらず、アリシアによる出迎えはない。侯爵家の使用人がただ機械的に彼を案内し、馴染みの応接間へと導いた。
侯爵家の空気は沈んでいた。室内は静まり返り、照明の明るさは変わらぬはずなのに、どことなく暗がって見える。
エドワードが訪れるときはいつも生き生きとしていた切花も、今では萎れて見えた。名前の知らない花だった。
「お待たせしました」
しばらくして、オスカー・レイモンド侯爵が入室してきた。彼の声にはかつてあった柔らかさがまるでなく、その両眼はエドワードをまっすぐ射抜いてくる。
そのまま侯爵は一礼すらせず、ソファに腰を下ろした。
テーブルの上にはなんの用意もされていない。
彼の記憶の中にある、アリシアが用意していた紅茶も、茶菓子も、もてなしの気配すらなかった。
「それで、エドワード殿下。いったいこのレイモンド侯爵家に、今更なんのご用でしょう」
語尾にほんのわずかに滲む棘に、エドワードの喉がひくりと鳴る。
「急な来訪で申し訳ない。アリシアと話をしたいのだが……呼んできてもらえないだろうか」
「アリシアは、もうおりません」
短く冷たい声が耳朶を打った。声量に変化はないのに、空気の温度が一段階下がる。
エドワードは思わず聞き返した。
「何?」
「ですから、アリシアはもういないと、申しているのです」
「なんだと……? では、彼女はどこにいるんだ」
彼はエドワードを不敬をおそれず、ぎろりと睨み上げた。
「……アリシアは、いません。もう、この世のどこにも」
その言葉は、エドワードにとって雷に打たれたような衝撃だった。
頭が真っ白になる。何を言われたのか、考えても理解できなかった。エドワードは震える手で何かを掴もうとテーブルの縁を撫でるが、そこには何もない。
「嘘だ……そんなこと、信じられるわけが……」
エドワードは必死に反論しようとするが、言葉が喉に詰まり、上手く言葉が出ない。
目の前の男が嘘をつくとは思えなかった。けれど、それでも信じたくなかった。
「嘘ではありません。娘は自ら命を絶ち、私もその姿を確認しました。葬儀も内々で済ませました」
「アリシアが、死んだ……だと……?」
オスカーの口調は冷静だった。だからこそ、なおさら現実味を帯びて迫ってくる。
背筋に冷たいものが走り、エドワードはその場に崩れ落ちそうになった。
「陛下には、私から口止めしていたのです。あなたがこうして訪ねてきてくださるまではと……ここまでかかるとは、思いませんでしたが」
淡々と語られる時間の経過が、エドワードの胸を抉る。
彼が恋に酔い、微笑み、誰かの模倣に安らぎを得ていた間、侯爵はエドワードが真実に気が付くことを待っていたのだ。
深い失望がオスカーの体に染み渡っていた。王家の人間を前にしながらも、彼はそれらの感情の機微を隠さない。
オスカーは補佐官を呼び寄せる。腕に抱えられていたのは、重たい書類の束だ。それは無数に積み重ねられた、クラリッサの悪行に関するものだった。
クラリッサの告発は、彼が糸を引いていたのだ。
「私は、アリシアが生きているうちにこの事実に気づいてやれなかったことを、今でも悔いております」
彼は悔しげに呟いた。しかし悔いても、死者はよみがえらない。オスカーは再び、エドワードを見た。
「あなたには、報いを受けていただきたい」
オスカーはエドワードを追い詰める敵対者として、この場に座していた。彼の声は平坦だが、それでも父としての矜持が剣よりも鋭く宿っていた。
「アリシアは最後まで、誰の悪口も言わなかった。力になれなかった私のことも、自分を捨てたあなたのことも、自分を貶めた女の名さえ、口にしなかった」
エドワードの全身から、力が抜けた。口を開けても声にならない。心臓を直接握りつぶされるような感覚がした。
「彼女が、あなたを呪わずとも……私は違う。私は──父として、お前を許さない」
彼は、あの日のように拳を握りしめた。エドワードはその様子を他人事のように眺めていた。
アリシアが死んだ。そのどうしようもない事実が横たわるのを拒もうと暴れる感情で、気分が悪い。
