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 彼が『ミリアンの寝顔を眺めるのが好きだ』と打ち明けてくれたのは、私たちが特別な二人になってから1年が経ったころだった。その日、私は二人の関係がここまで続いたことへのささやかなお祝いとして、彼も好んで食べる焼き菓子とお茶を用意していた。教授の許可を得て植物園の一画で栽培しているハーブを使ったものだ。

 故郷の村にいた頃は、焼き菓子を売る店などあるわけもなく、食べたければ自分で材料を用意して自分で作るしかなかった。私にとっては自然と身に付いた技術だったが、彼にとっては菓子と言えば店で買うものだった。

 初めて私が手作りの焼き菓子をふるまったとき、彼はしきりに驚き、こちらが恥ずかしくなるくらい褒めてくれたことを覚えている。今思えばそれも、私と彼の生まれ育った環境の埋めがたい隔たりを示すものだったのだが。

 ともかく彼はその日、いつもより早く日課の鍛錬を終え、お菓子とお茶を用意していた私の部屋を訪れた。まだ明るい時間帯に来たのはそれが初めてで、私は彼が無事に忍び込めるかを心配しながら待っていた。

 コンコン、といつものように軽く窓をノックされ、私はすぐに窓辺に近づいて鍵を開けた。窓際にはいつも彼専用の敷き布を用意しており、彼が部屋に入ってすぐ靴を脱げるようになっている。


「ただいま、ミリアン」


 大きな体を窮屈そうに縮めて窓枠を乗り越えてきたアレクセイは、そう言いながら窓辺に立つ私の頬にキスした。いつの間にか習慣になった、彼が私の部屋を訪れたときのやり取りだ。


「おかえりなさい、アレクセイ。今日はお菓子があるの」

「いい匂いがすると思った。ありがとう。……これ、俺からも」


 アレクセイが腰に括りつけていたらしい小ぶりな花束を渡してくれる。白と水色の花を組み合わせたその花束を受け取って、私たちは自分たちの間に流れる、なんとなく浮ついた空気にはにかんだ。

 花を束ねている緑と青の細いリボンを解き、花瓶に飾っていると、アレクセイが私を後ろから抱きしめた。花瓶を小さなテーブルの中央に置き、私もお腹に回されたアレクセイの手を撫でる。


「……今日、君が眠るまで、ここにいてもいいか?」


 アレクセイがごく慎重に、私の耳元で囁いた。私は驚いて、何も言えずに固まった。


「安心してくれ。って言っても安心できないかもしれないけど……変なことはしない。俺は自分が責任を取れるようになるまで、君に負担がかかることをするつもりはない。大切にしたいから」


 積み重ねてきた努力に支えられ、いつもは余裕を崩さないアレクセイの震えた声に、私は我慢できなくなって振り向いた。らしくなくうるんだ瞳と目が合った。アレクセイの首に両手を回して引き寄せると、私の腰に回っていた彼の腕に力が入る。

 こんなにも私のことを思ってくれる人は他にいない。私にはアレクセイしかいない。私の幸せはアレクセイと共にしかありえない。そう強く思った。

 強く引き寄せたつもりだった腕から力が抜け、アレクセイの二の腕にしがみつくような恰好になり始めたころ、ようやく私たちは顔を離した。息があがったまま彼の胸に横顔をぴったりとつけて抱きしめられると、まるでひとつの生き物になったような心地がした。

 早まっていた動悸がゆるやかになり、じわじわと気持ちが落ち着いてくると、私はそっとアレクセイの腕から抜け出した。


「……いいわ」

「え?」

「寝かしつけてくれるんでしょう。ちゃんとおもしろいお話しを聞かせてね」


 気恥ずかしくて顔を見れないままそう言うと、アレクセイが笑う気配がした。


 翌朝私が目覚めると、当たり前だが彼の姿はなかった。しんとした部屋の小さな机には昨日彼にもらった花が生けてあり、花瓶のそばに手紙が置いてあった。

 そこには私と、私と過ごした時間への感謝、これからも私を大切にしていきたいといった内容が彼らしい真面目な筆致で記されていた。そして最後に、私の寝顔がかわいい、寝顔を眺めるのが好きだ、と付け足されていた。

 彼はもしかしたらこの手紙を残すことを悩んだかもしれない。勢いで書いた文章を読み返して逡巡する彼を想像して、私は頬をゆるめた。





 念のために学園から一つ少し離れた駅に着くころには、辺りは暗くなり始めていた。たくさん着込んでいるとはいえ日が落ちると寒さが身に染みる。

 駅の窓口でたずねると、今日の列車の切符はもう最終しか残っていないと言われた。どこ行きでもよかった私は一番遠い街まで向かう列車の切符を取ると、そのまま待ち合い室に入った。


