1st:EP12:水槽の中のメダカ
1
冷静で隙のない見事な2連射の早撃ちを目の当たりにした泉谷は相手に飛び掛かろうとする無謀を諦めた。代わりに仕事で培われた観察力を総動員して、目の前の男と自分が置かれた状況を分析しはじめた。
*
黒いウィンドブレーカーに同色のスラックス。脇に垂らした革手袋の右手には軽く握られた軍用拳銃のトカレフ。動きやすいようにウエストバッグは背中の方へ回している上に靴には足跡防止のためのビニールのシューズカバーまで履いている。間違いなく男は汚れ仕事に慣れたプロの処理屋。ただし毛織のウォッチキャップを額まで上げて人相を晒している一点を除けば。
しかし、これは歓迎されざる未来を泉谷に予想させた。
「もし」右の瞼だけが少し垂れ下がった処理屋の男は泉谷の考えを読んだかのように口を開いた。「私が素顔を見せているからといって、目撃者の君らを撃つと考えているなら、そんな心配はいりませんよ。ただし、何らかの動きがあれば別です」
泉谷はローテーブルを挟んだ向かいのソファで胸部と左目から血を流して事切れている総理大臣主席秘書官の中崎に視線を移した。きらびやかに飾り付けられた会員制高級ラウンジのVIPルームには、ほんの10分前まで4人の人間がいた。射殺された中崎を除けば今は3人だ。
「あんたは中崎さんを撃った。もし仕事を終えたのなら、俺たちを解放してくれないか」と、泉谷は男を刺激しないように落ち着いた口調でゆっくりとしゃべった。
「残念ながら、まだ終わってはいないんですよ。そうですよね、アヤ子さん」
突然、声を掛けられたアヤ子は、恐怖のためか大きく目を見開いたまま返答すらできずにいた。辣腕をふるって夜の歓楽街でのし上がってきた伝説の女経営者も、隣に座っていたパトロンがあっけなく射殺された衝撃からすぐには立ち直れないのだろう。
「アヤ子さん。私を失望させないでくれますか」
それでもアヤ子が動けずにいると、男は流れるような動作で中崎の死体に更に2発の銃弾を撃ち込んだ。室内の空気を震わす轟音に彼女はソファから飛び退いた。そして倒れそうになりながら、ドアを開け放したままフロアの端にあるバーカウンターの方へ進んでいった。
「私の目が行き届かない所はありませんから、余計なことはなさらない事です」男は背中越しにアヤ子に脅しをかけた。「そうだ。紅茶を一杯いただけますか、アールグレイで。これだけ立派なラウンジですから、それくらいできますよね」
2
「さて、次は君の番です。一つだけ聞かせてください。なぜです」
「なぜとは」泉谷は男の慇懃無礼な態度を無視してうそぶいた。
「とぼけないでください。手を引くように上長から命令があったでしょう」
「俺はフリーランスの記者だ。上長なんてものはいない」
「この期に及んで、君に秘匿すべきことなどありませんよ」
「何のことだか……」
「おやおや。情報源のアヤ子さんに、まだ気を使っているんですか。彼女には私の方から、君の素状は既に伝えてありますから、ご心配には及びませんよ。君がフリージャーナリストの相田幸三などではなく、公安警察の泉谷信介警部補だということをね」
表情を変えない泉谷に男は言葉を継いだ。
「それに、ここ数年は仕事へのやり甲斐を失っていましたね。その君が上長の命令を無視してまで内偵を続けた。やはり、半年前に奥さんを変異型感染症で亡くしたことが関係してるんでしょうか」
泉谷は妻のことに触れられた途端、危うく怒りをあらわにしかけた自分を抑え込んだ。男が彼の激発を誘っているように感じたからだ。だが、男は泉谷の微かな感情の揺らぎを見逃さなかった。
「政府が爆発的感染の再々発に手を打たなかったどころか、それを最大限に利用したから、その復讐をと考えた……はて、そうは言っても君がそんな短絡的な人間ではないように私には思えるんですがねぇ」
*