重苦しい沈黙が部屋を満たし、それを破ったのは思いがけない扉の音だった。
「……姉様を返せ!」
叫びながら飛び込んできたのは、まだ年端もいかない彼女の弟だった。
「おまえがっ……! おまえが悪いんだ! おまえが姉様を殺したんだ!」
「ああっ……! 殿下、どうかご無礼をお許しください……!」
感情のままにエドワードを睨み付け、果敢にも小さな拳を振り上げるのを、慌てて母親たる侯爵夫人が止めに入る。それでも少年はエドワードを睨んだ。
その目に映るのは王太子などではなく、姉を殺した人間だった。夫人は恐縮しているものの、その瞳はエドワードを許してはいなかった。
父も、母も、弟も──皆、エドワードのせいでアリシアが死んだのだと、そう断じていた。
その視線に晒されたエドワードは、ひりひりと自分の皮膚が剥がれ落ちるような錯覚に襲われた。
「お帰りください。そして二度と、レイモンド家の名を口にしないでください」
それは彼女の墓に参ることすら許されぬ、断絶だった。
どう王宮に戻ったのかは覚えていない。しかし気が付けば足早に王のもとへと向かっていた。
脳裏では、ひとつの名が繰り返し響いていた。アリシア。アリシア。アリシア──。
扉を開けたとき、王はわかっていたかのようにすでにそこにいた。
王は平時と変わらぬ鷹揚な態度に見えたが、どこか陰の差した表情をしていた。
「父上……!」
その声には、怒りも悲しみも混ざっていた。何を言いたいのか、自分でも整理がつかない。ただ、叫ばずにはいられなかった。
王はわずかに顔を上げた。その目は鋭くも、どこか疲れていた。
「いったい、いったいどういうことなのですか……! 陛下はっ、父上は、ご存知だったのですか、アリシアが……死んだと……」
「ああ。レイモンド侯爵から、報せは受けていた」
淡々とした声だった。けれど、その奥に隠された重みをエドワードはすぐに感じ取った。
「では、なぜ……なぜ黙っていたのです!」
「父としては、知らせてやるべきだったのかもしれない。だが王としては、それができなかった」
「……そんな、僕は……」
「お前は、自らの意思でアリシアを捨て、クラリッサを選んだのだ」
父の言葉が、刃より鋭く心に突き立つ。
「クラリッサ・メイベル……あの娘はもはや庇い立てできる状況ではない。罪に問われることになるだろう」
「そ、そんなことはどうでもよいのです!」
「どうでもよい、か……。その選択が、結果としてアリシアを殺したことにほかならないというのに」
エドワードの肩が震えた。
「アリシアは……よくできた娘だった。しかし、お前が真に幸せになれるならと……一人の父として、お前のわがままを許してしまった」
「……父上、……」
「だから我が子を失ったあの男の気持ちが、痛いほどに、わかる」
王は目を伏せた。
沈黙が重く垂れ込めたあと、静かに宣告する。
「エドワード。お前から王位継承権を剥奪する。……王宮の外には出すまい。幽閉処分とする」
「……っ、そんな、父上……!」
「私は、父としてお前を憎んでなどいない。だがそれでも、王として、お前を許すわけにはいかないのだ」
「僕は……!」
「アリシアは、お前を呪わなかったという。だが私は……王として、この国の秩序に、責任を持たねばならぬ」
その声に怒りはなかった。ただ、決定だけがあった。
だからこそエドワードは反論できなかった。
「……もう行け。お前の部屋は、地下に用意されている」
その言葉に、エドワードは愕然とした。
父として、王として、誰もが彼を見放したわけではない。
それでもアリシアがいないという事実が、すべてを終わらせたのだった。
そして、王宮の底──誰も訪れぬ暗く湿った牢獄へと、彼は送られた。
*
エドワードの部屋は王宮の地下のさらにその奥、永遠に時が止まってしまったかのような場所にあった。
分厚い地上への扉はひとたび閉じられれば、外界の気配はまるで感じられず、かすかに聞こえるのは自分の吐息と、どこかで滴る水の音だけだった。
