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 初めて彼に好意を伝えられたのは、植物園で出会ってから数ヶ月した頃だった。

 不思議なことに、彼は初めて植物園に迷い込んで以来、たびたび植物園を訪れた。道をわかっているのかいないのか、私がベンチでくつろいでいるところに現れ、雑談をし、帰り道がわからないと言って私に案内をさせた。何度目かに彼を出口まで案内したとき、私はやっと、彼が自分に会いに植物園まで来ているのではないか、ということに思い至った。そして何も考えずにそれを彼に尋ね、彼をたじろがせた。


「今まで、十分わかるように行動してきたつもりだったんだけど……もしかして、今気づいたのか?」


 その答えに、私は新鮮な気持ちでこっくり頷いた。けれど、よく考えればわかることだった。私はいつも同じお気に入りのベンチでくつろいでいたし、優秀な彼がどうしようもない方向音痴だなんて話は聞いたことがなかった。きっと初めて案内をしたときに、出口までの道は覚えたはずだ。

 それなのにわざわざ私に案内させるのは何故なのか。そこまで考えると、私の思考はやはり行き止まりになってしまう。どの答えが正解なのかわからないのではなく、答えがそもそも思い浮かばないのだ。

 私がわからないという顔をしていると、彼は少し顔を赤らめて「君が好きだからだよ」と言った。私が面食らって何も言えずにいると、彼はそう反応されるのはわかっていたとでも言うように笑いながら息をつき、自分は気が長いのでしばらくは返事を待つよ、というようなことを告げて去っていった。


 けれど彼の予想に反して、私が彼を長く待たせることはなかった。

 好意を伝えられたのち数日、私は不要不急の外出を避け、寮の自室でうんうん考え、結論を出した。彼と過ごす時間は得がたいものだった。一人でいるのが一番楽だと思っていたのに、彼といると、一人で過ごすときよりも楽しかった。彼と笑いあうのが好きだった。今まではなかったことだ。

 つまりそれは、彼自身を好きなのと同じことなのだろう。


 思いを伝えられた一週間後、いつものように植物園に現れた彼に、私は自分の好意を伝えた。ここで誤算だったのは、好意を伝えあったさきのことを私がよく理解していなかったことだ。

 唇を震わせて「本当に?」と問う彼に微笑んで頷いた私は、力強い腕に抱きしめられて慌てた。温かい彼の体温を間近に感じて、彼から何やら複雑ないい匂いを感じて、何より正面から抱きしめられたせいで自分とは違う彼の胸の厚みや鼓動の早さを直に感じて、私の心はわけのわからない感情でいっぱいになってしまった。


「アレクセイ。アレクセイ、ちょっと苦しい……」


 いつもは私への配慮に満ちた彼が、そのときだけは少しの間、私の言葉を聞かなかった。とは言え、私も本当に放してほしいのかは疑わしい状態だったので、それ以上は何も言わなかった。


「……ごめん、嬉しくて」


 しばらくしてからやっと腕を解いた彼は、見間違いでなければ少し涙ぐんでいるように見えた。それを見て、私も目頭が熱くなった。俯いてごまかしたけれど、彼は気づいたかもしれない。ともかく、誰かと気持ちが通じ合うことが、温かくて幸せで、泣きたいようなせつなさを伴うものなのだと、私はその日初めて知った。

 その日から私たちは、植物園でおしゃべりをする仲から、少し特別な関係になったのだ。





 大きな鞄を抱えたまま研究室へ行くと、教授はちょうどお茶をいれてひと休みしているところだった。毎年うまくいっていない年末の大掃除を、今年も始めたらしい。いつも散らかっている研究室が、整理しようとして引っ張り出されたものたちでいつも以上にぐちゃぐちゃになっていた。

 すぐに暖かい室内に招きいれられた私は、お茶とお菓子を進められたが固辞した。普段ならば喜んでお相伴にあずかるところだけれど、今日は列車の時間がある。ひとまず今日のうちに、学園の近辺から離れたかった。