男に言われるまでもなく、それこそが泉谷自身にも、はっきりとわからないことだった。
初めは公安警察官として当然の職務である総理大臣主席秘書官に対する通常の内偵だった。そのためにアヤ子に近づいて中崎の情報を収集した。仕事はできるが女と金にだらしがないという、小役人にありがちの変わり映えがない人物像に辟易した。しかし変異型感染症の爆発的感染の再々発が起こり、内偵を切り上げようとした日に、彼女から首相と中崎の密談を聞かされた。内容はあまりにも衝撃的で許せないものだった。結果的に、彼らのために妻だけでなく217万人の国民が死んだのだから当然だろう。死者の数は今も増え続けているのだ。
では、男が問いかけた「なぜ」の答えは怒りか……おそらくそうだ。では、それが主たる理由か……たぶん違う。だったら何なんだ。「なぜ」の答えが今の泉谷には容易に見つからなかった。唯一、彼が納得できそうだったのが、アヤ子の話が真実かどうか知りたかったということだ。
自分が納得するために密談の内容を検証したかった。巨大すぎる陰謀……いや、社会構造を変えてしまうほどの秘密は、それほど甘美で抗いがたい魅力を泉谷に示したのだ。仕事にやりがいを無くした男には、それは十分すぎる理由ではなかったか。それへの思いは公安警察官として徹底的に叩き込まれた己を殺して組織のためだけに生きるという職業倫理すら易々と凌駕するほどのものに育ってしまったのだ。だから泉谷は課長や同僚の目を盗んでアヤ子から情報を引き出し続けた。そして中崎が今日、彼女と逢瀬を重ねるためだけに官邸を抜け出すという情報に飛びついて、ここまで来たのだ。
3
アヤ子がVIPルームに戻ってくると、男は彼女が持ってきた茶葉の容器をローテーブルに置くように指示し、蓋を開けさせた。室内にアールグレイの香りが微かに立ち込めた。男の垂れ下がった右瞼がそれを楽しむように少し上がった。
「あなたのマンションからは2つもコピーを回収しましたよ、まったく念の入ったことでしたねぇ。さぁ、オリジナルを渡してください」
観念したアヤ子は、容器の蓋の裏側に隠した小さな記憶媒体を取り外すと男に手渡した。男は左手で背中に回したウエストバッグからPCパッドを器用に取り出すと、記憶媒体を接続した。
「では、アヤ子さん。内容を確認させていただきますよ」
男はそう言いながらも泉谷から一時も視線を外さず再生スイッチを押した。
*
「総理」と、中崎が小さな画面の中で、このVIPルームにいた内閣総理大臣に呼びかけた。「今回の緊急事態宣言発出の依頼ですが、しばらく断り続けてください」
「そう言うがね」面白くもなさそうに首相が応じる。「こうも大都市の首長やマスコミに外堀を埋められたんじゃぁ」
「わかっています。じゃぁ、せめてもう少し引き延ばしてください。変異型感染症が国内に十分いきわたるまでで結構ですから」
「今回の変異型は強毒性だって言うじゃない。死亡者が激増したら経済だって冷え込むどころか破綻してしまうじゃないか」
「大丈夫。死ぬのはほとんどが老人です」中崎が声をひそめた。「彼らの預貯金額を知っていますか。彼らが死ねば、銀行を通じてそれらを押さえられる。遺族からは相続税をたんまり踏んだくってやればいい」
「国家規模からいえば微々たるもんじゃないの」
「年金や介護にかかる将来的な金も大幅に節約できます。塵も積もれば山となりますよ、総理」
「でもねぇ、そんなことになれば人口が減少するでしょ。僕はそっちの方が心配だなぁ」
「心配なのは不景気で落ち込んでる税収の方ですよ」
「でも、結局は節約できるだけで、税収だってそんなに増えないでしょ」
溜息をつく首相に中崎は、なおも詰め寄った。
「今のところ人口減少を止める手立てはありません。だから、第2弾の政策を間髪入れずに出すんです。失業対策どころか非正規やニートの対策にもなり、財政も健全化しますよ」
「どうするの」
