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あらたまのはる

作者: 辺留 庵那

4月30日 6時40分

アパートのカギを閉めた途端ダッシュし、地上までの階段を駆け下りる。錆びた鉄の階段を打つ足の音が僕を急かす。地上にたどり着くと、死ぬ気で走る。

遅れているわけではない。早めに銀行に着いて、新入社員として真面目で勤勉なところを見せたいのだ。とんだ大学生活を過ごしたのに、大手銀行に認められた僕。このチャンスを汚すわけにはいかない。

6時50分の電車に乗りたい。あと八分。通勤時間三十分という魅力を持つこの街には、仕事を始めたと同時に引っ越してきた。

狭い道を突っ走り、漸く駅が見えてくる。一瞬速度を落とし、先に車が来ていないかを確かめる。この道は、対面通行で車通りが少なくはないのに、横断歩道に信号機がついていない。道が狭いため確かに必要ないかもしれないが、車はそのため猛スピードで突っ走ってくる。本当に危ない。

横断歩道を渡り、駅に向かう。


6時49分 

 ホームへの階段を駆け下りる。さすがに間に合うだろ、と思いながら電車の有無を確かめる。ちょうど開こうとしているドアの脇に作られた短い列に並び、静かに乗る順番を待つ。思わず溜息をついてしまう。

 電車は相変わらず混んでいて、互いの体重を支え合う形で到着する。ホームに降り、エスカレータに向かうそのとき、女性の悲鳴と男性の叫び声が聞こえた。振り向くと、降りた電車の前に転落したおじさんがいる。間違いなく酔っ払いだ。大変だな、と思いながら、乗り換え先へと向かう。


9時05分

 「新玉(あらたま)。今日窓口担当」と上司に言われたので、3番窓口でお客様を待つ。本来は総合職だが、研修のため一般職も担当させられる。

 緊張を和らげるために下を向き、息を大きく吐いた瞬間、「いらっしゃいませ!」とお客さんを元気よく歓迎する先輩の声がした。気持ちを切り替えて上を向く。

なんとも言えないやわらかいオーラを持っている、そのお客さん。ぶつかったり、怒ったりしたら壊れそうな。華奢で下手したら子供に見えるが、その動きやかすかに聞こえてくる丁寧な口調が、その誤解を翻す。

お客さんは困った顔をし、大きなバッグの中から何枚もの書類を取り出し、先輩に渡す。書類を吟味し、先輩が女性に何かを伝える。

すると、笑顔。

その笑顔を見ると、なんだかこっちも安心して一緒に笑いたくなる。気持ち悪いか。

気が付けば、名前も得体も知れない女性にくぎ付けになっている僕がいた。

 すると先輩と一緒に僕の方へと歩いてくる。

 「お座りくださいませ。新玉君、よろしく」と先輩が言い残すが、これはいろんな意味でよろしくない――

 「どのようなご用件でしょうか?」と慣れた感じを醸し出そうと頑張る。

 「あの、口座を…新入社員なのでわからないことがあり申し訳ないのですが…」

 書類を見ながらしゃべっている。きっと僕もその書類を見てあげた方がいいのだろうが、彼女の方を見る。童顔で髪が長く、不意に守ってあげたいと思わせるこの子。

名前はなんていうんだろう、どんな人なんだろう、お客さんと個人的な関係を持つのは契約違反だっけ、とか考えていると――

 「なのでよろしくお願いいたします」

話はもちろん、全く以て聞いていなかった。

「あの、初めからより詳しくお教えいただけますか?」

今度こそ書類を一緒に見ながら、話を真面目に聞く。口座移行をしたいとのことだ。これくらいなら僕でもできる。

裏で作業をしながら、対応の仕方を考える。そして、窓口に戻る前に名刺を一枚取り出し、裏に大きな字で携帯電話番号を書き込む。

手続きが完了したことを伝えると、彼女はお礼を言い、書類を大きなバッグにしまい、席を立った。そこで僕は震えながら言った。

 「あの、良ければ、またお会いしたいです」

振り返った顔が美しい彼女に、自分の名刺を両手で渡す。

 「新玉遼弥さん」と確かめるように言ってから、姿勢を正す。

 「百瀬シュンと申します。春と書いて、シュンです」

 なるほど。ああ、ぴったりだ。

 「それでは、失礼いたします」と笑顔でお辞儀され、百瀬さんは銀行を後にする。

 本当はいけないことをしたのはわかっている。しかしやってみずにはいられなかった。あっけない去り方に不安を感じながら、一日を過ごした。

 その夜アパートでゆっくりしていると、携帯が鳴った。あの声で「もしもし?」と聞かれたとき、胸も高鳴った。電話で二時間しゃべり、二日後に会うことになった。慣れないアパートで聞く春さんの声は、なんだか落ち着きをもたらすのだった。


