明白な、殺意
飛んでいたのはほんのわずかな時間だったらしく、目を覚ました時にはまだ辺りには瓦礫埃が充満していた。
「――――っ」
痛いどころの騒ぎではなかった。恐らく、骨の一本や二本は確実に持っていかれているのだろう。それとは別に、瓦礫に挟まれたり、氷槍に抉られたりと、既に学ランはズタズタになってしまっており、下に着ていた真っ白だったカッターシャツはところどころ穴が空いたり、血で真っ赤に染まったりしていた。
それでも、このような攻撃を受けた場所に留まっているのは至極危険な気がした。命の危険は人間本来の持つ潜在能力を引き出すようで、火事場の馬鹿力ではないが、常時なら寝返りをうつ気すらも起きないほどの怪我を負っていたのだが、悟史は自らに喝を入れ、何とかその場を後にした。
どうやら二階まで落下してしまったらしい。もはや走ることも難しく思えたが、それでも死ぬよりはマシだと思えば案外身体は動いてくれた。
彼のいるC棟の二階は、主に事務関係の部屋が占めていた。進路指導室や校長室など、用が無ければまず訪れることのない階であったが、背に腹は代えられなかった。
調理実習室に逃げ込み、内側から鍵を掛けて、彼は数ある角卓の内のひとつの陰に休憩も兼ねて息をひそめた。
「はぁっ、ハァッ――――」
ダメージ故に、運動量に対して大幅に体力を持っていかれた彼は、肩で息をしながらも必死で頭の中を整理した。
どうやら、今朝から感じ続けていた違和感は空野有利砂が発信元であったらしい。その正体は未だ明らかではないが、少なくとも彼女は何かが違うようであった。果たして人間なのかも分からないのだが、連続して起こる超常現象の数々が彼女を引き金として起きているのは間違いなさそうだ。
そして、何故だか現在この校舎の中には誰一人として人の気配は無く、それどころか風の音も鳥の声も聞こえなかったことからも、何らかの障壁によって空間が隔離されているかのようであった。
まるで夢の中にいるかのような現状に目覚めも期待したが、生憎この全身を覆う痛覚の限りがその現実味を裏付けていた。
「・・・わざわざ調理実習室に逃げ込むなんて」
閑静な廊下に軽快な足音を響かせながら、空野は一人声を張った。
「――――」
休憩も束の間、彼女は何らかの方法で悟史の位置をおおまかに掴んでいるらしい。息も潜め、気配を完全に消し去っているにも関わらず、彼女は特に迷った様子もなく調理室の前で歩を止めた。
「・・・やり過ごせるとでも?」
すりガラス越しに、美しい曲線美を有した悪魔の影が不敵に笑う。同時、室内の食器棚が全て勢いよく戸や引き出しを解放し、その中に保管されていた無数の食器がふわふわと中空を浮遊し始めた。
「――――な」
その光景には、一切彼女の言動に反応を示さなかった悟史も思わず息を呑んだ。その様子を、見えていないはずなのだが、まるで透過して眺めていたかのようにガラス越しに笑った彼女は、一言だけ口にした。
「上手く避けなさい」
彼女の助言とも取れるような呟きに、悟史は思わず立ち上がった。それとほぼ同時、浮遊していたその全てが、彼目掛けて先程の氷の槍とそう変わらない速度で一斉に襲い掛かってきたのである。
「ッ‼」
それは、とても走って躱せるスピードでもなければ、全てを躱しきることなど到底不可能な数だった。悟史の元に届くまで、一秒もかからないのだろう。
だからこそ、悟史はそれらが動き始める一瞬前に駆け出したのだ。この期に及んで、全身の痛みなど気にしていられない。悟史は一心不乱に、すりガラスの向こうの、妖艶な悪魔の元へと扉ごと破る勢いで思い切り跳んだ。
「お――――」
彼女が引き起こしたものであるならば、彼女自身には被害が及ばないように、絶対に安全な領域が確保されているはずである。彼は培われた闘争本能により、考えるよりも先にそれを確信し突っ込んだのだ。
しかし。
「残念。それ、ただの虚像よ」
突き破った引き戸の向こうに、彼女の姿は無かった。割れたガラスを下敷きに倒れ込み、戸惑いながらも彼は反射的に声のする方へと振り向いた。
