幻想。
「では、私達は事務仕事にもどりますよ、ロージイ、ちょっと。」
ケイジ兄は私を事務所に連れていって、ドアを閉めた。
「ロージイ、大丈夫か?」
「え?」
「その手。」
無意識に手を握り締めていて、手のひらに爪が食い込んでいた。血が滲んでいた。
「おまえ辛かったな。」
手のひらに薬を塗ってくれる。
「そんなに痛くないわ、ありがとう。」
「違う。怪我のことじゃない。
あえてディックではなくて、ジャックと言うが、彼が気になってたんだろ。」
心臓を掴まれた様な気がした。
「な、何を言うのよ。」
「やはり無自覚か。側から見ていたらおまえが彼に気がある事はすぐわかったよ。」
「そんな事ないって!」
「ロージイ、おまえは今まで上手くやろうとしてきて、心に幾つも蓋をして生きてきた。
ルートの事だって特に好きじゃなかったろう?」
「嫌いではなかったわ。でなければ結婚してません。」
「大体の男はおまえがその気になれば落とせたよな。
全然なびかなかったのはシンゴさんだ。」
「あれは!」
「それにジャック……いや、おまえは落とそうとはしてなかったな。」
「彼はサリーさんがお気に入りだったから。」
つい俯いてしまう。
「うん、だけどな。ジャックはおまえのことを意識してはいたな。サリーさんよりな。」
「え?」
「2人とも素直になれなくて刺々しい言葉の応酬をして、そして傷ついてしまうガキみたいだったぜ。
10代ならともかく、ハタチを越えた奴等がナニやってんだって感じだったよ。」
「兄さん……」
「でもおまえの方がやり過ぎた。彼はおまえに嫌われてると思っている。」
「……。」
「俺だって、ダン様だって、ジャックはサリー様とのほうが幸せになると思ったから、ほっといたんだ。」
「…なんで。」
「彼女は素直で明るい。それが良いんだよ。
おまえも自分の気持ちに素直になるべきだったよな。」
足が震えてきた。
「兄さんは、間違って…る。私はあんな奴、好きじゃない…。」
「そうか。俺の勘違いか。それなら良いんだ。」
ケイジ兄は軽く息を吐いた。
「もう、どっちにしろ遅いから。」
「…え?」
「ジャック、いや、ディックは記憶を取り戻した。
それからおまえにもサリー様にも冷淡と言うか、線を引く様になった。
それに人格も変わってきたというか、騎士っぽくなってきたというか。
せいぜい俺なんか半年ちょっとの付き合いだがね。」
「…どう言うこと?」
「確かに、サリー様にアキ姫さまとやらを重ねていたんだろう。それで優しい気持ちになっていたんだろう。
だけど、だんだん思い出してきたんだ。
アキ姫さまとの事を。」
「それって。」
「ディックが愛しているのはアキ姫さまなんだよ。ジャックならわからなかったがね。」
何を言っているのだろう。
「ジャックの時はね、俺と妙に気があって。仕事の合間には一緒に飲んだりしゃべったりしたものさ。
おまえの事もな、ちょこちょこ聞かれてはいたんだ。」
息を飲む。
「だけど俺も慎重だった。サリー様がジャックに気があるのはわかってたし、ダン様がそれに反対してないのもわかっていた。
彼がおまえと仲良くなったとしても、いずれダン様から縁談を打診されるだろう、そしたら乗り換えるかもしれないからな。」
兄の言葉に身体の震えが強くなり、椅子につかまる。
「それをな、セピア様もわかっていて、おまえに遠回しに告れば、って言ってきたよな。
おまえの方から動けば事態は変わるかも知れないと。」
そこで兄は、薄く笑う。
「セピア様はな、任務じゃなかったらおまえを口説きたいなあって言ってたんだ。それを聞いたジャックが目を剥いてね。
ウチのロージイ姐さんに遊び半分で手をだすな!って怒ったことがあったんだよ。」
「知らなかった。」
頭の中を色んなことがぐるぐると回って行く。
――無礼な男性客に本気で怒ってくれたジャック。
――私がコーヒーを手渡したときにっこりと笑ったジャック。
――少し霊感がある私が、古戦場で気持ち悪くなって動け無くなった時、抱き上げて運んでくれたジャック。
「だけどな、ロージイ。今の彼はもうジャックじゃない。ディックだ。
彼の心を占めているのは三年前に別れたアキ姫さまなんだよ。」
目の前がぼやける。泣いていると自覚するより先に言葉が出た。
「兄さんは、誤解してるのよ。嫌ねえ。
誰があんな男、好きなものです、か。」
「ロージイ。」
頬が濡れていく。涙と言うものは目の中にあると温かく感じるに、流れた途端冷たく感じるのは何故か。
「確かにシンゴ様に感じが似ていた、かもしれない。それで気になったかも、しれない。
ただそれだけ。……それだけなのよ。」
「そうか。」
「だって兄さん!私はもう男は要らないの!ずっと独身で生きていくって決めたの。
身勝手な奴等に振り回されるのは真っ平なの!」
「ロージイ。」
「……私には兄さん達だけいてくれれば。それだけで。」
そう、それだけでいい。
ボタンが掛け違っていなかったら。タイミングがあっていたら。
上手くいったかもしれないなんて幻想は、
――――もう、要らない。
これからしばらく二日に一回になります。
本編の「ブルーウォーター物語」に追いついてきましたので。




