朝
ここにいてはだめだ。そう思った。そもそもが釣り合わなかったのだ。どうして今まで平気でいられたのか、自分でも不思議なくらいだった。これで夢から醒めることができた。良かったのだ。そう思おうとした。
少し、胸がしめつけられるような心地がした。
無言で鞄に物を詰めていく。この学園に来るまでは、どこに暮らすにしてもすぐに出ていけるように最小限の荷物しか広げていなかったのに、今回はどうも油断していた。五年間まるまるこの学園にいるつもりだったのだから仕方ない。ここを追われることはないだろうと安心しきっていたのだ。結局、追われるわけではなく、自分から出ていくのだけど。
『ひとつ、あなたに忠告をしてあげる』
つい先日、親切な級友にかけられた言葉を反芻する。
『あのね、あなたが親しくしているアレクセイは、今後何人もの女の子と仲良くなるわよ』
ずっと俯いていたからか、耳にかけていた髪の毛が落ちてきた。顔の横でゆらゆらと揺れるそれが邪魔で、耳にかけ直すけれど、また落ちてきてしまう。諦めてそのままにする。
『私には分かるの。知ってるのよ、何が起こるのか。まずは最近転入してきた、アディール・フォンタナ嬢。美人で優秀な高嶺の花である彼女は、文武両道のアレクセイに惹かれるの』
荷物を詰める手が止まってしまった。彼にもらった、ペンダントの入った箱を手に取ったからだ。
しっかりとした天鵞絨張りの箱の中には、深い深い緑色の石を嵌め込んだペンダントが入っている。もらったけれど自分には釣り合わない気がして、とうとう一度も身に付けられなかった。毎晩そっと取り出して、眺めるだけで満足だった。
そうだ。眺めるだけで、満足するべきだったのだ。彼のことも。
『もっといるわ。医療室のリアンドラ女史。それに上級生のサラ・ネスィー嬢。下級生のマルグリット・マース嬢。彼女たち皆が、アレクセイに夢中になる。彼もそれに応えるわ。彼はいわゆる特権階級だもの』
美男美女のハーレム完成ってわけね――とにっこりと唇を歪めていた級友の顔を思い出す。彼女、全く仲良くなかった私にこんなことを言ってくるなんて、不思議な人だ。そんな彼女の言葉をあっさり信じてしまう私はどうかしているのかもしれない。でも納得してしまったのだ。私では釣り合わない、私はいつか捨てられる、ということに。
いけない。そんなつもりはないのに、目の奥が熱くなってしまった。鼻水も垂れてくる。ずずっと鼻をすすって、私は荷造りを再開した。
ペンダントの箱は置いていくことにする。持って行っても、辛いだけだから。
彼と最初に出会ったのは、学園の植物園だった。様々な学科と、それを専門に研究する優秀な教授・学生たちが集うこの学園で、薬学科の植物園は目立たない存在だ。門から遠く離れた学園の端にあり、いつもじめじめとしている人気のないその場所が、入学してから一向に友人のできなかった私は大好きだった。
そんな場所に、初めて私以外の学生が入ってきたのは、学園に入ってから半年経った、半学期に一度ある試験が終わったあたりだった。
試験が終わり、その日は久しぶりに試験勉強をする必要がない休日だった。寮生である私は学園に隣接している寮からすぐに植物園に行けるので、休日も大抵は植物園で時間を過ごしていた。本を持ち込んで読みふけったり、植物のスケッチをしたり、余計な草が生えていないか確認した
り、時にはお昼寝をしたりと、過ごし方は様々だ。
その時、私は植物園の中にいくつかあるベンチの内、お気に入りの一つに腰かけーーいや、もっとだらしなかった。誰も来ないからとたかをくくっていた私は、持ち込んだクッションを背中に当て、靴を脱いでさながら寝椅子のように脚を上げてベンチを使っていた。そこにいきなり、草をかき分ける音と共に、彼が現れたのだ。
驚いた私は声が出せなかった。ただ、だらしない姿勢だけは取り繕おうと、慌てて上体を起こして脚をベンチから下ろし、読んでいた本を膝の上に置いた。
しばらくの間、闖入者と私は無言で見つめ合ってしまった。その間に、目の前の迷子らしき人物が同学年で、入学直後の学科別試験では剣術科の主席となり、座学もできる秀才、更に顔立ちが整っていることでも有名な男子だということを思い出した。そもそもの専攻学科も基礎学術の学級も違う私が知っているくらいには、有名人だったのだ。
「すまない。邪魔をした」
彼はしばらく無言で突っ立っていたあと、そう言った。そして歩き出した方向が、植物園の出入り口とは全くの別方向だったものだから、私は思わず声をかけてしまった。
「ちょっと待ってください、どこへ行くつもりですか」
「出口だが」
「そっちは出口じゃない。進むと取扱注意植物が植えられている所です」
彼はため息をついて歩みを止め、こちらを振り返った。
「……実は全く道がわからないんだ。もし良ければ、案内してくれないか? 君はここに詳しいんだろう」
