今となっては良き思い出
雨が降り続けているこの日、ぼんやりと窓の外を眺めながら梨花は数年前の記憶に思いを馳せていた。
「あの日も、雨やったなぁ」
五年前。彼女がまだ十歳の頃であったか。悟史の父である崇秀は、生活に余裕ができ始めた頃に彼の息子三兄弟と福富姉妹の五人を連れて、何度か海に連れて行ってくれたことがあった。
当時、一番下の弟であった大和はまだ四歳で、彼の面倒は崇秀自身が、三兄弟の真ん中だった八歳の恵那は梨花の姉である華菜が面倒を見るという形で、砂浜で遊んだものだった。梨花と悟史はある程度分別を以て行動できる歳だったため、必ず崇秀か華菜の目の届くところで遊ぶという条件で、比較的自由に楽しんでいた。
「なっつかし・・・」
当時から運動神経の良い二人だったが、悟史は水泳だけはどうしてもできなかった。学校の体育でも、水泳だけはクラスで一、二位を争うくらいには下手であった。対し梨花は水泳が、それこそクラスで一、二位を争うくらい得意であったため、散々馬鹿にしたものだった。
現在、果たして彼が泳げるのかは不明だが、ほとんど唯一といっていいほどの弱点だった。その他の競技は全て人並み以上にできていたため、それも相まって泳げないのに頑張る彼を眺めるのがとても楽しかったのだ。
しかし結局、その日は午後からどしゃ降りになってしまい、もっと遊びたかったとごねる恵那と大和をあやしながら帰路についたものだ。
「――――」
G組の授業は、梨花にはあまりにも退屈過ぎた。元々彼女は県内トップの進学校である奈艶高校にも一般入試で受かるほどの頭脳の持ち主である。しかし、中学の頃に悟史があまりに荒れた時期があり、その再発防止や管理役として結局奈艶を蹴って黒坂に入学したのだが、同じ理由で彼女は悟史と同じ、普通科の一番下のクラスに配属されていた。
実際、四月ももう終わろうという時期にも関わらず、どの教科でも未だに中学校で習う範囲を教えているのだ。もはや復習にすらならない授業に梨花も暇を持て余し、教師もそれを察してか彼女には何も口出しをすることもなかった。
「あーあ」
窓ガラスに張り付いた水滴の数々をぼんやりと眺める。重みに耐えられなくなった水滴は他の滴を巻き込み、吸収しつつ下へ下へと滑っていき、その速度も大きくなるにつれて加速していった。
思えば、悟史の父は親ぐるみでの付き合いもあり、先程述べたような思い出もたくさんあるためかなり印象深いのだが、彼の母に関しては一切の記憶が無かった。
「・・・どんな人やったっけ」
大和の年齢から、彼の母が離婚してしまったのは梨花が六歳の頃の話だと分かる。しかし、それにしてはあまりに稀薄であった。物心はとっくについており、そもそも彼女自身の最古の記憶は初めて合氣道の道場を訪れた日であったため、彼女が四歳くらいのものである。
姿や名前はもちろん、顔立ちも、声も、性格すらも思い出せない。そう、悟史の母に関する情報が一切残っていなかったのである。
「・・・・マジで思い出せんなぁ」
三兄弟はみな父親似だった。唯一悟史だけが若干彫りが深い顔立ちをしているが、それはそこまで手掛かりにはなりそうになかった。しかし、あの空前絶後のお人好しだった崇秀の妻になるような女性である。少なくとも普通ではないはずである。
(アイツは覚えとるんやろうか・・・)
ふと思い立ち、チラっと悟史の方を一瞥した。しかし、彼は完全に夢の世界へと旅立ち済みで、手紙のやりとりも望めそうになかった。
(・・・ま、授業中やし手紙のやり取りはマズいか。
ってか、寝んなやこいつ)
珍しく不真面目なことを思いついたものだと、彼女は複雑な気持ちで前髪をいじった。
雨といえば、二年前の悟史の暴走に終止符を打った蒼との決闘の際にも、結構降っていた。
何も知らない人間が見たら、あの絵面は相当危ないものに映ったことだろう。何せ、身長が一八〇台半ばほどもある金髪のいかつい外国人が、男子中学生を一方的に殴り倒していたのである。そう考えれば、むしろ蒼の方が危険人物だった。
しかし反対に悟史を知っている人物が見たら、それはそれで驚嘆して止まなかったことだろう。中学生とは思えない程のケンカ強さを誇っていた彼が、為す術もなく惜しみもなく自らの血をアスファルトの上へと吐き出していたのである。
当時、その真っ黒な瞳で倒れた相手を見据えていたことから“黒い眼光”と呼ばれた悟史だったが、巷では知らない者などいない程の危険人物とされていた。目が合えば即時逃げ出すべしと噂されるほどで、間違っても立ち向かってはならないと云われていたものだ。事実、何も知らずに彼と拳を交えようものなら、半殺しに遭うことは避けられなかった。
彼の噂は、彼の通っていた南仏中学校内にはとても収まりきらず、少なくとも市内全域には広まっていたのではないだろうか。そちらの世界での知名度はどうやら抜群だったようで、不良を名乗る者達も彼のことを忌避するほどだった。
彼の最も厄介だったのは、とにかく退かなかったことである。たとえ一〇人以上で徒党を組んで脅そうとも、正面から突破せんと突っ込んでくるのである。一切臆することなく戦うことを享受するのは、一見すれば勇気があると称賛されかねないが、そもそも彼は敗けるかもしれないという可能性を全く考えていなかった。
たとえ誰が相手であっても、彼は立ち向かっていった。それ故に一度捕縛するたびに怪我人が複数人出てしまうのである。それも、体育教師や警察官を相手にである。実際、警察官が彼の健康等を考慮せず本気で抑え込もうとしたらどうなっていたかは分からないが、それでも二人三人くらいは打ち倒していたのではなかろうか。それくらい彼は強かったし、実際彼に一対一で敵う者などいないと思われていた。
しかし、蒼はその彼をほぼ一方的に殴り倒したのである。一発喰らえば身体は吹っ飛び、意識も刈り取られてしまうほど重い彼の拳を、蒼はわざと受けたこともあった。恐らく悟史も本気で蒼の頬を殴りつけたのであろう。それでも、蒼は仰け反るどころか少しだけ頬を赤く染めただけで、全く堪えていない様子だった。
その時の衝撃といったら無かった。梨花自身も悟史の拳は受けたことがあったため、余計に信じられなかった。殴った悟史本人も、あれほどポーカーフェイスであったのに、その時ばかりは目を見開き、何が起きているのか分からないといった表情であった。そんな彼を見下ろし、蒼はニヤッと不敵に笑った。そして直後、悟史は意識を削ぎ落されてしまったのだ。
雨と汗と血に塗れて悟史は路上に仰向けに倒れ込み、そんな彼を抱えて帰ったあの日。きっと、一生忘れることもないのだろう。蒼はとても優しい人で、その来歴こそ知れないものの姉の華菜が好きになるだけあって、本当に細かく気の利く男だった。悟史を倒すほど強かった彼は、昏倒していた悟史の応急処置や看病の仕方を逐一分かりやすく、的確に教えてくれ、また彼自身が一番熱心に行っていた。
訊けば、こういった怪我の手当てをすることが普段から多いのだとか。何故かは教えてくれなかったが、諸々を含めて、彼のおかげで悟史は暴走を止めることができたのだった。




