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二人の朝

 逃げることは私が薬学以外に母から学んだ唯一のことだった。


 若い頃、閉塞的な環境に嫌気がさし故郷の村を出た母は、街の薬屋の元で薬についての知識を学んだらしい。そのまま自分で生計を立てて生きていくつもりだった母には、やがて恋人ができた。

働きながら恋人と一緒に暮らし、それなりに幸せだった母の生活が一変してしまったのは、私を身籠ったことがわかる直前だったという。

 詳しい経緯は母が多くを語らなかったためにわからないが、母の恋人はある日突然一緒に暮らしていた家を出て、街の名士の娘と婚約した。その後私を身籠ったことがわかった母は打ちのめされ、厄介払いのために渡された手切れ金を持って故郷に逃げ帰ってきたのだ。

 お金を受け取らず、そのまま街で歯を食いしばって生きていく道もあったかもしれない。けれど、母の心は信じていた恋人の裏切りに砕けてしまった。ばらばらになってしまった心は時間が経とうと回復せず、母は前に進もうとすることをやめた。

 父親のいない子を身籠って帰ってきた母に、村の人々は当然冷たかった。村には母を貶める流言が広まり、人々は母が街で身につけた薬に関する技術を何の根拠もなく魔女呼ばわりした。私の扱いも似たようなもので、私は母が死んで村を出るまで近所に住んでいる村人ともほとんどまともに口を聞いたことがなかった。


 村に戻ってきたところで辛い環境なのは変わらないが、母にとってはそれが最大の逃げだった。停滞した環境に身をおいて、何も刺激を受けず、恋人のことを思い出さないように過ごすことが。だから母は、日に日に成長していく私を愛さなかった。私にはわからない母の恋人――私の父親の面影が、どこかに感じられるらしい私を。

 これは私の勝手な憶測でしかないけれど、母は心のどこかで信じていたのかもしれない。故郷の村で一人、子どもを育てている自分を、かつての恋人が探しに来てくれることを。けれどそんな幻想は叶うわけがなかった。心が生きようとしていないのに、身体が生きられるわけがなかった。母と私が身に付けた薬の知識も、生きる気力を失った心には太刀打ちできず、母は私が十歳になるころに亡くなった。





 間違いなく、今までで最悪の目覚めだった。柔らかな白いシーツに埋もれて目が覚めた。寮のベッドではこうはいかない。シーツはこんな真っ白い色ではないし、こんなに柔らかくなめらかな肌触りではない。あまり質の良くない石鹸で何度も何度も洗って、ごわごわとした触り心地になっていたはずだ。

 体を起こすと、ベッドの横の丸い机にお茶が置いてあるのが見えた。湯気が立ち上っているのを見ると、つい先ほど出されたものなのだろう。自分のいるここがどこなのかを思い出そうとして、もう一度目を閉じた。


 昨晩、すっかり灯りの落ちた駅を出た後、彼は私が寮に戻ることを許さなかった。そのときの時刻がどのくらいだったかは覚えていないが、寮の門限は過ぎていたのかもしれない。そんなことも把握できないほど、私の頭は混乱し、疲弊していた。

 目を開けて、もう一度部屋を見渡す。広い室内の壁には落ち着いた緑色にところどころ植物模様の入った壁紙が張られていた。ベッドの右側と正面に大きな窓があり、白いレースのカーテンがかけられている。こんな時でなければすてきな部屋を楽しめたかもしれない。

 そうだ。駅を出てしばらくした後、私たちは彼が手配したらしい車に乗り込んだ。そして車の中で彼に優しく頭を撫でられている間に、いつの間にか眠ってしまったのだ。

 情けない気持ちになって顔を覆った。ほとんど行き当たりばったりで学園を出て、結局彼に見つかってしまっただけでなく、駅で泣き喚いて、挙句寝てしまうなんて。ため息をついたときに、部屋の扉が控えめに叩かれた。

誰だろう。

一拍おいて「どうぞ」と返事をすると、紺色のお仕着せを着た女性が入ってきた。


「失礼いたします。お仕度のお手伝いをさせていただきます」


 そう言ってにこやかに入室してきた女性は、私が寝ているベッドまで近づくと、丸机の上に置いてあったお茶をカップに半分ほど注いで渡してくれた。自然と受け取ってしまったお茶に口をつけてから、どうやらここで働いているらしい、てきぱきとカーテンを開ける彼女に恐る恐る尋ねる。


