増え続ける謎
時計も無いこの真っ白な部屋では、時間も分からなかった。帰れるとは言っていたものの、それは今すぐにでもというわけではないのだろうか。夕飯を作りに行った伊琉を見送り、悟史は独りベッドの上に仰向けに身体を投げ出した。
そこでふと、自分の身体が自由に、何のリスクも無く動かせていることに気づいた。
「あれ・・・・」
彼の最後の記憶では、彼の身体は死ぬ直前にまで達し、瀕死状態だった。各所の骨は折られ砕かれ、肩やふくらはぎは肉を一部抉られ、背面のうなじから腰にかけては満面に、割れた皿の破片やナイフ、フォークなどの食器、包丁やアイスピックなどもところどころ突き刺さり、身体右側面には突き破って後下敷きにした窓ガラスの破片がびっしりと食い込み刺さり、もはや生きていること自体が奇跡のような状態だった。
しかし、今の彼の身体には包帯などの治療した形跡はおろか、一切の傷跡も残ってはいなかった。ぐねぐねと体中の関節を動かしてみても痛みは一切無く、違和感も無く、健康体そのものだった。
「・・・・・魔術、ねぇ」
あれだけの傷が完治するには、相当な時間を要するはずである。それでも、多少の後遺症や傷痕くらいは残りそうなものだが、そういったものも全く見受けられなかった。このような不可思議な現象は、感覚としては空野の技にも通ずるものがあり、やはりこれも魔術の為すところなのかと、悟史は半ば強引に自分を説得した。
「おや、気づいたのかい」
のんびりと寝転がっていたところに、ふと聞き慣れない、ずいぶんと年老いた声を耳にした。
「・・・?」
「ふむ、元気そうでなによりなにより」
部屋の入口に、一人の小さな老人が佇んでいた。背はまるで小学生のように小さく、上裸でいられるくらいには暖かいはずの部屋であっても随分と厚着をしており、肥え具合までは分からなかった。
性別もまた不明で、声から判断するのは難しかった。しかし、ニット帽からは毛髪が一切はみ出ていないことから、どうやら男性である可能性が高かった。
「貴方は・・・?」
「ほっほ、何も聞いとらんのかね?
まあ、よかろうが」
そう言って、老人は何のためらいも無く彼の近くへと歩み寄り、ベッドの一端に腰を下ろした。足が届かないくらいには小柄なその老人は、悟史の方を振り向くとにこりと笑った。
「すまんかったのう、悟史や。
有利砂が、あとちょっとでお前さんを殺すところだったわい」
かっかっかと高らかに笑う老人に、悟史は怪訝な顔をした。
「・・・あの、貴方は?」
再度、同じ質問を繰り返した。
「ああ、ほうかほうか。何も聞かなんだな。
なに、わしゃしがない隠居じゃよ。
訳あって、有利砂と伊琉の面倒を見ておる暇を持て余した老いぼれじゃ」
「・・・あなたが、二人の」
どうやら、伊琉が繰り返し口にしていた“おじいちゃん”とはこの老人のことだったらしい。
「帰りたいかの?」
「え?」
「家に、帰りたがっておるように見えるが」
「・・・・そりゃ、まあ」
老人は、満面に笑顔を浮かべたまま話していた。空野はどうか知らないが、伊琉の天真爛漫な性格はこの人譲りなのかもしれない。
「ここをお前さんの家じゃぁ思うてもええんじゃぞ?」
「なにを、馬鹿な・・・。
笑えませんよ」
「かっかっか! ほうかほうか!
ここはお前さんにとっても無関係な場所じゃあないけどのう!」
「え・・・?」
老人は、何かを知っているようだった。しかし、先程の伊琉の説明といい学校での空野の襲撃といい、悟史は身も心も限界などとうに超えて疲れていた。
「空野の保護者っちことは、あいつもいるんですか?
やったら、尚更嫌ですよ」
「ああ、そりゃそうじゃろう!
あやつは一応謹慎処分に遭ってはおるが、暴れても止められるもんなぞおらんけえのう!」
「やっぱ、強いんですか?」
「お前さんもよう知っとるじゃろ。あやつは天才じゃし、伊琉でも止めるこたあ出来んわい。
まあ、防止は出来ても制止はできんの」
伊琉の言っていたことも、まんざらでもないらしい。
「何故、そんなに帰りたがるんじゃ?
それほど今の生活に満ち足りておったんか?」
「・・・・それは」
老人の質問に、悟史は少しばかり答えを言い淀んでしまった。今の生活は、確かにバランスも取れており不自由は無かった。比較的やりたいことをさせてもらっており、人間関係も高校に上がったことによって中学時代よりはマシになっていた。
しかし、長い目で見た時には果たしてどうなのであろうか。経済面は福富家による全面的な扶養で保管されている故に、大学に行くよりはさっさと働いて孝行をした方が良いのではないのだろうか。しかし、先日蒼に言われた通り、前科を大量に持つ悟史が果たして自分だけでなく従姉の優を養い、まして福富の両親へ恩返しをするだけの稼ぎを得ることは出来るのであろうか。そう考えると、満ち足りているのは『今』だけのような気さえした。
――――しかし、それでも。
「・・・帰るところがあるんで。
訳あって肉親がたった一人しかいない身とすれば、アイツを見捨てるわけにはいきません」
帰る理由は他にもたくさんあったが、やはり今の悟史の中で最も思いを馳せるのは従姉だった。彼と同じく家族を失った彼女から、自分までも離れるわけにはいかなかった。
しかし、老人の反応は予想外のものだった。
「肉親? お前さん、そりゃどういうことじゃ?
崇秀は、死んだんじゃないのか?」
「え――――?」
思わず、悟史は老人の顔を真っ直ぐに見つめ返した。まさか、ここで父の名を耳にするとは微塵にも思っていなかったのである。
「なんで・・・、父さんの名を――――?」
「ほうかほうか! お前さん、肉親が残っておったのか!
なら仕方ないのう!」
「え、ちょっ・・・。
ま、待ってください!」
満足したように納得した老人は、ベッドから降りそのまま部屋を出ていこうとした。しかし、悟史はつい彼を呼び止めた。
「お前さん、帰りたいんじゃないのかの?」
「それは後でもいい!
それよりじいさん、何で父さんのことを――――⁉」
「・・・もし、もう一度ここに来ることがあれば。
お前さんが、それを望むならば。
――――その時は、教えてやろうかいの」
しかし、老人は振り向くことは無く、それだけ言い残すとさっさと部屋を出て行ってしまった。