6月11日 12時30分

 「新玉の馬鹿野郎、かっこよくて遊びやがってたのに。よく落ち着こうと思ったな。まあおめでとう。だって今日もさ…」と、川名という同僚かつ大学の同級生にしゃべり倒されながら、昼飯を食べている。

今日は春との一か月記念日。いつもより少し凝っている記念日の弁当に入っているメモを読みながら、川名に適当に相槌を打つ。

記念日おめでとう。明後日の夕飯はポトフにするから楽しみにしててね(笑)いつもありがとう、好きです。  春

最近春は、僕の家に来てご飯を作ってくれる。作るときは不器用な春だが、味が落ち度なくうまい。明後日が楽しみだ。

「おめぇ何そんなニヤニヤしてんだよ」

「えっ?ああ。こんなに、幸せでいいのかって思うよ」と思わず答えてしまう。

言葉にすると幸せが増し、笑みがこぼれる。大学時代の自分は何でも知っていると思い込み、恋愛はばかげている思った。遊びまわり、かっこつけていた。しかしあのときの自分はひどく孤独だったと、今思える。恋愛は依存ではなく、お互いを支え合い、守ることだ。

川名が顰めっ面で僕を見る。

「言ってあげな。あと、俺も会ってみたい」

笑顔で答える。「今度会わしてあげる」と。


6月30日 22時20分

 駅に到着する。これから僕のアパートまでの長い道のりを歩くのだが、春といると短く感じるものだ。

 「今日も上司に褒められたの?」

改札を出たところで僕は聞く。

 「うん、もう電車で怒られたりしないように、頑張ってるから」

 春の顔がほころぶ。そうしながら、あの横断歩道に着く。先に車が来ていないかを確かめ、春の手をより強く握って、渡る。

 春が見上げてくる。僕も見返す。

 まぶしい光と急ブレーキの音。

 空中に浮いていることに気づいた瞬間、地面に強く打ち付けられる。


                      *******


4月30日 6時49分

 ホームへの階段を駆け下りる。さすがに間に合うだろ、と思いながら電車の有無を確かめる。ドアがちょうど開こうとしている。最後の階段を下りた瞬間、身体が床に叩きつけられる。埃の玉の向こうに見えるのは、僕を押しのけたスーツ姿のおじさんの、電車に駆け込む姿。痛みをこらえて起き上がる。

しばらくすると次の電車が到着する。相変わらず混んでいるが、十五分の辛抱だ。三駅目を発車したときだ。気づけば、ふんわりとしたオーラを持った子が、僕の前に立っている。顔は見えないが、華奢で髪が長く、大きなバッグを持っている。スマホの鳴る音が静かな車内に響く。その音源は間違いなく――

 困った顔をして僕を見上げる。童顔で、瞳が澄んでいる。申し訳なさそうに電話を取り、「はい、百瀬です」と静かに答える。

なんとも言えないオーラを持っている、僕の前に立っているこの子。下手したら子供に見えるが、その周りに配慮する格好や丁寧な口調が、その誤解を翻す。

出会って二分ほどしか経っていない子に持つべき感情ではないことはわかっているが、なんだか落ち着く。そして困っている顔をしているから、安心させてあげたい。

気が付けば、名前も得体も知れない女性に、くぎ付けになっている僕がいた。

どうやら彼女は上司に怒られているみたいだ。怒ったら壊れそうなのに。

大きなバッグの中から書類を取り出す。

「はい、確認致しますのでもう一度番号を…」と言いながら、バッグから何かを取り出そうとする。書類を落としそうになる。そして、奇跡が起きる。申し訳なさそうに僕に書類を差し出しながら、混んでいる電車の中でできるだけ頭を下げる。

 ああ。はあ。もちろん。持ってあげようか。

 僕はぎこちなく書類を受け取り、彼女がペンを出すのを見守っていると、再び電車のドアが開く。位置が入れ替わったりする中、僕と彼女の距離が狭まる。パーソナルスペースと言うんだっけ。それはもう完全に侵害されている。心臓がバクバクする。次の駅で降りるのだが、彼女の電話は終わる気配がしない。

すると、電車が静止する。まだ暗いトンネルの中だというのに。

「ただいまお隣の駅で安全確認を行っております。お急ぎのところ大変ご迷惑をおかけします。発車までもう少々お待ちください」

本来は仕事の準備ができないことを残念に思うべきなのだろうが、彼女といれる時間が延びたことを嬉しく思っている僕がいた。

「承知しました。申し訳ありませんでした」

通話が終わったようだ。

「ごめんなさい、ありがとうございました」

「いいえ」

体を動かせないほど車内が詰まっている。書類は降りてから渡すしかないが、それっきりになるのがひどく悲しい。せめてもっと話したいが、電車の中はさすがに無理だ。こんなに人が多く、静まり返っている中で。

