妖しと仏(上)
西暦804年。18次遣唐使として空海、最澄らと共に海を渡った霊仙が、この物語の主人公である。
霊仙らが入唐する、それよりも遥かに遡り、紀元前5世紀。釈迦(仏陀)が悟りを開き、菩提樹の下で、
「甘露の門は開かれたり 耳ある者は聞け」と、
初めて人々に教えを説いたことから仏教が始まった。
霊仙らが入唐した当時、釈迦が入滅して既に1000年以上もの時が経っている。
釈迦の入滅後すぐに、僧伽(釈迦の教えで出家した僧)達が、それぞれ聞いた釈迦の言葉を集め始めた。
それらは文字化され、釈迦の法話を経・律・論と3類しこれを三蔵の結集と呼んだ。
これらの教えは、パーリ語、サンスクリット(梵語)で記されており、唐では持ち込まれた経典を漢訳することが、2世紀末から続けられていた。
霊仙は、唐においてこの訳語を務め、811年に『三蔵法師』の号を与えられた。
しかし、反仏教徒によって当時の皇帝である憲宗が暗殺され、その迫害を逃れようと霊仙は五台山に移り住む。
その後、霊境寺にて毒殺されたとされる。
ここまでが史実である。
承安4(1174)年。
考古学上で区分する、平安と呼ばれる時代の末期である。
(1)
小柄な僧が歩いている。
笠を目深に被り、右足を引きずるように、独りで山道を登っている。
緩やかな坂だ。
追い抜いていく人も、すれ違っていく人も、皆がその僧に目を向けていく。
中には袖で鼻を覆い、訝しい表情で視線を送る人もいる。
陽射しの強い時季にも関わらず、全身を黒い僧衣で包んでいるからそれもしょうがない。
よく見ると、笠は破け、僧衣も襤褸布のようである。
「あの・・・」
ゆっくりと歩を進める僧の背に、1人の男が声をかける。
振り向くと、50を幾らか過ぎた男がそこに立っていた。
「ーーはい」
「こんな爺が言うのもなんですが、お疲れならば少しお休みになられたほうが・・・。それに、尼様とお見受けしますが、陽が暮れてくるとあまりよろしくない連中も現れますので」
「はは・・・お気遣い感謝いたします」
僧は頭を下げ、深く被った笠を上にずらし、顔を向けた。
「あ、これはまた・・・」
僧の顔を見るなり、男は目を丸くした。
「男の、それもこんな襤褸を着た僧を襲ってくる連中などおりませんよ」
そう言いながら笠を脱いだ僧は、無邪気な笑みを見せた。
「これは申し訳ございません。てっきり、尼様が1人で行脚されているものとばかり・・・いや、しかしーー」
男は首に巻いていた手拭いを頭にあて、黒衣で身を包んだ僧の姿をよくよく見てみる。
身丈、顔立ちから見るに、10に及ぶかどうかである。しかし、どこか落ち着いた雰囲気を持つ幼い僧を前にして、首を傾げた。
「こういう言い方は失礼になりますが、幼いなりの危うさもございましょう。それに、足も悪くされたようでーー」
男が僧の右足に視線を落とす。
「ん? ああ、これは昨日今日というわけではありません。この状態にも慣れておりますので、山歩きが苦というわけではないのです」
小柄な僧はなんとも陽気な口調である。
「ただ、道がわからず・・・」
「はあーー」
道に迷ったわりには、焦りや戸惑いを感じさせない様子だ。
「京へはこの山を越えていけばよいのでしょうか」
山の向こう側へと視線を向けた僧に、男は頷いた。
「このまま東へ向かわれると大人の足で、そうですねーー3日ほどで京に着くでしょうか」
「よかった。こんな格好だからでしょうか、どなたも耳を貸していただけなくて半信半疑で歩いておりました」
笠、黒衣だけではない。手や足、顔までも、傷や土汚れのないところを探すのが難しいほどである。
僧衣でなければ、賊や野盗とみられてもしょうがない。
数日ではない。数ヶ月、数年を費やして歩いているのがわかる。
「もしお急ぎの道でなければーー」
男はそう前置きすると、
