第二話
「球走ってるよー!」
「食らいつけー!」
八月の太陽が燃え盛り、灼熱に包まれているグラウンドに大きな声が響き渡る。
「私たちがいた頃に比べて賑やかになりましたね」
三石こよりは金網越しにグラウンドの中の様子を見ながら、高校時代の恩師、菅野逸枝に話しかけた。
「三石さんが入学した年には三学年で10人しかいなかったものね。常にギリギリの人数だったから一人でも怪我をしないよう気を遣ってたものよ」
「それが今や中等部含めて40人以上ですもんね。しかも高三が抜けてこの人数でしょう? 凄いなあ」
凄いでしょう、ともう一人、坂崎いぶきがこよりに同調した。
「私の世代はそこそこ人数いましたけど、何といっても一個下の活躍が大きいですよ」
「有原さん、加治屋さん、千田さん、頼藤さん、日置さん、そして下村さん。マネージャーの美波さんも含めて『七人の侍』って呼んでたもんね」
「そうそう!」
かつては元気の良さだけが取り柄だった星花女子学園ソフトボール部。しかし下村紀香という伝説的スラッガーを迎えてから強さを伴うようになり、彼女が主将となった昨年はついにインターハイ出場の切符を手にした。紀香だけではなく、エースピッチャーの有原はじめと第二エースの日置マリ、強肩で唸らせた外野手の千田彩芽、変化球打ちの名手頼藤花子の活躍があり、美波奏乃が裏方として支えていたからこその躍進である。無論、紀香世代の下級生たちも先輩に負けじと獅子奮迅の活躍を見せたことも忘れてはならないが、強烈な印象を残したのはやはり紀香世代の面々だ。
三石こよりはまだ弱かった頃に主将を務めていたソフトボール部OGである。彼女が今日学園に顔を出したのは、恩師に就職内定を貰ったと報告するついでに後輩たちに差し入れを持ってきたからだ。
少し前までのソフトボール部は高等部限定の部活で入部希望者も少なく、先ほど菅野教諭が言ったように、こよりが一年生の折は三学年で10人というありさまで、三年生が引退すると当然人数不足となり試合ができなくなった。それに比べれば今の盛況ぶりは隔世の感がある。
現在のソフトボール部は中等部生も入部が認められている。紀香が三年生の年、つまり昨年に中等部生の入部希望者が出たことがきっかけで中等部生にも入部許可が下りた。現在は一、ニ年生合わせて15名が在籍している。
紅白戦は早いテンポで進みすでに4回に突入しているが、まだ両チームともヒットが出ていない。紅チームは高等部二年の東忍、白チームは同じく高等部二年の草薙麗が投手を務めている。
「二枚看板、噂に聞いてましたけどなかなか素晴らしいですね」
「でしょ? コーチの指導の賜物よ」
「あれ、いぶきってピッチングも教えられたっけ?」
「違いますよ。別のコーチです。今白軍を率いている田辺小雪さんって方です」
部員の数が増えるにつれて、チームスタッフの数も増えた。いぶきは卒業と同時にコーチに就任し、天寿アパレル部門勤務の傍らでの指導にあたっている。田辺小雪は今年からコーチに就任したが、彼女は星花OGではなく大阪の府立高校出身である。一年生の頃からエースを務めており、実業団からの誘いもあった程の実力の持ち主だ。
「それなのにどうして実業団に行かなかったの?」
「三年のインターハイ予選前に交通事故にあって、腕に障害が残ってしまったんです」
「えっ、てことは、選手生命を絶たれちゃったってことか……」
「それからまあ、いろいろあって星花と縁ができたんですけどね」
紅軍の一番打者が、麗のドロップで三振した。
「この変化量、エグイよね」
「小雪さんが得意としていた決め球ですから。おかげで草薙は化けましたよ」
「投げられなくなっても、魂は伝わったんだなあ」
こよりが感慨に耽る中、紅軍側ベンチから「よう見てけよー!!」という、関西弁イントネーションの大声がした。しかも乙女の園に似つかわぬ野太さだ。
声の主の恰好も、ベンチの中で明らかに浮いていた。身内の紅白戦ゆえにユニフォーム着用義務はないとはいえ、着ているのはポロシャツに短パンと超ラフな格好で、何よりも強面の坊主頭が威圧感を放っている。
こよりは菅野教諭に聞こえないよう、いぶきに耳打ちした。
