24 覚悟
「ブリジット」
部屋に戻り、真っ赤に腫れた目を水で冷やしながら、母は語りかけた。
「あなたは、公爵様が好きですか?」
その言葉に、また胸がぎゅっと締まる。目の周りに熱が集まり、喉の奥に苦い汁が出てきた。
「……つらいですね」
母はブリジットの目を覆う布の上に手を置いた。
「でもね、母は思うのです」
母の温もりが、重みが、悲しい。
「公爵様は、あなたのために婚約を終わらせてくださったのですよ」
そんなもの、望んだ覚えはない。ブリジットは、彼のそばにいることを望んでいたのに。
「公爵様への思いは、忘れなさい」
「……っできません」
「そうしないと、ずっと辛いままですよ」
叶わない恋を持ち続けることほど、辛いことはない。
「あなたの胸の中に、とどめておくのです。誰にも知られてはいけません」
「……」
嫌だ。そう思うのに。
「それが、公爵様のためでもあるのですよ」
わかっている。これが正しい。公爵から離れることが。きっと彼はそう望んでいる。大好きな人の邪魔はしたくない。
「少し休みなさい。まだ傷も治っていないのですから」
母はそう言って、部屋を出ていく。
ブリジットは、目に乗せられた布を取った。
誰もいない部屋。ふと目に入ったのは。公爵家で、公爵からもらった、あの花冠。
また涙が溢れる。そう簡単には止まりそうにない。
朝も昼も夜も。何日も、何日も。ブリジットは起きては泣き、泣き疲れては眠り、また起きては泣く、を繰り返した。
いくら泣いても涙が尽きることはなくて。それだけ彼を愛しているのだと思い知らされる。
「ブリジット、たまには庭を歩いてみませんか?」
「……ごめんなさい、お母様。まだ傷が痛むので」
少しでも気分を変えさせようと外に誘う母を断るのも、もうつらくなってきた。
「奥様、お嬢様にお客様が」
「まぁ、どなたかしら?」
「ルシャーナ伯爵家のユリリアン卿にございます」
ぴくっと肩が動いた。
「通してちょうだい」
母が許可してしまう。
「懐かしいでしょう。ゆっくりお話ししなさい」
話す気力など、ほとんどないのに。
母は微笑んで、出て行ってしまう。入れ替わるように入ってきた、ユリリアン。
「久しぶり、ビディ」
彼は、笑った。キラキラと輝くような顔で。
「……呼んでないわ」
「呼ばれてないけど来た。悪いか?」
従兄で幼なじみ。家の格もつりあう、いいお相手。
「で、びーびー泣いてるって聞いたけど?」
「……泣いてない」
クッションに顔を埋める。
「ガキだなぁ、お前」
「うるさい」
ハハッと笑った従兄を、じろっと見つめた。
「ユーリはどうして来たの?」
「んー、婚約者様のご機嫌伺い? いや、まだ婚約してないから恋人……でもないか、片思い?」
つまりブリジットで遊びに来た、というところだろう。婚約、と聞いて、また公爵を思い出す。
恋人。片思い。今のブリジットは、きっと片思いの段階か。
「ちょ……、泣くなよ!」
従兄が慌ててハンカチを差し出す。
「泣いてない」
「さすがに無理あるって」
ハンカチで目を抑えながらの抗議は、呆れられてしまった。
「なぁ、ブリジット」
「……なに」
「俺たち、結婚しないか?」
そういう話が出ていることは知っている。母からも手紙で言われた。それ以降、何の話もなかったが。
でも、それを聞いた瞬間。やっぱり涙が溢れてくる。
「そうやって泣いてても、もうどうしようもないんだろ」
「……っでも……」
それに続く言葉なんてない。ただの子どものような言い訳ばかり。
「……少し」
ブリジットはポツリとつぶやいた。
「考えさせて」
「ん、わかった」
彼は頷き、幼い子どもにするように、ポンポンと頭を撫でた。
「ブリジット~!」
父が嬉しそうに部屋に入ってくる。
「今日もいい縁談が来てるぞ!」
次の瞬間、母が父の手を引く。
「あなたはどうしてそう……」
「な、なんだ?」
きっと父は、ブリジットの公爵への思いなど、気づいていないのだろう。
「お父様」
ブリジットは声を絞り出す。
「どんな方からきているんですか?」
変わらなければ。嘆き悲しむのは、もう終わり。未来は進んでいくばかりなのだ。
「え、えっと……」
父が様々な手紙を机に広げる。
「お前は昔から努力家な子だったからな。どの家もそれがわかっているんだ。伯爵家に子爵家に侯爵家からも来ているぞ」
その内の1つが、机から零れ落ちる。 ブリジットはそれを拾った。
『ドナシアン』
王太子の名前だった。
「ブリジット!」
次の瞬間、その手紙は父に奪い取られた。
「これは気にしなくていい」
「……王家からではありませんか。無視するわけには」
「いいんだ!」
珍しい。父が権力に逆らうなんて。
「王太子殿下には、アングラード子爵令嬢がいらっしゃったはずでは?」
「少し前に破談になったらしい。アングラード子爵家が重大な罪を犯したとかで、陛下が王太子殿下との結婚をお認めにならなかったんだ」
ブリジットが寝ている間のことだろうか。それなら知らないのも無理はない。
「それで、どうしてわたしに」
「殿下のお考えはわからない。……考えても意味がないだろう。とにかく、これのことは忘れなさい」
ブリジットは次へ歩き出すと決めたのだ。過去に戻る気はない。
「わかりました」
だから、父の言葉を受け入れた。
ひとり、部屋で考えた。綺麗な花冠を手に。
もう随分昔のような気がする。それでも、この花冠は、以前と変わらず咲いていて。まるで、魔法がかけられているように。
いや、きっと魔法なのだ。公爵しか考えられない。やっぱり優しすぎる。あの人を嫌うことも、忘れることもできない。
それならいっそ、今のまま大切にしまおうか。彼だけを想って。他の誰とも結ばれることのない人生。このまま伯爵令嬢として王都にいては、きっと無理だろう。
身分を捨て、田舎に行くか。いっそ修道院にでも行ってしまおうか。そうすれば、もう二度と彼に会うことはない。
それでいい。全て今のこととして。大切に、大切に、しまってしまおうか。
「……それが、正解?」
だって、忘れられないのだから。
最後に、手紙を書こう。今までの思いを全部ぶつけよう。もう会わないのだ。これくらい許されるだろう。