「この山をもう少し登ると、脇に逸れる細い道があります。それを奥に進みますと小さな御堂がございます。夜を過ごすに不便はないかと」
登り道を指し、そう言った。
「それは良いことを聞きました。お言葉に甘え、今夜はそこで腰を下ろさせていただくことにします」
頭を下げ、踵を返した僧の背に、男が再び声をかけた。
「もし、よろしければお名前をお伺いしてもよろしいでしょうか」
「ーー霊仙と申します」
「霊仙様、ですか?」
「どうかお忘れください・・・」
僧は呟き、小さく頭を下げ、右足を引きずるように、ゆっくりと山を登っていった。
(2)
霊仙は板敷きに腰を下ろし、雲の少ない夜空を見上げている。
道中に声をかけてきた男が、夜を過ごすに不便はない、そう話した堂である。
不便がないどころか、思っていた以上にしっかりとした造りであった。
辿り着いた時、扉は閉じていたが、横に引くと容易く開いた。堂には1つの部屋しかなく、風が吹き込んでくる隙間も、雨漏りを気にするような穴もなかった。
部屋の中央に木造りの須弥壇があり、それ以外には何もない空間であった。
通う僧がいるのか、近くに住む人々が管理しているのか、隅々にまで手入れが行き届いている。
一段高くなっている板敷きに足を乗せる。
足の裏に、ひんやりとした感覚がある。
長く歩き通し、分厚くなった皮には、なんとも心地良かった。
足を進め、須弥壇の前に腰を下ろした。煌びやかな飾りなどはないが、細かい作りが施された立派なものだ。
常ならば、この中に本尊が安置されているのだが、扉は閉じられており、拝観することはできない。
見れば、錠のようなものはなく、開けようと思えばそれもできたのだが、しなかった。
霊仙の口が動き、ぼそりと、なにかを呟いた。そのあと一礼し、部屋を出た。
それが、まだ日中のことである。
そうして今、霊仙は堂の縁に腰を下ろし、空を見上げている。
森の中、堂の建つこの場所から見上げると、すっぽりと切り抜かれたように空が見える。
月明かりも十分に降り注いでいる。
陽が暮れる前に辿り着けたことに、霊仙は胸を撫で下ろしていた。
ここに至るまでの道が道と呼べないほどの獣道だったのだ。
「おや」
闇の中から声が上がった。
おそらく声の主からは、月明かりに照らされている霊仙の姿が見えているはずである。
周囲を囲む木々が作る闇に向け、霊仙が目を凝らしたところで、それが何者であるか判別することはできない。しかし、霊仙に身構えるような素振りはなかった。
「居心地が良くありませんでしたか」
「今夜は風も穏やかなので、ここで充分でございます」
「ーーああ、確かにそのようですね」
と、穏やかな声が返ってくると同時に、森の闇の中から1人の男が姿を現した。
霊仙にこの堂の存在を教えた男であった。
男は、ゆっくりと霊仙のもとへと足を進め、堂へと昇る階の前でその足を止めた。
「この御堂はあなたが?」
問いに、男は頷いた。
階の上に霊仙は座っているが、2人の目線はほぼ同じ高さにある。
「孝宗と申します」
と、頭を下げ、
「先程は名乗りもせずに、申し訳ございませんでした」
そう言い、姿勢を戻した。
孝宗は僧衣であった。仰々しいものではなく、切袴の上から黒の衣に袖を通し、ざっくりと腰紐で結んでいるだけである。着慣れた様子で、違和感がない。
むしろ、この姿を見ると、日中の農夫姿がちぐはぐな印象となった。
「ーーよろしいでしょうか?」
孝宗の言葉に、霊仙は頷いた。
「京では、どちらへ?」
霊仙の隣に腰を下ろし、孝宗が訪ねた。
「それは決めておりません」
霊仙は首を小さく横に振り、続けた。
「今、都は京にあると聞きました。多くの人が集う地であるならば、探し物もあるかもしれないと・・・」
「霊仙様はそれを求めてお独りで旅を続けておられると?」
「はい」
頷くと、息を小さく吐き、霊仙は夜の空を見上げた。
「様々な地を巡りました。噂を聞けばあちらへ・・・。また別の噂を聞いてはそちらへ・・・」