表舞台から去った王族を人知れず葬るにはあまりに相応しい静寂だった。
エドワードは、長い沈黙の中でひとりきりになった。
部屋には窓すらなく、壁に沿うように置かれた簡素な寝台と、冷たさを逃さぬ石床があるだけだった。
アリシアがもういないこと、彼女の愛が失われたこと。その痛みは喉が焼け付くようで、心臓が脈打つたびに締め付けられた。
気が付けば、涙が流れていた。思い出すのは、彼女のことばかりだった。
アリシアの意志の強い瞳が、自分を見つけたとき密かに緩むこと。自分に向ける微笑みが、ほかに向けるそれとは違うこと。それらの記憶たちが、彼を苦しめている。
彼の中には、後悔と絶望だけが残った。アリシアを二度と取り戻せないという事実が、彼を深く押し潰していた。
「アリシア……」
その名を口にするたび、何かが胸の奥ですり切れていく。声にするたび、心が崩れていった。
あのとき──彼女が沈黙をもって婚約解消を受け入れたとき、エドワードはアリシアが泣いて縋ることを期待していた。
完璧な淑女として振る舞う彼女が感情をあらわにして、取り乱してはくれないものかと。
クラリッサの天真爛漫な振る舞いに惹かれたことは確かだが、同時にアリシアの傷ついた顔が見てみたかった。
そんな傲慢な考えこそが、彼女を傷つけてこの世を捨てさせた。そんな己を、今では心の底から嫌悪していた。
エドワードはその場に膝をついた。石の床を打つ鈍い音が寂しく響いた。
涙が止まらなかった。頬を伝い、顎を濡らし、床に落ちる。
彼女を愛していた。そして彼女がどれほど自分を愛してくれていたか。それを、今になって思い知った。
いや、気付いていた。ずっと知っていた。そのすべてを己の愚かさで無残に踏みつけただけだ。
声にならない嗚咽の中、痛みをこらえながら彼女の名を呼ぶことを繰り返した。
アリシア。アリシア。アリシア。
答える声はなくただ静寂が広がるばかりで、胸の中には空虚な闇が広がっていく。
──この世界が滅んでも、あなたと一緒なら──それでいい。
あの日、吹雪に閉ざされた夜。彼女は自分のすべてを捧げるように、その言葉を口にした。
震える肩を寄せて、それでも気丈に微笑んだ彼女の、あの声で。あの瞳で。
エドワードは誰よりも知っているはずだった。彼女の純真さを、その愛の深さを。
彼女の言葉を誰よりも一番近くで聞いて、誰よりも彼女の心に触れていたのに。
一時の熱に浮かされ、愚かにも愛を試し、そして投げ捨てた。心を切り裂かれた彼女に、怯えもしなかった。彼女がこの世を去ることなど、想像すらしなかった。
「ごめん、ごめんアリシア……」
声は濁っていた。
誰もいない闇の中で、エドワードはどこにもいないアリシアに縋るほかなかった。
──世界が滅んでも、あなたと一緒なら……それで、いいの。
しかしあの声が、あの仕草が、違う誰かのものに変わっていくのを感じた。あのときと同じ言葉を、別の唇が発している。
クラリッサだった。
「ッ、違う!」
エドワードは思わず叫んだ。その声が部屋中に突き刺さる。
思い出すクラリッサの姿。髪型も、耳元に揺れるあの宝石も、ドレスの形も。
まるで彼女が好むような──いや、自分が好ましいと感じるものだった。アリシアに似合うと勧めたものだった。
「違う……違う……っ、違う!」
彼は頭を振り乱し、髪を掻きむしった。
錯綜する記憶と記憶の隙間に混ざり込んだ嘘の断片が、彼を蝕んでいた。
「クラリッサ……君は違う。アリシアじゃない。でも僕が選んだのは……選んでしまったのは……どうしてこんなことに……!」
エドワードは荒い息をつき、両手で顔を覆った。手のひらの内側には苦悶の熱が宿っていた。
自分はアリシアを心から愛していた。それでも、クラリッサに惹かれていたはずだった。
何が本当なのかわからない。ただ、エドワードがアリシアを捨て、クラリッサを選んだことは確固たる事実としてそこにある。
クラリッサがアリシアに似ていたから──その上で、アリシア本人がしないような姿を見せるクラリッサに満たされていたのだ。
