16 離れたくない理由
暗い闇の中。どちらに進めばいいかもわからない。上質なやわらかいベッドに全身を任せ、ブリジットは天井を見つめる。
楽しかった。このわずか数ヶ月。今までの人生で一番楽しかった。
王太子から解放されたのだ。この先の人生、きっと楽しいことばかり。それはわかっているのに。
どうしてこんなに悲しいのだろう。今まで以上に楽しいことなんてない、と思ってしまうのだろう。その答えは、きっともう出ているはずなのに。
目をそらしてしまう。それは絶対にないと、断言してしまう。
『迷惑だ』
公爵から告げられた言葉が、頭にこびりつく。
『この婚約は貴女から破棄すればいい』
そんな残酷なことを言われるなんて。
公爵は楽しくなかったのだろうか。ブリジットが振り回し、仕事の邪魔をしてまで手に入れた休みで、育児を教え込んで。
いいことなんてなかったに違いない。公爵も楽しいはずだ、なんて、いつから思っていたのか。それはただの押し付けに過ぎないのだ。
これからどうすれば。いっそ修道院にでも入ってしまおうか。この幸せな日々だけを思い出にして。
あのテンプレートからは外れている。もう盗賊に襲われて命を落とすこともないだろう。
トン、とドアが鳴った。ノックとも言えない、かすかな音だった。不思議に思い、扉に歩み寄ってみる。
「ヴィヴィ?」
そう声をかけてみたが、誰かいるわけでもないらしい。そっとドアに耳を当ててみると、ぐすっぐすっと、誰かの声が聞こえた。そっと開けてみる。
「……! ブリジット様……!」
そこには、扉のそばで壁に背を預けて佇むセドリックがいた。
「セドリック! どうしたんですか?」
あわてて膝を折り、目線を合わせる。セドリックの目は、何度も擦ったのか赤く腫れ、涙に濡れていた。
「どこか痛いのですか?」
もう子どもたちの就寝時間は過ぎている。
「ブリジット様……っ」
セドリックの目が潤み、大粒の涙がこぼれた。
「セドリック?」
どうしたのだろう。
「うぇ……っ、ひっく……」
しゃくりあげながら泣く幼い身体を抱きしめる。
「落ち着きましょうね、セドリック。大丈夫、大丈夫」
セドリックがここまで泣くなんて珍しい。なにかよほどのことがあったに違いない。
「中に入りましょうか」
室内に招き入れ、ソファで彼を抱きしめて、ポンポンと落ち着かせる。
「ブリジット様……」
「はい、ここにいますよ」
体調が悪いと心が弱くなる。それは知っているため、優しく答える。
「……っいかないで……」
「え?」
その言葉に、ブリジットはセドリックの顔を見た。
「いい子にするから……。勉強もちゃんとするし、剣術もがんばるし、父上みたいな立派な公爵様になるから……いかないで……っ!」
「セドリック……」
どこかで聞いたのだろうか。ブリジットが公爵家を出ていくことを。
「うぇっ、ヒック……ブリジット様……っ!」
「あぁ……泣かないでください。大丈夫、大丈夫」
また泣き出すセドリックを、あわててなだめる。
「セドリックは、十分いい子ですよ」
柔らかい頭を撫でつけ、ゆったりとした口調で伝える。
「毎日勉強を頑張って、苦手な体術も覚えて。こんなにいい子、他にはいません」
ぽんぽんと、ゆっくりとしたリズムは、セドリックを落ち着かせていく。
「将来は、きっと立派な公爵様になりますね」
そして、不安にさせないような笑顔も大事。
「セドリック」
「……っ、はい」
「人には、いずれ別れがきます」
「……」
ぐっと声を押し込めるセドリックの頭を撫でる。
「セドリックのお母様のような、永遠に会えない別れもあります」
「……っや、だ……」
いつも第一公子として兄として、弟たちを引っ張っていく姿しか見せないセドリック。こんな子どものような一面は、初めて見る気がする。
「イヤですね。わたしも嫌です」
「じゃあ……っ」
「でもね、時々会える別れもあります」
セドリックがハッとあげた顔を、ブリジットは優しい眼差しで見つめた。
「わたしは、永遠に会えなくなるわけではありません。王都に暮らしていますし、わたしの実家は馬車ですぐです。それに、セドリックがもう少し大きくなったら、社交界で会えるようになります」