星を見上げる横顔は、まさしく童のそれであった。が、言葉の端々から漂うどこか危ういものが、この霊仙にはあった。
孝宗はそれを、どことなく感じていた。
「その探し物とは・・・」
窺うような孝宗の問いに、また小さく首を横に振る。
「申し訳ございません。それは・・・」
答えた霊仙は、変わらず笑みを浮かべていた。
「・・・これは、無遠慮でしたな」
孝宗は頭を掻くと、霊仙の視線を追い、空を見上げた。
静かな夜である。風も吹かないので、草花や梢が擦れ合う音もない。
時折、カナカナカナ・・・と、森のどこかで蜩の鳴き声が聞こえてくるだけである。
「あなたは不思議な人ですね」
孝宗の言葉に、霊仙は笑みを浮かべた。
「よく言われます」
「多くの人を見てきました。と言いましても、わたくし自身に何かを感じ取れる力の様なものはありません。ですが、あなたを見ていると、なんと言いましょうか・・・」
「なんでしょう」
「ーー恐ろしい」
「私が、ですか?」
「ああ、いやいや。わたくしが、でございます」
「どういうことでしょう」
「人がこの地で生きていく時には限りがございます」
「・・・はい」
「それは、決して長いものとは呼べぬでしょう。その中で、わたくしは後悔ばかりでございます」
孝宗は笑みを浮かべ、頭を掻いた。
「後悔ばかりですが、それも含めて己なのだと思うだけで、幾分か心が軽くなるのですよ」
「わかります」
「さすれば、人を妬んだりすることがなくなるのです」
「自因自果に近いお言葉ですね」
「はい。人が悪の心を持つと、悲しくもその人はそういうものになっていく。そして今、わたくしの中に、不思議な想いが湧き上がっている。それが・・・恐ろしいのです」
霊仙に視線を向けることなく、夜空を仰ぎながら、孝宗は心の内をポツポツと語っている。
「恐ろしい、ですが・・・」
「はい」
「それを、愛おしむ己もいるのです」
そう言うと、孝宗は俯き、頭を撫で、
「ーー困ったものだ」
呟き、頭を撫でた手で、そのまま顔を拭い、また空を見上げた。
穏やかな夜の空である。孝宗は、そんな空を見ている。
青白い月明かりに、2人は包まれている。
ーーと。
「はて、困っておられるようには見えませんよ」
はっ、として孝宗が横を見ると、霊仙と目があった。
大きく、黒い瞳だ。
その瞳が、薄っすらと笑っているようにも見える。
「笑っておられます」
霊仙の言葉に、孝宗は己が笑みを浮かべていることに気付いた。
「私のことが恐ろしいと申されましたが、ただの人でございます」
小さく呟いた霊仙は、はっきりと笑みを浮かべてみせた。
「もし、私に何か違うものを感じられたのであれば、それはあなたのことなのです。他人は己を写すもの。穏やかな心であれば、それに触れた人は心穏やかとなりましょう。しかし、己の欲念高まれば、周囲も必要以上に貪り、多くを求めることになりましょう」
霊仙は言った。
それに、孝宗は息を呑み、大きく頷いた。
「たしかに・・・そのようなこともあるでしょう」
孝宗はしみじみと答え、1つ、2つと息を整え、
「ーー中には入られましたか?」
と、呟くように訊ねた。
堂の中、というだけではない。須弥壇の中を見たか、とも聞いているようであった。
霊仙はしばらく間をおいて首を横に振った。
「・・・そうですか」
孝宗は俯き、瞼をきゅっと閉じた。
「実は・・・」
呟いた孝宗は、次の言葉を探すように、空を見上げた。
霊仙はどこを見るともなく、孝宗の言葉を待った。
「実は、中に安置されておりますのは・・・わたくしの師でございます」
膝のあたりで衣を握りしめた孝宗が語ったのは、こういうことであった。
(3)
堂の近くに小さな村がある。
孝宗は村はずれの寺に捨てられていたらしい。まだ赤子であったという。
そこの住職である仁宗という僧に拾われ、名を貰い、孝宗は僧として生きていくことになった。
