梨花のお節介
後から知ったのだが、屋上は立ち入り禁止だったのだとか。しかし厳密には生徒全員が禁止というわけではなく、素行の悪い生徒がいじめやらいたずらやらに利用するのを防ぐために表面上禁止としているだけで、普段から大人しくしている生徒が屋上を利用する分には一向に構わないらしい。
それを踏まえても、悟史が利用可能と認められるとは思えなかったが、幸い誰にもバレずに済んだため、彼も敢えて誰かに言おうなどとは思わなかった。ただ、一つだけ気になったのは、屋上での、先程の奇妙な体験だった。
声色から察するに、恐らく女のものだった。男の可能性も捨てきれはしないが、口調から考えても、十中八九は女性のもので間違いは無いはずである。
しかし問題は声の主の性別ではなく、その正体だった。“黒い眼光”と呼ばれ、かつて恐れられていた悟史ですら、その姿をはっきりとは視認できなかったのだ。逆光もあったとはいえ、逃げ場の無いはずの屋上から、一切姿を消してしまったのである。一つしかない出入り口は常に視界に入れていたため、とても校舎内に逃げ込んだとは思えなかった。
ということは、フェンスを越え、屋上から外側にぶら下がる形で隠れたとしか思えない。だが、そんなことに何の意味があるというのか。そこまでして、彼に注意勧告をしに来たとでもいうのか。とてもではないが、その可能性は低そうだった。
教室に戻ると、廊下まで漏れ出していた喧騒の限りがピタッと、スイッチを切り替えたかのように鎮まり返ってしまった。視認できる生徒は皆悟史の方を振り返り、表情も固まったまま、硬直していた。
席に着くまでの間、目が合ってしまった者は慌てて視線を逸らし、彼の席の近くで話していた者は示し合わせていたかのように道を開けていった。
梨花は、教室にはいないらしい。昔から始業ぎりぎりまでトイレに籠ることは茶飯事であったためどうとも思わなかったのだが、彼の姿を見かけて尚話し続けている者がいないことから、彼女がこの場に居合わせていないことは明白だった。
「・・・・・・」
教室内を一望し、そのまま何も言わないまま席に着くと、机の上に突っ伏した。それから動かなくなってしまうのを見届けると、教室内には徐々に元の喧騒が戻っていった。
彼が忌避され、腫れもの扱いされているのは自明の理だった。それを、悟史自身改善しようとは思わなかったし、できるとも思わなかった。一方で梨花は何とか現状を打破しようと躍起になってはいるのだが、実際事態は一切好転する兆しを見せなかった。
そうこうしている内に、放課後が訪れた。
ホームルームが終わって尚ぼんやりと外を眺めていた悟史に、見かねたのか梨花は彼の手を引いた。
「ほら、帰るばい」
「ん・・・」
彼は中学時代の恩を梨花に対して抱いており、彼女の言うことだけは従順に守っていた。もともと自由で、気になったものがあればすぐにそちらへと向かっていってしまう、猫のような性格だったのだが、彼女に対してはよく躾けられた番犬のように大人しくしていたのだ。
「・・・ん?
いや、待て待て」
「・・・・何?」
そうして彼女に手を引かれて教室を出かかったところで、ふと、悟史は以前の彼女の発言を思い出した。
「お前、今日部活見学行くっち言いよらんやったかいね?」
「ああ、まあ・・・・」
彼女は、物心がつくか否かというくらい幼い頃より、習い事として合氣道を嗜んでいた。なんでも、彼女の両親が「自分の身を自分の手で守れるくらいには強くないといけない」とかなんとかいう理由で始めさせたのだとか。詳しいことは悟史には分からなかったが、そのせいもあってか彼女は昔から、物怖じするということを知らなかった。
そんな彼女の通い続ける道場で、数年前からお世話になっているという男がいたのだが、その男がこの黒坂高校に生徒指導として赴任しているというのだ。そして更に、自分が顧問となることで、この高校に合氣道部を半ば強引に設立させたのだとか。
「行かんでええのん?」
「でも、アンタから目を離すわけには・・・・」
「幼稚園児か俺は。ええけ行ってこいや。
俺ぁ一人で帰るけんさ」
梨花は、いつまで経っても悟史のことを「手のかかる幼い弟」として扱っている節があった。優のことも妹のように扱っているあたり、彼女は次女にしては随分とお世話焼きな性格が強いのだが、それにしても彼に対しては酷いものだった。
「大丈夫?
途中でケンカしたりせん?」
「せんっちゃ! もう更生済みやんけ!」
そう笑って言いつつも、梨花は少しだけ不安の色を残しながらじゃあと言って、そのまま柔道場の方へと向かってしまった。
「・・・・ったく」
心配してくれるのはありがたい限りだが、彼女の場合はそうやってマウントを取って遊んでいないとも言い切れなかった。しかし、それだけ煽られていても反抗できないくらいには彼女に恩を感じていたため、特に彼女に対して嫌悪感などが湧くこともなかった。