第4節
エリアルは感情の読めない声音で、淡々と推理を続ける。彼の見透かすような瞳がデリックの姿を映した。
「そして、この香水の香りは、あなたからもする」
「はっ、だからさっきオレに近づいたわけね」
「ああ。スコットも気づいていたみたいだな。現場に来てからずっとあたなから離れないし」
探偵犬は、やはり探偵犬だった。もしかして、デリックを最初に疑ったのはスコットかもしれない。
「下で亡くなってる男性からも、香水の香りがするんじゃないかな」
「――てことは、やっぱりコイツが犯人だろ」
ランドルの言葉に苦笑する。だからそう言ってるだろう。しかし、エリアルは違うと短く否定する。
「彼は調味料を買いに出て、戻ってきたときにはもう男性は亡くなってたんだ。そのそばには女性が所有していた花瓶が。しかも血痕がついている。すぐに誰が犯人か分かったはず。それで女性を庇うために花瓶を取って――」
「隠すか処分しようとしたときに、運悪くスコットに奪われたってことか」
わん、とスコットが鳴いた。
「それだけでなんでオレが犯人じゃないって思うんだよ?」
「だってあなたは、ここに居るから」
「はぁ?」
「犯人が――まだ犯人と気づかれていないのに、警官に従って、犯行現場に戻るなんておかしい」
「この男が警官だって気づいてなかっただけだ」
ランドルを親指で示して告げると、エリアルが先程と同じように困ったような笑顔を浮かべた。
「でも、最初にランドルが事務所に来たとき、彼が警官だって気づいてたじゃないか」
「……気づいてない」
「一瞬だけ目を丸くしてたし、バッジをちらちら見てた」
「探偵ってのはこんなに不躾に人様のことを観察してるもんなのかよ?」
悪態を吐いてみせるとランドルが愉快気に笑った。別に笑わせたかったわけじゃない。不愉快さをアピールしたつもりだ。エリアルには効いていないようだが。
「たんに、犯罪現場に戻って証拠が残ってないかチェックしてただけかもよ?」
「その可能性はあるけど」
「けど?」
「ここに居てほしいって言ったとき、どうして逃げなかったんだ?」
エリアルの言葉に、閉口する。どうしてと問われても、答えられない。
デリックは逃げようとしていた。しかし、彼の言葉で動けなくなった。見えない鎖のようなもので体の自由を奪われてしまった。自分の意思ではない。
「あなたは素敵な人だから、誰かを傷つけたりしないと思う」
「はは、出会ってまだ一日も経ってないのによくそんなことが言えるな」
盲目的と表現すればいいのか。会って間もない相手を、エリアルはどうしてそこまで信じられる。
デリックは溜息を吐く。彼のように他者を信じることができれば、デリックの世界は大きく変わるかもしれないが。そう上手くはいかないものだ。信じたくとも、疑ってしまう。これまでの生き方を一瞬で変化させることなどできない。
「……どうしてオレが彼女を庇う必要があるんだ? 知らないだろうが、オレは今までいろいろな女性にお世話になってるんだよ。そういう生き方をしてきた。彼女だけが唯一じゃない」
庇う必要がないことをアピールしてみても、エリアルの双眸には何一つ揺らぎがなかった。内心、舌打つ。
「オレはこのルックスと話術で両手の指では数えきれないくらいの女性と愉しんだし、まっとうに働いたこともない。彼女がオレにとって特別だったと思うか? 金もないのに?」
「お前――」
怒りと呆れが混合したような複雑な声音で、ランドルがこちらを睨む。その視線に笑って、デリックはいかにも興味がない態度で女性の部屋を見回した。
「認めるよ。オレはここの住人と寝てた。ヒモ生活ってやつだ。けど彼女とだけじゃない。分かるか?」
「女性にお金を出してもらって生活してたってことか。碌でもないな」
容赦のないランドルの言葉がいっそ清々しい。
「ほらな。彼女を庇う必要なんかないし、理由もない。いらなくなったら別の女性にお世話してもらうだけだ」
これ以上煽るようなことを言えば、じりじりと近づいてくるランドルに顔面を殴られそうだ。商売道具なのでそれだけは死守したいところだが。
二人の間で目に見えぬ戦いが繰り広げられようとしていた刹那、エリアルが平生通りの声音で口を開いた。
「本当にそういう関係だった?」
