第5節
「本当の名前は、キャサリン・スターリングです」
長い髪の毛を後ろで一つに結び、中途半端になったままのナチュラルメイクを涙で濡らしながら、彼女は話し始めた。彼女を建物内まで連れてきた若い警官は、ランドルに事情を説明して外に出て行く。
彼女はあの警官に自供したが、まだ入ったばかりの若い警官は対処に困り、ランドルに相談に行こうとしたらしい。建物に入ろうとすると、彼女も同行をせがんだ。どうしても一緒に行きたいと。その剣幕に負けた彼に連れられ、彼女はここまでやって来た。
エリアルの言葉どおり、戻って来てしまった。何もかも忘れて、逃げてしまえばよかったのに。
「私が、あの男を……」
「被害者は探偵?」
「はい。私のことを調べていました。それで、脅されたんです」
頷いてエリアルに肯定したキャサリンは、ここに来てから一度もデリックを見ていない。
「脅された?」
「私の両親は、裕福で。私もそのお金を使えるだろうって勘違いしたんだと思います」
「一体何を脅されたんだ」
「ランドル、それは個人的なことだよ。犯罪じゃないし、明らかにしなくても」
「――俺個人としてはお前の意見に賛成だが、警察官としてはそうもいかない。調書は正確に、だ。その脅しの内容が、殺人の動機に繋がるならなおさらな」
ランドルの意見は正しい。それは理解できるが、できることなら彼女の秘密を暴かずに話を進めたかった。
現実は、残念ながら、弱者にそれほど優しくない。辛酸を舐めるのは、いつだって弱者だ。
ぽろりと大粒の涙をひとつ零し、彼女がランドルを見返した。
「――同性愛者なんです」
キャサリンの告白に、瞠目したのはランドルだけだった。エリアルは気づいていたらしい。上手く隠せていると思っていたのに、とんだ誤算だ。
「ちょっと待て、じゃあ、こいつはなんだ?」
「おいおい人を指さしちゃいけませんよ、警部さん」
双肩をわざとらしく竦めておどけて見せるが、ランドルの纏う剣呑な空気は変わらなかった。
ピリピリしていてもつまらないだけだというのに、もったいない話である。人生は楽しんだ者が勝つ。これがデリックの持論だ。
「隠れ蓑、ってところか」
「その言い方に棘を感じるんだけど」
「周囲には異性と同棲していると思わせるための存在だったってことだと思うけど、合ってる?」
すまない、と一言謝ってから続いたエリアルの言葉は、嫌味な程に正しい。
キャサリンは両親にも秘密を打ち明けられず、しかし、両親や親族からの「結婚」という圧力に耐え切れずに家出した。誰にも見つからず、誰も自分を知らない場所で自分らしく生きたい。それが彼女の目標で、夢だった。その考え方は美しく、勇敢だ。
少なくとも、デリックには彼女が眩しく見えた。
「はい。彼に協力してもらうかわりに、私は彼に寝る場所と食べるものを。でも、恋人じゃないってことをあの男にすぐ気づかれたみたいで。私が同性愛者だと両親にバラされたくなければお金を寄越せって……」
キャサリンの声は震えている。怒りからくるものか、あるいは悲しみからくるものか。そのどちらの感情も抱いているかもしれない。
「私は親のお金は使えません。使いたいとも思わない」
「だが、探偵は君が家の金銭を利用できると思っていた。だから脅した。脅された君は探偵を殺した?」
「ランドル警部、オレが自供してるんだからさ。もういいだろ」
「少しもよくない。真実は明らかにするべきだ」
「正義のヒーロー気取りかよ?」
デリックが苦言すると、溜息を吐いたランドルが違うと短く否定した。
「正義漢ぶりたい訳じゃない。ただ、隠したところできつい思いをするのは結局、自分自身だ」
「――――」
閉口する。
ランドルの言葉は、気障ではあるが、デリックにも理解できた。
キャサリンは秘密を抱えたまま家を飛び出し、未知の土地で懸命に生きている。しかし、それでもやはり、彼女はデリックという隠れ蓑を用意するしかなかった。彼女は未だに自身の抱える秘密という呪縛で囚われている。デリックには救うことができない。その事実が歯痒くてならないが。
世の中には、秘密を抱えていても隠すことなく堂々と生きている者も多くいるだろう。しかし、キャサリンにはどうしても同じような生き方ができなかった。それは、彼女自身が親という存在に対し、罪悪感を抱いているからかもしれない。
優しさは、時に己を傷つけ迷わせる。キャサリンは涙を流しながら、深く頭を下げた。震える声で謝罪の言葉を口にする。
「ごめんなさい、ごめんなさい……。あの人が要求するような大金なんてとても用意できないから、このままじゃ、秘密を両親にバラされると思って。こわくて」
「キャス――」
「デリック。あなたにも謝らないと。すごく、すごく迷惑かけた」
俯くキャサリンの頭をぽんぽんと軽く叩いた。
「迷惑? ばかなこと言うな。キャスのおかげでオレは空腹で倒れなくて済んだし、毎日清潔でいられたんだ。それに、キャスと話すのが大好きだから、毎日楽しかったよ」
負い目に感じる必要はない。お世辞を言っているつもりもない。右も左も分からないような状況の中、それでも自分の足で立ち上がり、必死に生きるキャサリンの姿は、いつだって眩しかった。
「恋人にはなれなかったけど――」
デリックは、アイラヴユーと愛を伝える。意味合いは異なるが、デリックはキャサリンを愛していたし、キャサリンも同じように愛情を返してくれていた。そこに恋人という結びつきがなかっただけだ。
デリックの想いを受けて、次々と彼女の双眸に涙が浮かんでくる。デリックは、それが悲痛の涙ではないことを祈った。
キャサリンに手錠をかけることはせず、ランドルが彼女の背中を支えるように警察車両へ導く。
二人の後ろ姿を眺めながら、デリックは息を吐いた。ようやく長い一日が終わりを迎えたような気がする。とても、長い一日だった。時刻はまだ正午過ぎだが。
「結局、キャサリンとオレはなんだったんだろうな」
足元で尾を振るスコットに呟く。警察車両に乗り、去って行く彼女をデリックは見つめていた。
「なにって、あなたと彼女の関係のこと?」
「エリアル――」
一瞬、スコットが返事をしたのかと思った。驚かせてくれる。
エリアルは不思議そうな表情でこちらを窺ってきた。そんな顔を向けられても、反応に困るだけだ。
「キャサリンとは恋人じゃないし、家族でもない。大家って表現も似つかわしくないし」
「おかしなこと言うんだな」
「は?」
スコットの隣にエリアルが膝を折って屈む。その背中を優しく撫でて、エリアルは立ったままのデリックを下から見上げてきた。
「二人は友だちだろ」
前髪がふわりと靡く。風が悪戯に動いて、何かを運んできたらしい。デリックは痛みのようなものを目に感じて、咄嗟に目蓋を閉じた。
ごみでも入ったのかもしれない。ぱちぱちと瞬きを繰り返し、空を見上げる。目の中に何かが入ったのは間違いないようだ。ぐらりと揺らぐ視界に耐えられず、手の甲で双眸を覆う。わん、と鳴くスコットの声と、スコットを撫でるエリアルの小さな笑い声が耳に届く。
すっと頬を流れ伝う一筋の涙は、誰にも見つからずに流れ星のように消えてくれた。
第1章最終節です。第2章に続きます。