「どうして……どうして、気付かなかったんだ……」
彼の手が震え、涙が目の奥に滲む。唇が無音のまま何かを繰り返す。
「僕は……アリシア、君のことを愛していた。でも、僕は君を裏切って……クラリッサに、心を奪われた……」
目の前には誰もいない。けれど思い出の中でアリシアが微笑む。
あの応接間で、庭園で、吹雪の夜の暖炉の前で──その笑顔が、今も鮮やかに残っている。
そしてそれをクラリッサのものと重ねてしまう自分に、彼は絶望した。
「どうして……僕は、こんなにも……」
胸の奥で何かが折れるような音がしたような気がした。
エドワードはひとしきり取り乱した後、ぴたりと静止した。さっきまでの嵐が嘘のように、ただ静けさが降り積もっていた。
その空間で、彼は初めて真正面から自分が犯した過ちと向き合った。
「アリシア……僕を許してくれ。アリシア、どうか……」
声は小さく、震えていた。その言葉には、深い後悔とともに、取り返しのつかない愛の名残が込められている。
そして、再びアリシアの微笑みが彼の心によみがえった。
だが、その微笑みが、今は手の届かないものだという現実を、エドワードは理解しなければならなかった。
彼の傍には、どんなに願ってもアリシアは戻ってこない。
エドワードは床に崩れ落ち、顔を埋めるように俯いた。部屋の中に、ただ彼の嗚咽だけがこだました。
クラリッサへの怒りと自己嫌悪、そしてアリシアへの深い懺悔が、彼の魂を引き裂いていく。
それが──すべてを失った王子の始まりだった。
幾夜も幾夜も、エドワードは自問自答を繰り返し、膝を抱えて座っていた。
足元の石は冷たく、背中を預けた壁は固い。時の流れはさらに曖昧で、夜が終わって朝が来たのか、それすら幻なのか──もはや、判別のつく感覚は残っていない。
時折看守が食事を届けに来るが、手をつける気にもならない。食欲どころか、生きている実感さえ残っていなかった。
それでも時だけは律儀に過ぎ、記憶だけは逃げてくれなかった。
やはり思い出すのはアリシアのことばかりだった。彼女の笑顔。声の調子。ふとした瞬間の仕草。
そうしてアリシアとの思い出を手繰り寄せると、クラリッサの影が混ざってくる。
髪の揺れ方が似ていた。声の高さが似ていた。だが似ていたのではない。似せていたのだ。彼の好みに、彼の記憶に、彼女は輪郭を寄せていた。
そしてその重なりが、彼をいっそう自己嫌悪へと追い込んだ。果てのない悲しみに沈み込む。
エドワードの望む形に振る舞ったクラリッサに気付かず、満たされていた自分自身がもっとも忌まわしかった。
もしこれが自分を反省させるための嘘であったのなら、どれほどよかっただろう。
アリシアの死が、演出だったのだとしたら。そんな甘い夢に縋ってしまいそうになる。
だが侯爵も王も、そんな卑劣な策を弄する人物でないことはよくわかっていた。
「……僕は、アリシアに……あの子に、世界を滅ぼさせてしまったんだな」
呟いた声は小さく、しかし自らの胸を刺すには十分な重さを持っていた。
それに応じる者はおらず、冷え切った部屋の壁から跳ね返ってくるだけだった。
『……様、』
そのときだった。
どこからか、風のようにかすかな声が届いた気がした。誰かが、耳の奥で囁いた。
『エドワード様──』
はっとして顔を上げた。
そこには、アリシアの姿があった。彼女は、あの日のままの姿で、静かに微笑んでいた。
「アリシア……?」
震えた声が空気をなぞった。途端にその幻は淡雪のように崩れて消えた。
空っぽになった視界を塞ぐように、エドワードは両手で顔を覆った。嗚咽を堪えるように、唇を噛み締める。
彼女に会うには、こうして己が壊れるしかないのか。
彼はもう叫ばなかった。ただ静かに、声もなく泣いていた。
牢に入ってから、どれほどの時が経ったのか。
昼と夜の区別さえ曖昧なこの空間では、時の流れはただ静かに腐っていくばかりだった。
エドワードはもう何度目かわからない、幻のアリシアを前にしていた。
「君は……本当に、僕を愛してくれていたんだよな……」