貧しかったが、人々は優しく、村での暮らしは穏やかに流れていった。
そして、孝宗が25になる年であった。
ある日、孝宗はいつものように本堂で経を読み上げていた。そこに、仁宗が1人の童を従えて戻ってきたのだ。
聞けば、ある御家が取り潰されることになり、そこの子を預かってきたのだという。
貴族か武家の子であろうか、話してみるとその言葉には芯があり、凛とした佇まいである。
家が取り潰され、寺に入れられたということは、俗世を断ち、生きていくということである。とても、わずか8歳とは思えぬ気丈な振る舞いであった。
得度を受け、名を義宗とし、寝食を共にすることとなった。
義宗は覚えが良かった。生まれのいいことに胸を反らせることもなく、心根の優しい童であった。
孝宗が30をまわったころ、義宗はその顔に幼さを残しつつも、凛々しい少年へと成長していた。
目鼻立ちが整っており、細身ながらも、浅黒い肌がどこか逞しさを感じさせる。
人付きの良さは変わらず、村人も義宗をかわいがった。
資質は孝宗を凌ぐものがあったが、兄弟子として、そんな義宗の成長が嬉しかった。お勤めのことだけでなく、歌や書など、己の知り得ることを惜しげもなく教え込んだ。
そんな孝宗を、義宗も頼っているのがなによりも嬉しかったのだ。
しかし、2人の師である仁宗が義宗に向ける想いは、また違ったものであった。
孝宗がそれに気づいたのは、義宗が寺に来て、間もない頃であった。
1日のお勤めを終えた夜、仁宗が義宗を引き連れ、離れの堂に向かう姿を度々目にしていた。
そのことを、それとなく義宗に訪ねる。
義宗が言うには、1日でも早くお勤めができるようにと、教えを受けているらしい。
はたして、そうなのであろうか。
孝宗自身、そういったことで仁宗が特別に時間を割き、享受したという記憶はない。
孝宗と義宗ではここに来た経緯が違うからだ、といえばそうなのだがーーともかく、どういった教えであるのかを知りたかった。
それさえわかればいいと、ただそれだけの思いであったのだ。
そして、ある深い夜。義宗が仁宗に引き連れられ、離れの堂に入っていった。
時を見計らい、音を消して離れに近付き、戸板に耳を預けた。
ーー言葉を失った。
口を塞ぎ、震える足でその場を離れた。
飛び込むようにして夜具に包まり、耳を塞いだ。
しかし、塞いだ耳に、師である仁宗の悍ましいほどの喘ぎ声と、肌と肌がぶつかり合う生々しい音が響いてくるのであった。
ーーどれほどの時間が経ってからであろうか、板を踏む音が聞こえ、孝宗は慌てて体勢を直し、寝息をたてるふりをした。
静かに部屋に戻ってきた義宗は、孝宗を窺う様子もなく、己の夜具に身を納めた。
あのような関係はいつからなのであろうか。
仁宗はそういうつもりで義宗を引き受けたのであろうか。
はたして義宗は苦ではないのか。
ーーいろんな思いが、孝宗の頭の中を埋め尽くした。
気がつけば、外はほのかに明るさを取り戻している。
隣の義宗は、随分前から寝息をたてていた。
孝宗の心と頭の中は闇であった。これまでのように振る舞える自信がない。
不思議であったのは、師である仁宗を不信に思うこともなく、義宗のことを汚らわしいとも思えなかったことだ。だが、2人の思いや気持ちは、到底理解し得るものではなかった。
夜具の中で 、孝宗は孤独を噛み締めていた。
孝宗は、重たい気持ちと身体に鞭を打ち、夜具から抜け出した。
冷えた板敷を踏み、そのまま裸足で庭へと降りた。
顔を上げ、東の空へ目をやると、既に橙から黄へと染まっているところであった。鼻から大きく息を吸ってみる。湿った土と草の香りが大気に漂っている。
いつもと変わらぬ朝だ。
孝宗は裸足のまま歩き出し、日課である境内の清掃を始めた。
本来ならば、これは義宗の勤めである。しかし、今は何かに一心になりたかった。そうすることで、余計な思いを取り払おうとした。そのうち、心が軽くなるのではと期待していた。
