邂逅
4月17日。華の金曜日ということもあり、放課後になるのが待ち遠しかった。
部活に所属していない生徒からすれば、金曜日の授業は週末休みへのカウントダウンに過ぎず、まして普通科最底辺のG組の悟史からすれば、尚更身の入らない一日だった。
天気は雨の降る気配の一切無い快晴で、涼しさは残るものの直射日光の強い、少しばかり春から夏への移行を感じるものだった。4月の中旬ですらこの気候なのだから、やはり地球の温暖化は着実に進んでいるのだなと、悟史は昼下がりの授業を右から左へと流しつつぼんやりと考えていた。
夏の思いやられる、この暑さ。衣替えも本気で考えるべきなのだろうか。黒坂高校は基本的に自由なシステムが多く、衣替えも例外ではなかった。一律で替える期間は設けられておらず、各自自由に行っていたのだ。そのため、たまに真夏でも学ランを着込んだり、真冬でも半袖で過ごす生徒もちらほら見受けられるという。
「おっ、笹ヶ原。いいとこに来たな」
「・・・・げっ」
放課後。退屈な授業がようやく終わり、いよいよ楽しい週末を過ごそうと口元に漏れ出た涎を拭きつつ廊下をうろついていると、不意に背中に、名指しで声を投げかけられた。
「お前、暇だろう?
ちょいと頼まれてくれんか?」
そう野太い声で熱烈なラブコールを送ってきたのは、生徒指導教諭の“鍋崎 隆弘”だった。十年ほど前からこの黒坂に赴任してきて以来、元不良の生徒が悉く大人しくなっていると評判の教員で、見た目もゴリラを擬人化したような筋肉ダルマである。
身長一八八センチ、体重一〇三キロ。剣道、柔道共に四段を允可され、腕が小柄な女子生徒の腿くらいの太さを誇る、とても同じ人間とは思えない体躯の持ち主で、悟史もさすがに彼には容易に喧嘩を売ろうとは思わなかった。
「・・・帰りたいんすけど」
「お前、部活に入ってないんだろう?
だったら暇だろう。なあ、頼むよ」
彼の頼みは、お願いとは言えない程の圧力を帯びていた。悟史は本音を一切隠さずに正直に答えたにも関わらず、この態度である。
「・・・マジに言ってんすか」
「もちろん私も手伝うし、人手ならもう一人いてな。
だがたった二人では如何せん心許無いのでな、せめてもう一人、できれば男手が欲しかったのだ」
そう笑いながら、鍋崎はあたかも悟史が自分の頼みを快諾したかのように、彼の肩をばしばしと叩いた。
「なに、簡単な仕事だ。
視聴覚室の机と椅子を、会議室の方へと移動させたいのだよ」
「・・・視聴覚室っちどこでしたっけ?」
「B棟の一階の西側の端だな」
「・・・会議室は?」
「K棟の三階の東側の端だ」
「失礼します」
B棟とK棟は、大学並みに広い黒坂高校の、東西のそれぞれの端に位置する校舎である。その上、更にその最端となるとあまりに遠すぎる。距離にして、ざっと四〇〇メートルはあるのではないだろうか。
しかし、すぐさま踵を返した悟史の襟首を、鍋崎は彼が走り出すよりも早く掴み取った。
「ぐぇっ!」
「まあまあ、そう言うな。
手伝ってくれたら、今度昼飯に購買の好きなヤツのひとつやふたつ、奢ってやるから」
そう笑いながら、鍋崎は抵抗を早々に諦めた悟史を視聴覚室へと引きずって行った。
「もう一人の助っ人っち誰なんやろ」
移動途中、巻き込み被害を受け共に視聴覚室に連れてこられた梨花は、溜め息混じりに呟いた。
「さあな。
どうでもええけん、早う終わらせて帰りてえわ」
鍋崎は梨花の幼い頃から通う合氣道場の指導者らしく、彼女とは旧知の仲らしい。そのため、助っ人を捜しているゴリラに遭遇してしまった時点で彼女にもまた手伝う以外の選択肢は残されていなかった。
「鍋崎先生、悪い人やないんやけど、たまに横暴なんよな」
「悪い人も何も、ありゃ服着たゴリラやんけ」
「そういや、悟史抵抗せんやったんやね」
「・・・・しねーよ、めんどくさい」
移動予定の椅子の一つにそれぞれ腰を下ろし、二人は他愛のない言葉を交わした。
「つか、なに待ちなん? これ」
「助っ人の到着待ちでしょ?
