第十九話
小森亜矢が右打席に入る。巨体のおかげでバットが小さく見えて何か不格好だが、パツパツのユニフォームが鋼のような肉体を誇示して威圧感を漂わせている。だがそれは東忍には何の脅しにもならない。
それどころか脅しをかけた。投じた初球が亜矢の胸元を突き、巨体をのけぞらせた。忍は時折、このようにわざと相手打者にぶつけても構わないとばかりに内角を突く。お嬢様学校のソフトボール部員とは思えない所業である。
しかし亜矢は笑いながら「ひえー、速いなあ」と漏らすだけで、全く効いていないようであった。
「なんだこいつヘラヘラしやがって。もう一丁かましてやろうか?」
弓月はミットを外角に構えていたが、無視して二球目を内角に投げ込んだ。
亜矢は、今度はのけぞらなかった。腕を窮屈に折りたたんで振り抜き、バットの根本に強引に当てた。体に当たりかねないコースに投じられた豪速球を無理やり当てたのはある意味では巧いバッティングだが、バットからは聞いたこともない鈍い音がした。
打球がフラフラとレフト方向に上がる。亜矢は「やってしまった」と言わんばかりの苦い表情でとにかく走る。
久能佐季がゆっくりと落下点に向かうが、打球がなかなか落ちてこない。
「え!?」
佐季の体はいつしか簡易フェンスに張り付いていた。ボールがようやく落ちてきて佐季がジャンプするが、ボールはグローブの少し上を通過。そのままポトンと落ちてしまった。
この一瞬だけ、観客たちの声がピタリと止んだ。沈黙を破ったのは三塁側のベンチからだった。
「ハハッ、入っちまった……」
亜矢は照れくさそうにしながら、スピードを落としてダイヤモンドを一周した。ローデスが「信じられナーイ!」とお手上げポーズをして出迎え、ハイタッチを交わす。
一方の忍はまだレフト方向を呆然と見ていた。弓月が駆け寄って声をかける。
「気にすんな、ありゃ事故と一緒だ、仕方ない。切り替えていけ」
「わかったよ」
とは口で言いつつも動揺しているのかコントロールが定まらず、三番四番と続けて四球で歩かせてしまった。
「打たせていいよー!」
千宙が懸命に声援を送る。忍の耳に届いているかどうかはわからないが、五番打者に対してはポンポンとツーストライクまで追い込んだ。
弓月が一球外すつもりで外角に構えたが、真ん中に失投してしまった。名門校のクリーンアップは見逃さない。
「しまっ……」
打球が右中間に飛んでいく。長打コース必至だったが、そうはならなかった。
センターの中尾翠が飛びついて捕球したのである。
審判が二つ目のアウトを宣告すると同時に、二塁目掛けて送球した。レーザービームという例えがぴったりの直線軌道を描き、ベースカバーに入った吉野さくにのグローブに収まった。打球が抜けると思い込んで飛び出していた二塁ランナーは戻れず、三つ目のアウトが宣告された。
地鳴りが起きんばかりの大声援がグラウンドを包んだ。
「やるなお前! 助かったぜ!」
忍が翠とグラブタッチを交わすが、翠は浮かない顔をしていた。
「どうした?」
「すみません、打球判断を少し誤りました。もっと楽にアウトにできていたはずです」
「んなこと気にすんなよ。おかげで二塁ランナー飛び出してくれたんだからよ」
忍が頭を撫でるが、翠の表情は変わらない。しかしそのとき、千佳がにわかに震えた。
「うわ、何だか殺気が……」
「しっ、見ちゃダメだよちかちー」
千宙たちの後ろで、草薙麗が恐ろしい目つきで忍と翠を睨みつけていた。理由は今の身体接触であることは明らかだった。忍は察してか麗にハイタッチした後に頬を撫でてなだめにかかるが、翠の方は全く意に介していなかった。
「中尾先輩、言っちゃ悪いけどロボットみたいですね。りんりん学校のときは変な顔してましたけど」
「まあ、そういう性格だから仕方ないよ」
「それが悪い方向に出なきゃいいんですけどね……」
攻守入れ替わって、今度は山吹色のナインが守備位置に就く。ピッチャーズサークルではひときわ小柄な大久保朱里が投球練習を行うが、忍よりも球速がかなり遅い。自分でも打てそうだと千宙は一瞬思ったが、名門校の主将を務めるほどなので実力はあるはずだ。
朱里は右投げなので、先頭打者の久能佐季は左打席に入った。
「プレイ!」
第一球は見逃し。外角の直球でストライクが取られる。
新チーム結成以降、練習試合での佐季の出塁率は六割を超えている。選球眼の良さがウリで、彼女が塁に出ると姉もしくは妹の佑季がすかさず得点圏に送り、クリーンアップで返すのが攻撃パターンだ。
朱里のコントロールは良くクサいところをついてくるが、ツーボールとボールカウントが先行する。
バッテイングカウントで迎えた四球目だった。
「おっ!?」
全く同じ投球フォームで投じられたが、ボールはふんわりとした速度でストライクゾーンを通過した。そして次の球は速球だったが、佐季はタイミングが合わず三振してしまった。
「あのチェンジアップ、有原先輩よりエグいな」
いつの間にか千宙の隣に座っていた麗が、昨年ソフトボール部をインターハイに導いたエース投手の名前を出した。
「有原先輩のはベース手前で止まりそうなぐらいだって聞いたことがあります。私は対戦したことがないんでわからないんですけど」
「そう。僕もマスターしようとしたんだけど、どうしても有原先輩みたいに投げられなかった。本人しかわからないコツがあるんだろう。だけどこの大久保って子、ブレーキの効き具合が半端じゃないしフォームが全く一緒だからかなり厄介だな」
佑季はセカンドフライを打ち上げた。
「チェンジアップが効いているせいで豪速球に見えてるんじゃないか。君だと多分打てないだろうな」
そう言われてしまったが、事実、自分の打撃技術では大久保朱里に叶いそうになかった。
しかし中尾翠はどうだろうか。
まったく無駄の無い構えで対峙する翠。フルカウントまで粘り、六球目が投じられた。チェンジアップだ。
内角低めの難しいコースだったが、翠は見事真芯で捉えた。痛烈な打球がライナーとなってライト方向に飛んでいく。
「やった!」
千宙が叫んだが、右翼手は微動だにしないままグラブを構えてライナー性の打球を捕球した。当たりが良すぎて打球が野手の真正面に飛んでいくのはよくあるハードラックだ。それでも朱里の表情は面食らったようになっていた。自信のある一球だったのだろう。
「中尾さんドンマイ!」
千宙が声をかけたら、翠がニタァと笑ったのでベンチの空気が凍り出した。その顔のままで誰とも話すことなく守備位置に散っていく。
「うーん、中尾さんの考えてることがよくわからない……」
「まあ、結果はともかく本人的には満足だったんでしょうか」
千宙と千佳はそれ以上、翠のことを話さなかった。