 一度も話したことのない級友に突然話しかけられのは、休暇に入る前の日だ。その日は植物園で彼と会う約束をしていたので、私はすべての講義が終わったあと真っ直ぐ植物園へ向かった。いつも座るベンチまでくると、そこには手紙が置いてあった。彼は私より講義が終わる時間が遅いので、彼からではない。筆跡も全く見覚えのないものだった。


『親愛なるミリアン

私はあなたの秘密を知っている。

アレクセイとのことを隠しておきたいのなら、南棟裏の森へ来て。』


 手紙を読んですぐ周囲を伺っても、もちろん誰もいなかった。足に力が入らず、しゃがみこんで何度か深呼吸する。少しの間、頭が真っ白になって何も考えられなかった。私はどこで何を間違えてしまったのだろう。彼のことを知らないまま特別な関係になったこと自体が、間違いだったのだろうか?

 ともかく、手紙を無視することはできなかった。私の秘密はともかく、この手紙の差出人が私と彼の仲を本当に知っているなら、それは彼への脅威になり得る。彼がこの植物園に来るまでは、早くともあと1時間程度はあるだろう。私は手紙を持って、指定された森へ向かった。


 果たして、森で私を待ち構えていたのは、見覚えのある女子学生だった。基礎学術の学級が同じだったはずだが、話したことは一度もない。私が元々友人以外とはほとんど交流を持たずに過ごしているせいもあるが、思い違いでなければ彼女も基礎学術の学級ではいつも1人で過ごしていたはずだ。


「手紙、読んでくれたのね」


 名前も知らない彼女がにこにこと話しかけてくる。それが不気味で、私は何も言えなかった。


「ごめんなさいね、脅すような真似して。でも安心してほしいの。私は別に、あなたの秘密を学園中に言いふらすつもりはないわ」

「……私の秘密って言うけれど、あなたは何を知ってるの」


 彼女はそこで、満面の笑みになった。


「まあ、秘密って言っても大したことないわよ。あなたが田舎の僻地の村出身で、だらしのない母親から生まれた、父親のいない子ってことぐらいしか知らないわ」


 私はそこで、信じられないくらい頭に血が上ってしまった。気づけばとっさに手が出て、彼女の頬を叩いていた。


「あっ……」

「ほらご覧なさい。すぐ人に手が出るような子だもの。どんな親に育てられたのかもこれでわかるってものね」


 憎たらしい言葉に、何か言ってやりたかったのに、私は何も言い返せなかった。この学園に来て、忘れていた――忘れようとしていたことが、蓋を開けたように蘇る。

 いつもどこかうつろな表情をしていた母。楽しいことなんて、何も知らないように暮らしていた母。私のことを世話してくれるけれど、愛してはくれなかった母。


「いいわ。ひとつ、あなたに忠告をしてあげる」

「あのね、あなたが親しくしているアレクセイは、今後何人もの女の子と仲良くなるわよ」

「私には分かるの。知ってるのよ、何が起こるのか。まずは最近転入してきた、アディール・フォンタナ嬢。美人で優秀な高嶺の花である彼女は、文武両道のアレクセイに惹かれるの」

「もっといるわ。医療室のリアンドラ女史。それに上級生のサラ・ネスィー嬢。下級生のマルグリット・マース嬢。彼女たち皆が、アレクセイに夢中になる。彼もそれに応えるわ。彼はいわゆる特権階級だもの」

「美男美女のハーレム完成ってわけね――」


 彼女の言葉は、掘り起こされた記憶に打ちのめされている私に次々と降り注いだ。


「彼を慕う人はたくさんいるもの。あなたが自分にふさわしくないことに、アレクセイが気づくのも時間の問題。私があなたの出自について教えてあげたら、彼はどう思うかしら」

「彼に幻滅されて、別れを告げられる前にどうすべきか――あなたならわかるわよね? ミリアン」


 気づけば私は、涙を流しながら頷いていた。





 時おり隙間風の入ってくる待合室でストーブに当たっていた私は、最終列車が到着したと告げにきた車掌の声に意識を引き戻された。何も考えずにストーブの炎を見つめていたので、この待合室に入ってからどのくらいの時間が経っていたのかわからなかった。5分だったかもしれないし、1時間だったかもしれない。ずっしりと重く感じられるようになってきた鞄を持ち直すと、私は列車に乗り込むために待合室を出た。

 列車の前には、既に乗り込み待ちの人が並びはじめている。列の最後尾を目指しながら、私はこの街で彼と共有したたくさんの出来事を思い返した。

 間違いなく、彼と学園で過ごした数年は、私の人生で一番幸せな時間だっただろう。私の勘違いでなければ、好きな人が、同じように自分を好きでいてくれているというかけがえのない幸福を味わうことができた。