虚空に話しかけるその声は、自嘲とも慟哭ともつかない。
かつて王子としてあったはずの威厳も誇りも、すでに彼の中には残っていなかった。
アリシアの幻影は、たびたび彼の前に現れた。
微笑み、語りかけ、幼き日の思い出を囁き、あの吹雪の夜の言葉を繰り返す。
『この世界が滅んでも、あなたと一緒なら──それでいい』
「やめてくれ……もう、やめてくれ……!」
そのたびに、胸が引き裂かれる。
もはやそれは甘やかな愛の言葉ではなく、彼の罪を浮かび上がらせる呪文だった。
なぜ、彼女の愛を信じ切ることができなかったのか。なぜ、一瞬でもクラリッサに心を奪われたのか。
すべてが手遅れになってからでは、取り戻せるものなど何ひとつないのに。
『私は、あなたを呪いません。永遠に、心から、愛しています』
声なき声が、耳に、胸に、魂に沁みる。
あの手紙に、あの言葉に、どれだけの絶望と祈りが込められていたか。今ならわかる。今になってしまったから、もう二度と届かない。
「ごめん……アリシア……許してくれ、許して……」
懺悔の声は低く掠れ、ひび割れた石の床へと吸い込まれていった。
だが返事はない。幻のアリシアは、静かに微笑んでいる。責めることも、拒むことも、許すことさえもしない。
彼女は、何も言わない。
あのときと同じだ。何も言わず、すべてを背負っている。
彼女は言った。「私は、あなたを呪いません」と。
それが、許しではないことを知った。許してくれる人間は、「許す」と言う。だが彼女は、「呪わない」と言った。
それは、罰さえ与える権利を手放して、すべてを自分だけで終わらせた人間の言葉だった。
何も望まない。何も与えない。永遠に愛すると──それは、残酷な優しさだった。
*
湿り気を孕んだ空気が、肌に絡みついて離れない。石の壁は黙して苔を育んでいた。
重く錆びた鉄格子の向こうに広がる、絶望と静寂。
暗い牢獄の中、時間という概念はとっくに意味を失っていた。
『エドワード様、寒くありませんか?』
石の床に体を横たえていると、ふと声が聞こえた。
「アリシア……君か」
彼はごく自然に言葉を返した。それは心の中にしかいないはずの存在だというのに、彼には彼女が“見えて”いた。
「ああ……大丈夫だよ」
幻のアリシアは微笑んで、ただ静かに寄り添う。
その温もりが嘘でも構わない。そう思った瞬間から、彼は現実の境界線を越えていた。
彼女はいつも微笑んで彼の言葉に頷いてくれる。責めもせず、否定もせず、ただ隣にいてくれる。それは、彼の記憶から再生された優しさだ。
『冷えてしまわれぬように。すぐに温かいお茶を、ご用意しますわね』
風が吹いた。どこにも窓がないはずのこの地下で、確かに花の香りがした。
光に包まれる庭園の中、アリシアと小さなテーブルに向かい合う。彼女は微笑みながら紅茶を注いでくれる。あのときと同じ香り、あのときと同じ仕草。
違う。違わない。これは幸福だ。アリシアがそこにいる。
『どうぞ、エドワード様』
差し出されたカップを持つその手の、爪先の色が違った。
微笑みを描く口元が、あの日と同じだった。──クラリッサと。
「ぁ……ああ……」
洩れ出た声に、アリシアは首を傾げた。「どうかしたの?」と愛おしげに問いかけてくる声が。
あまりにも、クラリッサの声と似すぎていた。
「違う……違うんだ……」
エドワードは立ち上がり、後退し、壁に背を打ち付けた。目の前に広がっていた陽光は、瞬く間に牢の闇へと瓦解した。
アリシアがこちらへ歩いてくる。しかしその姿がぼやけて、重なるのはクラリッサの笑顔だ。
『エドワード様ぁ……』
『私の何が、いけないのよ!?』
『言ったでしょ!? 私を愛してるって……! あなたが選んだんでしょ!』
醜く歪み、泣きわめき、過ちが形を持って迫り来る。叫び声が頭の中で増幅する。
「そう、そうだ……僕が、僕がアリシアを殺した……アリシアはもう……」
頭を掻きむしり、叫びを飲み込んだ。崩れ落ちた体に触れる石の床が嫌でも冷たさを知らせてくる。