もちろん、と私は頷いた。正直なことを言ってしまうと、彼への親切心からではなく、勝手のわからない人に歩き回られて大事な植物をめちゃくちゃにされてはかなわない、と思ったからだ。
横に並ぶと、彼は思ったよりも背が高いということに気がついた。運動をした後なのだろうか、息切れしている様子はなかったのに、彼の身体から熱が発せられているようで私は落ち着かない気持ちになった。
「……あなたは」
ん? とでも言うように彼がこちらを見た。沈黙に耐えかねて思わず話しかけてしまったけれど、あからさまに嫌がられているようには見えなかったので少し安心する。
「剣術科の人ですよね。休日も、鍛錬しているんですか?」
「ああ、そうだよ。休日でも、数時間は身体を動かすようにしている」
返ってきたのは予想通り真面目な答えで、半分わかっていたことだけれど感心してしまう。私なら休日にまで身体を動かすなんて、そんな億劫なことはできない。じっと植物を眺めて座っている方が良い。
「そういう君は、薬学専攻だよな」
「知ってるんですか?」
「もちろん。同期だろう。座学学年四位の顔くらいは知ってる」
そういうあなたは二位じゃない、嫌味なの? と口にしそうになって、すんでのところで飲み込む。悪気がないのは淡々とした口調と表情から見てとれた。わざわざ突っかかって、心証を悪くすることもないだろう。私は曖昧に笑って、その場をしのいだ。彼がこのとき、私の名前を知っていたのかはわからない。お互い名乗りはしなかったし、私はこのとき、彼とはこれっきり接することはないだろうと思っていた。
薬学の教授には挨拶をしないといけないだろう。三年と数ヶ月の学園生活だったけれど、教授以上に頼れる大人はいなかった。学業以外のことも話せたし、講義以外でも気兼ねせず時間を過ごせた。私の勝手な思い込みでなければ、教授も私を可愛がってくれていたように思う。数少ない担当学生の中で、私が一番教授の専門に近く、人一倍熱心だったこともあるだろう。
故郷の村では「魔女」と忌み嫌われてきた母の薬作りが、都市に出てみればなんてことのない薬学の一部として浸透していることを知ったのは十二のときだった。
肩透かしを喰らったような気持ちと共に、私たち母娘を散々に罵り虐げていた村の人間を許すことができた。彼らはあの狭い世界からほとんど出ることなく一生を終える。けれど自分はこれから、より広い世界で多くのことを学べる。村にいたときは、自分が一番恵まれない子どもだと思っていた。でも実のところは逆だったのだ。
私は果報者だと思う。こんなに立派な学園で、充実した学習の機会を与えられて、ひとときではあったけれど、きっと誰もが見れるわけではない甘い夢を見ることもできた。
荷物をまとめ終わって、がらんどうになった部屋を見渡す。物を広げすぎていたように思えた部屋も、片付いてしまえば寂しいものだった。
窓際を見て、ふと彼がこの部屋に忍び込んできたことを思い出してしまった。
基本的には、男女別に別れている寮に異性が立ち入ることは禁止されている。けれどそれなりの関係であるならば、管理人に見つからないよう忍び込んで良し、という暗黙の了解もあるのだ。幾多の先輩方の例に漏れず、私たちが特別な関係になってから、彼も私の部屋を何度も訪れた。
やって来るのは大抵日付が変わる直前で、私が就寝する前の時間帯だ。初めの頃、彼は何かしらの出来事によって落ち込んでいるときに、私の部屋を訪れた。何をするでもなく、隣に体温を感じられる距離で寄り添いながら、ぽつりぽつりとあったことを話していく。私は手遊びに彼の大きな手にちょっかいを出したり、寝る前のお茶を飲んだりしながら相づちを打つ。
しばらくして気が済むと彼は帰って行った。初めの二、三回は名残惜しげに手を握るだけだったのが、その内に別れ際に抱き締められるようになり、そっと口づけをしていくようになるまではそんなに時間がかからなかったように思う。優しく触れる彼の唇の感触を思い出して、私は思わず自分の乾いた唇に触れた。
初めて口づけされたときには恥ずかしくて仕方がなかったのに、回数を重ねるごとに自然なことだと思えるようになっていった。むしろ今まで何故していなかったのか、こうして唇を重ねて体温を分け合うのは、ごく当たり前のことなのに──とまで思うようになっていたのだ。もう温かさを分かち合う相手はいない。そのことに慣れるまで、どのくらいかかるだろうか。不毛なことを考えてしまって、私は頭を振った。
よいしょ、と膝に手をついて立ち上がる。今が冬季休暇中で幸いだった。実家に帰る学生が多いから荷物を持っていても怪しまれないし、外套の下にたくさん着込んだから鞄に入れる分の衣類はさほど嵩張らなかった。母のお下がりの古びた旅行鞄を持って、部屋の扉を開ける。一歩外へ踏み出して、私は過去と決別した。