「そういえばその荷物は? アレクセイくんと旅行でもするのかい?」


 何とか座る場所だけは確保されているソファに腰をかけると、教授がお茶をすすりながらたずねてきた。この時期はどこも寒いけど、その分あったかい食べ物がおいしいね、とのんきに話す教授に、後ろめたさが募る。いっそ旅行ということにしてしまおうかとも思ったけれど、すぐにその考えは打ち消した。もう会えないかもしれないからこそ、学園を出て行くのだと伝えなくては――でも、彼には? 彼には話せない。顔を合わせられない。

 私は彼が好きだ。心から。会ってしまえば、自分がどうなるかなんて想像に難くない。


 学園を出ていく理由は用意してあった。元々、学園で学び終えたらこの町を離れるつもりだということは入学した当初に伝えてあった。では何故それよりも早く出て行くのか。お金だ。

 専攻科目を除く座学の成績上位者が受けられる学費免除制度を利用してはいるものの、学園で学び、寮で暮らすのはただではない。母が遺してくれたお金でなんとかしていたが、それが無くなってしまいそうだ、工面できるまでは休学する、という半分真実で半分嘘っぱちの理由を伝えると、教授はもちろん渋い顔をした。


「君……アレクセイくんには相談したのか?」

「していません。手紙を置いてきました」


 彼は冬季休暇の始まった一昨日から実家に帰っていた。休暇前に聞いた予定では、早ければ今日、遅くとも明日の夕方には学園に戻ってきてしまう。残っている学生の少ない学園で、休暇を私と過ごすために。会ってしまえば彼のもとを去る決意が揺らいでしまうのは明白だった。だから、なるべく早めにここを出るつもりでいたのだ。


「それはよくない。ちゃんと話をしなさい。君たちは遊びでほんの数か月付き合った仲ではないだろう」


 教授は難しい顔でそう言った。15歳で学園に入学して、初めは本当にずっと一人だった私の面倒を見てくれたのはこの教授だ。行きすぎなことを承知で言うと、親のように思っている部分もあった。教授が本当の親だったら、と想像したこともあった。結論は「この人が親だったら研究の手伝いやら後始末やら部屋の片付けやらで大変」だったが、本当に頼りになる人だということは確かだ。けれどその教授に言われても、気持ちは変わらない。


「もう、決めたんです」


 まっすぐ教授を見つめて言う。それっきり押し黙った私に教授は心配そうな顔をしたが、何も言わなかった。





 私は本当に世間知らずだった。ほんの少し前までは、それでいいと思っていた。自分の世界に必要なものだけあればいいと。それがとんだ間違いで、恥ずべき勘違いだということに気づいたときが、「私は彼にふさわしくない」と思った最初の瞬間だった。

 私はそもそも「自分の世界に必要なもの」、つまり彼についても、完全に知っていたわけではなかった。これを言ったら学園中の人に笑われそうだが、私は本当にその瞬間まで、自分と彼が特別な関係であることに何の疑問も不安も抱いていなかったのだ。


 気づきは身近に転がっていた。私と彼は専攻学科も違えば基礎学術の学級も違うので、普段はすれ違うことも稀だ。専攻の特殊性も相まって、彼の方が講義や鍛錬の拘束時間が長いため、講義のある平日に会うとしたら夜だけだった。

 学園内では学年問わず名前と顔の知れている彼に、親しく会う仲の人がいないのかは常に注目の的になっていたが、私も彼もうまく隠せていたと思う。

 ひとえに、彼が自分の一挙一動に集まる衆目の多さを理解して、私が不便な思いをしないように心がけてくれたおかげだ。私と彼が特別な関係であることを知っているのは、彼の親しい友人何人かと、教授くらいのものだった。

 学園生活が1年を過ぎる頃にようやくできた、気の合う友人――彼女も私も、自分の専攻科目に熱心過ぎるほどに取り組み、運動が苦手という点が似ていた――にも、彼との関係は伝えていなかった。