「――は?」
予想外のところをついてくる。
「どういう意味だ?」
「だって、ランドル。よく見て。寝室で写真を見つけたって言ってたよな。何が写ってた?」
「何って――、女友だちと出かけている様子だ。これといっておかしなものは……」
「彼は?」
エリアルに視線で示される。
「そういえば、どこにも写ってなかったな」
「――オレ写真は嫌いなんで」
「ベッドは?」
「なんだって?」
「ベッドも嫌い?」
どういう質問だ。呆れながらその問いに否定を返す。ふかふかのベッドで眠るのは好きだ。
さらに女性の温もりが隣にあれば言うことはない。
「いつも同じ服を着てる?」
「着てるわけないだろ! 清潔さは大事だぞ!」
「昨日はここに泊まった?」
「――泊まったよ。熱い夜を過ごしたんだ。そのお礼に昼食を……」
朝は苦手だから朝食は勘弁してもらっている。
「なるほどな」
訳知り顔で頷くランドルを見て、デリックはエリアルの誘導尋問にまんまと引っかかったことに気づいた。
「ベッド……というよりはマットレスだが、そこにも他のどこにも、男物の服はなかった。言葉どおり、昨日熱い夜を過ごしていたならどこかにあるはずだろうに、な。清潔さは大事なんだろう? デリック・ユーイング」
「――そういえば今日はおかしな犬のせいで着替えてなかったかも」
わん、と大きな声で鳴かれてしまった。自分の所為にするなとスコットが抗議しているのかもしれない。
「泊まってなかったとしても、それがどうした? 昨日はたまたま気分じゃなかっただけだ」
「そうだね。あなたはこの女性と利害関係が一致していたから傍にいた。恋人という関係ではなく」
「エリアル、だっけ? ずいぶん知ったように語ってるが、身体の関係以外になんの利害があるってんだ?」
最低な言葉を敢えて口にして、自分を偽るのは得意だ。
これまでの人生で、デリックの本質を見抜いた人間はほとんどいない。――エリアルのような人間を除いて。
「あなたは偽の恋人を、彼女は衣食住を。それぞれ相手に与えてたんじゃないかと思う」
息が詰まりそうだ。近々取り壊される予定であるこの建物の、寂れた雰囲気が少なからずデリックに影響しているのかもしれない。
あるいは、デリックの前で本質を見抜こうとする男がいるためか。彼にその意識があるかどうかは大きな問題ではない。自覚がなくとも、こちらの言葉や態度に惑わされない彼とは、明らかにデリックにとって不都合な相手の警官であるランドルよりもなおさら距離を置くべきだった。後悔先に立たずだ。
「偽の恋人? なんでわざわざそんなものがいる?」
「必要だったんだろう。たぶん」
「エリアル、そういえば発見された男を探偵かそれに近い職業の者と言ってたな? それと関係しているのか?」
「彼は、ここに住んでいた女性を調査していた。その事実に気づいた女性は、衝動のままに彼を殺めてしまい、逃げ出した。ちょうどその時間、買い物に行っていたあなたが帰ってきた頃には今の状況が出来上がっていたはずだ」
「――ノーコメント」
両手をホールドアップしてデリックは双肩を竦めた。これ以上余計なことを言って墓穴を掘るのは避けたい。
「きっと調査員を雇ったのはここに住んでいた女性の身内だ」
「え――」
ランドルが驚きに声を零したが、デリックは遺体となった男とその雇い主の正体を薄々感じていた。彼女を調べようとするものがいるとすれば、それは彼女の両親だろう。
苦々しく笑っていた彼女を思い出して、気づかれないように小さな溜息を吐く。この世の中に生き辛さを感じていた彼女は、今どこにいるのだろうか。
「身内って……つまり、家出娘ってことか?」
「そうだ」
「まぁ、納得だな。偽名を使ってたのは新しい自分になるため。家族から身を隠すため……ってわけか。だが、いくらなんでも殺人はやりすぎだろう。家族から逃げ出す以外に何か理由が?」
「――その理由が、女性があなたと暮らしていた意味になる」
こちらを見つめてくるエリアルの双眸を見返すだけで、デリックには彼が真実に辿り着いていることが分かった。濁りのない瞳に、今度は隠すことなく溜息を吐く。誤魔化せない。
「オレからは何も言うことはないし、たとえそこのこわ~い警部さんに尋問されても、何も話さない。彼女のことは一切な」
