13 褒め言葉
それから毎日、ブリジットは公爵を育児に参加させた。公爵も断らずに付き合ってくれた。
ただ1つ、変わったことが。公爵と2人きりになった時、非常に落ち着かない。だから、子どもたちのほうに逃げた。
「ブリジットさま、おいかけっこしたいです!」
「いいですよ、ジェレミー。じゃあ、わたしが追いかけますね」
「きゃー!」
ジェレミーが楽しそうに逃げていく。
「セドリックも逃げてください」
「え? あ……」
テラスで本を開いていたセドリックも巻き込み、庭園を走り回った。きゃっきゃっと楽しそうに声をあげながら走り回る子どもに、ブリジットは癒される。
公爵からもらった薬を毎日塗っているおかげか、足に痛みは感じない。感じるのは、なぜかずっとブリジットを見ているらしい、公爵の視線だけ。
その視線にどんな意味が込められているか。なんて、きっと気にしてはいけない。何の意味もない。もしくは、ただ不思議なだけか。彼の辞書にある令嬢は、子どもたちと走り回らないだろうから。
「あ……っ」
「ジェレミー!」
ジェレミーが転んでしまった。あわてて駆け寄り、助け起こそうと手を差し出す。
「ジェレミー」
そこへ、テラスにいた公爵が呼びかけた。彼はシャルルを侍女に預け、歩み寄ってくる。
「ひとりで立ちなさい」
ジェレミーも第二公子として、この国を支えられる人間にならなければいけない。この程度で泣いて誰かの手を借りてはいけないのだ。
ブリジットはぐっと我慢し、公爵に任せることにした。ジェレミーは、泣き出しそうな顔をきゅっと引き締め、両手をついて立ち上がった。目にたまった涙を乱暴に振り払い、手をパンパンと叩く。
「ジェレミー!」
そこまでしてようやく、ブリジットが小さな身体を抱きしめた。
「偉いです! 泣かずに立てましたね! いい子です!」
「……っブリジットさま……」
痛みはあるだろうに、それをぐっとこらえた声。胸が痛む。
「ねぇ、公爵様。ジェレミーはいい子ですよね」
あわてて公爵を振り返り、褒めるように促す。
「あぁ」
公爵はそう頷き、すっと手を出した。そのゴツゴツとした手は、ジェレミーの頭にそっと添えられた。
「頑張ったな」
ブリジットが『褒める時は大袈裟に褒める』と教えたせいだろうか。そんな理由なんて、どうでもいい。公爵がジェレミーを褒めてくれた。この事実だけで、ブリジットは胸がいっぱいになる。
「次は気をつけなさい」
公爵はそう言って、ふいっと踵を返し、元の位置に戻っていった。
「……っはい!」
その背中に、ジェレミーは元気よく返事した。
「父上が……」
セドリックの驚いている声が聞こえた。
「公爵様は、変わろうとされているんです」
ブリジットが笑顔を向ける。
「とっても強くて、とっても優しくて、素敵なお父様ですね」
父親を褒めると、兄弟はお互いを見て、くすぐったそうに笑った。
「今日のクッキーは、わたしが焼きました!」
侍女たちとともにテラスに持っていって広げる。
「わぁー!」
ジェレミーが歓声を上げて手を伸ばす。その隣で、セドリックも笑顔で手を出した。
「シャルルは、もう少し大きくなってから食べましょうね」
「きゃーぅ!」
元気な返事に微笑み、ブリジットも椅子に座った。
「公爵様も、よかったらどうぞ」
「……あぁ」
そう一言告げて、ブリジットはティーカップを持つ。
「ちちうえ、ブリジットさまのクッキー、おいしいでしょ?」
ジェレミーの得意気な声に、微笑む。公爵がそれに答えるはずがないのに。まるで自慢するような声は、やっぱりかわいい。
「……あぁ」
「……!」
その瞬間、喉がヒュッと音を立てた。
幸い口に紅茶は含んでいなかった。あわててカップを離し、口元を押さえる。
「ブリジットさま?」
ダメだ。やっぱりおかしい。
「なん、でも、ないですよ」
不思議そうなジェレミーに笑ってみせる。笑顔は上手く作れる。なのに、ちょっと気を抜けば、表情が緩んでしまう。
