22 別れ
彼女は毒矢に倒れた。
果敢にドラゴンに立ち向かい、怪我1つなく仕留めた。
ホッとした。彼女に怪我がなかったことが。満面の笑みで駆け寄ってくる彼女を、褒めるべきかしかるべきか。危険なことをしたのだ。しからなければ。
いや、彼女は何かと子どもたちを褒めていた。まずはドラゴンを仕留めたことを褒めてあげるべきか。賭けに負けたというのに、その心はすっきり晴れ晴れとしていて。
もう意地を張るのはやめよう。彼女に伝えよう。そう決めた瞬間のことだった。
ずるりと崩れ落ちる、彼女の身体。そして、右肩に刺さった矢。
「ブリジット!」
夢中で叫んだ。周囲のことなど何も考えず、足が動いていた。
「ブリジット!」
「こーしゃく……さま……」
彼女は笑っていた。
「我慢しろ」
焦りをこらえ、矢を引き抜く。彼女の顔が痛みに歪む。そして、抱き起こした。
「公爵様……」
たったそれだけなのに。幸せそうに笑みを浮かべる彼女。左手がゆっくりと持ちあがる。反射的にその手を取った。
「わたし……やりました……」
「喋るな」
喋れば血が流れる。血を失えば……。
「……ふふ……」
彼女は笑った。
「ねぇ、公爵様……」
「喋るなと言っているだろう」
「……愛して、います」
何度も伝えてくれた。この短期間で、何度も。もう聞き飽きたと言うほどに。
「セドリックも……ジェレミーも……シャルルも……」
血のつながらない子どもたちを、なぜこんなにも愛おしそうに呼べるのだろう。
「……オディロン、さま……」
ハッとした。初めて名前を呼ばれた。
「愛しています」
「……わかった。もういい」
彼女の血が流れていく。それが、皮膚に伝わってくる。
「あい、し、て……」
瞼が閉じた。
「ブリジット!」
ダメだ。ダメだ、ダメだ、ダメだ。彼女は、死んではいけない。
何がダメだったのだろう。どこから間違っていたのだろう。ベッドに眠る彼女を見ながら、考えた。
彼女が駆け寄ってきた時?
もっと早く。オディロンが駆け寄っていれば、違ったのだろうか。
剣を奪われた時?
止められなかった。突然のことで。なぜそれより早く、オディロンが剣を抜いていなかったのか。指示をするだけで、自分から行こうとしなかったのか。オディロンが剣を持って参戦していれば、彼女が出ていくことはなかったかもしれなのに。
狩猟大会に参加したいと言った彼女を止めなかった時?
騎士に守らせればいいと思った。それだけで、どうして守れると思っていたのだろう。どうして自分がそばで守らなかったのだろう。
愛しているという彼女の言葉に、答えなかった時?
今からでも取り戻せるなら、何度でも答えるのに。愛している、と。
「公爵様」
ブリジットが眠るベッドから離れないオディロンに、侍従が声をかける。
「少し休まれてください。奥様は私どもが見ておりますので」
「必要ない」
彼女は今も一生懸命戦っている。解毒薬を飲ませたとはいえ、まだ毒が完全に消えるまでに時間がかかる。
もう大丈夫、と。医者からそう言われるまで、そばを離れる気はない。
「取り調べはどうなっている」
「自白する前に死にました」
ブリジットに矢を放った犯人。
おそらく誰かが命じたのだろう。そして、自ら命を絶った。黒幕がわからない。
オディロンを狙う人間がいるのは知っていた。宰相という役職柄、恨みを買うことも多い。だから、息子たちには身を守る術を習わせた。そして、他人を遠ざけた。
ブリジットを引き取るべきではなかった。たとえ一時的にでも。
「父上」
そっと扉の隙間から小さな声がした。
「ブリジット様は、まだ目を覚まされないのですか?」
セドリックだ。
「あ、あの、ジェレミーとシャルルが寂しがっています。ブリジット様に会いたいって」
あわてて取り繕っているのがわかる。