「あの……今は何時くらいですか?」

「10時前です。軽いお食事のご用意がございますので、お茶をお飲みになられたらご案内しますわ。お連れ様もお待ちです」

「アレクセイ……あの、連れの方もここに泊まったのかしら」


 彼女は手を止めてこちらを見ると、にっこりと笑って言った。


「お連れ様は宿泊なさっていません。昨夜はお嬢様の宿泊の手続きをされた後お帰りになって、今朝がたお嬢様を迎えにお見えになりました」


 飲み終わったカップを受け取って丸机に戻した彼女は、私の着替えなどの身支度も手伝ってくれた。見覚えのない服に戸惑う私を「これしかご用意がございません」で押し切った彼女は、私の髪の毛を結い上げてうっすら化粧まで施した後、アレクセイの待つ部屋まで案内してくれた。そこまでに私は、自分のいる場所がどうやら富裕層向けの宿であるということだけ把握した。





「ミリアン」


 こじんまりした応接間のような部屋に入ると、アレクセイがすぐに立ち上がって出迎えてくれた。彼は少し落ち着かなさそうに両手を広げると、「どうぞかけてくれ」と彼の向かいの椅子を示した。私が大人しく腰かけると、アレクセイは後ろに控えていた女性に向かって頷いて見せた。彼女が立ち去る衣擦れの音がすると、間を空けずに軽食と飲み物が運ばれてきた。


「昨夜はすまない」

「……私こそ、」

「君と一緒に泊まれればよかったんだが……学園と違って人目のある場所でそれはできない。まだ」


 アレクセイは「まだ」に力を入れて話した。何と答えていいのかわからず、出されたお茶のカップを見て曖昧に頷く。今から彼に何を言われるのか、自分が何を話さなくてはいけないのかがわからなくて、不安だった。


「……もしも、きみが本当に俺を置いて学園とこの街を出たいと言うなら、止めない」


 私は顔を上げた。アレクセイは不安そうな顔をしていた。何となく、鏡で確かめたわけではないけれど、私も同じような顔をしているような気がした。


「止めないけど、絶対に、できる限りの手段を使って君を追いかけるよ。昨日改めて思ったんだ。君がいなくなると俺はなりふり構っていられなくなる。君の心がもう俺にないとしても、みっともなく追いすがるかもしれない」

「そんなこと……」

「そんなことあるし、できるんだよ。ミリアン。俺は、君のことなら」


 アレクセイはまじめな顔をして言った。もちろん彼は普段からまじめな人だけど、私や親しい友人の前ではおどけてみせることもままあるのだ。きっと彼のことを優秀で隙のない人物だと思っている人は知らないであろうそんなところを、私に見せてくれることが嬉しかった。じゃなくて、今、彼は何を言ったのだろう。理解が追い付かない。


「俺たちは話し合うべきだと思う」

「……そうね」


 話して、どういう結末になるのかはわからない。でも昨日の私のように自分ひとりの考えで行動するのではなく、話し合うべきなのだ。アレクセイが私に幻滅しようと、そうすべきなのだ。私はそこで今日初めて、アレクセイの目を見て頷いた。





 後から話すことになって申し訳ない。……実は以前、君の出自について調べたことがあるんだ。だから、君のお母さんが亡くなっていることは知っている。――ごめんミリアン、そんな顔しないでくれ。勝手なことをして本当にすまなかった。君に正直に話す勇気がなかったんだ。こんなことを言っても言い訳にしかならないが、学園内に俺が親しく会う関係の人がいることに、家の者が気づきはじめていたんだ。勝手にあれこれ詮索されて、家から君に余計なことをされたら敵わないと思って、先回りして家族に君のことを話すために調べた。そのときはありえないと一蹴されたけど、この休暇でもう一度説得してきたんだ。ミリアンとの将来を真剣に考えていること。その実現のために、俺ができることを。

 俺の家については、何か知ってた? そうだよな。もし詳細に知っていたら君は今以上に周囲の目や体面を気にしていたはずだ。……今だって十分、こそこそしているけど。ああごめん、君の態度に不満があるわけじゃなくて、俺がもっとミリアンと一緒にいたいだけだよ。もちろん、植物園や君の部屋でくつろぐのも好きだけど、海辺の街に遠出とか、観劇なんかもしてみたくないか? 馬に乗ってみたりとか。そんなことない? ……そうか。まあそれはおいおい話し合おうか。

 家について話せなかったのは、怖かったからなんだ。君が俺の後ろにいらないものを見て、俺のことまで嫌になってしまったらと思って。……ありえるんだよ。俺の家はちょっと厄介なんだ。君と一緒にいるために、環境を整える必要があった。それが終わるまで君に話したくなくて。今思うと自分勝手な考え方だ。……ああもう、そんな顔をしないでくれ。この席だと君の手を握ることもできないんだから。ともかく、帰ってきたら君に言うつもりだったんだ。次の休暇は俺の家で過ごしてほしいと。なのに学園に戻ったら君はいなくて、寮の部屋には手紙が残されていて、君が大荷物で出ていったなんて聞かされたから、俺はどうにかなりそうだった。

 ごめんミリアン、怒ってるわけじゃないんだ。ただ、君がどうして何も言わずに俺を置いていくつもりになったのか、わからないのが悔しい。君が素直に話してくれなかったことも。今なら、話してくれるかい?





