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第十六話

 八尋千佳の家庭環境は複雑である。一応の実家は母方の祖父母の家ということになっているが、母親は千佳が小学六年生に上がった直後にガンで早逝している。


 遺された父親は元々快活な性格であり、千佳に野球を教えたのも彼であった。だが妻の死後に精神が不安定になっていき、異常な言動が目立つようになった。


 最初は父親が一番辛いのだと自分に言い聞かせて耐えていたが、やがて父親は周囲の人間関係にも支障をきたすほどになり、とうとう職場で上司と喧嘩沙汰を起こした。その際に父親は職場にあったカッターナイフで上司に斬りかかり、取り押さえられて警察に引き渡された。けが人が出なかったことが不幸中の幸いであったが、代わりに千佳の心に消えない傷跡がつけられてしまった。


 父親は刑事責任を問われなかったが、入院させられることになった。千佳の辛い日々はここから始まった。母方の祖父母に引き取られることになったものの、父親が起こした事件の顛末は祖父母の近隣にも伝わっており、一家に対する陰口は後を絶たなかった。祖父母も千佳のことを厄介者扱いしはじめ、会話もなくなっていった。


 所属していた少年野球チームでは、監督がメンバーや保護者に千佳の境遇の辛さを伝えていたこともあり、偏見に晒されることはなかった。千佳にとって野球が唯一の居場所となっていたが、ある日の試合、相手チームに千佳を知っている者がおり、父親の侮蔑的なヤジを飛ばしてきたことがあった。


 試合中にも関わらず監督は激怒して相手のベンチまで怒鳴り込みにいき、ヤジを飛ばした張本人に謝罪させた。しかし後日、相手チームが暴力行為を受けたと協会に提訴したのである。監督は弁明したものの聞き入れられず、活動停止を言い渡された。


 同情的だったチームメイトは露骨に手のひらを返して千佳を責め立て、耐えかねた千佳は引退を前にしてチームを去らざるを得なくなった。


 周囲に味方はいなくなり、家にも居づらくなり、こうして千佳は誰も知らない、遠い場所の中学校に入ることに決めた。


 話を聞き終えた頃には、千宙も初夏ももらい泣きしていた。


「すみません、せっかくの楽しい時間を台無しにしてしまいました……」

「いいんだよ、辛いときは泣いちゃっても。私にはこれしかできないけど……」


 千宙は涙声で言うと、千佳の隣に座って胸を貸し、頭を撫でた。


「うう、お姉さま……」

「うん、よしよし」

「アッ、チヒロチャン! オンナノコナイテルドシタノ!」


 隣からまたフックが声をかけてきた。


「ビールノンデゲンキダソウ!」

「飲まない!!」


 千宙がつい怒鳴ると、フックは「ゴメン!」と謝り倒し、フックの同僚たちもやめとけ、とたしなめながら元の席に座らせた。


「ちかちーごめんね、フックさんは悪い人じゃないんだ。ちょっと空気読めない人なだけで」

「ふふっ」


 さっきまで泣いていた千佳がかすかな笑い声を上げた。


「フックさん面白いですね。おかげでちょっと落ち着きました」

「ほんとに大丈夫? とりあえず顔洗いに行こう」


 千宙は千佳をトイレに連れ出した。途中でバイトの店員複数人が料理を運んでいるところに出くわし、気になったので声をかけた。


「結構量が多いですね。団体さんが来てるんですか?」

「うん、中学か高校か知らないけど、どっかの学校が来てくれたみたいで」


 くし友は居酒屋ではあるが、食事だけの利用も歓迎している。ただし中高の団体客で食事だけというのは珍しいケースだ。詳しくは後で父親に聞いてみることにして、女子トイレに入ろうとしたら、ドアが開いた。


 あっ! と三人分の驚きの声が同時に発せられた。千宙と千佳、そしてもう一人は星花祭で出会った、体格の良すぎるポニーテールの女子高生であった。ブレザーではなくジャージ姿だが、見間違いようがない。


「うわ、偶然だなあ。君たちも串焼きを食べに来たのかい?」

「いえ、ここ私の実家なんですけど」

「マジ!? 偶然すぎるなあ」


 目を丸くしているポニーテールに、千佳が恐る恐る尋ねた。


「あ、あの、九段女学院ソフトボール部の方ですよね?」

「そうだよ。あれ、もしかすると君たちは星花女子のソフトボール部?」

「そうです。わたしは八尋といいます。中等部二年です」

「同じく根積です。高一です」

「八尋さんに根積さんか……うん、やひろ……?」


 ポニーテールの目がいっそう丸くなり、「うあああっ!!」と絶叫した。


「どっ、どうされました?」

「やっ、八尋さん!? ほら私! 覚えてる!?」


 ギラギラした眼光で見つめられた千佳はたじろいだ。八尋という苗字に強く反応したことで顔見知りである可能性が一気に高まったが、千佳の記憶からは完全に欠落しているようだった。


「すみません、どこかでお会いしましたっけ……?」

「ええーっ!? ほっ、ほらっ! 公園のベンチで……」

「……ええーっ!?」


 千佳が口を抑えた。思い出したようである。


「あの、小森さん……!?」

「そう! 小森亜矢!」


 まるで時間が止まったかのように、お互い固まってしまった。


「ちかちー? この人は一体……?」

「おっと、便所の前で立ち話すると迷惑がかかるな。ちょっと時間貰えるかい?」


 亜矢が手招きした。

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