アリシアはいない。いるはずがない。ここにあるのは、自分と罰されることなく残された己の罪だけだ。
だが。
『エドワード様……? ご気分が優れないようですが……』
再び彼女の声が、優しく、耳の奥を撫でた。
「ああ……アリシア、アリシア……いったい、どこに行っていたんだ?」
涙で崩れた顔が、幸福に笑む。
『子守唄でも、歌いましょうか』
「……ああ、君の声が、一番好きだ」
エドワードはアリシアの死を忘れることでしか、生きられなかった。
食事を差し入れに来た看守たちが目にするのは、ひとりごとを繰り返しながら、微笑むエドワードの姿だった。
地下牢の一室で、彼は語り、笑い、誰もいない空間に食事を運んだ。
二人いるかのようにスプーンと皿を並べ、談笑し、時折髪に触れようと手を伸ばしては、空気を掴んだ。虚空を撫でようとも構わなかった。
冷たいこの部屋も、エドワードの目には陽光差し込むサロンに見えていた。春の柔らかな日差しが指の間を通り抜け、紅茶の香りが漂っている。
「……ほんとうに幸せだよ、アリシア。君がいれば、それだけでいい」
あまりにもおだやかな声でエドワードはそう告げる。それは幸福という名の牢に、彼が自ら沈み込む音に等しい響きだった。
幻のアリシアと共に紡ぐ静寂は、まるで泡沫のように脆く、儚く、美しかった。
──そして、それは容赦なく破られる。
ガンッ!
鉄の音が、その夢を裂いた。
「エドワード! エドワード様っ!」
獣のような焦りと怒りを込めた声。
その女の名は、クラリッサ・メイベル。かつて、エドワードの隣に立っていた令嬢だ。
しかし当時誇っていた美貌は見る影もなく、みすぼらしい。彼女も処罰を与えられているのだということが見て取れた。
乱れた髪に、痩けた頬。しかしその瞳だけがなお濁らぬ執着でエドワードを射抜く。
監視の目を盗み、牢の鍵を奪って逃げ出してきた彼女は、縋るべくエドワードのもとへと現れたのだ。
「エドワード様、一緒にここを出ましょう? あなただったら、こんな牢獄も……」
しかしエドワードは、彼女の存在を認識しなかった。ただひとり、目の前のアリシアだけをその視界に留めている。
「……ああ、アリシア。ケーキが足りないね。待っていて、今すぐ追加を……」
その様子にクラリッサは固まった。エドワードの視線は、誰もいない空間に注がれている。
クラリッサの頬が引き攣る。ひび割れた唇が白くなりながら、次の言葉を生み落とした。
「……は? ねぇ、冗談よね?」
そしてクラリッサは思い切り歯を噛み締めた。
まさにエドワードは己にとって一筋の光、こんな生活から抜け出せる唯一の希望。
念願叶って自分を愛してくれるようになったのに、今の彼は一切の興味も示さない。それが許しがたかった。
「ねえ、エドワード様!」
『ねえ、エドワード様?』
ぎりぎりと聞こえてきそうなほどの必死なクラリッサの形相に気付くこともなく、エドワードはアリシアに微笑み返していた。
『最近、仲の良い方がいらっしゃるのでしょう? クラリッサさんとおっしゃったかしら』
「クラリッサ? ……誰のことだい?」
エドワードは不思議そうに首を傾げ、空中を見つめた。
「僕には君しかいないよ、アリシア。最初から、ずっと」
『ふふ、嬉しいです。嘘でもそう言ってくれるのでしたら……』
「嘘なんかじゃないさ。僕は、君を裏切ったりなんて……」
その言葉を聞いて、クラリッサの顔が歪んだ。
「ふざけないで! 忘れたなんて言わせないわ、あれほど情熱的だったくせに……!」
檻の鉄格子を掴み、激しく揺さぶる。
「アリシア? あの女のどこがいいのよ!? あなたの望みも知らずに、ただ静かにしていただけの女! 死んだ女より、今生きてるこの私のほうが……!」
罵倒と嗤いが混じった絶叫が、牢に響いた。
けれどエドワードは一切動かない。軋む言葉は幻にかき消されていく。
「アリシア、今日のティーセットは君が選んだのかい?」
『ええ、素敵でしょう? エドワード様に似合うと思って』
「うん、とても気に入ったよ。君はなんでも僕に似合うものを知ってる……だから……」
