2 愚行
彼は退屈だった。
国王の隣。椅子に座ることも、居眠りすることも許されない。それが、この国での彼の立ち位置だった。
フランクール公爵家。筆頭公爵家の主であり、この国の宰相でもあるオディロン。
彼は賑やかなパーティー会場を一瞥した。裏の世界で活躍する貴族は大勢いるが、今のところ危険因子はいない。
そんな彼の視界を遮る存在。このパーティーの主役であるドナシアン王太子だ。その隣にいるのは婚約者候補と噂されている令嬢とは別の令嬢。
ここまで馬鹿だとは思わなかった。と言いたいところだが、元々王太子には期待していない。万が一彼がこのまま国王になったとしても、自身が宰相として彼を諫めていけばいいとさえ思っていた。
彼の婚約者と言われていた令嬢は、バルコニーの下で重臣たちと語り合っている。本来王太子が負うべき責務を、彼女ひとりでこなしているのだろう。
「ブリジット・ジェルヴェーズ!」
バルコニーの上から王太子は声高々に叫ぶ。そこまで大声でなくても、この会場には充分聞こえるだろうに。
「お前との婚約は破棄する!」
それは会場中が驚いた。オディロンも含めて。本来祝うべき席で、この王太子は何をしているのか。いい加減頭痛がしてくる。
「殿下、理由をご説明いただけますか?」
ショックを受けているはずの彼女は、毅然としていた。これだけのことがあれば、普通の令嬢なら泣き崩れたり、失神してもおかしくないだろう。その中で彼女は、真っ直ぐな目をして立っていたのだ。
「わからないか? では、ここでお前の悪行を皆に知らしめてやる!」
声高々に並べられる、『悪行』の数々。
証拠もなく、証人さえも不十分な状況で、王太子妃候補から排す理由になるかさえも怪しい。むしろ貴族家の令嬢としてあるまじき行いを、彼女が諫めた方ではないのか。
「……陛下」
国王が息子を止めてくれればと視線を送るが、
「おもしろそうじゃないか。あの馬鹿息子が最近楽しそうに何かしていると思ったら、これを計画していたらしいな」
ケラケラと気の抜けた笑い声。臣下としても友人としても、呆れを禁じ得ない。
「そういうわけだ、ブリジット。お前は王太子妃にふさわしくない」
「……そうですか」
どこまでも得意気な王太子に呆れているのは、きっとオディロンだけではないのだろう。
「父上、いかがでしょうか」
「ふむ。お前がそう決めたのなら、そうしなさい」
そして、楽しそうな国王でさえ、馬鹿王子、もとい王太子を止めようともしない。これが王家の教育方針とはいえ、ひとりの令嬢の人生がかかっているというのに。娯楽としてここまで楽しめる国王が、オディロンには理解できなかった。
「陛下のお許しも得た」
これを許可と判断していいのか。宰相としては微妙なところだ。どう考えても国王は楽しんでいるだけである。
「では、伯爵。娘を取るか、家を取るか、選ばせてやる」
彼女の父親にまで究極の選択肢で詰め寄るなど、暴君にもほどがある。こんな人物がこの国の未来を担うなんて、絶望でしかない。
「わ、私は……」
ジェルヴェーズ伯爵の震える声。いかにもお人好しといった様子の彼は、どちらを選ぶのか。
「……娘との縁を切ります」
彼が選んだのは、家の方だった。貴族としては正解でも、父親としては最低の答えだ。
「では、ブリジットには修道院行きを命じる!」
そう告げられてなお、彼女の顔に絶望という文字はなかった。
彼女の噂はオディロンの耳にも入っている。勉強から逃げてばかりの王太子と違い、彼女は責任感が強いらしく、求められることに正しく向き合ってきた。その成果も充分だ。
若い芽が、有能な芽が、今摘み取られようとしている。彼女をこのまま手放すのは惜しい。
「お待ちください」
オディロンは口を開いた。
「陛下、発言のご許可を」
「許そう」
さて、彼女をどう呼ぶべきか。ほとんど面識のない令嬢をファーストネームで呼んでいいものか。しかし伯爵家から縁を切られた彼女にファミリーネームはない。
「ブリジット嬢を、私の婚約者にしてください」
仕方なく、ファーストネームに敬称をつけておく。
「なん……っ!」
会場がざわめく中、彼女は真っ直ぐな目でこちらを見ていた。
「……どういうことだ? お前は結婚しないと、つい最近も聞いた気がするのだが」
相も変わらず楽しそうな国王には、
「気が変わりました。彼女は私がもらい受けます」
と説明もほどほどに、驚いている王太子を睨む。
「殿下も、それでよろしいですね?」
「……っ」
王太子は悔しそうに唇を噛んだ。本来元婚約者に確認する必要はないのだが、仮にも王太子だ。
そんな時、王太子の隣にいた令嬢が、そっと耳打ちする。
「ドニ、大丈夫よ。相手は鬼の宰相様。あの女は、絶対に幸せになんてなれないわ」
小声のはずなのに、彼の耳はそんな声さえも拾ってしまう。
確かにオディロンが『鬼宰相』や『冷血漢』はては『眠れる獅子』とまで言われていることは、本人も知っている。しかし、それは本人を前にして言うことだろうか。
そもそも、一国の王太子を愛称で呼んでいるあたり、まともな教育は受けていないのだろう。
