14 変わっていく未来
翌日、ブリジットは馬車に乗った。7日間の休みを終えた公爵とともに登城するためだ。
昨晩のことが忘れられない。一瞬だった。見間違いだったのだろうか。
目の前の顔は、やっぱりいつも通り厳しくて。気のせいだった、という思考を後押ししていく。しかし、確かにその脳裏には残っていて。
何が起きたのだろう。カメラがあれば、あの画面を録画して、何度でも見返したのに。そんな証拠がないから、現実とも夢とも言えないではないか。
ふと、公爵と目が合った。
(じっと見すぎたかしら……)
あわてて目を逸らす。馬車の窓の外は、城の門を潜るところだった。
「王妃殿下」
「挨拶はいいわ。さ、来てちょうだい」
王妃宮に通されてすぐ、王妃は楽しそうに手招きした。
「どうだったのかしら」
「王妃殿下のおかげで、公爵様に公子様のことを知っていただけました」
「そう。よかったわ」
「ありがとうございます」
まずはその礼を。
「それで?」
「え?」
何を求められているのだろう。
「えっと……」
必死に頭を働かせる。そのたびにちらつく昨晩の出来事は、一生懸命頭の隅に追いやって。
「公爵様は、公子様のお世話をされていました」
「あら、あのオディロンが? ふふ、見てみたかったわ」
コロコロと笑う王妃を見つめる。
「それで?」
「え?」
これではないのか。もう話すことはない気がする。
「あなたとオディロンのことよ」
それを察したらしい王妃が、じれったそうに言った。
「公爵様とわたしのこととは……?」
「少しはお互いのことがわかったのかしら」
「え、っと……」
つまり、恋愛的な話を求められているらしい。息子の元婚約者に聞く話だろうか。
「公爵様は、素敵なお方です。わたしなんて足元にも及ばないほどに」
隣に並ぶことなんておこがましい、と伝える。
「あら、このお休みの間もそう見えたかしら?」
王妃は全てを見透かしたように尋ねた。
「それは……」
7日間、彼はブリジットと同じ目線にいてくれた。最初は否定的だったのに、ブリジットに従ってくれた。その時は確かに、ブリジットの隣にいた。
「公爵様は……」
そう言葉を紡ぎ出したことで、片隅に追いやった記憶が頭の中を侵略する。
傷だらけの足に薬を塗ってくれたこと。子どもたちを自ら褒めたこと。ブリジットの頭上に感じた、ずっしりとした重みと温もり。そして、昨晩、薄暗い中で見えた公爵の笑顔。
「まぁ……」
王妃の声で、自分の頬に熱が集まっていることに気づいた。
「いいことがあったのね」
「そういうわけでは」
あわてて訂正する。
「いいのよ、隠さなくて」
王太子に婚約破棄された直後。これは王妃に失礼すぎる。そう思ったが、王妃は特に気にしていないように笑う。
「ブリジット」
「はい」
「あなた、本当に息子のことが好きじゃなかったのね」
「……え」
予想外の言葉だった。これはどう反応すれば正解だろう。
「それはそうよね。ドナシアンの一方的な一目惚れだったもの」
「そのような、ことは……」
「いいのよ。でも、息子が婚約破棄してくれてよかったわ。あなたを縛り付けることにならなくて」
確かに公爵との関係は、王太子に婚約破棄されたことで始まったものだった。
「あなたは、ドナシアンのため、王家のために、たくさんの時間を犠牲にしてくれた。その時間を取り返すことはできないけれど、これからは幸せになってほしいわ。娘のように思ってるの。本当よ」
「光栄です」
恭しくお辞儀をし、顔を上げた。
「ですが、王妃殿下。わたしは、今までの時間を不幸だとは思っていません」
「あら……」
「公子様のお勉強を見ているのです。それは、今までたくさんの時間をかけて勉強してきたおかげですから」
「……そうね」
王太子に振り回された時間は無駄だった。しかし、そのすべてが無駄だったわけではない。
