19 最後の賭け
これが令嬢のすることだろうか。オディロンは疑問に思う。ほんの数分前。彼女はオディロンの部屋を訪ねてきた。『夜這い』といって。
こちらの気も知らないで、無邪気に横になる彼女。いっそ見ないようにしてしまおうと目を閉じる。それでも、身体の左側に感じるわずかな人の熱。そして、ボディークリームなのか、甘い匂い。ある種の拷問か。
「……公爵様、もう寝ましたか?」
彼女の声が聞こえた。これは答えるべきだろうか。答えずに寝たことにしておくべきか。これ以上変なことを言われても困る。
「公爵様は、どうしてわたしを助けてくださったのですか?」
オディロンが寝ていると思ったのだろう。彼女はポツリとつぶやくように尋ねた。
「公爵様に助けていただけなければ、わたしは死んでいたのですよ」
死ぬ? そんなことはないはずだ。あの時、彼女の行先は修道院になっていたはず。過去の事例から察するに、王都から離れてはいるがそれなりに環境のいい修道院。よほどのことがなければ、命に係わるはずはないのに。
「わたしは……死ぬ運命から逃れるために……公爵様を利用しました」
やはり、聞き間違いではない。まるで許しを請うような、悲し気な声。
「公爵様は、鬼宰相とかいろいろ言われてますけど、わたしは知っています。誰よりも優しくて強くて、大切な人を守れる人だって」
オディロンを優しいと言う人なんて、きっと彼女くらい。他の誰がそう思うだろう。
「それに、とってもかわいい……」
ふふっと彼女は笑った。これは心外だ。
「公爵様、大好きです」
華奢な手の温もりを、左肩に感じた。
「愛しています」
今度は頭だろうか。すぐ近くに彼女の匂いがある。着飾ることのない、彼女の言葉。
「だから、どうか……」
彼女の声がとろんととろけてきた。もう眠りにつこうとしているのか。
「……笑……って……」
ハッと目を開けてしまった。それは、いつ聞いた言葉だっただろうか。
『笑って、オディロン』
そう言ったのは、誰だったか。
『顔が怖いわ』
コロコロと鈴が鳴るように笑ったのは、誰だったか。
どうして重なってしまうのだろう。
そっと隣を見る。彼女は寝ていた。無防備なものだ。隣に寝ているのは、18も年上の男なのに。
そっと右手を動かす。起きるだろうか。彼女の髪に触れてみた。柔らかく、なめらかで。シルクのような手触り。
その指は、続いて白い頬へ。傷1つない、綺麗に手入れされた肌。
住んでいる世界が違う。彼女をこちらへ巻き込んではいけない。頭ではそう思っているのに、心が抗う。
この気持ちは、誰にも言わず。蓋をするべきものなのだ。
どれくらいそうしていただろう。一睡もできなかった。戦場ではこんなことも当たり前だった、と思い出す。
いつ敵が攻めてくるかもわからない緊張感の中で夜を明かすことなんて、日常だった。
ここに敵はいない。しかし、緊張感は変わらない。すぐ隣の女性を起こさないように。
このままベッドを出る方がいいだろうか。なんて迷っていると、隣で小さく呼吸音が聞こえた。
どうやら起きたらしい。これは寝たふりをした方がいい。と、咄嗟に判断する。
わずかに慌てるような呼吸音。そして、彼女はベッドから出ていった。
まだ視線を感じる。何をしているのだろう。すっと顔に何かが触れた。
何をする気だ。起きた方がいいか。そう迷っている内に、額に柔らかい何かが触れた。
ちゅ……っという、小さなリップ音。
「……ふふ」
彼女はわずかに笑い、しばらくして部屋の扉が開く音がした。
なるほど、これは立派な『夜這い』だ。オディロンはゆっくりと起き上がり、彼女が出ていった扉を見つめた。
「この幸せが、ずっと続けばいいのに」
テラスで、彼女はそう言った。風にかき消されそうな、小さな声で。それは、隣にいたオディロンにもかろうじて聞こえたくらいの声だった。