「財政出動で今だけ農村部への移住手当を出してください。もちろん若年層限定で。なぁに、出した金はすぐに回収できますよ。それに彼らが変異型感染症を広めてくれれば農村部の年寄りどもの口減らしもできます」
「待ってよ。それじゃぁ医療崩壊が起こるじゃないか。駄目、駄目、そんなこと」
「そこが狙い目なんですよ、総理。大黒柱を失った農家を大企業に買い叩かせて大々的に農場経営をさせるんです。銀行にも協力させましょう。税収だけじゃありません。食料自給率も格段に上がるし、強力な失業対策にもなります。一石三鳥とはこのことですよ」
「だから、そんなことしちゃ、党の票田が……中崎ちゃん。我が党は田舎の年寄りたちの組織票で保ってるんだよ、それわかって言ってる。それに今の若者が簡単に田舎へ行くなんて考えられないよ」
「これが成功すれば全国の無党派層を一気に取り込めますから心配はいりませんよ。若い奴らだって都市部に住みにくくなるように、税金を高くして、あらゆるセイフティ・ネットを廃止してやればいいんです。どうです、現代の『人返し法』は」中崎は首相にすり寄った。「国会対策もお任せを。声が大きいだけの野党のボンクラ党首を強毒性の変異型に罹患させる手筈も、すぐに整いますから」
「えっ、彼らを病気にするの。でも、彼らから僕が変異型をうつされたら洒落になんないなぁ。だって複数回ワクチンを打ってても死ぬ可能性が64%もあるんでしょ。怖いよ」
「いま世間で注目を集めてる薬よりも良いやつが完成間近なんです。あとは十分な治験だけなんですが……」
「何か方法がありそうだね」
「お許しがあれば、密かに死刑囚に罹患させて治験に使う用意もあるんですよ。もちろん医療刑務所でも大量の罹患者を出しときますので、死刑囚は隔離された独房から移動はできません。だから密室内でデータを取り放題です」
「中崎ちゃん、悪い人間だねぇ。うちの幹事長以上だよ。」
「またまた」総理の哄笑に中崎の笑い声が重なった。「それでは、この件は決行ということで」
「うん」と、総理。「わかってるだろうけど、この件はくれぐれも……いいね」
*
隠し撮りを見終わった3人はしばらく無言だった。
「中崎さんも」男は情報を消去しながら口を開いた。「保身のために、こんなモノをあなたに預けなければ良かったのに。さぁ、アヤ子さん。最後のお仕事が残っていますよ」
アヤ子は、男がポケットから取り出した注射器を渡されると決意したように泉谷に近づいた。同時に男の軍用拳銃の銃口は泉谷に向けられた。
「慎重にお願いしますよ、アヤ子さん。泉谷さんは腕を出してください。下手に動かないようにね」
「何をする気だ」
「先ほども申し上げましたが、君を殺そうなどと思ってはいませんから、ご心配なく」
腕をチクリと刺す注射針の感覚。
4
「で、その後は」
「もう、何度も話たろ」
「もう一度、お願いします」
後輩の保井に促された泉谷は渋々、供述を繰り返した。
「注射されたのは筋弛緩剤の臭化パンクロニウム」
「海外の薬殺刑に使用されるものですね。でも泉谷さんは生き延びた」
「生き延びたんじゃない。生かされたんだ。あの男は手足がしびれる程度に薬量を調整して、混ぜ物もしてあるから呼吸が止まって死亡することはないと言ってた」
「呼吸困難でかなり苦しい思いをしたんですよね」
「だから、さっきも言ったろ。横隔膜が麻痺するんだから自由に肺を動かせない。かなり苦しい思いどころか、死にそうな苦しさだ」
「それで」
「動けなくなった俺を尻目に男がアヤ子をバーン」
「ふざけないで、はっっきりと供述してください」
「どんな供述をしようが、シナリオはもう出来上がってるんだろ。かつて、お前に教えた通りに。脅し、スカし、時には、ほんのちょっぴり暴力も。俺たち公安は細かな微調整をして被疑者にそれを認めさせる。そうじゃなかったか」