「これまでの時間は、わたしがこれから幸せになるためのものだったのだと、思っています」
「……素敵な考え方ね」
王妃が目を細める。そして、ティーカップを置いた。
「ねぇ、ブリジット」
「はい」
「あなたになら、オディロンを任せられるわ」
「え……」
「オディロンを救ってあげて。あの人は、昔からずっと、暗い闇の中を歩いているの。あなたの光で、照らしてあげて」
それは王妃からの切実な願いだった。
仕事が終わった公爵とともに馬車で公爵家に帰る。王妃の言葉が引っかかって、寄り道する気にもなれなかった。
「おかえりなさいませ」
たくさんの使用人たちが出迎える玄関で、
「ブリジットさま!」
駆け寄ってくるジェレミーを受け止める。
「ただいま戻りました。いい子にできましたか?」
「はい!」
「いいお返事ですね」
よしよしと頭を撫でてあげれば、得意げな笑顔を見せる。
「あ!」
なにかを思い出したらしく、ジェレミーはパッと振り返り、父に駆け寄った。
「ちちうえ! ほん、ぜんぶよめました!」
父に褒めてもらいたい。その一心だったのだろう。
「そうか」
しかし、公爵はその前をふいっと通り過ぎた。昨日まで褒めていたのに。突然の変化に、ジェレミーも驚いている。
「ブリジット嬢」
「あ、はい」
公爵に呼ばれ、ハッと答えた。
「話がある」
「はい」
どうやら何かあったらしい。
「ブリジットさま……」
「大丈夫。よく頑張りましたね。あとで聞かせてくださいね」
褒めてもらえず悲しそうなジェレミーに微笑みかけ、ブリジットは公爵の後を追った。
セドリックが不安そうにその背中を見送っていた。
「公爵様」
そう呼びかける。
「貴女の冤罪が証明された」
「……っ」
息が止まるかと思った。
「経緯を聞かせてください」
これくらいの権利はあるだろう。当事者なのだから。
「アングラード子爵家が、令嬢を王太子妃にするために画策したものだった。証拠も証人もある」
ブリジットがリュディアーヌをいじめていないという証拠。
忘れていたわけではない。最初に言われた言葉。
『今回の件が冤罪だとはっきりすれば、この婚約は破棄される』
忘れていたわけではないのに。どうしてこんなにも、悲しいのだろう。
「……公爵様」
「始めに言ったはずだ。この婚約は形だけのもの。今後は」
(嫌だ!)
心の中のブリジットが、大声で叫ぶ。
(離れたくない。ここにいたい)
王太子妃として教育を受けてきた実家よりも、そこから解放された公爵家の方が、居心地がいいのは当たり前。これから伯爵家を変えていくことだってできるではないか。
それなのに、心の中の何かが、ここ以上に幸せな場所はないのだと訴える。
なぜ? わからない。その確かな証がない。これでは説明ができない。
「これはかん口令を敷いていない。ジェルヴェーズ伯爵家にも今頃話がいっているはずだ」
冤罪だとわかったいま、実家からの絶縁宣言もなかったことになる。実家に帰ることだってできる。
「明日、荷物をまとめて」
「いやです」
それ以上の言葉は聞きたくなかった。
(公爵様からは……聞きたくない……)
「公爵様、今まで通り、わたしをここに置いてください」
深く頭を下げる。婚約者としてじゃなくて、客人じゃなくて、下働きだっていい。公爵家にいたい。
「迷惑だ」
「……っ」
それは、残酷なまでにはっきりと耳に入った。
「この婚約は貴女から破棄すればいい」
(ひどい)
ブリジットの口から、彼を拒絶することなんて、できないのに。
(なぜ? どうしてできないの?)
その答えは、出てこない。まるで堅く蓋をしたように。
「公爵様」
すがりつくこともできない、令嬢として育てられたプライドが、邪魔をする。ここで涙を流して懇願すれば、公爵は許してくれるだろうか。
(いいえ、きっと無理よ)
彼はそんなに単純な人ではない。
「……失礼いたします」
ブリジットは公爵の部屋を出た。気分は重く沈んだままだった。