笹ヶ原 悟史
ご高覧いただき、感謝申し上げます。
本作は投稿作品としては二つ目となりますが、制作自体は作者の幼少期より練られ続けた最も古い物語であり、時代背景も2015年と、かなり前のこととなっております。
文も力不足により拙くはありますが、どうかあたたかい目で、最期までお付き合いいただけると幸いです。
※一作品めの「幼馴染」は時間軸としましてはこの作品から一年後の話ですので、どちらからお読みになっても構いません。
朝日も昇らぬほど早い時間。暁というにも暗すぎる、むしろ前夜の続きとも思えるようなくらいから、彼の一日は始まる。
起きてすぐに布団を巻き上げると、寝室から寝間着を脱ぎながらシャワールームへと向かう。そして服を全部脱いでしまうなり、シャワーの温度調整など行わず、そのままいきなり冷水のまま、頭からかぶるのだ。
これが、心臓にはかなり悪いものの、否応なしに目が覚めるため、彼はもう一年以上こうした朝の迎え方をしていた。
しかしそれでも、中学校を卒業し、高校に入学して少々、突然の生活リズムの変化に中々順応できずにいた。なにしろ、登校時間が一時間もそのまま繰り上がったのである。このズレは、一日二日に限った話であれば可愛いものだったが、これがこの先三年間続くと思うと、眩暈がするようだった。
「ほら、起きんかい」
「ん・・・。
あと、もうちょっとだけ・・・」
同居人の部屋のドアをドンドンと叩きながら、彼は声を張った。
「おい~、もう四時一〇分やぞ?
そろそろ支度せんとヤバいんやないんか?」
「えっ、もうそんな時間⁉」
彼の忠告を皮切りに、部屋の奥からは途端にドタバタと慌てたような物音が響いてきた。
「朝飯はテーブルの上、牛乳は冷蔵庫の中に入っとるけえな!」
「うん、ありがと!」
物音に負けじと声を張り上げると、奥からは相変わらず焦った様子で返事が飛んできた。それを聞き届けて、彼は内心で本当に大丈夫なのかと、疑心が残ったままではあったが階段を降りて行った。
その後、数分を置いてドタドタと、盛大に足音をがなり立てながら彼女はリビングへと降りてきた。
「おはよ、悟史・・・」
「はいはい、おはよう。
もうちょい落ち着きな。時間はまだあるけん」
彼——————“笹ヶ原 悟史”はそう言って、同居人にして従姉でもある“居舞 優”をなだめるように手を振った。
「あ・・・、うん」
梳かしている途中の長い黒髪を後ろへとかきながら、彼女は一度深呼吸をして、席に着いた。
「いただきます」
焦っていても、やはり彼女は根が大人しいからか、食べ方はその品の良さを失うことが無かった。牛乳を彼女のコップに注ぎながら、悟史はのんびりそんな彼女の様子を眺めていた。
寝起きで焦っている時以外は本当におしとやかで、美しい黒髪と端正な顔立ちも相まって、優ほど大和撫子という称号がぴったりはまる女性もいなかった。今は寝起きということもあって、眼も半分しか開いておらず、髪もまだ整いきっていなかったが、それでも彼女の魅力が削れることはなかった。
半目のまま、頭をふらふらと左右に振って食事を呆と摂る彼女の髪に櫛を通しながら、悟史はひとつ溜め息をついた。
「・・・?
