犬と少女
山の中を流れる川に沿って、僕は走っている。
必死になって、走っていた——。
君は覚えているかい?
——覚えているはずはないか。
君を初めて見たのはあの事故の時。
確かに信号は青だった。
僕でも青信号は分かる。それなのに車は止まらなかった。
いち早く飛び出した君を助けるために、僕のご主人様は飛び出して、二人とも跳ね飛ばされた。君はご主人様にかばわれたから助かったけれど、ご主人様は死んだ——。
『コロ』と、僕の名前を呼ぶあの優しい声を、二度と聞くことが出来なくなった。
それから僕はご主人様の知り合いに預けられて二年間過ごしたけれど、散歩に連れて行ってくれたのは最初の一ヶ月だけ。ご主人様を想って鳴いていたら叩かれ、おしっこやうんちを我慢できずにしてしまったら叩かれた。
ご主人様に会いたい——。あの優しく大きな手で、いっぱい頭を撫でてもらいたかった……。
結局僕は、首輪が緩んでいた時に逃げ出して、ご主人様と過ごした場所を探したけれど見つからず、保健所の人間たちに捕まった。
保健所にいる他のみんなは怯えていた。虚ろな目をして、怖がっている。処分されるから。僕たち〈犬〉だってそれくらい分かる。
新しい飼い主が見つからなければ、殺される。
僕は人間の言葉は喋れないけれど、言ってる事ぐらいは分かるし感情もある。
「いくらでも生まれて、いくらでも替えがいる俺たちは、簡単に捨てられるんだよ」と、上の檻に入っているシュナウザーが言った。
「君みたいな雑種で大きな犬は、人間は見向きもしないよ」と、隣の檻のチワワが僕に言った。
僕たちはそういうものなのだろう……。
それでも——。
それから三日後、運良く、僕は新しい飼い主が見つかった。
新しい飼い主。
僕はそれが君だと、匂いですぐに分かった。あの時とは違って、車椅子に座っていたけれど、僕のご主人様に助けられた少女だって。
とても驚いた。憎んでいた君に、また会うなんて——。
信号が青だったとはいえ、僕は君を許せなかった。それなのに、いくら吠えても、噛みつこうとしても、君は僕を引き取ったんだ。
そして偶然にも君は、僕を『コロ』と名づけた。
それから三年、現在まで、なつかない僕を君はいつも優しくしてくれて、毎日散歩に連れて行ってくれた。僕は嫌がったのに、唸ったのに、君は小さい手で、いっぱい撫でてくれた。気持ちが和らいで、懐かしい気持ちで満たされた、でも——やっぱり違うんだ。
僕はまだ小さい時にご主人様と奥様の家族になり、『コロ』と名付けられた。
子供の代わりなんだと言っていた。
奥様が死んでしまってからは、二人きりになってしまったけれど、一緒に過ごした二年間。同じコースで同じ景色の散歩道だったけれど、かけがえのない時間だった——。
それを奪った人間を僕は許さない。
君たちのせいでご主人様は死んだ。
それを——、
君は覚えているかい?
それなのに、それなのになんで、今、僕は走ってるんだ? なんで追っているんだ? ほっとけば良いのに。
川に落ちて流されたあの少女を、見捨てたって良いのに。
山にキャンプに来て、タイヤの太い車椅子に乗り換えたけれど、川辺で少女の弟がブレーキをかけ忘れて、少女とそれを追いかけた弟が川に落ちた。
弟はお父さんに助けられたけれど、少女はそのまま流されてしまった。
少女は水に浮く服を着ているから沈みはしないけれど、人間たちは誰も追いついて来ない。
「コロちゃん!」「コロちゃ……助けて!」と、途切れ途切れに少女が僕を呼んでいる。
——少女が岩にぶつかり跳ねた——。
服が流されていく。
水に浮く服だけが流されていく。
少女は? いない! 沈んだ?
「コロ!」
! 僕を急き立てたこの声は——。
少女の声じゃない!
——ご主人様! あの頃のご主人様が水面の上に立っていた。
僕は瞬間、川に飛び込んでいた。
川岸で、少女はゴホゴホと咳き込みながら、顔をくしゃくしゃにしながら泣いている。
しがみつかれて動きにくかったけれど、助けることが出来た。
「コロ、コロちゃん。ありがとう。今度は、コロちゃんに助けられたね」
え?
その時少女が何を言っているのか、僕には分からなかったけれど、すぐにそれを知る事になる。
数日後、僕は知らない家に連れてこられた。
僕は悪い子だったから、また違う家に預けられるのかな? と考えている間に、家の中に通されると、どこかで嗅いだ事のある懐かしい匂いがした。
部屋に入ると見覚えのある箱。横には大きな写真があった。
写真の中には、大好きだったご主人様と、少ししか一緒じゃなかったけれど奥様。そして小さい頃の僕?
少女は祈りを終えると僕の方を振り向き「もう三年も前の話だけど、私はコロちゃんの事ずっと探してたんだよ」と話し始めた。
「あの事故の時に、意識がなくなる前に見た光景が、倒れてるおじさんの顔を一生懸命に、尻尾をふりながら舐めているコロちゃんだった。それでね、退院してすぐにパパとママに、引き取りたいってお願いしたの……おじさんが死んじゃって、コロちゃんが一人になっちゃったって聞いたから。でも、知り合いのお家に引き取られたから、って言われて諦めたんだ……」
僕の頭を撫でながら、少女は話し続ける。
「月命日にいつも、おじさんの妹さんの、このお家にお線香をあげに来ていたんだけどね、コロちゃんがその家から逃げた事を聞いたんだ。その家の人は、コロちゃんを探さないって言ってたみたい……だから、それから毎日、パパに近くの保健所に連れてってもらったの。何回目だろう? コロちゃんをみつけたのは——おじさんとコロちゃんは私の命の恩人だもん。これからいっぱい恩返しさせてね。コロちゃんに言ってもわからないかな」
僕は人間の言葉は喋れないけれど、言ってる事ぐらいは分かるし感情もある。
僕は初めて、お姉ちゃんの膝の上に飛び乗り、尻尾をふりながら顔をいっぱい舐めた。
おしまい