「失礼な言い分だな。俺は優しい」
「うそだぁー」
うわぁとわざとらしく嘆いてランドルをからかう。青筋をたてつつもそれ以上反論してこないところをみると、ランドルは存外、理性的な男らしい。デリックの思い通りに事が運ばない。まったくもって厄介な二人だ。
「あなたが話さなくても、きっと話しに来てくれると思う」
「逃げ出したアイツが? わざわざ戻って来るって? ありえないだろ」
「ありえないかな」
「オマエが先に言ったんだろ。犯人が犯罪現場に来るなんておかしいって」
「言ったっけ」
「――なんで急にとぼけるんだよ」
エリアルの言葉にがっくりと肩を落としてしまった。襲い来る脱力感に溜息を吐く。今日で何度目の溜息だろう。溜息を吐くと太ると聞いたことがあるが、事実だとすればデリックは今日だけで五キロは太った気分だ。
「とにかく、オレが自供してるんだからオレを逮捕すればいいだけの話だろ」
「無実の人間を逮捕することはできない」
「自供してるって」
「嘘はよくないな」
「アンタ、平気で嘘つきそうな顔してるくせに」
「俺はお前と違って嘘はつかない主義だ」
ランドルと言葉をぶつけ合っても埒があかない。これではただ会話で遊んでいるだけだ。建物を取り囲む警官の誰かに逮捕してもらいに行くべきか。ランドルやエリアルがそれを許すとは思えないが。
不意にエリアルが口を開いた。
「二人はいつのまにそんなに仲良く?」
「「なってないだろ!」」
「おお~」
ぱちぱちと拍手して嬉しそうに笑うエリアルに呆れる。デリックはランドルと視線を交わして休戦協定を結んだ。推理しているときは立派な大人に見えるが、今はまるで子どもだ。
彼の年齢をデリックは知らないが、かなり若く見える。デリックよりも年下だろう。デリックもまだ世間からおじさんと呼ばれるほど年を重ねてはいないが、今のエリアルだけを見ると学業を終えたばかりだと言われても納得しそうだ。
ランドルはその点、立派な大人に見える。デリックよりは少し年上かもしれない。
「さっきの話だけど、彼女がもし戻って来なかったらどうするんだ? 指名手配でもするつもりか?」
ランドルに問いかけると彼は気難しい顔になった。
「ここに戻って来なかったら今日の昼食を奢ってやる」
「よし、高級レストランに連れて行ってもらおう」
「薄給だ」
「ステーキ食べたいなぁ」
「聞け」
ランドルがまだ何か喋っているがデリックの耳には入らない。すっかり食べ損ねた昼食だったが、ステーキを食べられるならあと一時間くらいは待ってもいい。
わざわざ財布やキャリーバッグを持ち出して逃げた彼女が戻って来る理由はない。彼女なら、デリックも逃げていると考えるだろう。やはり彼女は戻って来ない。ステーキはデリックのものになる。
「そうだ、ついでにアンタも奢ってもらえば?」
「それじゃあ――」
「おいこら待て」
悪ノリに意外にもノッてきたエリアルをランドルが制止した。
口では戻って来ると言いつつも、エリアルも彼女を信じていないようだ。彼女がこの犯罪現場に戻ることを。
「エリア――」
ランドルが何かを伝えようと口を開いた瞬間、それまで座っていたエリアルが唐突に立ち上がった。ガン、と鈍い音が室内に響く。顎を片手で押さえるランドルと、頭を両手で押さえるエリアルが二人同時にうぅと呻いた。スコットの声に似ている。
親は子に似るというが、スコットも彼らに似たのかもしれない。もしや逆か。
デリックは大笑いしそうになって口許を覆った。抑えきれない笑いが指の間から逃げ出して妙な音になる。
「ふぐっ、はは、大丈夫、か? はは、すごい音が、くっ、はは」
「動く前に予告をしろ。頼むから。笑うなデリック」
痛みで顔を歪めながら苦言するランドルに対し、エリアルは入口を見ていた。既知感に、デリックは嫌な汗が背に流れるのを感じる。
近づいてくる足音。その音に聞き覚えがあるような気がする。その感覚が、酷く不愉快だ。
「エリアル」
名探偵の名前を呼んで制する。しかし、彼は近づいてくる足音だけに注意を払っていた。
「ランドル、ステーキを奢る必要はなくなったな」
やって来たのは、この建物の唯一の住人。デリックの偽の恋人、その人だった。