「……ふっ、好きにすればいいさ」
王太子の答えを聞いて、オディロンは視線を彼女に向ける。
「ブリジット嬢は、それでよろしいか」
一次的とはいえ、鬼宰相の婚約者になることを、彼女は了承してくれるのか。拒否されても傷つきはしない。このいかつい顔のせいで、怖がられることには慣れているから。
「はい」
短い言葉が聞こえた。
「わたくし、公爵様と婚約いたします」
笑った。
彼女は、笑ったのだ。綺麗に整った顔で。この傷持ちの冷血漢の婚約者になるというのに。
なぜ彼女が笑ったのか。その理由は、完全無欠な彼でも、いくら考えてもわかりそうにはなかった。
「……陛下」
「なんだ」
「我が婚約者の名誉のため、今回の件、より詳細な調査を望みます」
「……わかった」
オディロンの一言で、国王は一転して真面目な顔で頷いた。
ただの王太子のわがままではない。それは、きっと国王もわかっているのだろう。
「ブリジット嬢、こちらへ」
「はい、公爵様」
差し出した手に、彼女はためらうことなく自身のそれを重ねた。伯爵家に戻ることはできないため、このまま公爵邸に連れて帰ることにした。
付き添っていた者を先に帰し、彼女を客人として家に招くことは伝えさせている。気の利く侍従が今頃働いているだろう。
「公爵様、ありがとうございました」
公爵家の馬車の中で、彼女は礼を言った。
「……なぜ礼を?」
わからなかった。なぜ彼女から礼を言われなければならないのか。
「わたしを助けてくださったのですから、礼を申し上げるのは当然ではありませんか?」
しかし彼女からは、いかにも当然といった様子で答えが返ってくる。
「助けた、だと?」
眉根に力が入るのが、自分でもよくわかる。
「えぇ。王太子殿下から婚約破棄を告げられたのです。公爵様が婚約すると仰ってくださらなければ、わたしは修道院に送られて、まともな生活はできなかったでしょうし」
現実をよく分析している。やはり、彼女は賢い女性だったようだ。
「勘違いするな」
感心する反面、口をついて出るのは彼女を突き放すような冷たい言葉ばかり。
「今回の件は、今後もっと詳しく調査される。貴女の名誉のために、陛下に進言しておいた。私の婚約者が関わる問題だからな」
「まぁ、公爵様の婚約者だなんて……!」
彼女の顔にポッと紅が差す。
「わからないのか?今回の件が冤罪だとはっきりすれば、この婚約は破棄される。貴女も実家に戻れるだろう。それに、王太子妃としての教育を受けた完璧な淑女であれば、嫁にと望む家も増えるだろう」
今後彼女に情を持たれては面倒だと、わざと突き放す言葉を選んでいた。
「完璧な淑女……!」
年頃の少女のように喜んでみせたかと思うと、彼女はふっと冷ややかな笑みをこぼす。また真っ直ぐな目が彼に向けられた。
「わかっていますわ、公爵様」
それは、あの時遠目に見た、綺麗な笑顔だった。
「あの場で冤罪だと信じてくださったのは、きっと公爵様だけ。だから、わたしの罪が晴れたら自由にしていいと、仰ってくださっているのでしょう?」
確かに冤罪だという証拠はない。しかしそれは同時に、確実な罪だという証拠もないのだ。
「ご安心を。それまでの間、公爵様の婚約者としてするべきことはなんでもしてみせますわ」
「必要ない」
公爵はブリジットから逸らした視線を、窓の外へ向けた。彼女に求めることなど何もない。彼女はただ穏やかに待っていればいい。その罪が晴らされる日を。
王宮からほど近い公爵邸には、まもなく着いた。しかし婚約披露パーティーの後だったということもあり、夜も更けた時間だ。
「おかえりなさいませ」
出迎えた使用人は少ない。その中で、先頭に立つ男は眼鏡の奥の瞳を細めてみせた。
「当家の侍従アランにございます」
「よろしくね、アラン」
眼鏡の老人アランに、彼女は令嬢らしい穏やかな微笑みを向ける。
「どうお呼びすればよろしいでしょうか」
「奥様でいいんじゃないかしら。いずれそうなるのですから。ねぇ、公爵様?」
彼女は使用人たちにさえも気を許さず、表向きの体裁を保とうとしているのだろうか。事情を知るアランは、主に確かめる視線を送る。オディロンが頷くのを見て、
「では、奥様とお呼びいたします」
と頷いた。
「奥様、こちらは奥様にお仕えする者にございます」
それを合図に、3人の男女が進み出た。
「アルマンにございます」
「ヴィ、ヴィヴィです!」
「ポール、です」
執事2人に、メイドが1人。そしてその後ろに立つ数人の女性たち。いい人選だ。
その時、彼女はふと振り返った。
「ありがとうございます」
前妻とは違う、少女と淑女の中間のような、朗らかな微笑み。
「……不都合があればアランに言うように」
オディロンはそれだけを告げて、アランとともに巨大な階段を上がっていく。
「アラン、彼女に騎士団から護衛を」
「承知いたしました」
「それから、彼女は客人だ。子どもたちは会わせないように」
「……かしこまりました」
彼女の負担になるようなことはさせるまい。彼の足りない言葉は、慣れている侍従が汲み取ってくれる。
彼はそのまま書斎へと入った。