「後にしなさい」
「あの……父上」
セドリックも簡単には引き下がらなかった。
「ブリジット様は、どうされたのですか?」
あの場にいなかった子どもたちに、事情は話していない。
「何があったのですか?」
これが教育の成果か。少ない情報の中で考え、推測し、最悪の想像をしているのだろう。オディロンがそうなるようにと育てたのだから。答えを教えてあげるべきか。まだ幼い子どもを傷つけてしまわないか。
「……勉強の時間だろう」
オディロンは、隠し通すことに決めた。
「部屋に戻りなさい」
「……はい」
セドリックは悲しそうに頷き、扉を閉めた。
「公爵様……」
「お前も下がれ」
「……かしこまりました」
侍従も追い出し、また部屋にはオディロンとブリジットだけ。
どうすれば彼女は目を覚ましてくれるだろう。毎日献身的に看病をした。登城もせず仕事もせず、毎日医者を呼び、ブリジットのそばを離れない。わずかな変化も見逃さないように。
「もう大丈夫でしょう」
医者にそう言われたのは、ブリジットが毒矢に倒れてから10日後のことだった。
「命の危機は脱しました」
自然とオディロンの口から息が漏れた。今まで息が詰まっていたのだと、初めて気づいた。
「じきに目を覚まされると思います」
これで安心。医者を帰らせ、オディロンは
「アラン」
ホッと安堵した様子の侍従に声をかける。
「はい」
彼は笑顔で答えた。
「ジェルヴェーズ伯爵家に手紙を書け」
「あぁ、そうですね。奥様のご実家にもお伝えしなければ。今頃心配されているはずです」
「彼女を伯爵家に連れて帰るように」
「……え?」
侍従が驚いた。
「彼女の荷物をまとめて、伯爵家へ送れ」
「公爵様……?」
そうして、オディロンはブリジットの部屋を後にした。
「ブリジットさま! ブリジットさまぁ!」
ジェレミーの声か。シャルルが泣いている声もする。
オディロンは部屋から出なかった。
ジェルヴェーズ伯爵家から迎えの馬車が聞いた報告を受けた。
今日、彼女は公爵家を去る。そして、もう二度と戻って来ない。
間違っていない。この選択は、彼女のためだ。間違っているはずがない。
「いかないで!」
子どもの声は、こんなにも耳障りだったか。こんなにも、胸に刺さるものだったか。
窓に近づいてみる。眼下に玄関が見えた。まだ目を覚ましていないブリジットが乗る馬車に、たくさんの荷物が積まれた荷馬車が連なる。
彼女はもう馬車に寝かせられているのだろうか。医者を同行させるから、道中を心配することもない。それなのに、胸がさわさわと落ち着かない。
ついに馬車が動き出した。
「ブリジットさま!」
玄関からジェレミーが飛び出す。その手を握って引き止めているのは、セドリックか。
あぁ、ダメだ。胸が痛む、なんてこと、今まであっただろうか。
部屋を出て、玄関に行ってみる。そこには、彼女との別れを惜しむように、たくさんの使用人がいた。
「うあぁぁぁ!」
「大丈夫、大丈夫……っ」
その中心で、声をあげて泣き叫ぶ弟を、一生懸命なだめるセドリックも。彼自身も涙で頬を濡らしながら、小さな身体で弟を包み、なだめていた。
「アラン、王宮へ行く。馬車を出せ」
「……はい」
その場にいた侍従に命じると、セドリックが顔を上げた。
「父上」
彼はゆっくりと立ち上がり、乱暴に涙を拭った手を強く握りしめる。
「ちゃんと、お見送りできました。笑顔で」
こらえきれなかった涙をこぼしながら、セドリックは笑顔を作る。
「ブリジット様は、僕の笑顔が好きだって言ってくださったので」
そうか、と通り過ぎてもいい。今までの彼はそうしてきた。それでも
「よくやった」
セドリックの頭に手を置いた。彼女が残してくれたものを、大切にしよう。いつかまた会えた時に、彼女に喜んでもらえるように。