「あの坊主の人さっきから気になるんだけど……一応確認するけど、男だよね?」
「そうですよ」
「いぶきちゃん男嫌いなのに大丈夫なの? 一緒に仕事して」
「一応、向こうは副顧問ですからどうこう言える立場じゃないんで」
いぶきも耳打ちした。大丈夫、とは言わなかったことに引っかかりを覚える。
「副顧問ってことは先生だよね。でも、うちにあんないかつい先生いたっけ?」
「だって今年赴任してきたばかりですもん。ちなみに小雪さんの旦那さんです」
「ええっ!? あの人、小雪さんの夫なの!? 小雪さんの方は見た目私と同い年ぐらいなのに、あっちは結構なオッサンじゃない……?」
「旦那さん、実は小雪さんと同じ高校でソフトボール部の監督やってて……」
「つまり……教え子と結婚しちゃったってこと!?」
「はい、娘さんもいます」
「ほえー……」
「まあ、いろいろあって夫婦でソフトボール部に関わるようになったんですよ。あ、今ちょうどバッターボックスに入りますよ。例の子が」
それ以上聞いてくるな、と暗に言っている気がしたので、こよりは黙って試合を見ることにした。
二番打者も三振に倒れて三番のところで代打として左打席に立ったのは、ユニフォームナンバー1を背負う中尾翠。
「予選で七割打った子よね。一年生からクリーンアップ打って」
「そう、下村と同じ推薦入試からの菊花寮組ですよ。中学時代にU15代表に選ばれた経験もあります」
内角に食らい込んでいくスライダーだった。普通なら引っかけてゴロを打たされるところを、中尾翠はうまく肘を畳んで芯で捉えた。打球はライナーで右中間に飛び、200フィート(60.96m)地点に設置された簡易フェンスに直撃。楽々のスタンディングダブルだ。
「え、あれ打っちゃうの!?」
「上手いでしょ? 下村だったらフェンスの向こうまで持って行ったでしょうけど、中尾の方がミート力は上ですね。それに足もあるし守備も良い。下村を超えるかもしれない逸材です」
横で聞いていた菅野教諭が得意げな笑みを見せた。
「中尾さんだけじゃないわ。主軸の二年生たちは粒ぞろいだし、下の子も良い素質を持っている子ばかり。ソフトボール部の黄金時代が来たかもよ」
「黄金時代……」
その一言にこよりは感激を覚えた。「大した実績もないのに予算だけ食う」と影口を叩かれていた頃はもう昔のことなのだ。
涙が出そうになり必死に堪えていたところで、グラウンドの空気が一変する。四番の谷木弓月。新主将の彼女は170cm90kgの巨体を持つ捕手だが、チーム一のパワーを持つ強打者だ。
しかし麗は、初球から弓月の背中にぶつけてしまった。一塁に歩こうとしたところで、弓月が急に怒鳴り出した。
「おい、帽子取れ!!」
ぶつけても謝ろうとしない麗に対して怒りを爆発させる。麗は帽子を取ったが、舌を突き出すという余計なことをして火に油を注いだ。
「お前わざとか? わざとぶつけたんかコラ!?」
「違うよ! 『やっちゃったな』ってことだよ!」
麗は両手を挙げて釈明する。弓月は睨みつけながら、白軍捕手になだめられながらゆっくり一塁に歩く。両軍ベンチからは「さっさと一塁行けよ!」だの「当てといて何だよそれ!」だの、殺伐とした野次が飛び交う。仮にもお嬢様学校の生徒たちが汚い野次を飛ばしていることに、こよりはドン引きしていた。
「何だか、私たちがいた頃とチームの空気がだいぶ変わりましたね……」
そうオブラートに包んで恩師に言ったが、「このぐらい元気が無いとねえ」と気にかける様子がない。
「下村が何人もいるようなもんだから大変ですよ」
いぶきは苦笑いを浮かべた。どうやら下村紀香はチームにいろんな面で影響を与えたようだ。黄金時代への期待感とともに不安感も募りだしたこよりであった。
*
死球のせいで殺気立つ空気が流れる中、紅軍を率いる副顧問の田辺大輔がゆっくりとベンチから立ち上がった。
「何や盛り上がっとるけど、ここで仕掛けるかのう。根積! 八尋!」
「「はいっ!!」」
「代走や。根積は中尾、八尋は谷木と交代じゃ。行ってこい!」
「「はいっ!!」」
ユニフォームナンバー40をつけた根積千宙。同じく88をつけた八尋千佳。二人はヘルメットをかぶり、それぞれ指示されたベースに向かった。