助っ人っち言うか、むしろ本来その人の仕事らしいけど」
要するに、彼ら二人はとある生徒の請け負っていた仕事を半ば強引に手伝わされるということである。
「ふざけんなよ・・・。
自分の仕事ぐらい自分でやれや・・・」
「・・・まあ、確かにこれだけの量の机と椅子を会議室までっち、独りじゃ無理やけど」
そう言って二人が振り返ると、そこには少なくとも五〇組はくだらないほどの机と椅子が山積みにされていた。
「・・・まあ、なんでもええけどさ。
とりあえず早よ来てくれんかな」
悟史は若干の苛立ちを感じていた。彼は放課後帰って後、優の分を含めた夕飯を作らねばならず、あまり帰るのが遅くなるわけにはいかなかったのだ。そもそも、この日は華の金曜日であり、そんな日のしかも放課後にこのような理の通らない拘束をされてしまっては、それでなくとも不満が溜まるというものである。
「そういや、名前も聞いとらんもんね」
「ったく、あのゴリラ・・・」
梨花も、こればかりは苦笑いするほかになかった。
それから、一〇分ほど経った頃。
一日の疲れが押し寄せてか、二人してウトウトしていたちょうどその時だった。すっかり人の気配のなくなった屋内で微かに響いてくる足音を、悟史は敏感に察知した。
「・・・・・」
鍋崎のものではなかった。彼の足取りにしてはあまりに軽やかで、拍も若干早かった。恐らく、例の助っ人とやらだろう。手伝わせる立場でありながら遅刻し、その上のんびり歩いてくるとは随分な身分だと、悟史は文句の一つでも言ってやろうと、隣で呑気に眠っている梨花をよそに、考えを巡らした。
「やっとか・・・・」
段々と近づいてくる足音に、悟史は立ち上がることは出来なかったので、足を組み、むしろ椅子にふんぞり返り、その主の到着を待ち受けた。
時刻は、午後五時半を回っていた。西陽がガラス張りの壁から差し込み、彼らと、その後ろに積み重なった無機質な山の影を長く長く伸ばす。その様子は、入り口側からはおおよそ、大いなる存在であるかのように、畏怖の念を掻き立てるようなシルエットとして映ったことだろう。
その時。
遂に響いていた足音はそのリズムを絶やし、その主は静かに入り口の引き戸を開いた。
「――――――――ッ」
思わず、息を呑んだ。思わぬうちに、その姿を目にした瞬間、これまで考えていた文句の数々も、苛立っていた心の荒波も、何もかもが一瞬にして消し飛ばされてしまったのだ。
それは、まるで一つの芸術作品のようだった。
新雪のように透き通った、白い肌。その美麗さに反して、彫りの深い日本人離れした美しい顔立ち。それを強調するかのような、筋の通った小ぶりな鼻に、きりっと伸びた、整った眉。目じりの吊り上がった、長い睫毛に覆われた二重の瞼に、一点の曇りもない澄んだ碧色の大きな瞳。桃色に艶光りする唇からは、真っ白に輝く歯が覗く。
絹糸のようにきめ細かい、肩まで伸びた黒髪は黄寄りの橙色をしたヘアバンドの助けもあってか一糸乱れぬ整列ぶりを見せ、受けた西陽をまっすぐに受け、幾重にも輝きを重ねていた。
また、細く伸びた手足はまるで一流のファッションモデルのようで、その華奢な身体に見合わぬほどのふくらみが、彼女の制服の胸元を押し上げていた。
ただでさえ、彼女は美しかった。だが、それだけでは終わらなかった。差し込んだ真っ赤な夕日の閃光が、彼女を穿たんとその手を伸ばし、ぶつかり、弾かれ、そうして彼女に陰影を濃くすることで、より秀麗なものとしていたのだ。
「あ・・・、えっと、ごめんなさい・・・?
間違っていたら申し訳ないのだけれど、貴方が笹ヶ原君?」
あまりに美しい彼女の容姿に見惚れていると、不意に彼女の方から話しかけられた。
「ぁ――――、はい、そう・・・です」
「そっか・・・。
うん、来てくれてありがとう。
三年の、空野です。よろしくね」
たどたどしく返事をすると、彼女は少しだけ、俯き、何かを確信したように頷いて、そして女神の如き微笑みを零した。
そう、この美しすぎる女子生徒こそ、件の“空野 有利砂”だった。