王太子妃に選ばれるような家柄だ。伯爵家ではあっても、かなり高位貴族に近い。
「……公爵家には、もう来ないんですか……?」
「公爵様にお願いしてみます。ときどき、セドリックたちに会いにこられるように」
「……っ毎日会いたいです……」
当たり前のように過ごした日々。この子たちにとって、ブリジットは突然来た客人。それでも、一緒に暮らす同居人のような立ち位置にはなれていたのだろうか。
「わたしも、出ていきたくないんです」
ぽつりとこぼした。
「その理由は……、きっと、思っているよりもずっと単純で……」
それさえ言葉にしてしまえば、楽なのかもしれない。
「ブリジット様……?」
ハッとした。子ども相手に何を言っているのだろう。
「とにかく、泣かないでください、セドリック。悲しいことなんて何もないんです。セドリックの笑顔が、わたしは大好きですよ」
ブリジットが笑ってみせると、セドリックも困ったように笑った。
今はまだ涙に濡れていても。きっといつか、笑顔を取り戻してくれる。
「さ、早く寝ないといけませんね」
「……はい。ブリジット様、おやすみなさい」
「おやすみなさい。いい夢を」
セドリックはペコリと頭を下げて部屋を出ていった。
はぁっと息を吐く。認めてしまえば楽なのに。どうして意地を張ってしまうのだろう。
コンコンとノック。
「セドリック? 忘れ物ですか?」
「私です」
「あ、アラン」
この家の侍従だった。
「夜分に失礼いたします」
「どうぞ。何かあったの?」
「ご実家からお手紙が来ておりましたので」
銀トレイに乗った手紙を手に取る。封筒の字は母のもの。
「ありがとう」
そう微笑んだ。
「坊ちゃまがいらっしゃっていたのですか?」
珍しい。普段は無駄な会話もないのに、アランから話しかけてくるとは。
「夜の闇は不安になるからね」
セドリックが泣いていたこともその理由も、きっと言わない方がいい。公爵に報告されるだろうから。これはセドリックの名誉を守るものだ。
「貴女様は、公爵家にとってかけがえのないお方でした」
「アラン……」
「……公爵様の決定は覆せません。ほんの一時でも、公爵家にいてくださって、ありがとうございました」
公爵家を支えるアランからの深々としたお辞儀。
「頭をあげて、アラン。わたしは何もしてないわ」
特別なことなんてなにもない。ただ自由に過ごしただけなのだ。
「貴女様なら、公爵様に光をくださると思っていたのですが……難しいものですね」
光。まただ。
『あなたの光で、照らしてあげて』
それは王妃の言葉だったか。
「わたしは、光でもなんでもないわ」
ブリジットの言葉に、アランはふっと笑った。
「それでは、失礼いたします」
「えぇ。おやすみなさい」
アランが出ていくと、ブリジットはベッドに腰掛けた。アランも王妃も、いったいブリジットに何を期待しているのだろう。
「あ、手紙……」
手に持っていた母からの手紙を開けてみる。
『愛するブリジット。苦労をかけてごめんなさい』
そんな一文から始まっていた。
婚約破棄され、公爵家に初めて来た日。公爵から伯爵家へ手紙が届けられたこと。その手紙には、ブリジットの名誉を回復し実家へ帰すことが目的であると綴られていたこと。それを信じて今まで待っていたこと。その約束を公爵が果たしてくれたことへの感激の言葉。
『お父様もあなたに謝りたいと仰っておられます。早く帰ってきて、抱きしめさせてちょうだい』
優しい母の言葉は身に染みる。
『それから、あなたの今後については、お父様と相談しました。ルシャーナ伯爵家のユリリアン卿があなたと結婚したいと仰ってくださっているの。素敵なお話ではないかしら』
幼なじみのように育った少年の名前。しばらく会っていないが、今も元気にしているようだ。
『その話もしなければ。とにかく、早く帰っていらっしゃいね。待っているわ』
まだ決定しているわけではなさそう。でも、きっと両親の中では決定しているのだろう。
ユリリアンは、悪い人ではない。一緒に遊んでいる時は楽しかったし、お互いにふざけあうような仲だ。結婚しても、きっと楽しく過ごしていける。
それはわかっているのに。心に引っかかる、小さな何か。
「……公爵様」
小さな声は、静かな闇の中に溶けた。