紅茶をごくごくと飲み干すのに夢中で、気づかなかった。セドリックが、公爵とブリジットを交互に見ていたことに。
「公爵様」
そこへ、侍従が銀トレイを持ってきた。
「王宮よりお手紙が来ております」
銀トレイに乗せられた、1枚の手紙。公爵はそれを手に取り、さっと目を通す。仕事だろうか。やっぱり連休は無理だったのだろうか。
これまで5日。もう十分だ。彼は頑張ってくれた。これ以上を望むことなんてできない。ふと、公爵と目が合った。
「……?」
首をかしげる。すると、手紙が差し出された。
「わたしが見てもよろしいのですか?」
そう言って、受け取る。王妃からだった。2日後、公爵が王宮へ行く時に、ブリジットも一緒に来るように、と。また呼び出しか。
「返事は任せる」
「任せるって……王妃殿下のお呼び出しなのですから、参らないわけには……」
「そうか」
子どもたちと遊べないのは寂しいが、こればかりは仕方がない。一応は、筆頭公爵家、宰相の婚約者。王妃の話し相手くらいは務めなければいけないのだろう。
それに、公爵の連休を取り付けてくれたお礼も言わなければ。
「ジェレミー、あっちで遊ぼう」
セドリックが立ち上がった。
「あ、あにうえ、ちょっとまって」
おやつの時間は終わりらしい。ブリジットも手紙を返して子どもたちと遊ぶために立ち上がる。
「あ、ブリジット様はここにいてください」
「え?」
「ジェレミーと……シャルルと、遊んできます」
シャルルが乗った乳母車も連れていってしまう。
「どうしたのでしょう……」
そう言いながら椅子に座りなおして、気づいた。
公爵と2人きり。いや、厳密にはそばにたくさんの使用人がいるのだから、2人きりではないが。それでも、気まずい空気であることには変わりない。
「えっと……公爵様」
「……なんだ」
「王妃殿下のお呼び出し、どうされたんでしょうね」
「……ただの話し相手だろう」
公爵もそう思っているのか。そして、寡黙な公爵が相手では、会話も続かない。心臓の音だけがいやに耳に響く。
「つ、追加のクッキーを焼いてきます!」
そう立ち上がった瞬間、テーブルがガンッと音を立てた。
「あ……!」
グラグラと揺れるポットを抑える。ダメだ。バタバタと。令嬢らしくないと言われても仕方がない。
はぁっと心の中でため息をこぼした瞬間。頭の上に温もりを感じた。
「落ち着きなさい」
公爵の手だった。それを認識した瞬間、一気に顔に熱が集中する。
(ダメ!)
あわてて顔をそむけた。
「こっ、子ども扱いはやめてください!」
そう言って、その場から離れた。
「奥様!」
ヴィヴィが駆け寄ってくる。廊下の壁に背中を寄せ、両手を組み合わせてため息を包んだ。
「奥様……?」
(もう、大丈夫)
訝し気なヴィヴィに、ふっと微笑んでみせた。
「なんでもないわ。行きましょうか」
(大丈夫、大丈夫)
そう言い聞かせる心は、どうしようもなく揺らいでいた。
「よく寝ていますね」
公爵の連休の最終日。子どもたちを寝かしつけたブリジットは、公爵とともに、そっと子ども部屋を後にした。
「公爵様」
廊下に出て、公爵に向き直る。
「せっかくのお休みを奪ってしまい、申し訳ございませんでした」
「……今さらか」
公爵の声は、どこか呆れている。
「公爵様に公子様たちのことを知ってほしかったんです」
公爵が思うよりずっと、子どもたちは成長していることを。
「年齢的には少し早いが、セドリックもジェレミーも、社交界に出せるだろう」
「はい」
それがわかってくれたなら、十分な成果だ。
「……君のおかげだ」
ハッと顔を上げた。ふっとわずかに、本当にわずかに緩んだ、公爵の表情。
「……有益な休みだった」
公爵はそう言って、踵を返し、部屋に戻っていった。
「……え……?」
突然のことに、頭が処理しきれない。
ブリジットはその場で固まってしまった。