 人が次々に列車に吸い込まれていき、列はじわじわと短くなっていった。前の人が階段をあがり、いよいよ私が列車に乗り込もうとしたそのとき、誰かが私の肩を強く掴んだ。

 ぐいっと肩を引かれた勢いのまま振り向くと、そこにはアレクセイが立っていた。


「君の手紙を読んだ」


 アレクセイの声は震えていた。怒りからか、寒さからか、それとも他の何かからか。私にはわからない。呆然と立っていると、手に持っていた鞄をいささか乱暴に取られる。


「こんな……こんな手紙で、君は俺を置いていくのか」


 返す言葉がなかった。

 いざアレクセイに手紙をしたためようとすると、本当のことは何一つ書けなかった。嘘を書けばアレクセイにはすぐわかるだろう。それでも私は本当のことを書かなかった。嫌われたくなかったから。

 教授に話したのと同じように、学費を工面できなくなったから学園を離れると書いて、私たちの関係については一切触れなかった。

 何も言わない私を、アレクセイは睨みつけた。


「どうしてだ?」

「…………」

「俺は君と、気持ちが通じ合ってると思ってた。俺と君が共有した時間はお互いの大切なものだと」

「……私だってそうだった」

「じゃあなぜ?」


 私はゆっくり息を吐いた。落ち着かなければ。彼を説得しなければ。そのためには、私が冷静でいないといけない。


「あなたとの時間は大切だった。でも、学園を出たら? 私は身よりのない、ちょっとした薬学の知識があるだけの人間で、あなたは将来を期待された立派なご家庭の子息でしょう。学園の中でならこっそり続けられた関係も、外に出れば人目に晒されて、反対されるに決まってる」

「反対されるからか? 君はそれでなかったことにできるのか!?」


 初めて聞くような大声だった。穏やかで落ち着いた話し方をするアレクセイが、目を真っ赤にして叫ぶのも初めて見た。彼が張り上げたその声に殴られたような心地がして、取り繕おうとした平静さはすぐに吹き飛んだ。自然とにじんできた涙をそのままに私も負けじと叫び返す。


「できるわけないでしょう!」

「それなら一緒にいてくれ、頼むから!」


 アレクセイが私の両手を握った。冷たく冷え切っていた指が彼の固い手のひらに包まれる。

 この手で優しく髪の毛を撫でられるのが好きだった。抱き寄せられて、背中の中心をなぞられるのが好きだった。いつだって服の上から優しく触れるだけの彼に、いっそ一線を越えてほしいと願ったこともあった。私だって、私だってアレクセイを手放したくない。

 握られている手を見つめていると、涙がしずくのまま地面へ落ちていった。


「俺は家の人間に何かを言われるよりも、世間に白い目で見られるよりも、君がそばにいないことの方がつらい」


 アレクセイの声が濡れていることに気づいて顔を上げる。信じられないことに、私だけでなくアレクセイも泣いていた。眉間をめちゃくちゃにしかめて、涙を流していた。


「君が俺との時間をなかったことにすることの方がつらい。確かに、不安にさせたくなくて家のことをなるべく話さないようにしていたのは事実だ。でも、こんな手紙1枚で置いていかないでくれ」

「……ごめんなさい」


 震える唇から、謝罪の言葉が出てしまった。謝る資格なんてないのに。アレクセイは握っていた手を引き寄せ、私を抱きしめた。鼻をすする音が耳元で聞こえた。


「謝るなら、どこにも行くな」


 涙が次々に出てきて、私は言葉を発せなかった。抱きしめられてしまうとだめだった。何故私はアレクセイから離れようとしたんだろう。離れてしまったら生きていけないのに。こんなに彼が必要なのに。

 違う、アレクセイのために離れようとしたのだ。彼の幸せを考えて。私はふさわしくないから。


「帰ってきたら言おうと思ってた。……実家に行ったのは、家族に君のことを話すためだったんだ」


 彼は何を言っているんだろう? 目をぎゅっとつぶっても、涙は止まらない。私は震える手で彼の上着の腰あたりを掴んだ。


「もちろん難しい顔をされたよ。俺の家は……落ち着いたらちゃんと説明するけど、色々と面倒くさい。でも俺と一緒にいたいと思ってくれるなら、一緒に立ち向かってほしい」


 立ち向かう? いつも逃げてきた私に、そんなことできるのだろうか? 


「ミリアン、何も言わないなら俺は今日ばかりは都合のいいように考えるよ。君を連れて帰る」


 私は何も言わなかった。正確には言えなかった。何か言おうとしても嗚咽が漏れてしまって、言葉にならなかった。


 彼はしばらく、泣きじゃくる私の頭を黙って撫でていた。

 やがて、荷物を持ち直した彼に促されて歩き出すころには、最終列車はとっくに出発して、駅は真っ暗になっていた。





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