彼目掛け飛んで来る、無数の皿やナイフの雨あられの奥の方。室内の、つい先程まで彼が隠れていたはずの場所に、彼女は立っていた。
恍惚とした、満面の笑みと共に。
「――――ァ」
しまった、と感じる暇すらも許さないかのように、仰向けに倒れ込んだ彼に、食器の数々が降り注いだ。躱すことを諦めた彼は、反射的に身体を丸め、その雨あられを背中に浴びた。
「――――――――‼‼」
今まで感じたことのないレベルでの、もはや痛みをも超えた苦痛が彼を襲った。声も出ず、叫ぶことすらかなわない、どうしようもない生命の危険。ただでさえ打撲と出血でボロボロだった身体が、更に追い打ちをかけられていく。
ここまで一方的に怪我を負うのは、蒼による制裁以来だった。しかし、あれはあくまで制裁であり、また彼自身が他者に振るってきた暴力の数々も、あくまで戦闘不能の状態にさせることがゴールであった。それは決して、生命のやり取りとまでは到底行かないものだった。
しかし今、彼が感じているこの異常なまでの苦痛。そこには、本気で生命を奪う勢いがあった。何故かは解らないが、空野は本気で悟史を殺そうとしている。それだけは、何よりも確信をもって理解した。
割れたガラス、食器の破片や包丁、フォークなどは細かく彼の全身に突き刺さり、食い込み、鍋やフライパンなどがそれらをより深くまで打ち込んだり骨を砕いたりと、生きている心地などとうの昔に無かった。
我ながら、よく生きているものだと感心する。だがいよいよ身体は言うことを聞かず、動かそうにも信号が脳から末端へと届いていないようだった。うずくまっている身体を伝い、床を紅に染めていく自らの命の水をぼんやりと眺めながら、悟史は頭がうまく働かなくなっていることに気づいた。
「あら、全部受けたのに生きているの?」
コツコツと、渇いた足音を響かせながら近づいてくる彼女の声は、恐ろしいほど無機質だった。およそ彼のことを人として見ていないかのような、慈悲も感情もない声色であった。
「――――ぅ」
彼女は、悟史を殺すことに躊躇いが無い。よく不良学生同士で叫び合うような殺意などとは比較にならない程、純朴な殺害意欲に満ちているのだ。
「くぁっ――――」
声にならない叫びを上げながら、悟史は身体をゆっくりと起こした。筋肉が動く度に体内に侵入した異物が暴れまわっているかのような感覚に見舞われ、激痛が走る。それは強烈な電気信号となって彼の脳をかき回した。
それでも、彼の生来の驚異的な忍耐力が彼を動かし続けた。
「まぁだ動けるの?
なら、いいわ。もう一度だけチャンスをあげるから、逃げなさい」
黒髪の魔女は、そう呟くと彼に背を向けてしまった。朦朧とする頭を必死に振るい動かし、何とか彼女の後ろ姿を視界に捉えたのだが、まばたきをした瞬間にそれは風に吹かれたろうそくの灯火の如く、音も無く消え去った。
「――――――――」
身体は動かない。それでも動かすものだから、生命を削っている実感を得ずにはいられなかった。
これは、ケンカなどという生易しいものではなかった。本気の生命のやり取りであり、同時に空野有利砂という圧倒的な存在による一方的な虐待であった。同じ土俵にすら立たせてもらえない。死すらも厭わない。勝つとか敗けるとか、そんなレベルの話ではないのである。
幾多のケンカを経験してきた中で、常に圧倒的な実力差の下に相手をねじ伏せてきた悟史が、手も足も出ない。それも、蒼の時のように届きそうで届かないのではなく、もはや触れることすら叶わないとも思えるほどにかけ離れた相手である。
屈辱などは無かった。彼はそもそも自らの実力に関してプライドなどというものは持ち合わせていなかったため、誰かに敗れたとしてもさして問題ではなかった。それ以上に、純粋な生命の危機を感じていた。そして、それに対して今までに無いほどの恐怖を感じていたのだ。
「はぁ・・・・、ハァ・・・・」
短く乱れた呼吸を細かく繰り返しながら、とっくに言うことを聞かなくなった身体を振るい動かして彼は、あるかもわからない次の安全圏を探しに行った。