彼は言いかけて、小さく笑った。
「……やっぱり僕は、君がいないと生きていけないな」
クラリッサはとうとう、怒りと嫉妬のままに鉄扉を蹴りつけた。
「聞いてるの!? 私を見なさいよッ……! あなたに愛されるために、私、変わったのに……!」
それでもエドワードはこちらを見なかった。クラリッサの努力は実を結ばず、腐り落ちて打ち捨てられた。
彼女は崩れかけのプライドのための言葉をエドワードに向けて吐き捨てる。
「死んだ女にうつつを抜かして現実から逃げて……! そんな男を、誰が本当に愛したとでも? 笑わせないでよ……!」
その声に応じるかのように、遠くから衛兵たちの足音が響いてきた。
「おい! 貴様、ここで何をしている!」
「やめて! 離して、私はこの国の王妃となるはずの女だったのよッ!」
クラリッサはなおも叫び、暴れ、悪態を吐き続けたが、衛兵たちによって容赦なく引きずられていく。
「待って……私を捨てないで……エドワード様ぁ……!」
最後の抵抗とばかりに、クラリッサは媚びた視線と声を投げかけた。こうしたら、彼はいつも振り返って自分を甘やかしてくれた。
だから、どうか、振り返って。
しかしエドワードは、またしても幻のアリシアだけを見ていた。
クラリッサは踏み躙るように咆哮した。
「……いいわよ! あんたなんて……ッ、狂ってしまえばいいんだわ! ずっとそこで、一人で妄想の愛を語ってればいいのよ!」
彼女は引きずられるようにして連れ戻されていく。
扉が閉まり、静寂が戻った。
最初から誰も来なかったかのように、牢の中にはただ、エドワードの微笑だけがあった。
「アリシア。君の髪、今日は陽に透けててすごく綺麗だね」
『まあ……ありがとうございます、エドワード様』
壊れたように笑いながら、空のカップを傾ける。
春の光は地下には届かない。けれど彼の中では、常に花が咲いていた。
亡き恋人と交わす、永遠の逢瀬。
彼の世界には、すでに現実など存在しなかった。残されたのは、ひとりの女を愛した記憶だけ。
永遠に、心から、愛しているという幻だけが、彼のそばに在った。
「ねえアリシア。今日は何をしようか?」
楽しげに笑い、手を差し出し、頷いて、踊るようにくるくると回る。
それは狂気などではなく、彼にとっての真実だった。
「……こりゃ、もうダメだな」
騒ぎを聞いて様子を見にきた看守の男がぼそりと呟いた。罪を悔い、嗚咽する姿なら何人も見てきた。
しかしここまで、幸せそうに狂っている男は、珍しかった。
静かに背を向けると、その奥ではまだ、エドワードの声が続いていた。
「……愛してるよ、アリシア。君だけが、僕のすべてなんだ」
牢の外に響くその甘い囁きは、真実の愛を誓うように、美しく、切なく、哀しかった。
エドワードは今日もひとり小さな祝宴を開いていた。
「アリシア、今日は婚約記念日だね。君に贈るものは何もないけれど、僕の心は全部、君のものだよ」
誰もいない空気に向けて、穏やかに言葉を注ぐ。
手には水の入った古びたグラス。それをそっと持ち上げる。
その微笑みはあまりにも静かで、あまりにも美しく、そしておそろしく虚ろだった。
空に向かってグラスを掲げるその姿に、誰もが戦慄した。
かつての王太子は、虚構の国で虚構の婚約者と幸福な時を過ごしていた。
その国では、まだアリシアは生きていて、彼を愛していた。そして、エドワードもまた彼女を愛していて、永久に赦された存在だった。
彼はもうこの世にいないも同然だった。記憶から編まれた幻の世界にだけ身を置いていた。
『この世界が滅んでも、あなたと一緒なら――それでいい』
アリシアの幻影がそう囁いたとき。
彼の瞳は、うっすらと涙を浮かべながら、蕩けてしまいそうなくらい幸せそうに笑った。
現実が沈黙するなかで、ただひとつ、虚構の花だけが、牢の中に咲き続けていた。
*
王宮の地下に、今や忘れられた旧牢獄がある。
もともと深層にひっそりと築かれたその場所は、かつての反逆者や王家の不祥事をひとつずつ沈めるための水底だった。