 お茶のカップを両手に持ちながら、呆然とアレクセイの話を聞いていた私は頷いた。衝撃だった。アレクセイはもう知っていた。私が隠しておきたかったこと、私が忘れたがっていたことを。


「じゃあ……あなたはもう知っているのね。私の母のことを」

「ああ」

「そう……」


 カップを持つ手に視線を落とすと、自然とため息が出た。


「私は……」


 自然と眉間に力が入った。すぐ潤みそうになる目を乾かすために。私が隠しておきたかったもの……私の恥ずべき考えも、アレクセイには話さなければいけない。彼を信じるなら。アレクセイと私が過ごしてきたこれまでの時間を信じるなら。


「私は、知らないことは、知らないままでもいいと思っていたの」

「知らないこと?」

「ええ。……学問の話ではなくて。学園の中の噂話とか、誰がどういう家の出身だとか、誰と誰が恋仲だとか」


 少し息をつく。これは本当のことだ。知らなくてもいい、そういったことは知る必要がないと思っていた。自分には関係のないことだと。


「そういった話を聞いて、心を乱されるのが怖かった。聞いてしまったら、自分のことも考えてしまうから。……目を背けておきたかったの。自分の生い立ちから」


 学園にはもちろん、それほど裕福ではない家庭の学生もいた。でも彼らだって全体に比べれば圧倒的少数だし、私の境遇はその中でさえ飛び抜けて異質だろうと、そう思っていた。


「あなたが例え、一般的な家庭で生まれ育ったとしても……私の生い立ちは異質に思えたでしょう。それを知ったあなたに嫌われるのが怖かった。……私の母は、私の父親である人に裏切られて、全てから逃げて死んだの。娘の私からも。あなたにそんなこと、知られたくなかった」


 どうしても声が震えてしまって、慌てて瞬きをする。もうアレクセイの前でみっともなく泣きたくない。

 彼に愛されなくなることを考えたとき、私の愛は理性を失った。そばにいられなくなることよりも、彼に愛されなくなることの方がよほど苦痛だと思った。だから後先考えずに、あんなに考え無しの行動を取ってしまったのだ。


「そうか」


 アレクセイが席を立った。もしかしたら、部屋を出て行ってしまうのかもしれない。私をここに残して学園へ帰ってしまうかもしれない。そう思ったけれど、アレクセイは私のすぐそばまで来て、膝をついて私の顔を覗き込んだ。


「ミリアン、よく聞いてくれ。君のご両親のことを聞いても、君を想う気持ちに変わりはないよ」


 アレクセイの大きな手が、私の手をそっとカップから外して握った。いつもと同じ、あたたかい手だった。


「俺には想像することしかできないけど、きっと辛いことも大変なこともたくさんあったと思う。ミリアンがこの先、なるべくそんな思いをしないようにとは思うけど、君の生い立ちや、経験してきた苦労があって今の君があるんだろう。そのことを理由に君自身を嫌うなんて、ありえない」


 アレクセイの指が、優しく私の手の甲をなぞった。知り合ったばかりの頃のアレクセイの手は、剣術やその他の訓練でいつも荒れていた。それが私と会うようになって、私に触れるようになってから、「ミリアンの肌を痛めたくないから」と手入れをするようになったのだ。

相変わらず私より固くてたこもある手だけれど、それはアレクセイの訓練の賜物だ。今、私の手を撫でてくれるアレクセイの手のなめらかさが愛でなければ、一体何が愛なのだろう。


「私、あなたを好きでいたい」


 アレクセイの手に指を絡めて握り返す。彼は真っ直ぐ私を見てくれている。


「ずっと好きでいたい。あなたにも、私のことを好きでいてほしい」

「もちろん、ずっと好きでいる」

「ずっと一緒にいるために、努力したい。……今からでも遅くない?」

「全然遅くない。ミリアン、ありがとう」


 アレクセイがそう言って泣いてしまいそうな顔で笑うので、我慢していたのに、私は釣られて泣いてしまった。








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