本堂で、経を読むでもよかったが、そういった気持ちにはなれなかったのだ。
そして、太陽が姿を見せようかというほどに、空が明るんできた時であった。
背後から、義宗が声をかけてきた。
振り向かずともわかる。
兄弟子が己より先に起き、境内の掃除をしているのだ。焦り、駆けてくる足音と声だ。そういう弟弟子なのである。
孝宗は短く息を吸い、長く吐いた。
意を決して、振り返った。
そこにはやはり、いつもと変わらぬ弟弟子の姿があった。
強い意志を感じる大きな瞳。快活な声を張り上げる大きな口。そして、清々しい笑みである。
心が、すっと晴れていく。
わかっていたのだ。義宗は義宗であるということを。己の気持ちひとつで、これまでのものが覆る。そんな時を過ごしてはきていない。
たとえ、理解できないところがあったとしても、どこか憎めない。素直でかわいい弟弟子なのである。
(4)
「お恥ずかしい話でございます」
月明かりの下、霊仙と並んで座る孝宗が、消え入りそうな声でそう呟いた。
仏教では、異性や同性と交わった場合、淫戒という罪を得ることになる。その際には、全ての資格を剥奪され、仏教教団から追放されてしまうのだ。
また、そのことをこれまで隠匿していた孝宗も罪を得ることとなる。
それを、今もまだ素性の知れぬような僧に話してしまったのだ。
しかしーー
「そういうこともありましょう」
霊仙は、さらりと答えた。その表情には、笑みすら浮かんでいるようにも見える。
ふとーー、孝宗は頭を掻いた。
なんとも言えぬ雰囲気を纏っている僧とはいえ、会ったばかりの少年に、切々と語る己が可笑しくなったのだ。
「それで、即身仏となられたのはその後でございますね?」
霊仙の言葉に、孝宗は頷いた。
「しかし、実はこのようになられるきっかけとなった件については、わたくし、師に聞いた限りでございます」
「どこか別の地におられたのですね」
「はい。京へと行っておりました。わたくしが村へと戻ってきたときには、すでに盗賊に荒らされたあとでございました」
(5)
日が暮れて間もない時であったが、空にわずかな残光がある程度で、すでに辺りは闇であった。
生き延びていた村人から、村が襲われたと聞き、孝宗は真っ先に寺へと走った。
見た限りでは、荒らされた様子はなかった。
本堂へと走り、扉を開ける。中は灯りもなく闇であった。目を凝らしてみるが、やはり何も見えない。しかし、闇の方から音が聞こえる。
仁宗か義宗が慌ただしくして、堂内を駆け回っているのか。そう思い、声をかけた。しかし、返事はない。
耳を澄ましてみると、すすり泣く声も聞こえる。
闇に目が慣れたようで、近くのものなら見えるようになってきた。
もしや、誰か倒れているのでは、と動悸が早まった。
足を踏み出そうとしたーーその時であった。
「孝宗か?」
仁宗の声であった。
たった今、京より戻ってきたと、孝宗は答え、
「ご無事で。・・・義宗は?」
そう、訊ねた。
「・・・ここにおるよ」
孝宗の問いに仁宗は、息を荒げ、鼻をすすり、そう答えた。
闇の中から聞こえたすすり泣く声は、仁宗のものだった。
「まさか、義宗がーー」
孝宗は蒼白となり、声の元へ駆けようとした、その時であった。
「来るな!」
仁宗が声を荒げた。
「・・・?」
まさかの言葉に、声を失った孝宗であったが、更に仁宗はこう続けた。
「来るな・・・来ないでくれ。ーーああ、可哀想な義宗よ。あのように下賎な輩に辱められ、汚され、辛かっただろう。悔しかろう」
仁宗の優しい声であった。それは孝宗ではなく、傍にいるであろう義宗に向けられているものである。
「守りきれなんだ私を許しておくれ。ーーああ、そんな悲しい顔を私に向けないでおくれ。大丈夫だよ。今、私が、お前の中に入った不浄なものを、私のもので清めてあげよう」
{続きます}