第八話
星花女子学園ソフトボール部の二遊間コンビ、吉川さくらと加瀬みりなは二人きりになれる場所を探していたところ、ちょうどおあつらえ向きに岩場があった。
「裏に回ろっか」
「うん」
さくらはみりなの手を引く。恋人どうし。人気がない岩陰。二人が今からやろうとしていることは誰でも想像がつく。お互い海水で濡れそぼった体を見てその気になっていた。
が。
「「っ!!」」
人気はなかったはずなのに、人がいた。
中尾翠がスクール水着姿で、大海原に向かって瞑目しながらバットを構えていたのだ。
「こ、こんなとこで何してんの中尾!?」
さくらに対して、翠はボソッと答えた。
「臍下丹田」
「は?」
「臍下丹田と地球を繋ぐ鍛錬を」
セイカタンデンって何よ、とみりなが苛立たしげに聞くと、
「宇宙」
「は?」
「私たちの体の中にも宇宙がある。その中心こそが臍下丹田。宇宙と地球が結びついたとき、時間と空間というものはなくなり――」
さくらとみりなは逃げ出すようにして去っていった。
*
三本のフラッグを巡って「姉妹」とダブルエースが争おうとしている。
「下手しない限りは私たちが決勝に進めると思う。先輩たちはそんなに足が速くないし」
「でも気をつけてくださいお姉さま。二人のタヌキとキツネぶりは侮れませんよ」
ずる賢い、と言いたいようだが、見た目もなんとなくタヌキとキツネに見えてきた。さしずめタレ目気味の麗がタヌキ、ツリ目気味の忍がキツネといったところか。
「位置についてくださーい」
企画委員が呼びかけてきたので、一列に並んだ。フラッグ側から見て忍、千宙、麗、千佳という並びで、今度は千宙が挟まれてしまった。
忍が声をかけてくる。
「おい根積、お前よく見ると可愛い顔してんな」
「おっと東先輩、私を甘い言葉でたぶらかそうたってそうはいきませんからね。草薙先輩もですよ」
「やれやれ、可愛げがないね」
麗が呆れる。
「どうやら、本気を出さないとダメだな。覚悟しとけよ?」
威嚇的な笑みを浮かべる忍。しかし千宙はたじろがない。普通に走れば勝てる自信があるからだ。
四人がうつ伏せになると、「よーい!」の号令がかかった。
続いてホイッスルが鳴った。千宙は立ち上がって駆け出そうとした瞬間、褐色の肉体の壁が現れた。
「うえっ!?」
足は千宙の方が早い。しかし反射神経は忍が優れていた。ホイッスルが鳴ってから立ち上がるまでの動作は忍が速く、千宙より先に踏み出して、彼女の進路を塞いだのである。
千宙は左に避けようとした。そこにも壁があった。麗だ。
「しまった! やられたー!」
二人がかりのブロックで走路を塞がれ、加速をつけ損ねた千宙。二人の先輩は最大速まで加速している。千佳が先にフラッグを奪い、残り三人はもつれ合う形で滑り込み、砂が舞い上がった。
残り二本のフラッグは、忍と麗が手にしていた。
「うああ、最悪だー……先輩たちに足で負けるなんて……」
ぺたんと座り込んで落ち込む千宙に、忍がトドメを指す。
「所詮、ここが物を言うんだよ。あははは」
頭を指で突っつく仕草をされた。テストの順位三桁台常連の千宙には堪える挑発だ。
「あああっ、ぐやじいいい!!」
「お姉さま、気を落とさないでください。お姉さまのおかげで攻略法はわかりました」
千佳が手を握ってきた。
「盗塁と同じでスタートが一番重要なんですよ。お姉さまの仇は私が取ってみせます!」
「おおっ、何だか頼もしい……よしっ、ちかちーに全てを託す! 頑張って!」
お姉さまの激励を受けて、千佳は意気揚々と準決勝に臨む。案の定、二人の先輩は千佳をサンドイッチした。
「お二方。わたしにはお姉さまがおりますので」
「ふっ、何を勘違いしてるんだい?」
「悪いがガキに興味はねえ」
麗と忍は小馬鹿にしたような憎たらしい顔つきになったが、千佳は黙ってうつ伏せになった。
「ちかちー! 集中して集中!」
千宙は体育座りで声援を送るが、まるでベンチにいるかのようである。
「よーい!」
ホイッスルが鳴った瞬間。千佳は二人の先輩よりも先んじて立ち上がり、反転していた。
砂塵を巻き上げて驀進し、フラッグめがけてヘッドスライディング。盗塁であればゆうゆうセーフといったところである。
千佳はフラッグを掲げて千宙に勝利をアピールした。
「お姉さま! やりました!」
「ちかちーナイスラン!」
ハイタッチで讃える千宙。もう一本のフラッグは麗が手にしていた。
「さすがにまともにやりあったら負けちゃうな。忍ごめん、こりゃ無理かもしんない」
「いや、まだ策はある」
「策?」
忍が耳打ちすると、「君は本当に悪い子だねえ」と笑った。
「それでは最後の競技です! 位置について!」
フラッグはたった一本。スタートを決められたら九割九分千佳が勝つ。
「さあ集中だよ、集中!」
「相変わらずいい声してんな」
いつの間にか忍が千宙の隣に座っていた。
「悪いけど、ちかちーが勝ちますよ」
「そいつはどうかな?」
よーい! と号令が下った途端、首と頬に生暖かい感触が走った。
忍が肌を寄せてきたのだ。
「なっ、ななな何すんですか東先輩!!」
「ククッ、良い反応だな」
忍に頬を撫でられ、固まってしまった。後輩には厳しめの忍が急にスキンシップをしてきたものだから、逆に不快感を覚えた。もしも千宙が忍のことをよく知らない一般生徒であったなら身悶えしていたかもしれないが。
ホイッスルが鳴ると、忍が叫んだ。
「おい八尋ー! こっち見ろー!」
立ち上がった千佳がこちらを見るやカッ、と目を見開き、たちまち恐ろしい形相に変わった。例えるなら般若のお面のようである。
千佳は走りださなかった。そのかわり、般若の表情でゆっくりと詰め寄ってきた。
「東先輩? お姉さまに何をしているんです……?」
「ハハハッ! お前、試合のとき以上に気合入ってんな。おい麗、今のうちだ」
「ああっ、ちかちー! ちかちー! 何してんの! 私に構わず走って!」
千佳は走りだした。忍めがけて。「違うってー!!」という千宙の嘆きは耳に届いていない。
「おっと、じゃあな!」
忍はギャラリーの間を塗って逃げ出し、海に飛び込んだ。
「何してくれてんですかこの泥棒ギツネ!! 待てええ!!」
千佳も飛び込んで、クロールで追いかけた。しかし彼女は水泳を習っていたはずなのに、忍にどんどん突き放されていく。かつて忍から幼少期にいろんなスポーツをやっていたと自慢話を聞かされたことを思い出したが、その中に水泳も入っていたのだろう。
「いや、何してくれてんですかはこっちのセリフだっつーの……」
虚脱状態の千宙の肩を、麗がぽんと叩く。
「いい妹じゃない。皮肉じゃないよ」
そう言う麗の手にはちゃっかりフラッグが握られていた。