「大丈夫そうですか?」これくらいはいいだろう。

「ああ、はい。いえ、はい。大丈夫です」

僕はその戸惑い方に思わず苦笑し、次降りると伝える。

 「先ほどお隣の駅で転落事故が発生したため、停車致しました。安全確認ができましたので、間もなく発車します」

 「転落事故か…無事だったかな。あ、私も次降ります」と小さな声で彼女がつぶやく。心臓はうるさくバクバクしているが、静かに駅に到着する。

ホームで書類を返すと挨拶を交わし、彼女は去っていこうとした。しかし僕は――

 「すみません!良ければ、またお会いしたいです。連絡先交換してもいいですか?」心臓が今にも喉から飛び出そう。昔の自分に戻っている気がして自己嫌悪が湧いてくる。しかし彼女は美しく微笑む。

 「はい」

 そして、持っているペンを僕に差し出す。胸ポケットに入っているメモ帳に携帯電話番号と名前を書く。書くのも少し古臭い気がするが、これもなかなかいい感じだ。メモ帳からその一枚を破り、彼女に渡す。

 「新玉遼弥さん」

確かめるように彼女は言う。

「百瀬シュンと申します。春と書いて、シュン、です」

 なるほど。ああ、ぴったりだ。

 そこで僕らは気まずくなり、あっけなく別れた。銀行に着くと上司に遅いと怒られ、面倒な書類を整理させられた。しかし朝の出会いのせいか、仕事が妙に捗った。

その夜アパートでゆっくりしていると、携帯が鳴った。あの声で「もしもし?」と聞かれたとき、胸も高鳴った。電話で二時間しゃべり、二日後に会うことになった。慣れないアパートで聞く春さんの声は、なんだか落ち着きをもたらすのだった。


6月13日 20時45分

 「出来上がり!」と春は元気よく、ポトフをテーブルに置く。不器用な調理を見守るのは怖いが、いつものようにうまいに違いない。

 「一昨日さ、川名が春に会ってみたいって言ってたから、今度三人で遊びに行かない?」

 「いいよ!遼弥の友達にも会ってみたい」

 恋愛がうまくいかない理由として「素直になれないから」と聞いたことがある。大学時代の僕はこの意味がわからなかった。しかし春と出会って、理解できた気がする。春は僕を素直にしてくれて、僕もその素直な自分が好き。かっこつけていた大学時代よりもはるかに、かっこいいと思う。春の顔を見る。

 「どうしたの?恥ずかしいよ」

 「こんなに幸せでいいのか、って思うよ」

 春はうつむいたまま、幸せそうに笑う。

 川名もたまにいいアドバイスをするものだ。


6月30日 22時22分

あの横断歩道に着く。先に車が来ていないかを確かめ、春の手をより強く握って渡る。

 春が見上げてくる。僕も見返す。

 まぶしい光と急ブレーキの音。

 空中に浮いていることに気づいた瞬間、地面に強く打ち付けられる。

 道路に横たわっている。さっき歩いていたのに。さっきまで春と手を繋いでいたのに。

 「春!春どこだーー!!!大丈夫かーー!」

 力を振り絞って春の名前を叫ぶが、周囲には囁きにしか聞こえていないだろう。


7月7日 6時00分

 手術は無事成功した。後遺症も残らず、しばらく安静にすれば治るらしい。とてもじゃないけど、僕は治ると思えない。

 こんな状況で春の両親と初めて会うとは、思いもしなかった。春は僕のことをたくさん話していたらしい。僕が入院している期間、毎日お見舞いに来てくれた。今日まで待ったのも、春の両親の御要望があってのことだった。だが、僕は納得いかない。立場を逆転させたい。逝くのは、僕でよかったのに。

春の葬儀は今日行われる。葬儀の準備もばたばた行われるものだ。一体誰のためにお金をかけ葬儀を行うのかと思いつつ、春に相応しい、豪華で温かいものにしてあげたかった。

 入院中、共に過ごした日々を思い出して笑っては、現実にまた目覚めて泣いた。僕は春を守るよりか、命を奪い取ってしまった。

あの日、僕が変に連絡先を聞いていなければ。満員電車で出会っていなければ。一本前の電車に間に合っていれば。

 そうすれば春は僕と出会っていない。そうすれば春は、生きていたに違いない。


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