今そこに残されたのは、ただ一人、特別な囚人のための扉だけだ。
「まだあのままなんですか?」
通い慣れた足取りで、若い看守が年老いた同僚に問いかける。
「変わらんさ。何年も前からずっと同じだ」
そう答えた年老いた看守の声は、どこか遠いものを見ているようだった。彼らは食事の盆を片手に扉の前に立つ。
軋む扉を押し開けると、ひんやりとした空気が肺を撫でた。そこは、時の流れを拒んだ空間だ。
その奥には、囚人──かつて第一王子と呼ばれた男が座っていた。
エドワード・フォン・グラティア。
彼は、薄暗い牢の中で、今もなお微笑みを絶やさず、空の向こうを見つめている。
「お茶が冷めてしまうね。君が遅れてくるなんて、珍しい」
穏やかな声音で語りかけ、彼は視線を向ける。その先にあるものは、誰にも見えない。
「でも、構わないよ。僕は、君を待つ時間さえも愛しているんだから」
言葉に嘘はない。その瞳は確かに、何かを見ていた。ただ、そこにいるはずのない誰かを。
彼の目の奥には、陽だまりがあった。花が咲き、小さなテーブルがあり、青いドレスを着た彼女が微笑んでいる。
看守は静かに盆を置き、何も言わずに後ずさる。彼にとって、それはもはや日常の風景だった。
「……いつか戻ってくるんですかね。あの人の正気ってやつは」
ぽつりと若者がこぼす。老いた看守は首を横に振った。
「戻るわけがないさ。あれは……自分で選んだ世界だ。哀れなもんだよ。地獄の中に、天国を作っちまったんだ」
その言葉に、言葉を噤むほかなかった。
「アリシア、君は綺麗だ」
エドワードは、壁の一点に向かって優しく語りかける。
「今日のドレスは、僕の好きな色だね。君は本当に、僕の気持ちをよくわかってくれる……」
彼の言葉に、返事はない。けれど彼の瞳は、柔らかな光を湛えていた。
遠く、微かな鈴の音のような声が、彼の耳にだけ届いているのだろう。
その幻の声に、彼はゆっくりと目を細め、幸福そうに微笑んだ。
*
世の中は変わっていった。
季節は巡り、新たな王が戴冠し、王宮の人々も移り変わった。
しかし、この地下牢だけは一つの時を抱いて眠っていた。
ここでは一人の男が時間を止めたまま、変わらぬ面差しで生き続けている。
ある者は、こう語る。
──彼は狂ってしまったのだ、と。
またある者は、静かに囁く。
──あの方は、愛を貫かれたのだ、と。
けれど誰にも、彼の見ているものはわからなかった。
なぜならそれは、永遠という名の幻影だったからだ。
誰の手も届かぬ深淵で──ただ一人の君とともに。
それがどれほど歪んだ幻想であろうと、彼にとっては、確かにそこに愛があった。
だからこそ、人々は彼を哀れみ、恐れ、そしてそっと忘れていった。
人知れぬ深淵のなか。
鉄と石に囲まれたひとつの空間で、彼は時の流れを拒み、ただ、ひとりの名を呼び続けている。
アリシア。
忘れられた王子の口から、今日もその名がこぼれ落ちる。
その響きは、牢の空気をわずかに震わせるだけで、誰にも届かない。
けれど、彼の瞳には確かに映っていた。
それはもう、誰の記憶にもない、ただひとりの微笑だった。
そこにあるのは、誰にも見えない幸福だった。
そして、誰にも届かない永遠だった。
鉄扉の向こうには、偽りの永遠を誓った、幸福が続いている。
男は今日もひとり、幸福のなかで、愛する人と踊っている。
「アリシア。君を……君だけを、愛しているよ。たとえ世界が滅んでも、君と一緒なら、それで──……」
彼の世界では、吹雪く夜もない。終わらない春の日の下で、淡い青色のドレスの裾が揺れていた。
if【side ????】
あたたかな日差しが、重ねられたレースのカーテンを透かして部屋を優しく照らしていた。
永き眠りから覚めるように、ゆるやかに瞼を押し上げる。
「あれ……私、死んだはずじゃ……?」
──もし、すべてが始まる前の世界へ行けたなら。
それでも、偽りの永遠に囚われた彼が救われることはないけれど。
to be continued……?