彼女が何を求めているのか、知っている。知っていながら目を背けるという、残酷なことをしている。それも自覚している。
それは、はたして彼女のためなのだろうか。彼女はここにいることを『幸せ』だと思っている。それを奪っておいて、彼女のためだと言えるのだろうか。
「奥様」
彼女につけている侍女が、銀トレイを差し出す。
「お手紙が来ています」
「あら、お母様かしら」
彼女は花冠をテーブルに置き、手紙を受け取った。
その隙に、花冠に手を伸ばす。片手が触れればいい。せめて彼女が望む『幸せ』を永遠に。この花冠だけでも。そう願って、枯れない魔法をかけた。
彼女は気づいていない。安堵して手を引く。そして、気づいた。彼女の顔が、強張っていることに。
「家からか」
そう聞いてみる。
「……いとこからです」
彼女は慌てて手紙をたたむ。何かあったらしい。
「何か言ってきたのか」
彼女を傷つけるものは許さない。そんな気持ちが芽生えてしまった。
「お母様が、従兄にわたしの縁談の話をしたようで」
ドクンと心臓が波打った。何を今さら。そうなるのを望んでいたではないか。
「……よかったな」
幼い頃から遊んだ仲だという、ルシャーナ伯爵家の長男。家柄も人格も問題なく、彼女の結婚相手としては申し分ない相手。
これでいい。そう思っているのに、思わず逸らしてしまった視線を彼女に向ける。
大きい瞳がさらに見開かれ、みるみる溜まっていく涙。
間違えた。そう思った。しかし、ここからどう取り返そうと言うのだろう。これでいい。これでいいのだ。
「……申し訳ございません、公爵様。失礼いたします」
彼女はそう言って、席を立った。
「奥様」
侍女たちが後を追う。
「父上?」
その様子に気づいたセドリックが駆け寄ってきた。
「ブリジット様はどうかされたのですか?」
「なんでもない」
気づかないふり。彼女の気持ちにも、自分の気持ちにも。そうやって蓋をして。これでいい、と言い聞かせる。
「追うな」
ブリジットが去った方向に駆けていこうとした息子を止める。
「でも……」
セドリックは戸惑って立ち尽くしてしまった。しかし、そんな息子にかける言葉がない。こんな時、彼女はどう声をかけるだろう。そんな考えは、振り払った。
「公爵様」
その日の夜、彼女は公爵の部屋を訪ねてきた。泣き腫らした目が痛々しい。
「狩猟大会の招待状が届いたと聞きました」
何の話だろう。確かに先ほど届いた王宮からの手紙に入っていた。
「これで最後にします」
自棄を孕んだ声にぞっとする。
「わたしも参加させてください」
「……狩りをすると?」
「はい」
迷いのない返事。
「危険だ。魔獣を相手にするのだぞ」
「わかっています」
令嬢が狩猟大会に参加した例がないわけではない。しかし、彼女は出したくない。
「狩猟大会でわたしが優勝したら、結婚してください」
相手を射るような、真っ直ぐな目。
「ダメだ」
オディロンは認めなかった。
「なぜですか?」
「危険すぎる」
危険な目に合わせたくないだけなのに。
「公爵様にはどうだっていいじゃないですか」
「……なんだと?」
「怪我をすれば優勝はできません。優勝しなければ、公爵様とは他人に戻ります」
確かに彼女の言うことには一理ある。決して衝動的に言っているわけではないのだ。
「……わかった」
オディロンは当日、公爵家の騎士団を動員して会場の警備に当たる。そして、騎士団の中には狩猟大会に参加する者もいる。彼らに彼女を守るように伝えておくか。
女性が優勝した前例はない。これは無茶苦茶な賭け。彼女に勝機なんてない。
「怪我をしたら、この賭けは私の勝ちとする」
「いいですよ」
この条件でも、彼女は頷いた。