狭い取調室の椅子にふんぞり返った泉谷は机の向かいに座る保井に微笑みかけた。
「泉谷さんがその調子じゃ、またいちからやり直すことになりますよ。あなたはそれを一番よく知ってるはずだ」
「あぁ、わかったよ」泉谷は机の上に両腕を乗せると溜息をついた。「男は筋弛緩剤でもがき苦しむ俺を尻目にアヤ子を射殺した、中崎と同じ所を撃って。そして身体の動かない俺に銃を握らせて発砲。硝煙反応をつけるためだ。俺が痴情のもつれから2人を撃ち殺したように見える証拠は準備しておいたとも言ってた」
「えぇ。被害女性宅からは泉谷さんの私物が色々と出てきました」
「ふん」鼻を鳴らすと泉谷は取り調べ室に据え付けられた大きな鏡に向かって叫んだ。「これで満足かい、山野課長。ところで聞きたいんだが、やはり俺はフリージャーナリストの相田幸三として送検されるんだろうな。組織を守るために、そうしろって言うんだろ。どうなんだ。そうしなかったら、俺は自殺体で見つかることになるのかな、拘置所内で」
「泉谷さん」たまりかねて保井が声を荒げたとき、取調室のドアが開いた。
「泉谷。もう、そのへんにしときなさい」
女丈夫の山野が白衣の男を伴って入室してきた。それを見た泉谷は保井がきつく制止するまで大笑いをやめなかった。
「なるほど、精神鑑定か。こいつ傑作だ」泉谷は、そう呟くと白衣の男を睨みつけた。
「明日から、あなたの鑑定をしてもらう森本先生よ」山野は毅然とした態度で言い放った。「優秀だったあなたの頭がおかしくなったと私は思わない。けど、あなたの荒唐無稽なお話を信じるほど、お人好しでもない。公安の誇りが、まだあるなら、しっかりと鑑定を受けてちょうだい」
再び始まった泉谷のけたたましい笑い声は公安本部の廊下にいつまでも響き続けた。
5
課長室の応接椅子から立ち上がった精神科医の森本を見て、同じように立ち上がった山野は彼に軽く頭を下げた。
「この一週間。本当にありがとうございました、先生」
「どうかなさいましたか」
山野の目に憂いの色を敏感に読み取った森本が尋ねた。
「まったく先生には隠し事はできないようです」
「精神科医ですから。もし宜しければ、お話になってみませんか」
「ありがとうございます。昨夜、同期の一人が変異型の感染症で亡くなりまして。それで……」
「課長さんとは特に仲の良かった方ですね」
驚く山野に精神科医でなくとも、あなたの雰囲気でわかります。二、三日仕事を休むのが良いですよと静かに勧めた森本は、まだ何かありますかという顔をしてみせた。
「優秀だった泉谷があそこまでおかしくなっていたとは。はじめは何かの間違いだと思っていたんですが」と、山野。
「誰しも妄想はあるものです。それが幸せな空想であるうちは、問題はありません。しかし妄想をあそこまでこじらせては完治も難しいでしょうねぇ」
「そうですか……」
山野は殺風景な課長室に個性を与えている唯一の存在である小さな水槽の中で泳ぐ小さな数匹のメダカに視線を転じた。
「国家的テロとも呼べる大犯罪の証拠を隠蔽するために2人の証人を殺して自分に罪を着せた犯人が、私だという泉谷さんの主張。重度の患者は身近な人間に疑いの妄想を持つものです。で、課長さんは、どう思われます。少しでも私が犯人だと思われますか」
何とも言えない表情をしていた山野は、すぐにポーカーフェイスに戻ると口を開いた。
「いいえ」
「そうですか、それは良かった。まだ釈然とされておられないようなので、お聞きしたまでです。それでは。わたしは、これで」
右の瞼だけが少し垂れ下がった森本は軽く会釈をして去っていった。
*
いま社会では、泉谷の供述通りに不景気が続く国家に税収が増え、食料自給率も増加し始めた。だが、その反対に人々は今も変異型の感染症でバタバタと死んでいる。
山野は森本が手も付けなかったアールグレイの紅茶が入ったティーカップを、いつまでも見つめ続けていた。
了