どうしたの~?」
先程までの焦りはどこへやら、ぼんやりしたままの優はもぐもぐと朝ごはんを咀嚼しながら、意識も掠れ掠れに尋ねた。
「いやぁ、ようこんな時間から登校するよなっち思ってさ」
優の通う学校は、電車で一時間半ほど揺られた後に、地下鉄に乗り換えて、また三十分ほど進んだところに位置する。片道にかかる金額も馬鹿にならず、それ以上に、この早起きが一番の苦痛だった。
優は、学校では成績も優秀で、運動においては陸上で全国大会の出場経験もあるほどのハイポテンシャルぶりを発揮しているのだが、殊家庭内においてはこれ以上ないほどのポンコツだった。およそ家事といえるものは一切を苦手としており、そのほとんどは悟史が受け持っていた。
「ほら、梳かし終えたばい」
そう言って彼が手を離した彼女の髪は、いつもどおりの艶を放つ、美しいストレートロングに整っていた。また、同時に食卓に並んだ朝食を全て摂り終えたのか、彼女も合掌し軽く頭を下げた。
「・・・うん、ありがと」
振り返った優の目は既にぱっちりと開いており、口の中にはまだ多少名残りがあったらしいが、無事目は覚めたらしい。
「時間ギリギリやけん急ぐんはエエけど、気を付けえよ」
「うん、大丈夫。
行ってきます」
最後に、笑顔で手を振りながら、彼女は玄関を飛び出して行った。早速敷居で躓いていたものの、流石は元陸上部、そのフォームにブレは一切なかった。
「ふあぁ・・・・。
ねっむ・・・」
軽快に、未だ目の覚めやらぬ町の中を駆け抜けていく従姉を見送ると、彼はあくびをひとつ、玄関の戸を閉め、リビングへとゆっくり戻っていた。
午前六時三十分。優が家を出た後食器や調理器具の後片付けを終えて登校の支度をしていた丁度その時、唐突に玄関のインターホンが家の中に鳴り響いた。
「悟史~、まだあ?」
聞き慣れたその声を耳にし、軽くため息をつきながら悟史は玄関の鍵を開けた。
「今しばらく待っちょけ。大体、今日練習無いんやろ?」
「練習無くても、たまにゃええやん! 早起きは大事やろ?」
そう言ってニッとはにかんだのは、悟史と昔からの腐れ縁の仲である“福富 梨花”であった。親同士が旧知の仲で、誕生日も一日違いで、同じ病院、保育園、小学校、中学校、そして高校と、兄弟以上につながりの強い幼馴染だった。
「俺は優のおかげで毎日早起きやっちゅうの。
エエけそこで待っちょけ」
悟史と梨花は、ともに『黒坂高校』に通っていた。黒坂高校は基本的に様々な処遇の学生を一手に引き受けるために設立された高校で、例えば家が貧乏で学費が払えない家庭の子供や、中学生までの間に色々な悪行を行ってきた不良などが主に通っているのである。
「まあでも確かにあんたは大変よね。優は家事に関してはさっぱりやけねえ・・・」
「まあな。しかも高校に上がって一気に起床時刻が早くなったけな。
飯ぐらい、自分で作れるようになってほしいもんやで」
そんな愚痴をこぼしつつ、登校準備を終え荷物を抱えると、悟史は梨花と共に片道一キロ半の通学路を歩いて行った。
朝の課外授業は七時半からであり、七時五分頃から教室にいる者は大体部活の朝練か、自習をしに早くから来た者ばかりである。しかしそれは二、三年生の話であり、一年生の教室には、二人が到着した時にはまだ誰もいなかった。
「お、一番乗りやん」
「やっぱもうちょいゆっくりしときゃよかった・・・」
「まあまあ、そう言わんと。ね?」
荷物をそれぞれの席に置き、二人は腰を下ろした。登校する頃には朝日もすっかり昇っており、その暖かな日差しは窓から教室全体を照らして、わざわざ照明を点ける必要もないくらいには明るく感じられた。
「・・・はあ。
私たちがもう高校生かあ・・・」
「またそれか。それ毎日言っとるやん」
「ええやん、何べん言うても。どうせ減るもんやないし。
だってそうやろ? ついこないだまで小学生として町中駆け回っとったんよ?」
梨花の言うことは尤もであり、それは悟史自身も嫌というほど実感していた。特に、この朝課外のために早起きした時が一番それを痛感する瞬間であった。
「まあな」
「懐かしいなあ、あの頃。あの頃は高校生なんてエライ年上の、大人同然のような存在って思っとったけど、今考えると全然そんなことないんよね~」
