雨の日の相談事
4月15日。この日は朝から雨が降っていた。
「しまったな・・・・。
洗濯モン、昨日のうちに干しときゃよかった・・・」
朝も早くからため息をつきながら、悟史は朝食の準備にいそしんでいた。大降りではないものの、しとしとと外から聞こえてくる雨音は、学校に着くまでに靴の中をじっとりと湿らすには十分そうに感じた。
雨は嫌いだ。雨が降った日には、必ず嫌なことが起こる。
あの時も、あの時も、あの時も・・・・。雨を見ると、雨と聞くと、それがたとえ臭いや冷たい感触だったとしても、次に連想するのはいつも、血の混じった昔の記憶だ。
自分だけが立ち合うことのできなかった交通事故。頭にきた相手を徹底的に殴りつくした、ケンカとも言えないような一方的な暴力。逆に手も足も出ないくらいに叩きのめされた、当時の感触。
とにかく雨に関する記憶にはろくなものがない。ろくな人生を送っていないのだから当然と云えば当然のことなのだが、それにしても残った記憶の質の悪さといえば、酷いものだった。
「やな日やな・・・」
しかも、この日は水曜日。一週間の真ん中で、最もやる気が中だるみしやすい曜日である。
「今日は笹ヶ原君、教室におるんや・・・。
居辛いなぁ・・・」
「しかも起きとるし・・・」
休み時間になれば、クラスメイトのひそひそ話が自然と耳に入ってくる。望まなくとも、向こうから勝手に寄って来るのだから尚更タチが悪い。
「悟史」
ふと耳に入ってきたのは、よく聞き慣れた声だった。
「・・・・なんや、梨花か」
「なんやっち何よ、残念そうな顔して」
少し気怠い声でつぶやくと、彼女はしかめ面をしながら悟史の目の席に、彼の方を向いて座った。
「雨、止まんねぇ。ここ最近雨多くない?」
「午後には止むっち朝テレビで言いよったばい」
そうなんや、と自分から切り出した話題に、彼女は氣の抜けた適当な返事を返した。
「で、何?
そんなこと言いに来たんとちゃうやろ?」
「・・・まぁね」
そう溜め息混じりに頷いた梨花の表情は、彼女とあまり交流がない者でも分かるであろうほどに虚ろであった。
「じつは、蒼さんのことなんやけど」
「? あいつが何か?」
“蒼”というのは、二年ほど前から梨花の姉である“福富 華菜”と付き合っている珍妙な外国人の男で、とある件をきっかけに悟史と仲の良くなった、数少ない彼の友人である。
「ん・・・、実は、ここしばらく連絡が取れんっち言うんよね・・・・。
あんだけ仲のいいカップルなのに、なしてよっち聞いても、お姉ちゃん自身も何でか分からんらしくて・・・・」
「は?
あいつ、元々いつどこにおるか分からん神出鬼没な奴やんけ」
「いや、それはそうなんやけど・・・・」
普段は男相手でも平気でしばき倒すような梨花が、いつになくしおらしくなっていた。
「・・・連絡が取れんっち言うんは、いつからなん?」
「確か、先週の金曜くらいかららしいんやけど・・・」
そもそも、何の仕事をしているかも分からないような男である。お金だけはどこからか仕入れてくるのだが、とにかく謎の多い人物だった。それに、仕事という理由で度々消息を絶つことも珍しくはなかったため、悟史は特に心配もしていなかった。
「まあ、アイツのことはお前とか華菜さんとか、優と同じくらい信用しとるけん大丈夫やろ」
「そうとは信じたいんやけど、問題はお姉ちゃんの方よ」
梨花は、疲れたようにため息交じりでそう呟いた。
「ん? 華菜さん、なんかあったんか?」
「・・・流石に気になっとるんやと思うんよな。
最近、暇さえありゃ溜め息ばっかついとるし」
福富華菜は、馬鹿がつくほどのお人好しだった。また、底無しに明るい性格で、彼女が暗い顔、或いは涙を見せたのは、かつて悟史が暴走の限りを尽くしていた頃の一度だけだったのだ。
いつもにこにこしており、たまに鬱陶しく感じるほど朗らかな彼女が、梨花が心配になるくらいため息をついているというのは、確かに尋常ではなかった。
「・・・・華菜さんはなんち?」
「口ではね、心配なんかしとらんっち言うんよ。
態度には出まくっとるけどな」
梨花までため息をつく事態に、悟史も頭を抱えた。彼女らは彼にとって無二の恩人であるため、力を尽くさないわけにはいかない。しかし、蒼という男がいつ、どのようなことをどこでやっているかなど、思えば何一つ知らなかった。
冷静に考えれば、彼以上に怪しい男など居るはずもないのだが、彼にはその疑いを晴らすだけの人格が備わっていた。だからこそ、彼が訊いて欲しくないと頼めば、その通りにしていたのである。
「・・・・とりあえず、もうちょい様子を見ようぜ。
今週末までに何も変化が無けりゃあ、三人で探ってみようや」
「・・・そうやね。それしか、ないか・・・」
話に束の間の落ちがついたところで、見計らったように休み時間の終了を告げる鐘が校内に響き渡った。