 ところが冬季休暇の迫ったある日、いつものように並んで基礎学術の講義を受けようとしているときに、その友人の口から彼の名前を聞いたのだ。


「来年はいよいよ最高学年かあ。私たちの代から自治会役員が出るね」

「自治会?」

「ほら、実家の影響力が大きい人たちやら野心のある人たちやらで色々やってるじゃない。各専攻の研究費とか、課外活動費とかの管理したり、学園内の催しものやったりとか」


 そういえばそんな団体もあった気がする。日々講義を受け、復習予習をし、薬学の座学と実習を繰り返している私は、いまだに学園内のことに疎いふしがあった。それでいいと思っていたのだ。

 必要なことだけ知っていれば、学園内のあらゆる事情に精通する必要なんてないと。


「私たちの学年で言えば筆頭候補はアレクセイだよね。やっぱり自治会に入るのかな」

「アレクセイ?」

「やだ、アレクセイは知ってるでしょ? 剣術科の……」

「知ってるけど……彼もその自治会に入るの?」

「だって四聖家の出身じゃない。あのへんの家の人たちは多分今までみんな入ってたんじゃないかな」


 私は黙り込んだ。四聖家? 初めて聞く言葉だった。ぴんと来ていない私の表情を見て、友人はなおも続けた。


「もしかして四聖家を知らないの? もー……植物園にばっかこもってるからそんな隠遁者みたいになっちゃうんだよ。教会の支援をたんまりして色んなところに幅を利かせてるお金持ちたちじゃない」

「……アレクセイも、その家の出なの?」

「そう。確か四聖家の中で2番目くらいに大きいとこだったかな? でも、他にたくさんいる鼻持ちならないお金持ちとは違って、品行方正で誰に対しても親切らしいし。彼なら役員になっても反発は少ないだろうって、最近みんな話してるけど」


 友人がそう言った後、すぐに基礎学術の教授が入ってきたので、私たちは口をつぐんだ。もう少し話を聞きたかったけれど、講義が始まってしまってそれは叶わなかった。

 もしかしたら自分は大切なことを知らないのかもしれない。味わったことのない灰色の不安が頭を占め、その日の講義には全く身が入らなかった。





「あれミリアンさん、どこか出かけるの?」


 学園の通用門へと急いでいた私は、聞き覚えのある声に足を止めた。振り返ると、彼の友人が立っていた。私と彼の関係を知っている数少ない人の一人だ。研究室に残って仕上げなきゃいけない資料があってさ、と笑う彼の友人は、確かに片手に紙の束を抱えている。制服のガウンにストールを巻いてもまだ寒そうに肩をすくめている。まっすぐ駅に向かうつもりでいた私は焦った。


「ええと……知り合いのところに。年末を過ごさないか、って誘われたんです」

「あれ、今年もアレクセイと学園にいるんじゃなかったの? アレクセイ、今日の夜にはこっちに戻ってくると思うけど……あいつも知ってる?」

「急だったので直接伝えてはいないです。手紙を置いてきました」


 だから大丈夫です、とその場を去ろうとすると、彼の友人は一気に顔色を変えた。こちらに歩み寄ってくると、私の荷物を掴む。油断していた私は、抵抗する間もなく鞄を手放してしまった。


「ちょっ……」

「ミリアンさん、それはまずいよ。アレクセイ、ミリアンさんに会いたくて急いで戻ってくるみたいだから。せめて今日は待っててあげて」

「でも、列車の時間があるので」

「明日ならまだ列車あるでしょ? 切符を買っちゃったならアレクセイが買い直すと思う。ね、ちょっとだけ待ってて。急いで帰ってきたのにミリアンさんがいなかったら、アレクセイすごく落ち込むと思う」


 そんなことは私だってわかっている。今まで私がやむを得ない理由(念のために弁解しておくと、教授の出張の付き添いや体調不良などだ)で彼と会えなかったとき、彼は必ず私に会えなくてどれだけさびしかったか、会えてどれだけ嬉しいかを伝えてくれたから。 そういうとき、私は自分のできる精いっぱいのやり方で彼を慰めたり、甘やかしたりしなくてはならなかった。これは思い出すと少し恥ずかしくなる。

 ともかくこのまま押し問答していては埒があかない。私は彼の友人の手から鞄をひったくると、何も言わずに急いで駆け出した。


「ちょっと! ミリアンさん!」


 彼の友人の焦る叫び声を背に、私はひたすら走った。


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