小学生の頃は何もかもが新鮮で、とにかくいろんなことに驚いてばかりだった。そして、それらの発見や衝撃を友達や家族と分かち合うのがなによりも楽しかったのだ。悟史も梨花も、同じ場所で同じ時間を過ごしてきた分、互いにそういったものをずっとシェアしてきた。それもあってか、彼らの絆は他の誰よりも深いのである。
「この調子やと、たぶん大学もそんな感じなんやろね」
「せやろな」
午前七時二十分。生徒もずいぶん集まり、どの教室もざわついていた。
「りっちゃん、おはよ~」
「おはよ」
梨花の席の周りには彼女の女友達が数多く集まり、悟史の席からは本人の姿が見えないほどであった。
「昨日の番組見た?」
「見た見た!すごかったよな!」
教室のいたるところから、バラバラの話題が飛び交っている。そんな中でただ独り、悟史は机の上に頭を伏せて、早起きの分の仮眠をとっていた。人一倍早起きしている彼にとっては、この授業が始まるまでの数分間が絶好の睡眠時間であったのだ。
そんな彼の周りには、梨花とは対照的に、人が全くいなかった。まるで結界でも張られているかのように、彼のクラスメイト達は彼の周囲だけを避けていた。
「にしても、りっちゃんはよくあの人と平気で話せるよね」
「・・・あの人?」
周りに集まっていた級友の一人の発言に首をかしげると、彼女は教室の隅で独り熟睡している幼馴染を指さした。
「ああ、悟史のこと」
「あの人、すっごい怖いんやろ?嫌やわぁ、なんで同じクラスになってしまったんやろ・・・」
彼女がそう言うのも無理はなかった。実際悟史は中学生の頃はかなり荒れていた時期があり、通称“黒い眼光”の異名であれば県内で知らない者はいない程であったのだ。
「ん~・・・、まあ気持ちは分からんでもないけどね。
確かに前は相当荒れとったけど、今はそうでもないばい?」
「ほうなん?いやあ、分からんやん?
もしかしたらまた突然豹変して人を襲うかもやし・・・」
「狼男やあるまいし・・・」
不安そうに言う級友に、梨花は思わず苦笑いした。
「梨花って、笹ヶ原君とはいつから知り合いなん?」
すると今度は、先ほどとは違う級友が尋ねた。
「アイツとは、物心がつく前からの仲やね。
親同士が旧知の仲やったらしくて」
「そんなに⁉
それってもはや許婚やん‼」
「は、アイツが許婚とかこっちから願い下げやわ!」
梨花がそう吐き捨てるように言うと、彼女を取り巻いていた連中はみんなして笑った。
昼休み。
この日はやけに校内が騒がしく感じた。廊下を走る者がやたらと多く、特に三年生の校舎は妙にざわついて見えた。
「・・・・・・・」
至る所にたむろする生徒をさも鬱陶しそうにかき分け、悟史は一人になれる場所を探した。いつからか、騒がしいのは苦手になっていた。
体育館、グラウンド、図書館・・・。色々と思い当たる場所はあったが、最終的に悟史がたどり着いたのは屋上だった。
「・・・・・・?」
なぜ屋上に来たのかは分からなかった。ふと気が付けば屋上にいた。本当に無意識の内に、勝手に彼の足が彼をそこに向かわせたかのようであった。
しかし、そこは思いのほか閑静で、彼にとってもかなり理想的な場所だったため、彼はそれ以上考えようとはしなかった。聞こえてくる生徒の声も遠く、小春日和の涼やかな天気の下、風も爽やかな中での昼飯は、およそ彼の考えうる中では間違いなく最高のシチュエーションであったのだ。
「はあ・・・・、ええわあ・・・・」
思わず感嘆を漏らしてしまった。それほど、今自分のいるこの環境に満足していたのである。
新緑の芽生え始めた桜の木を見下ろしながら食べる、朝早くからわざわざ起きて丹精込めて作った弁当は、えもいわれぬくらいに絶品だった。
しかし、ふと悟史は周囲の異常に気が付いた。いかに屋上といえど、あまりにも静かすぎるのである。
「・・・・?」
思わず食べかけの弁当をそばに置き、彼は立ち上がった。けれども、周囲を見渡せども誰一人として屋上に人はいなかった。
―――――そう、見当たらないのに。
「屋上は立ち入り禁止よ」
凛とした、美しい音色のような声が悟史の耳に入ってきたのである。
「誰だ」
反射的に振り返ると、屋上の出入り口の屋根の上に一つの人影を彼は目にした。しかしその影は、彼がまばたきをすると同時に、一瞬にして消え去ってしまった。
「・・・・・・?」
それ以降その影が再度現れることはなく、間もなく昼休み終了を告げるチャイムが校内に響き渡った。